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日本の元騎手、元調教師 ウィキペディアから
田原 成貴(たばら せいき、1959年1月15日 - )は、日本中央競馬会に所属した元騎手、調教師。後に競馬評論家となった。
田原成貴 | |
---|---|
1996年桜花賞(ファイトガリバー)表彰式 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 |
島根県鹿足郡柿木村 (現・吉賀町) |
生年月日 | 1959年1月15日(65歳) |
身長 | 169cm(騎手引退時) |
体重 | 51kg(騎手引退時) |
騎手情報 | |
所属団体 | JRA栗東トレーニングセンター |
所属厩舎 |
1978-1989年 谷八郎厩舎 1989-1998年 フリー |
初免許年 | 1978年 |
免許区分 | 平地競走 |
騎手引退日 | 1998年2月28日 |
重賞勝利 | 65勝 |
G1級勝利 | 15勝 |
通算勝利 | 8649戦1112勝 |
調教師情報 | |
初免許年 | 1998年 |
調教師引退日 | 2001年12月21日(免許剥奪) |
重賞勝利 | 1勝 |
G1級勝利 | 0勝 |
通算勝利 | 284戦35勝 |
経歴 | |
所属 | 1978-2001 JRA(栗東) |
島根県鹿足郡柿木村(現在の吉賀町)の出身。卓越した騎乗技術と端正な容姿で、騎手時代には「天才(または元祖天才[注 1])」、「競馬界の玉三郎」と呼ばれた。騎手通算8649戦1112勝(うち重賞65勝、GI級15勝)。1983年、84年のJRA全国リーディングジョッキー(年間最多勝利騎手)。
騎手引退後の1999年より調教師として活動を始めたものの、2001年に銃砲刀剣類所持等取締法違反・覚せい剤取締法違反容疑で逮捕されたため調教師免許を剥奪された。以降も薬物所持、傷害などで複数回に渡って逮捕されており、JRAから無期限の関与停止処分を言い渡されている。
1959年、島根県鹿足郡柿木村に生まれる。子供の頃は歌手を夢見ていて、ザ・テンプターズの萩原健一がアイドルであった。実家は競馬とは関わりのない家庭であったが、1973年の東京優駿(日本ダービー)において、嶋田功騎乗のタケホープが当時国民的なアイドルホースであったハイセイコーを破ったことに強い感銘を受け、騎手を志した[1]。田原は嶋田のガッツポーズを見て「日本一強い馬を、あの人がやっつけた」と感じたといい、もしタケホープに乗っていたのがもっと地味な騎手であったら、騎手を志していないか、自身も地味な騎手になっただろうと回想している[2]。
中学校在学中に日本中央競馬会の馬事公苑騎手養成長期課程を受験し合格。卒業後、第25期生として入所した。自身の回想によれば、馬事公苑、競馬学校の全卒業生の中で「脱走の回数や素早さにかけては間違いなく一番」であり、しばしば苑を抜け出しては、バーで飲酒していたという[3]。
2年次に入り、研修生として滋賀県栗東トレーニングセンターの谷八郎厩舎に入門。当時「必殺仕事人」と称された田島良保の弟弟子となり、騎乗技術の習得に勤しんだ[注 2]。騎手課程修了後の1977年に騎手免許試験を受験するも落第、翌1978年の受験で改めて合格し、谷厩舎所属騎手としてデビューを迎える。同期には昆貢、嘉堂信雄、安藤賢一らがいる。馬事公苑入所時には身長155cm[5]であったが、この頃には168cmに伸びており、武邦彦(172cm)に次ぐ長身騎手であった。
同年3月4日、阪神競馬第3競走でデビュー。厩舎所属馬のテンシンニシキで初騎乗・初勝利を挙げた。同年10月、リョクシュに騎乗してタマツバキ記念を制し、重賞初勝利。当年28勝を挙げ、中央競馬関西放送記者クラブ賞(関西新人賞)を受賞した。翌1979年には64勝を挙げ、デビュー2年目にして関西リーディングジョッキーを獲得[注 3]。当年3月に「天才」と呼ばれていた福永洋一が落馬事故で騎手生命を絶たれ、田原は福永に代わる新たな「天才騎手」として注目を集めた[5]。以後、1980年代前半は、同じく関西所属の河内洋と毎年のリーディング争いを演じ、「河内洋が東を向けば、田原成貴は西を向く」と言われるライバル関係となった[6]。
