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愛知県名古屋市と豊明市にまたがる地域 ウィキペディアから
桶狭間(おけはざま)は、室町時代初期にその発祥をみた地名であり、室町期には「クケハサマ」や「ホケハサマ」と呼ばれ(後述)、本来的・歴史的には知多半島の基部にあたる丘陵地を指し[4]、安土桃山時代には音韻変化が生じて「ヲケハサマ」と呼ばれるようになり尾張国知多郡桶廻間村も指すようになり、明治時代以降にはその村域をほぼ踏襲した行政区域を指す地名ともなり、現在では、愛知県名古屋市緑区と愛知県豊明市にまたがる地域の汎称地名として使われており、行政区域としては2019年(令和元年)現在、名古屋市緑区を構成する町のうち11町に桶狭間の名が冠されている(「名古屋市緑区桶狭間」、「名古屋市緑区桶狭間上の山」、「名古屋市緑区桶狭間北二丁目」、「名古屋市緑区桶狭間北三丁目」、「名古屋市緑区桶狭間切戸」、「名古屋市緑区桶狭間清水山」、「名古屋市緑区桶狭間神明」、「名古屋市緑区桶狭間西」、「名古屋市緑区桶狭間巻山」、「名古屋市緑区桶狭間南」、「名古屋市緑区桶狭間森前」の11町とそのほかにこれらの町の母体となった「名古屋市緑区有松町大字桶狭間」)。
全国的には、1560年6月12日(永禄3年5月19日)に旧知多郡北部にかけて展開された桶狭間の戦いの故地の名としてよく知られている。ただし、名古屋市の桶狭間古戦場調査委員会が1966年(昭和41年)にまとめた『桶狭間古戦場調査報告』で桶狭間を「漠とした広がりを持った地名語」と表現しているように[5]、その戦跡は桶廻間村の村域を大きく越えて広く残され、桶狭間の名を冠した地名・史跡・神社・公共施設・店舗・イベント、また桶狭間の戦いに由来するという同種のものが名古屋市と豊明市の両方に散見される。
「桶狭間」の名称は、桶廻間村・大字桶狭間という村名・字名として知られるとともに、「桶狭間の戦い」の故地の地名としても知られる。桶廻間村・大字桶狭間の地名の由来にかかわる伝承は、『有松町史』や名古屋市立有松小学校の教材『有松』、名古屋市立桶狭間小学校の教材『桶狭間』などで詳しく紹介されている。
それらによると、地名の由来については諸説あって定かでないが、一説には、古く洞と呼ばれた場所に由来するという[6]。伝承では、南北朝時代(室町時代初期)にあたる1340年代頃、皇室の分裂に伴う政争において南朝に与し落武者となった少数の武者集団の入郷があり[6]、北朝の南朝残党追討隊から逃れるために[7]林の奥深くの「洞」(窪地)に家屋を建てて隠れ住んだといわれ[6]、名古屋市緑区有松町大字桶狭間字セト山付近(現名古屋市緑区桶狭間)がその地であるという[7]。
「洞」の字は、当時「クキ」と読まれていたとされる。やがて「クケ」に訛り、さらに「ホケ」に転じたという[6]。ここに谷間の地形を指す「ハサマ」と結合し「クケハサマ」・「ホケハサマ」と連称されるようになり、戦国時代の頃までには「洞迫間」・「公卿迫間」・「法華迫間」といった漢字が当てられている[6][8]。小起伏の多い桶廻間村・大字桶狭間にあって「ハサマ」と目される地形は数多く、嵐廻間(あらしばさま)、六ヶ廻間(ろくがばさま)、神明廻間(しんめいはさま)、牛毛廻間(うしけばさま)、梨木廻間(なしのきばさま)、井龍廻間(ゐりうばさま)といった古くからの地名が各所に残されている[9]。桶狭間の発祥地と考えられる字セト山は、村の中心地であった森前から見て裏手、すなわち背戸(せと)にあたることからその名が付いたとされ[10]、隠れ場所の比喩とも捉えられるような[注 1]、標高40メートル台の丘陵地である[13]。