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グレートタイタンは、日本の競走馬。京都記念、阪神大賞典、スポーツニッポン賞金杯、愛知杯などを勝った。
1977年12月11日阪神競馬場の新馬戦で吉田勝也騎乗でデビューし11着、1978年1月28日の4戦目・未出走未勝利戦で初勝利を挙げた。平場300万下条件戦、山吹賞を連勝し、4歳オープン馬となるが、オープンクラスでは3着、3着、2着と勝ちきれない競馬が続いた。秋には1100万下条件の格付となり、清水特別で勝利を挙げて菊花賞に出走するが12着に敗れた。
翌1979年夏、5歳初戦のジューンステークスを人気薄ながら勝利したものの、続く小倉と中京での3戦は勝てず、11月4日の京都記念(秋)(この年は阪神競馬場での開催)に出走した。稲葉的海(現・調教助手。道路に逃げてきたノボリハウツーを捕獲した人物)を鞍上に迎え、52キログラムの軽ハンデもあり2分26秒5のレコード勝ちして初重賞制覇となった。その後は京阪杯2着を経て、武邦彦を鞍上にして愛知杯とスポーツニッポン賞金杯を連勝した。しかし、続く中日新聞杯とサンケイ大阪杯は1番人気に支持されたものの敗退、オープンレースを挟んで出走した天皇賞(春)は14着に敗れた。秋になっても朝日チャレンジカップ、京都大賞典と連敗した。
1980年11月2日、田原成貴との初コンビとなった京都記念(秋)では最後方から一気に追い込み同レースを連覇した。天皇賞(秋)は敗れたものの、プリテイキャストの大逃げが決まる中、最後方から追い込んで5着に入った。年末の阪神大賞典(この年は京都競馬場での開催)では、タカノカチドキやオーバーレインボーを最後方から追い込み差しきって勝利した。
翌1981年、日経新春杯、マイラーズカップ、サンケイ大阪杯と3連敗した後、天皇賞(春)の直前追い切り中に倒れ、心臓麻痺でそのまま死亡した(この模様を取材で来ていたデイリースポーツのカメラマンが偶然撮影しており、第5回関西写真記者協会賞を受賞した)。
田原成貴はこの馬を「天まで突き進みそう」、「空気を裂く馬」と表現していた。
グレートタイタンの血統(ボワルセル系 / Plucky Liege4×5=9.38%、Gainsborough5×5=6.25%) | (血統表の出典) | |||
父 シンザン 1961 鹿毛 |
父の父 *ヒンドスタンHindostan 1946 黒鹿毛 |
Bois Roussel | Vatout | |
Plucky Liege | ||||
Sonibai | Solario | |||
Udaipur | ||||
父の母 ハヤノボリ1949 栗毛 |
ハヤタケ | *セフト | ||
飛竜 | ||||
第五バツカナムビユーチー | *トウルヌソル | |||
バツカナムビユーチー | ||||
母 リレントデーター 1965 黒鹿毛 |
Count of Honor 1953 黒鹿毛 |
Count Fleet | Reigh Count | |
Quickly | ||||
Honor Bound | Bull Dog | |||
Anchors Ahead | ||||
母の母 *リレントレスRelentless 1959 黒鹿毛 |
Determime | Alibhai | ||
Koubis | ||||
Flor y Flor | Gulf Stream | |||
Fineza F-No.3-o |
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