1983年12月、リードホーユーで有馬記念に優勝し、八大競走初制覇かつ最後の八大競走優勝騎手となった。同馬の主戦騎手は河内が務めており、その落馬負傷の代役として臨んでの勝利であった。また、当年の2回中京開催では20勝を挙げ、一開催の最多勝利記録(当時)を更新。年間では104勝を挙げ、2位の河内を抑えて初の全国リーディングジョッキーを獲得した。
翌1984年は、グレード制導入後最初のGI競走となった桜花賞をダイアナソロンで優勝し、前年の八大競走最後の優勝騎手のみならず、日本でのGI初の優勝騎手ともなった。この年は年間勝利数も101を数え、2年連続の全国リーディングジョッキーとなった。しかしシーズン中に2度落馬して右肩を痛め、翌年は騎乗数の制限を余儀なくされた[7]。
1986年は怪我の回復を得て、年頭からリーディング争いの上位に付けた。しかし6月21日、中京競馬第2競走のレース中、騎乗馬ワイエムヤマドリが故障を発生して転倒。馬場に投げ出された田原は後続馬に腹部を蹴られ、左腎臓および脾臓損傷という重傷を負った[8]。左腎臓は摘出され、当初、全治には半年から1年を要するとされた[9]。しかし田原は9月に復帰し、1日1鞍という制限を掛けて騎乗を再開[10]。年末にはスポーツ紙に「全快宣言」を出して騎乗制限も止め[11]、翌1987年からは再び通常通りの騎乗を始める。この年、マックスビューティと共に桜花賞、優駿牝馬(オークス)に優勝し、復活を印象付けた。
1989年にはコガネタイフウで阪神3歳ステークスを制し、GI級競走7勝目を挙げる。しかし翌1990年3月、そのコガネタイフウを駆ってのペガサスステークス競走中、進出してきたニホンピロエイブルに馬が脚を掠われ、転倒落馬[注 4]。第2・3腰椎および骨盤を骨折した。およそ1ヶ月後に復帰したものの、騎座に重要な腰の怪我でもあり、以後田原は引退まで騎乗数を制限するようになった。後に「数多く勝つことよりも、馬乗りとしての自分を磨こうと考えるようになった」と語っている[12]。
1993年12月、田原はトウカイテイオーで有馬記念に優勝。同馬は前年の有馬記念でも田原が騎乗していたが11着と大敗、その後の休養から363日振りのレースでの勝利となり、田原がインタビューや口取り撮影で感極まり、涙を流す様子が話題となった。「大した馬だな、ちょっとでも勝利を疑って悪かったな」という思いから涙が出たと回想しており[13]、トウカイテイオーが自身が騎乗した内の最強馬であるとしている[14]。
翌1994年9月には史上11人目となる通算1000勝を達成。翌1995年以降、田原はマヤノトップガン、フラワーパーク、ワンダーパヒューム、ファイトガリバーに騎乗して次々とGI競走を制し、騎手生活晩年の3年間で8つのGIタイトルを獲得した。この前後の時期から漫画原作やエッセイなどの文筆活動を盛んに行うようになった。田原は当初1996年限りの引退を考えていたが、「自分に花を与えてくれた」マヤノトップガンとフラワーパークが1997年以降も現役を続行したため、これに合わせて引退を1年先延ばしにしていた[15]。
1998年2月21日、2回京都競馬第9競走でメガラに騎乗し、2着。これを最後に騎手生活から退いた。翌22日、マックスビューティ、マヤノトップガンを所有する田所祐の勝負服を着用し、同じく調教師を引退する師匠・谷八郎らと共に引退式に出席した。通算8648戦1112勝、重賞65勝。通算1000勝以上で30代の内に引退した騎手は、田原が初めての例であった。
1987年度より、JRAにおいて中央競馬の騎手として1000勝以上の勝利を挙げると調教師試験の一次試験が免除されるシステムが制定され、田原もその制度を利用して調教師免許を取得すべく、1997年秋に調教師試験の願書を提出。翌1998年2月に二次試験を合格して正式に調教師に転身することとなった。
騎手引退後は1年間を調教師としての勉強に充て(いわゆる技術調教師。この頃藤沢和雄の下で修行していた時期もある)、1999年、栗東トレーニングセンターに自身の厩舎を開業。厩舎の「チームカラー」を黒で統一し、「黒の軍団チーム田原」という愛称を付けて活動。厩舎で使用する軽トラックのニックネームを公募したり、「サテライト」と称する公式ファンクラブの結成、オリジナルグッズ販売など、ユニークな運営で注目された。