この山の中腹に密かに居を構えていたとみられる落人たちの視線を想定すれば、西方にはすぐ眼下に鞍流瀬川が南進する沖積平野が南北に細長く広がり、その先に森前・神明の丘陵地がそびえることから[14]、この沖積平野付近の落ちくぼんだ様子は「ハサマ」と捉えうるものである。また、桶狭間東部にあたる東ノ池(北緯35度2分58.8秒 東経136度58分25.2秒)を中心に丸く平坦に広がった一帯を「桶」と見なす捉えかたもある[15]。しかし『有松町史』は「ハサマ」の具体的な所在地については明確にしておらず、丘陵と丘陵の間に広がる洞のような、桶のような谷底平野がその名にふさわしいと記すのみである[16]。すなわち、丘陵と谷底平野が複雑に交錯する広範囲の景観をもって「ハサマ」と名付いたと考えることが妥当のようである[4]。
安土桃山時代の成立といわれる軍記物『足利季世記』には尾州「ヲケハサマ」とあり[17]、桶廻間村・大字桶狭間に残る江戸時代最初期(1608年(慶長13年))の検地帳控が『慶長拾三戊申十月五日尾州智多郡桶廻間村御縄打水帳』とあるのは[18]、すなわち16世紀後半頃にはすでに「ホケ」・「クケ」がさらに「オケ」に転じていたことを示すものである。漢字表記では、江戸時代になると「桶廻間」・「桶迫間」・「桶峡」といった表記が主となるが、桶廻間村・大字桶狭間に残る古文書では「桶廻間」が最も多く、数点「桶迫間」がみられ[7]、尾張藩家老であった山澄英龍(やまずみひでたつ)の著書に『桶峡合戦記』があり[19]、寛政年間(1789年 - 1801年)に成立した『寛政重修諸家譜』には「洞廻間」と記されたりしている[7]。これら様々に表記されてきた漢字が「桶狭間」に統一されたのは、郡区町村編制法の制定に伴う1878年(明治11年)のことである[16]。
上記に示した「洞」の由来とまったく異なり、「桶がくるくる廻る間(ま、ひととき)」から桶廻間と呼ばれるようになったとする説もある。郷土史家の梶野孫作によれば、その昔、南朝の落人による村の開墾が次第に軌道に乗った頃、大池(北緯35度3分13.4秒 東経136度58分12秒)北部の小さな土地に御鍬社(おくわしゃ)を祀って毎年の農閑期に田楽を奉納するようになり、すなわちここにまず「田楽坪」の名が生まれたとする[20]。それが後年いつのまにか桶狭間とされたのは、名古屋と刈谷を結ぶ三河街道(長坂道)に沿っていたこの地がちょうど道中の中間地点でもあり、一息付けるような木陰の脇には泉がこんこんと沸いていて、水汲み用の桶が水の勢いでくるくる廻る様子をおもしろく眺めながら一服するひとときを過ごす旅人によって、そう呼ばれるようになったからだという[20]。名古屋市緑区桶狭間北3丁目(旧有松町大字桶狭間字ヒロツボ)にある「桶狭間古戦場公園」(北緯35度3分18.6秒 東経136度58分16.5秒)は、かつて神廟が祀られ田楽が奉納された小さな土地の跡地であるとされ[20]、「義元公首洗いの泉」と呼ばれる小川なども整備されているが、1986年(昭和61年)の区画整理前には「泉ボチ」と呼ばれて[2]清水が豊富にわき出る場所であったといわれる[1]。また、大池の東に位置する和光山長福寺の境内にある「弁天池」と呼ばれる放生池も、桶がくるくる廻る桶廻間伝承を持つ泉のひとつである[1]。
現在、「桶狭間」の一般的な読みは「おけはざま」であるが、地元では「おけばさま」と連濁および清濁交代を起こして読まれることがあり、さらに「おけば」と略することも一般的である[21][22]。これは大字桶狭間で自称されるのみならず、近隣の大字有松や豊明市栄町からも同様に呼ばれている[23][24]。
