812年(812 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
- フランク王国のカール大帝の帝位を「僭称である」として認めなかった東ローマ帝国が、第二次ブルガリア帝国の台頭などによる脅威の増したミカエル1世ランガベーの代で、ようやくこれを容認し、アーヘンにて講和条約を締結する[1]。ただし、ローマ皇帝(ローマ人の皇帝)はコンスタンティノポリスのローマ皇帝(東ローマ皇帝)のみで、カールはフランクの皇帝であるとした(cf. 皇帝#カール大帝の「西ローマ帝国」)[1]。また、カールは交換条件して、南イタリアの一部とヴェネツィア共和国およびダルマチアが東ローマ帝国の傘下にあることを認めた[1]。
- その2週間後、東ローマ帝国軍が包囲戦によってクルム軍を撤退させる。
- 月日不明
- 元首アンジェロ・パルテチパツィオ(英語版) 治世下の移民。
- フランク王国のカール大帝がバスコニアに侵攻したロンスヴォーの戦いの一局面 (cf. en:Battle of Roncevaux Pass#Second and Third battles of Roncevaux)。
日本
- 神泉苑にて嵯峨天皇が日本の記録上初めての花宴之節を開く[2][3]。『日本後紀』に「幸神泉苑 覧花樹 命文人賦詩 賜綿有差 花宴之節始於此矣」とあり[2][3]、これ以降、貴族の間にも桜の花見が急速に普及してゆくこととなる[3][注 1](少し後の時代に著された『作庭記』には「東ニハ花の木をうへ 西ニハ…」[意訳:〈庭を造るにあたっては、〉東には桜の木を植え、西には…]とあり、桜の木が造園に欠かせないものとなっている)。ここでいう「花宴」とは「桜の花見の宴」であり、日本の朝廷においての公式初[3]は、記録に残る日本初・世界初でもある。
注釈
それ以前は中国に倣って梅の花を愛でることが多かった。
出典
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