梅田 晴夫(うめだ はるお、1920年8月12日 - 1980年12月21日)は、日本のフランス文学者、劇作家、小説家、随筆家。本名は梅田晃(あきら)。慶應義塾大学大学院修了。舞台劇やラジオドラマの脚本、物の歴史に関する著述や翻訳などで活躍した。パイプや万年筆などの収集家としても知られる。梅田望夫、梅田みかは子。
概要 梅田 晴夫(うめだ はるお), 誕生 ...
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出生
1920年(大正9年)、東京府東京市四谷区(現東京都新宿区)愛住町の暗闇坂で、ロシア貿易会社を営んでいた父・梅田潔と文学者の母・玲子の間に、6人兄弟の末子として生まれる。当時の梅田家の家風であった、ヨーロッパ的な生活習慣[1]の中で育ち、1926年(大正15年)、慶應義塾幼稚舎入舎。以後18年間大学院まで慶應の一貫教育[2]を受ける。外国製の家具調度品に囲まれて育った梅田は幼少時から物に対する愛着が深く、5歳ごろから「鉛の兵隊」などの玩具収集に熱中していたが、1930年(昭和5年)の春、家庭教師として梅田の世話をしていた10歳年長の従姉からデ・ラ・ルー社製の万年筆[3]を譲り受けてから、万年筆をはじめとする物の収集に熱中するようになった[4]。知的好奇心も旺盛で、母が丸善から購入した、チッペンデール風の専用書架つきのブリタニカ百科事典第11版は梅田の青年期からの愛読書[5]となる。1931年(昭和6年)に実家が没落[要出典]、梅田は母と共に借家に転居する。1937年(昭和12年)、丸善で全10巻からなる洋書のウジェーヌ・ラビッシュ(英語版)の戯曲集を購入。フランス喜劇の戯曲に興味を抱きはじめる[6]。
二宮時代
1941年(昭和16年)に、戦争のため、母の実家の別荘がある神奈川県中郡二宮町[7]に疎開。大学在学中からフランス文学[8]に傾倒していた梅田は、1943年(昭和18年)「三田文学」に、当時の編集者和木清三郎から書評を書くことを薦められ、卒業論文に当時深い関心を寄せていたフランスのポピュリスト、ラビッシュについて「ラビッシュとその作品」と題する評論[9]を書く。しかし、内容が共産主義的であるとして、当時の内務省から注意を受け、一時「三田文学」が廃刊の危機にさらされてしまう。梅田は急遽、モリエールについての論文を提出し、あやうく処分を免がれる[6]。また、この年梅田は最初の結婚[10]をした。
1944年(昭和19年)、慶應義塾大学大学院仏文学研究科を修了。終戦後しばらくして最初の妻と離婚し二宮在住の女性、石井喜美と再婚。1946年(昭和21年)に中央公論出版部にしばらく勤めたのち、12月から1年あまり、同県内の茶屋町で貸本屋を営む[11]。1948年には慶應文化学院の講師に就任するが、フランス文学の教職活動と並行して、小説の執筆や、ラビッシュなどのフランス戯曲の翻訳活動を始める。1948年10月『群像』に妻の喜美をモデルにした長篇小説『五月の花』の連載を始める。
劇作家から博報堂へ
1949年春、劇作家としての処女作となる舞台劇脚本『風のない夜』を発表。6月には結婚前の娘の心情を描いたラジオドラマ脚本『結婚の前夜』がNHKラジオで取り上げられ、梅田は放送作家としてデビューする。翌年には、『五月の花』が佐藤春夫の推薦を受け、第2回水上瀧太郎賞を受賞。その後、内村直也の門下に入り、劇作家として本格的に執筆活動を開始する。
1951年(昭和26年)、演劇人育成のために、内村と「芸術協会」[13]を設立し、後進の指導にあたる一方、新進脚本家として旺盛な執筆活動を行なった。なかでも舞台劇の『未知なるもの』、ラジオドラマの『チャッカリ夫人とウッカリ夫人』や『母の肖像』などは聴取者や評論家たちから高い評価を受け、一時は東宝の専属脚本家として川端康成の『伊豆の踊子』の映画脚本[14]を書くなど、昭和30年代にかけて数千本にのぼる脚本を執筆[15]したという。1953年(昭和28年)10月13日、梅田の父、潔が狭心症のため81歳で死去。梅田は当時放送中だったラジオドラマ『みゆき』を小説に書き直し、亡き父に捧げた。