1889年(明治22年)4月1日の市制・町村制施行時に発足した知多郡桶狭間村、ついで1892年(明治25年)9月13日に南隣の知多郡共和村と合併しその一部となった知多郡共和村大字桶狭間[25][注 2]は、共和村内で旧追分新田村(おいわけしんでんむら、現大府市)、旧伊右衛門新田村(いえもんしんでんむら、同)と接し、村外では知多郡横根村(よこねむら、現大府市)、同北崎村(きたざきむら、同)、同有松町(ありまつちょう、現名古屋市緑区)、同大高村(おおだかむら、同)、および愛知郡鳴海町(なるみちょう、同)、同豊明村(現豊明市)とそれぞれ境を接する2.4平方キロメートルの面積[30]を有し、これは1893年(明治26年)11月に有松町[注 3]と合併して知多郡有松町大字桶狭間となり[26]、1964年(昭和39年)12月1日に有松町が大高町と共に名古屋市緑区に編入されたことで名古屋市緑区有松町大字桶狭間となってからも[26]、おおむね変わっていない。
ただし、1988年(昭和63年)9月25日に字武路、字ヒロツボ、字喜三田一帯で町名町界整理が行われて名古屋市緑区「桶狭間北2丁目」および「桶狭間北3丁目」が誕生したのを皮切りに[注 4][31]、平成時代に入ってからは数度の町名・町界の変更が行われている。そして2009年(平成21年)と2010年(平成22年)には行政区画の大幅な整理が行われ[32][33]、大字桶狭間の大部分と多くの小字が消滅すると共に旧有松町大字有松域や旧大高町域をまたぐ形で新町名や新町域が設定されたりしている。これにより、2013年(平成25年)現在刊行されている地図などで「桶狭間」の正確な範囲を特定することが困難になっている。もとより町界・字界の軽微な変更は旧来から頻繁に実施されたと考えられるが、本稿では特記を除き1983年(昭和58年)当時の大字界の範囲内において桶狭間村・大字桶狭間の記述を行うものとし[34]、その呼称を「大字桶狭間」とする。また有松地域にも同様の範囲の定義を適用してその呼称を「大字有松」とし、大字桶狭間と大字有松町を併せた呼称を「有松町」とする。
大字桶狭間が位置するのは知多半島の付け根付近にあたり、「猿投-知多上昇帯」と呼ばれる緩やかな丘陵地帯にある[35]。「猿投-知多上昇帯」は豊田市の猿投山付近から知多半島にかけて、第四紀(258万8,000年前から現在)以降に断層地塊運動によって隆起したといわれる比較的新しい地形である[35]。この連続した丘陵地は天白川水系の大高川、および境川水系の石ヶ瀬川が流れる谷間[注 5]を境に北を「尾張丘陵(「名古屋東部丘陵」)、南を「知多丘陵」と呼び、北部の「尾張丘陵」は河川によってさらにいくつかのブロックに分けられ、扇川以南にある尾張丘陵最南部のブロックを「有松丘陵」という[36]。名古屋市緑区南部、豊明市北西部、大府市横根町付近の丘陵がこれに属し、大字桶狭間が位置するのは「有松丘陵」が大高川・石ヶ瀬川の谷間に向かって南西へ緩やかに落ち込む付近に広がる一帯である[36]。「有松丘陵」を含めたこれらの丘陵では一般に開析が進んでおり、起伏に富んだ地形になっている[13]。大字桶狭間では北西部にある高根山(たかねやま)、同じく北東部にある生山(はえやま)が孤立丘としてその形状をある程度保ってきたほか、このふたつの山からそれぞれ南西方向に向かって、西は愛宕山・幕山・清水山・又八山・切戸山、東は武路山・セト山・阿刀山などの小丘陵が断続的に連なっており、この東西の丘陵に挟まれるように中央部では南に向かって広い谷底平野が形成されている[13]。
なお、有松丘陵や扇川を挟んだ北側の鳴子丘陵を総称して鳴海丘陵といい、『張州府志』(1752年(宝暦2年))は、かつて名古屋市緑区一帯に「鳴海山」と総称される28峰の連なりがあったことを示している[37]。この鳴海丘陵一帯には50メートルから80メートルほどの頂部が点在するが[注 6]、頂上の高さはかなり揃っており(定高性)、開析を受ける前の背面(各丘陵の頂部を連ねた面)はなだらかな面であったことを示している。
