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カウントフリート (Count Fleet) は、1940年代に活躍したアメリカ合衆国の競走馬。
1943年に史上6頭目となる現行アメリカ三冠を達成した。20世紀のアメリカ名馬100選・第5位(ブラッド・ホース誌)。
馬体には見るべきものはなく、気性も悪くてとても扱いづらい馬であったと伝えられているが、生産者のジョン・ダニエル・ヘルツはこの馬をとても気に入っていた。馬名は父レイカウントと母クイックリー(急いでの意)に因みカウントフリート(素早い勘定)と名付けられた。
2歳時は15戦に出走し10勝。レースぶりが安定するこの年の後半までは負けることも多く、フューチュリティステークスでは生涯唯一の3着に敗れているが、このフューチュリティステークスが生涯最後の敗戦となる。続くシャンペンステークス、ピムリコフューチュリティを快勝し、2歳最終戦ウォルデンステークスに至っては、スタートから後続を引き離すと30馬身差での圧勝劇を見せた。この年は2歳フリーハンデで過去最高となる132ポンド、全米2歳チャンピオンを獲得した。
3歳になると三冠戦線に挑むが、カウントフリートに挑もうという馬は少なく常に小頭数で行われた。ケンタッキーダービー、プリークネスステークス、ウィザーズステークス共に圧勝し、ベルモントステークスでは2頭を相手に、後のセクレタリアトに破られるまでベルモントステークス史上最大着差であった25馬身差で圧勝した。この後はローレンスリアライゼーションステークスに出走するはずだったが、ベルモントステークスの競走中に故障しておりそのまま引退している。
引退後は種牡馬としてもまずまずの成績を収めた。1951年には米種牡馬チャンピオンになり、1963年にはチャンピオンブルードメアサイアーになった。1961年にはアメリカ競馬の殿堂入り、1966年に種牡馬を引退した後も1973年まで余生を送った。
カウントフリートの血統(サンドリッジ系 / St. Frusquin4×4=12.50%(父内)) | (血統表の出典) | |||
父 Reigh Count 1925 栗毛 |
父の父 Sunreigh1919 栗毛 |
Sundridge | Amphion | |
Sierra | ||||
Sweet Briar | St. Frusquin | |||
Presentation | ||||
父の母 Contessina1909 黒鹿毛 |
Count Schomberg | Aughrim | ||
Clonavarn | ||||
Pitti | St. Frusquin | |||
Florence | ||||
母 Quickly 1930 青毛 |
Haste 1923 鹿毛 |
Maintenant | Maintenon | |
Martha Gorman | ||||
Miss Malaprop | Meddler | |||
Correction | ||||
母の母 Stephanie1925 芦毛 |
Stefan the Great | The Tetrarch | ||
Perfect Peach | ||||
Malachite | Rock Sand | |||
Miss Hanover F-No.6-a |
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