1955年(昭和30年)結核のため妻の喜美が死去。梅田家は東京都渋谷区[16]に転居。しばらくして宝塚歌劇団出身の女優と3度再婚するが、いずれも間もなく離婚。1959年(昭和34年)には映画女優の万里陽子[17](本名:政江)と再婚。翌年、長男望夫[18]が誕生したのを機に劇作家としての活動から退き、広告代理店の博報堂に入社。この時期には仕事の関係で渡欧[19]もしている。1960年(昭和35年)には同社の取締役に就任し、2期4年間その任にあたるが、長女のみかが誕生したのを機に博報堂を退社し、日本放送作家協会常務理事に就任。世田谷区代沢に転居する。
随筆家時代
1965年(昭和40年)以降は、親から譲り受けた「梅田ビル」[20]を拠点に作家活動に専念、風俗についての研究を始め、萬物収集家を自称。若者たちに呼びかけて『雑学の会』[21]を主宰し、古今東西の雑学を収集した。その一方で『おんなの有料道路』(オリオン社 1965年)、『紳士のライセンス』(読売新聞社 1969年)など、風俗やトレンドに関する著作の執筆を始める。
1970年(昭和45年)以降の梅田は幼少時から関心を寄せてきた万年筆、時計、カメラなどの物の歴史に関する著述や海外文献の翻訳、パイプ・タバコ・ウイスキーなどの嗜好品や雑学に関する随筆集、実用書やゲーム関連書[22]など、約3年間に30冊におよぶ著書を発表[23]。1972年5月には西洋骨董の同好会『GEMの会』[24]を結成し、アドバイザーとして会の運営に携わった。1970年代半ばには取材のため数回にわたってふたたび渡欧[25]。1975年(昭和50年)には、梅田ビルを拠点に(株)アンティック社を設立し、西洋骨董情報誌『アンティック情報』[26]を創刊する。
1978年(昭和53年)プラチナ萬年筆株式会社と共同で、コラボレート万年筆『プラチナ#3776』[27]を開発。発売後6ヶ月で15万本もの売り上げ[28]を記録し、万年筆愛好家[29]たちの話題となった。1979年(昭和54年)には、多年に及ぶ文化史研究、雑学収集の成果を集大成した著書『博物蒐集館』全5巻(青土社)を上梓する。
晩年
1980年(昭和55年)6月、妻帯者の心得を説いた実用書『嫁さんをもらったら読む本』(日本実業出版社)を上梓。続けて共同執筆[30]による文房具についての解説書『ステイショナリーと万年筆のはなし』(東京アド・バンク 1981年)のための原稿を書き上げた後、体調不良のため8月に慶應大学医学部付属病院に入院。12月21日、肺癌のため死去。享年61。同月23日には告別式が営まれ、愛用のモンブラン万年筆や原稿用紙とともに、港区元麻布の竜沢寺に葬られた[31]。
小説家として
梅田の作家としての出発点はラビッシュなどのフランス戯曲にあり、処女作の戯曲『風のない夜』は作者自身によると[32]、フランス戯曲からの影響が色濃い習作にとどまっていたという。小説においては母親への切なる愛情が感じられる『母の肖像』や、二番目の妻をモデルにした『五月の花』などにはフェミニストとしての梅田の一面が見られる。しかし、後年、梅田は著書のなかで、女性に対して差別的な発言[33]を行ない、物議[34]をかもした。なお、梅田が小説を書いていた期間は自作戯曲のノヴェライズを含めて5年程であり、まもなく劇作家へと転身する。
劇作家として
