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水上 瀧太郎(みなかみ たきたろう、1887年12月6日 - 1940年3月23日)は、日本の小説家、評論家、劇作家、実業家。本名阿部 章蔵。「三田文学」発表の「山の手の子」で出発。明治生命保険会社専務、大阪毎日新聞社取締役で長く実業と文学を両立した。強い道義性と文明批評性に特色がある。第2次「三田文学」復刊後は同誌の精神的主幹と呼ばれた。
東京市麻布区飯倉町三丁目(現・港区麻布台二丁目)に、明治生命の創業者阿部泰蔵の四男として生まれる。
小泉信三の同期生として共に御田小学校を経て慶應義塾普通部に入学。この頃から、泉鏡花の小説や与謝野寛・晶子の短歌に傾倒する。慶應義塾大学部理財科に進むが、文科の永井荷風や小山内薫の講義を熱心に聴く。大学在学中の1911年に荷風主宰の『三田文学』に短編「山の手の子」を発表し、久保田万太郎とともに三田派の新進作家として注目される[1]。戯曲「嵐」を「水上瀧太郎」名義で発表。筆名は鏡花作品の作中人物(「風流線」の水上規矩夫、「黒百合」の瀧太郎)に由来する。
1912年大学部理財科卒業後、父の命でハーヴァード大学に留学、短編集『処女作』を刊行。1914年第一次世界大戦の中ロンドン、1915年パリに学び、同じく留学中だった澤木四方吉(慶應義塾大学教授、西洋美術史を初めて日本に紹介)や、小泉信三と親交を深める。1916年に帰国、明治生命に入社、以後、会社勤めと作家生活を両立することになる。1917年、大阪支店副長として転勤し、東区島町一丁目の高橋館や西区土佐堀通二丁目の照月旅館を止宿とする[1]。1918年より『三田文学』に随筆「貝殻追放」の連載を始める。1919年に東京に戻り、1921年明治生命監査役俣野景蔵の娘と結婚、創作と実業を両立させ、大阪時代の経験をもとに書いた『大阪』『大阪の宿』(1925年から雑誌『女性』に連載[2])などが代表作。休刊となっていた『三田文学』を1926年に復活し、久保田万太郎らとともに編集委員となる(『三田文学』の「精神的主幹」と呼ばれ、金銭的援助の他、無償で寄稿を続けた)。また、後進の育成にも尽力した[1]。鏡花を囲む九九九会[3]の世話人でもあった。
1929年慶應義塾評議員、1933年明治生命取締役、1939年大阪毎日新聞社取締役となるが、同年に師鏡花の死に遭う。翌年3月23日午後2時20分、丸の内の明治生命講堂で開催された婦人社員の「銃後の娘の会」の発会式で、専務取締役として挨拶した直後に脳溢血で倒れ、そのまま同日午後11時10分に亡くなった。戒名は賢光院智阿文徳章蔵居士[4]。
伝記に今井達夫『水上瀧太郎』(フジ出版社)。長男は歌舞伎研究家の阿部優蔵(1931年 - 没年不詳)。妹の富子は小泉信三に嫁いだ。
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