地質学的には、新第三紀鮮新統の温暖な時期(500万〜300万年前)に東海湖に堆積した東海層群と呼ばれる柔らかな湖成層(「矢田川累層」)を土台としている[39]。矢田川累層は下層から「水野部層」・「高針(たかばり)部層」・「猪高(いたか)部層」に分けられ[40]、大字桶狭間で見られるのはこのうち「猪高部層」で、砂・礫・粘土の不規則な互層であり、最南部を除いた外縁部分にて主にこの地層が見られる[13][41]。またこのうち神明廻間や森前付近の段丘には「猪高部層」の上に八事層よりも新しい堆積の褐色礫・シルト層が見られる[41][42]。これらの地層では土壌化が進んでおり、浸食もあまり見られなかったことから、古くより畑や果樹園として利用されてきた歴史を持つ[43][44]。ただし近年では大規模な宅地開発が行われており、畑の面積は大幅に減少している。
高根山の頂上部、字幕山・字愛宕西・字牛毛廻間の一部では、標高40メートル付近に不整合面があり、それより上層は「八事層」と呼ばれる砂やシルトを挟んだ礫層となっている[13]。これは矢田川累層が東海湖の後退によって地表に露出した後に、再び湖底や川底となり堆積した層であり[41]、その時期は第四紀前期から中期頃と考えられるが、はっきりした年代は分かっていない[45]。大字桶狭間において、これらの丘陵は農地への転用が困難な、もろく崩れやすいバッドランドとして理解されており、長らく針葉樹林などに覆われていたが[13]、後年になって畑の開拓が進められたり、住宅地になったりしている。なお、尾張丘陵全般に見られる頂部の定高性はこの八事層に基づくものであり、八事面と呼ばれている[46]。
大字桶狭間と大字有松の境界線より有松側には、わずかながら洪積台地が見られる。旧東海道沿いに広がった有松市街地の大部分を占める低位段丘がそれであり、名古屋市内の台地(熱田台地)をなす「熱田層」に比定されるもので、その形成はリス-ヴュルム間氷期(13万-7万年前)後半と目される[43]。湿地のような場所に砂などの細粒物が貯まって作られたとされる引き締まった地層で[47]、地盤も良好であり、大字有松では古くから住宅地として利用されている[43]。
南部から中央にかけて細長く食い込んだように広がるのは沖積平野である。鞍流瀬川とその支流である中溝川(なかみぞがわ)が丘陵部を切りながら南進し、それぞれの両岸に広く沖積層を構成している[43]。水田として開発・利用されてきた部分が多く、桶狭間神明の東部、南陵、野末町付近がこれらに該当し、かつては大池から彼方にある共和駅の駅舎を望めたといわれるほど広々とした田園地帯であったという[48]。しかし1972年(昭和47年)に名古屋市営桶狭間荘(現在の桶狭間住宅)が建設されたのを皮切りに、南陵ではほとんど桶狭間住宅の敷地および大型ショッピングモール「有松ジャンボリー」の敷地に転用され、野末町も戸建住宅地として整備されており、田は桶狭間神明の一部に残るのみとなっている。[要出典]
大字桶狭間は開析の進行した丘陵地であるため集水面積が狭く[43]、灌漑用水を得るためにため池を多く築造してきた歴史を持つ[49]。1961年(昭和36年)に愛知用水が完成し、農業用としての役割を終えたため池は、防火用水の水源として利用されたり[49]、水辺公園として整備される一方で、埋め立てられて住宅地などに転用された池も少なくない。
2013年(平成25年)現在、大字桶狭間の範囲には、以下の17の町丁と8つの字が含まれている。
町丁 | 字 | (参考)大字桶狭間の新旧町丁字図 |
---|---|---|
有松(ありまつ)(一部) | 愛宕西(あたごにし) | |
有松愛宕(ありまつあたご)(一部) | 牛毛廻間(うしけはざま) | |
有松三丁山(ありまつさんちょうやま)(一部) | 権平谷(ごんべいだに) | |
桶狭間(おけはざま) | 高根(たかね) | |
桶狭間上の山(おけはざまうえのやま) | 寺前(てらまえ) | |