舞台劇ではジロドゥやアヌイ、ピランデルロなどの翻訳紹介のほか、創作でもいくつかの作品を残している。なかでも『風のない夜』に続く梅田の第2作目の舞台劇『未知なるもの』は梅田の代表作[36]のひとつに数えられるが、この作品の第1稿は評論家の戸板康二から賞賛され、梅田は大いに気を良くして舞台初日を観劇したものの、脚本の未熟さに恥ずかしい思いをし、以後は役者の演技を見ながら脚本を書き直してゆく手法を取るようになったという逸話[32]が残されている。梅田と演劇との関係は晩年まで続く。
随筆家として
1960年代末ごろから趣味関連の随筆家としての活動が主になっていく。その中でも『宝石と宝飾』など、東京書房社から刊行された一連の限定出版書籍のいくつかには梅田が愛用の万年筆で署名している。この時期には50冊におよぶ著書を発表した。
1980年(昭和55年)に還暦を迎えた梅田は『嫁さんをもらったら読む本』を上梓。梅田はあとがきで、それまでの破綻の多かった結婚生活を反省し、ふたりの子供をはじめとする後の世代への遺言であると述懐し、自身の活動に一区切りをつけようとした。続けて、自身の収集家としての活動の集大成として、1884年にウォーターマンが万年筆を発明してから100周年となる1984年(昭和59年)までに『万年筆100年史』を執筆する計画を打ち出すが、果たせずに生涯を閉じた。
評価
客観的に梅田の文筆活動を総括すると、1960年代後半から1979年までが最も活発であり、自身の趣味に関する分野の著述・翻訳において最も光彩を放っていたと言える。小説・随筆・戯曲・翻訳など幅広い文筆活動を行なったが、結果的に時流に沿ったテーマの著書が多かったため、趣味人[37]の作家というイメージが強かった。著作もトレンド関連書など、その多くが時の流れとともに風化していく運命にあることは否めない[38]。
- 父 - 梅田潔(1873-1953)。ロシア貿易会社梅田商会社長。青森県三戸郡三戸字梅内村の農家に生まれ、17歳で上京。1894-95年の日清戦争に従軍したのち、ロシア公使の林董に随行しサンクトペテルブルクに越き、滞在中にロシア語を身につける[71]。福澤桃介の丸三商会の出張所主任を務め[72]、1908年にはウラジオストックで三菱合資会社の代理店を委託される。欧米各国を視察した後、旅順大連居留地旅順大連居留地団長となり、引き上げる[71]。帰国後、ロシア貿易の梅田商会の経営のほか、東奥製糸株式会社の社長、日米生糸、東神ゴム工業、教質艀合同など数々の会社の取締役などを務め、慶応系の社交クラブ交詢社の会員であった[71][73][74]。1920年から4年間、青森県第七区(三戸)選出の衆議院議員(政友会所属)を務める[75]。日本郵船、満鉄の大株主でもあった[76][77]。また競馬法の制定にも尽力した[78]。なお、姓の由来は、梅田潔の父が明治維新の戸籍制本施行の際、地名である「梅内」を姓にするはずであったが、官吏が「梅田」と誤って登録したものであるという[79]。
- 母 - 梅田きよ(玲子)(1886-1964)。文学者。東京府下士族山田敬三と小具貞子(てい)の三女として生まれる。女子学院卒業[71]。夫・潔との間に四男二女をもうける[71](長女龍子は三段崎俊吾(海軍省主計・三段崎景之の子[80]に嫁ぐ)。俳人としては玲如と号し、原石鼎が主宰する『鹿火屋』などに作品を発表し、岸田劉生、小林徳太郎、柳原白蓮など当時の文化人たちと交流があった[81]。松井須磨子と島村抱月の芸術座を後援し、岡田嘉子を童話劇協会(四谷の梅田邸内に稽古場があった)に推薦[82]。晴夫は慶応大在学中に岡田らと童話劇に出演し病みつきとなり劇作家になったという[82]。演劇人との交流は多く、小山内薫らとともに一時期、新宗教の至誠殿(教祖山田つる)の信者でもあった[83]。また、平塚らいてう、市川房枝など女性運動家を支援した。
- 妻 - 6度結婚し、うち3回は未入籍[84]。6番目の妻は政江(万里陽子)。
- 子 - 妻・政江との間に梅田望夫、梅田みか。晴夫は子供を作らない主義だったが政江が妊娠時に「結婚できなくても絶対に産む」と言い、長男誕生とともに入籍したという[84]。