開業当初は「フサイチ」の冠名を使用する関口房朗や、現役騎手時代から親交があった土井肇、西山茂行といった有力馬主の支援を受け、4月10日、藤田伸二騎乗のフサイチゴールドで騎手時代同様、初出走で初勝利を挙げる。翌2000年、フサイチゼノンで弥生賞を制し重賞初制覇した。しかし、皐月賞へ向けての馬の状態を巡り関口と対立。同競走の回避を独断で行なったことに関口が激怒し、同馬は森秀行厩舎へ移籍。他の関口所有馬も多くが他厩舎へ転厩した。
2001年7月には管理馬の耳に小型発信装置を取り付けて調教を行っていたことが発覚。過怠金50万円を課せられた。
2001年10月8日、アメリカ同時多発テロ事件直後で厳戒な警備体制の敷かれる中、羽田空港で機内にナイフを持ち込もうとして身柄を拘束される。手荷物検査でナイフの所持が発覚したため、銃砲刀剣類所持等取締法違反の現行犯で警視庁東京空港警察署に逮捕された。その後の同署内での身体検査で覚醒剤を所持していることも発覚し、覚せい剤取締法違反で再逮捕された。
これに対して、JRA裁定委員会は田原の調教師免許剥奪を審議。12月21日に田原に対する聴聞(弁明)機会を設けたが、田原は聴聞に現れず、同日付で1993年の野平富久以来史上2人目となる調教師免許剥奪が決定した[16][注 5]。6日後の12月27日、東京地方裁判所で懲役2年・執行猶予3年の判決を受け、控訴は無く刑が確定。これを受けた2002年1月18日、JRA裁定委員会は、2017年1月18日までの間、当時最大であった15年間の競馬への関与を停止(トレーニングセンターなどへの立入禁止など)する処分を発表した[17][18]。なお管理していた競走馬はかつての師匠の息子である谷潔調教師に臨時貸付の形で転厩し、厩舎も解散となっている。
その後、2002年5月に自身の覚醒剤の経験を記した『いかれポンチ』を出版。一方で有料制の競馬予想ホームページを開設し、また雑誌『競馬最強の法則』でコラムを連載し、予想家・評論家として活動を続けていた。
執行猶予判決から7年が経過した2009年10月14日、覚せい剤取締法及び大麻取締法違反容疑により京都府東山警察署に再び逮捕され[19]、その後、大麻のみ自宅から発見され、大麻取締法違反容疑で起訴(覚せい剤取締法違反容疑は不起訴)となった。2010年1月21日、京都地方裁判所より懲役10月、執行猶予4年の有罪判決を受けた。これにより競馬関与停止期間を無期限へと延長されている[注 6]。この事件での取り調べでは、刑事より職業を聞かれた際に「今は作家です」と返答した。なおこのときも前回同様、控訴はしなかった。
その後、同年9月2日に同居男性に対する傷害容疑で京都府七条警察署(2012年に廃止、現:下京警察署)に逮捕され、京都地方検察庁によって起訴された[20]。執行猶予中にも覚醒剤を使用したと供述した[21]。尿検査の結果、同年9月27日に拘置されていた同署により覚せい剤取締法違反容疑で再逮捕された[22]。同年11月15日には第1回公判が行われ、検察は田原に対して懲役3年を求刑して結審した[23]。判決公判が11月29日に行われ、懲役2年2月の実刑判決が言い渡された[24]。このときに控訴をしていたか否かは不明であるが、判決確定後、加古川刑務所にて服役し、2013年5月に刑期を終えて釈放された[25]。
2020年より安藤勝己や中村均らも所属している東京スポーツ専属の解説者となり、同年12月17日付け(前日発行)の東京スポーツ本紙1・2面に独占インタビュー記事が掲載され、新聞紙面上ではあるが釈放以降初めて公の場に姿を現した。この記事の中で、取材を受けた理由や騎手引退の理由、その後の覚醒剤取締法による逮捕について、1996年の阪神大賞典およびスプリンターズステークスでの自身の騎乗について語っている[26][注 7]。また、現状競馬界からは完全に離れていることもうかがえるが、記者から2020年12月27日の有馬記念の予想を依頼され承諾[26]、同月27日付け(前日発行)の同紙本紙1面にて、田原本人が有馬記念を予想した記事が掲載された[27]。田原の現在の職業について、元JRA騎手の藤田伸二は、自身のYouTubeライブにおいて、「俺の口からは言えないけど、しっかりしたまともな仕事に就いて、頑張ってらっしゃる」と述べている。また、田原の娘は早稲田大学、息子は灘高校から東京大学に進学したことを挙げ、「成貴さんは頭の回転がいい(から競馬も上手かった)」と述べた[28]。