当時の梅田家では、毎週日曜日にサモワールで沸かした湯で紅茶を淹れるのが習慣であった。(出典:『太陽』NO.132 特集:大正時代 平凡社 1974年)
梅田の読書好きは終生続き、なかでも百科事典を熟読することを趣味にしていた。(出典:月刊『サンジャック』 1976年9月号 鎌倉書房)
出典:劇団NLT 第17回公演プログラム 『恋の冷凍保存』 1972年
梅田が二宮に居住していた1947年(昭和22年)には、慶大出身で三田文学同人でもあった、当時17歳の山川方夫が梅田家を訪れた。梅田は山川の才能に惚れ込み、自身の蔵書を貸し与えるなど、さまざまな援助を惜しまず、山川の死去まで交流を続けた。山川の筆名は、日本画家であった山川の父、秀峰が師事した鏑木清方の「方」と、梅田晴夫の「夫」を合わせたものである。(出典:『愛のごとく』 山川方夫著 講談社 1998年)
この評論は、梅田が初めて自分で購入した万年筆(パーカー社製)で書かれた。(出典:『万年筆』 平凡社 1978年)
梅田は生涯に6度結婚したが、それについては「私はフェミニストのくせにわがままだった。」と著書『嫁さんをもらったら読む本』 (日本実業出版社 1980年)で述懐している。
出典:『阿波多羅』第二集 重田哲三著 私家版 1983年(大和株式会社 HP)
一般向学者のための演劇講座。「梅田ビル」を会場とし、勤労者に配慮して夜間に開講した。受講者のなかには後に劇団四季で活躍することになる藤野節子も含まれていた。(出典:『作曲家・武満徹との日々を語る』 武満浅香著 小学館 2006年)
『伊豆の踊子』は結局松竹で映画化されたため、梅田の脚本は使用されなかった。なお、この脚本は梅田の著書『シナリオの工夫』 (室町書房)と、『シナリオを書こう-映画・テレビ・ラジオ』 (華書房)に収載されている。
1950年代の梅田は多忙を極め、梅田曰く“使い棄てのティッシュペーパーのような放送ドラマ”の脚本を平均して1ヶ月に400字詰め原稿用紙200枚を執筆し過労と深酒により結核に患り、数ヶ月病臥したこともある程であったが、書かれた作品の実数、内容については不明な点が多く、脚本家としての梅田の仕事の全貌をつかむことは困難である。また、この時期、梅田は「チャッカリ夫人とウッカリ夫人」の原稿料で、喜劇俳優、古川ロッパから40本の万年筆を買い取り、自身の万年筆コレクションの礎を築いた。(出典:『万年筆』 平凡社 1978年 / 『嫁さんをもらったら読む本』 日本実業出版社 1980年)
梅田は、道玄坂(旧:大和田町92)にあったフランス料理店『二葉亭』の三階に間借りしていた。(出典:月刊『暮しの創造』(8)春号 特集:木の話 創芸出版社 1979年)
望夫の名前は、望月の頃(8月)に誕生したことから梅田が命名したという。(出典:『西洋エスプリ大法典-心の贅沢・知識の泉』 (青也書店 1977年)
梅田は、この時の体験をもとに、著書『ワルイ日本人 うまい話はザラにない』 (オリオン社 1965年)を書いている。
梅田ビルは恵比寿(渋谷区東二丁目24-6)にあった。その地下には「古典屋」というアンティーク・ショップがあり、梅田のアンティーク・コレクションのいくつかはそこで求められた。なお、古典屋の店主である赤羽勲は梅田が創刊した雑誌『アンティック情報』の編集主幹を務めた。
雑学の会の具体的な活動内容については記録がなく、詳細は不明であるが、梅田は後年、この会で収集した雑学をもとにした著作を数多く残しており、なかでも『ひまつぶしの本』(ベストセラーズ 1974年)は梅田の代表作のひとつに数えられている。ちなみに、現在『雑学倶楽部』として活動している団体は梅田とは関りがない。
梅田が書いたゲーム関連書は日常的に入手できる小物を用いたパーティーゲームを主体にしたものである。
この時期、梅田が短期間に多数の著書を執筆した理由は、自身が興した出版社の倒産で抱えた約5000万円の負債を清算するためであった。(出典:『THEウイスキー』 読売新聞社 1975年)
梅田がアンティーク・ショップ「古典屋」の店主、赤羽勲と共同で発足した会員制のアンティーク交換会で、会員が品物を持ち寄り展示即売を行なうものであった。発足から7年後の1979年(昭和54年)8月に会の名称を「EYE(アイ)の会」に改称し活動していたが、現在では解散している。(出典:『アンティック情報』NO.14 アンティック社 1979年)
推定だが、1973年(昭和48年)から翌年にかけて、一家4人でパリをはじめとするヨーロッパに旅行。1975年(昭和50年)の11月には、月刊誌『太陽』の記事執筆のため、デンマークのコペンハーゲン、フランスのパリ、イギリスのロンドンを楽旅した。大のダンヒル党であった梅田は、ロンドン滞在中に訪問先のダンヒル本社でオリジナル・ブレンドのパイプたばこを購入。ダンヒルでは購入者に顧客番号が付けられるが、梅田の番号は“365-25”で、購入したたばこの配合処方は“マイ・ミクスチュア10”を四分の一ポンドと、“マイ・ミクスチュア965”を四分の三ポンドずつブレンドしたものであった。(出典:『太陽』NO.154 特集:能・世阿弥の生涯 平凡社 1976年)
『アンティック情報』の編集同人は梅田のほか、赤羽勲、池田圭、兼松美枝子、木村俊雄、坂本曠之輔、斉藤智、豊岡博幸、新田浩、畠山滋の10名。本誌は当初梅田が発行人をつとめたが、発起人のひとりである赤羽勲の死去に伴い、1977年(昭和52年)以降は坂本曠之輔が後任となった。なお、梅田は同誌にいくつかの記事を寄稿し、亡くなるまで編集アドバイザーを務めた。
梅田が1970年代にプラチナ萬年筆株式会社と共同開発した手作り万年筆。梅田の約1000本のコレクションから、特に優れた12本の万年筆の長所を合わせて設計され、開高健など、1日30枚以上の原稿を執筆するヘビーライターとして知られた50名の作家の協力を得て、試作、試用を積み重ねて1978年12月に完成した。この万年筆はモンブランに対抗して、富士山の標高に因み、「プラチナ#3776」と命名された。軸の直径は13mm。キャップを外して軸にはめた全長は約160mm。ペン先の長さ22mm。重心点は軸の中心からやや後方の56~57%の位置。ペン先は14金、ペン芯にはエボナイトが使われ、カートリッジ・インク対応。ペン軸にはウォーターマン社のハンドレッド・イヤー・ペンをモデルにしたギャザー(襞)が入れられ、長時間使用しても熱がこもらない仕組みになっていた。プラチナ#3776はすべて手作りのため製造コストが嵩み、1990年代以降はしばらく製造中止となったが、2005年(平成17年)に生産を再開。現在はペン軸にパイプの素材としても知られるブライヤ材を使用したものや、蒔絵を施した高級品も製造販売されている。
プラチナ#3776は、同時代の作家では向田邦子などが使用、後掲書に写真で紹介されている。(出典:『向田邦子ふたたび』 文藝春秋 1986年)
梅田の万年筆コレクションと愛用の机は、政江夫人によって、慶應義塾大学三田メディアセンターと、生前から親交があった作家の山口瞳にそれぞれ寄贈された。(出典:『とっておきのもの とっておきの話』第3巻 アミューズ・ブックス 1997年)
『未来劇場23 未知なるもの』 未來社 1954年
梅田の著書『パイプ 七つの楽しみ』 (平凡社 1976年)には、「女が物の装飾的側面のみに関心を持つのは女が○○だからだ」という記述がみられる。
パイプ愛好者の団体『日本パイプスモーカーズクラブ(JPSC)』の会員は、同人発行の書籍『パイプ大全』 (森林書房 1978年)のなかで、梅田が翻訳した『パイプの本』の誤謬を指摘したほか、梅田の女性観への非難ととれる発言を寄せている。