2022年以降は東スポ競馬のYouTubeチャンネルにて展開予想を公開するなど活動の幅を広げており、9月22日の東京スポーツ本誌1面にて出所後10年勤めていた会社を円満退社し、9月1日付で東京スポーツに入社したと発表した[29]。
田原は自らの騎手としての特徴を「良く言えば感覚、悪く言えば狂気の部分」とする[30]。一方で理論家としても知られ、「騎乗理論を説明した上で、優れた騎手というのはこうだ、岡部幸雄さんはこうだ、武豊はこれがこうできるから優れているということは言える」と語り[31]、一般ファンが目にするインタビューやエッセイにおいて、しばしば騎乗の要点を解説していた。しかし福永洋一だけは「説明できないレベルの物をひとつ持っていた」と評し[31]、自身が福永の後継者としての期待から「天才」と呼ばれていたことに対して「俺は天才なんかじゃない」と自らの異名を否定している[5]。一方で、福永と親しかった杉本清は意外性のある騎手と評し、「福永洋一ほど極端ではないが、タイプとしては洋一タイプと言えるだろう」としている[32]。また、作家の高橋三千綱も「福永さんと田原さんは似ている」と評した[31]。師匠の谷は、田原の具体的な長所として「敏感なところ。馬の性質を細やかに察知し、自分のものにして乗っていた」部分としている[33]。藤田伸二は2013年に刊行した著書「騎手の一分」の第2章「上手い騎手は何が違うのか」の中で田原について解説している「技術を超越していた田原成貴」「生粋のプロ」という2つの項目を設け、「今の騎手、例えばノリちゃん(横山典弘)とかでも持っていないものを、田原さんは持っていた。」[34]、1996年のスプリンターズステークスでフラワーパークに騎乗してエイシンワシントンとの競り合いを制したレースを指して「あれだけギリギリの激しいせめぎあいをしている中で、これだけ冷静な判断を下し、実行に移せるのは、おそらくユタカさん(武豊)にもないんじゃないか」と評している[35]。
兄弟子の田島良保は、田原の全盛期を最初の落馬直前の時期と捉えており、この頃の騎乗を評して「何よりも気迫がずば抜けていた。さらに若さもあったし、思い切りが良く、読みも冴えていた。弾けるようなレースというのか、同じ騎手として嫉妬を感じるところもありましたね」と述べ[36]、「20代後半の頃の成貴のような迫力のある騎手は、もう出ないんじゃないですか」と絶賛している[12]。また、同時期に競馬学校を卒業した武豊は、兄弟子の河内洋と田原を最も参考にしたといい、「僕にとってのアイドルだった」と回想している[37]。
トウカイテイオーを管理していた松元省一元調教師は田原の能力を認めていた一人である。松元は田原が騎乗する時には一切指示を出さず田原の好きなように騎乗させた(また、田原は自分の騎乗に指示を出されることを嫌っていた)。そして勝利した時に松元は「さすが成貴」と最高の賛辞を与えていた。元々は松元が管理していたトウカイマーベラスの騎乗を依頼した際、先行型だった同馬を一転、最後方からの競馬で差し切り勝ちを収めたことにある。その勝利がトウカイテイオーの騎乗依頼につながったとされている[38]。
田原は騎手以外にも、様々な分野に活動の場を広げていた。特に執筆活動が顕著であり、1993年から土田世紀執筆による漫画作品『ありゃ馬こりゃ馬』の原作を担当。単行本全17巻で累計200万部を売り上げた。最初に執筆活動を勧めたのは漫画原作者の武論尊であったという[39]。漫画原作では他に本宮ひろ志との共作による『勝算』など計5作品があり、能田茂と共作した『法の庭』は2007年にフジテレビで2時間ドラマ化された。
また、1996年に出版したエッセイ・対談集『競馬場の風来坊』は、紀伊国屋書店集計のノンフィクション部門で2週連続の1位を獲得。刊行数100万部を越えるヒット作となった。作家としても前述の『いかれポンチ』を執筆した。
一方、音楽の分野でもシングルとアルバムを1枚ずつ発売したほか、ライブ活動も行った。1997年2月には東京公演を果たしている[40]。
田原は現役時代から漫画家の本宮ひろ志と交流があり上記にある『勝算』など作品の共作も行っていた他、漫画『サラリーマン金太郎』など本宮作品で競馬を扱う際は田原が本人役で登場することもあった。また、2001年田原が逮捕された際は本宮が田原の身元引受人となった。