ダン・ヤダ・ダンサーズは、舞踏家・演出家の矢田茂が率いる団体で、当公演には服部良一や岡本太郎、南里文雄らが制作に携わっている。
劇中、「料理のうまい女の亭主は生涯浮気をしない」という科白があるが、梅田は晩年の著作『嫁さんをもらったら読む本』(日本実業出版社 1980年)にも同じ主旨のことを書いており、これは梅田が生涯持ち続けた人生観と思われる。(出典:『未来劇場23 未知なるもの』 未來社 1954年)
多趣味で知られた梅田は、一時期、キングハルオーというアラブ系の競走馬を所有しており、たびたびレースにも出走。第24回読売カップでは優勝している。ちなみに、その時の梅田のオッズは76倍であった。(出典:『おかしな世界一 珍記録に挑戦する』 ベストセラーズ 1975年)
このラジオドラマはNHKラジオ小劇場で1950年(昭和25年)6月29日に放送された。(出典:『ラジオ小劇場脚本選集』第3集 日本放送協会編 宝文社 1951年)
このラジオドラマはNHKラジオ小劇場で1950年11月9日に放送された。(出典:『ラジオ小劇場脚本選集』第3集 日本放送協会編 宝文社 1951年)
このラジオドラマはNHKラジオ小劇場で1950年12月21日に放送された。(出典:『ラジオ小劇場脚本選集』第3集 日本放送協会編 宝文社 1951年)
本作品は、市川三郎、大村一平、菜川作太郎、佐々木恵美子、中江良夫、南達夫、吉田みきとの共同執筆によるもので、市川、菜川、佐々木、中江、吉田の執筆分は、英宝社と日本出版協同より書籍化されている。参考文献として揚げた同名書籍がそれにあたる。
このドラマの主な出演者は夏目俊二、小沢咲子、永野達雄、酒井哲ほか。
このドラマの演出は沼波勇夫、主な出演者は佐藤義明、中村潤二、高木久芳、木村功ほか。
このドラマの演出は千本福子、主な出演者は沢村貞子、中村伸郎、朝戸正明、青江奈美ほか。
このドラマの演出は千本福子、主な出演者は岡田真澄、杉田弘子、原勉ほか。
劇団NLT 第13回公演プログラム 『ラ・マンマ』に掲載。
劇団NLT 第15回公演プログラム 『オスカー』に掲載。
劇団NLT 第17回公演プログラム 『恋の冷凍保存』に掲載。
劇団NLT 第18回公演プログラム 『シカゴの女王 ゴッドマザー』に掲載。
この記事は梅田が発行人を務めた雑誌『アンティック情報』の第5号から第7号に連載された。
豆本作家、星野麻夫が製作した豆本。判型は27mm×30mmで、総革装天金函入り。すべて手作りで150部限定出版。
月刊誌『男子専科』 1971年(昭和46年)12月号 (スタイル社)に掲載。
本書はマリー・オリギンの占星術鑑定と、梅田の雑学を組み合わせた内容となっている。
1978年9月発行の相模鉄道のフリーペーパー『相鉄瓦版』第8号には、本書の記事から16篇が載録されている。
本書は梅田が1973年(昭和48年)から実業之日本社発行の雑誌『週刊小説』に約1年間連載したクロスワード・パズルをまとめたものである。
梅田は、当作品を翻訳紹介した際に題名を“しかくかんけい”ではなく、“よんかくかんけい”と読むように指示している。
これは慶應義塾大学の1978年度卒業記念として製作された。なお、梅田と同じく慶應の出身である岡本太郎も記念品としてペーパーナイフ「いのち」を製作している。
『新婦人協会の人びと』折井美耶子・女性の歴史研究会、ドメス出版、2009、p53
『松永安左ェ門: 自叙伝松永安左ェ門』日本図書センター, 1999, p66
『慶應ものがたり : 福澤諭吉をめぐって』服部 禮次郎、慶應義塾出版会、2001、p441
『紳士の美学-粋でNOWな人のために』梅田、青也書店 1977年。
『近代政治関係者年譜総覧: 追補戦後篇』ゆまに書房, 1998、p299
『石鼎とともに』、原コウ子、明治書院、1979年。
『岡田嘉子終りなき冬の旅』工藤正治、双葉社, 1972、p61
『日本社会主義演劇史: 明治大正編』松本克平、筑摩書房, 1975、p233
- 赤羽勲-梅田ビルの地階にあったアンティーク雑貨店「古典屋」店主。
- 池田圭-オーディオ評論家。隔月刊『アンティック情報』の編集同人。
- 内村直也-梅田が師事した劇作家。『雪の降るまちを』の作詞者。
- 梅田望夫-梅田の長男。経営コンサルタント。
- 梅田みか-梅田の長女。脚本家。
- 開高健-小説家。万年筆「プラチナ#3776」の開発に際し梅田に助言。
- 賀原夏子-女優、演出家。梅田の舞台劇の演出を数多く手がけた。
- 川口浩-俳優。慶應幼稚舎での後輩で、1943年(昭和18年)以降親交を結ぶ。
- 川端康成-小説家。梅田が師と仰いでいた。
- 佐々木博-梅田と縁が深かった東京銀座の喫煙具店「佐々木」店主。
- 西尾忠久-作家。梅田に私淑しており、トレンド関連書も多数執筆。
- 林達夫-評論家。梅田が師と仰いでいた。
- 古川ロッパ-喜劇役者。梅田は彼の万年筆コレクションを譲り受ける。
- 前田右府郎-翻訳家。梅田のアンティーク収集仲間。
- 山川方夫-小説家。公私にわたって梅田の援助を受ける。
- 山口瞳-小説家。梅田の没後、遺品の机を譲り受けた。
- 『群像』第3巻第10号 講談社 1948年
- 『悲劇喜劇』昭和24年春号 早川書房 1949年
- 『ラジオドラマ 書き方と演出』 堀江史郎/中川忠彦共著 協立書店 1951年
- 『ラジオ小劇場脚本選集』全6集 日本放送協会編 宝文館 1951年-1954年
- 『チャッカリ夫人とウッカリ夫人』(共著) 日本出版協同 1953年
- ダン・ヤダ・ダンサーズ 第1回本格公演プログラム 1955年
- 『明朗ラジオドラマ集』 佐々木恵美子著 英宝社 1962年
- 劇団NLT 第13回公演プログラム 『ラ・マンマ』 1970年
- 劇団NLT 第15回公演プログラム 『オスカー』 1971年
- 月刊『男子専科』NO.110 スタイル社 1971年
- 劇団NLT 第17回公演プログラム 『恋の冷凍保存』 1972年
- 劇団NLT 第18回公演プログラム 『シカゴの女王 ゴッドマザー』 1973年
- 『古時計百種百話』 緑川洋一著 矢来書院 1973年
- 月刊『太陽』NO.132 特集:大正時代 平凡社 1974年
- 隔月刊『アンティック情報』 アンティック社 1975年-1981年
- 月刊『太陽』NO.154 特集:能・世阿弥の生涯 平凡社 1976年
- 月刊『サンジャック』NO.16 鎌倉書房 1976年
- 『相鉄瓦版』第8号 相模鉄道広報課 1978年
- 季刊『暮しの創造』(7)冬号 特集:日本のクラフト 創芸出版社 1978年
- 季刊『暮しの創造』(8)春号 特集:木の話 創芸出版社 1979年
- 『石鼎とともに』 原コウ子著 明治書院 1979年
- 劇団NLT 第24回公演プログラム 『つき(幸運)と つけ(請求書)』 1979年
- 『読売新聞』1980年12月22日 朝刊
- 『新版:パイプ大全』 日本パイプスモーカーズクラブ編 森林書房 1983年
- 『阿波多羅』第2集 重田哲三著 私家版 1983年 外部リンクから閲覧可能
- 『生物としての静物』 開高健著 集英社 1984年
- 『向田邦子ふたたび』 文藝春秋編 文藝春秋 1986年
- 『とっておきのもの、とっておきの話』第3巻 YANASE LIFE編 アミューズ・ブックス 1997年
- 『愛のごとく』 山川方夫著 講談社 1998年
- 『二宮町図書館だより』 2005年7月号(通算16号)外部リンクから閲覧可能
- 『作曲家・武満徹との日々を語る』 武満浅香著 小学館 2006年
- 『万年筆クロニクル』 すなみまさみち・古山浩一著 えい出版社 2007年