田原は騎手として華々しい活躍をする一方、その騎乗・発言をめぐってさまざまな騒動を引き起こした。
以下は、田原が騎手生活中に起こした主な騒動の一覧である。それぞれの詳細はリンク先を参照のこと。
年 | 1着 | 2着 | 3着 | 4着以下 | 騎乗数 | 勝率 | 連対率 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1978年 | 28 | 23 | 15 | 184 | 250 | .112 | .205 | 関西放送記者クラブ賞(最多勝利新人騎手) |
1979年 | 63 | 51 | 41 | 289 | 444 | .142 | .257 | 関西1位、全国2位 |
1980年 | 52 | 41 | 48 | 301 | 442 | .118 | .210 | 通算100勝 |
1981年 | 58 | 50 | 53 | 283 | 444 | .131 | .243 | |
1982年 | 87 | 44 | 57 | 338 | 526 | .165 | .249 | 関西1位、全国2位 |
1983年 | 104 | 102 | 72 | 405 | 638 | .152 | .302 | 全国1位 |
1984年 | 100 | 68 | 71 | 331 | 570 | .175 | .295 | 全国1位 |
1985年 | 47 | 30 | 31 | 201 | 309 | .152 | .249 | 通算500勝(1月15日) |
1986年 | 51 | 38 | 34 | 161 | 284 | .180 | .313 | |
1987年 | 58 | 51 | 42 | 227 | 378 | .154 | .288 | |
1988年 | 60 | 57 | 46 | 315 | 478 | .126 | .245 | |
1989年 | 66 | 58 | 53 | 343 | 520 | .127 | .238 | |
1990年 | 38 | 43 | 48 | 287 | 416 | .091 | .195 | |
1991年 | 33 | 25 | 32 | 272 | 362 | .091 | .160 | |
1992年 | 48 | 41 | 42 | 305 | 436 | .110 | .204 | |
1993年 | 61 | 63 | 51 | 366 | 541 | .113 | .229 | |
1994年 | 62 | 54 | 55 | 393 | 564 | .110 | .206 | 通算1000勝(9月11日) |
1995年 | 47 | 52 | 40 | 314 | 453 | .104 | .219 | |
1996年 | 40 | 34 | 22 | 292 | 388 | .103 | .191 | |
1997年 | 8 | 10 | 9 | 123 | 150 | .053 | .120 | |
1998年 | 1 | 1 | 0 | 8 | 10 | .100 | .200 | |
計 | 1112 | 936 | 862 | 5,738 | 8,648 | .129 | .237 |
括弧内は田原騎乗時の優勝重賞競走。
年 | 1着 | 2着 | 3着 | 4着以下 | 勝率 | 連対率 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1999年 | 9 | 6 | 6 | 43 | .141 | .234 | (4月10日初出走) |
2000年 | 18 | 16 | 9 | 79 | .145 | .274 | - |
2001年 | 8 | 6 | 7 | 77 | .082 | .143 | (10月7日まで) |
計 | 35 | 28 | 22 | 199 | .122 | .220 | - |
※括弧内は厩舎所属期間と所属中の職分。
上記の各厩舎所属者はかつて開設されていた田原厩舎公式サイトにおいて、田原により「黒の軍団チーム田原」と名付けられていた。
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