桶狭間北二丁目(おけはざまきたにちょうめ) | 生山(はえやま) | |
桶狭間北三丁目(おけはざまきたさんちょうめ) | 巻山(まきやま) | |
桶狭間切戸(おけはざまきれと) | 幕山(まくやま) | |
桶狭間清水山(おけはざましみずやま) | ||
桶狭間神明(おけはざましんめい) | ||
桶狭間南(おけはざまみなみ) | ||
桶狭間森前(おけはざまもりまえ) | ||
清水山一丁目(しみずやまいっちょうめ)(一部) | ||
清水山二丁目(しみずやまにちょうめ)(一部) | ||
武路町(たけじちょう) | ||
南陵(なんりょう) | ||
野末町(のずえちょう) |
先述のように、大字桶狭間では町名・町界の変更が頻繁に行われ、大字有松・旧大高町とまたがった新町名・新町界なども設定されてきたことから、「大字桶狭間」の範囲を特定することは困難になっている。大字桶狭間の地域を記述するにあたり、ここでは1988年(昭和63年)9月25日に町名町界整理が行われる直前まで構成されていた32の字を区分の目安としている。
有松神社(ありまつじんじゃ)は、名古屋市緑区有松町大字桶狭間字高根にある神社である(北緯35度3分47.1秒 東経136度58分9.9秒)。高根山の山頂にあり、1955年(昭和30年)5月に創立される[82]。当地には1891年(明治24年)桶狭間分校に建てられ1910年(明治43年)に移された征清献捷碑、同じく1910年(明治43年)に日清・日露両戦争で戦死した有松町内の10名を記念した建立された忠魂碑があったが、これに太平洋戦争での有松町内の戦死者74名を加え、慰霊のための社殿が建立されたものである[73][82]。なお、戦前にはこの地に数多くの記念碑があったために高根山を「記念碑山」と呼ぶことがあったという[73]。
慈雲寺(じうんじ)は、名古屋市緑区桶狭間上の山にある浄土宗西山派の尼寺である(北緯35度2分55.2秒 東経136度58分12.5秒)[83]。山号を相羽山と称する。近隣に在住する相羽家の菩提寺で、開山の慈空潜龍、俗名相羽弌郎(あいば いちろう、1818年6月13日(文政元年5月10日)-1889年(明治22年)12月1日)は江戸時代後半から明治時代にかけて桶狭間に在住した医師である[83]。性病の名医として知られたほか、漢学者・教育者として弘化年間(1844年 - 1847年)には「学半館」と呼ばれる私塾を設け[54]、政治家としては桶廻間村の戸長を勤めるなどしながら、生涯のうちで巨万の富を築いたという。相羽が祖先の霊を祀るために1882年(明治15年)に設けた清心庵が、1890年(明治23年)に慈雲寺を称するようになる[84]。現在の本堂は1892年(明治25年)に建立されたものである[85]。
開元寺(かいげんじ)は、名古屋市緑区有松町大字桶狭間字高根にある天台寺門宗の寺院である(北緯35度3分41.2秒 東経136度58分10.5秒)。山号を報恩山と称する。古くからの灯籠や百度石が残るほか、比較的新しいものと思われる本堂、石像などがある[73]。
慈昌院(じしょういん)は、名古屋市緑区桶狭間上の山にある真言宗醍醐派の寺院である(北緯35度2分48.5秒 東経136度58分15.5秒)。山号を阿刀山、寺号を大遍照寺と称し、本尊として不動明王を祀る。
庚申堂(こうしんどう)は、名古屋市緑区桶狭間上の山にある小堂である(北緯35度2分56.5秒 東経136度58分19秒)。
当地にはかつて、村に伝染病がはやるとその退散を願って青面金剛を供養したとする庚申塚があったという[83]。堂が建立されたのは江戸時代中期頃とみられ、本尊の青面金剛像は化政時代(1804年-1829年)のものと推定されている[86]。幕末から明治時代前半にかけては、庚申堂のすぐ西隣の医師相羽弌郎のもとを訪れた患者の平癒祈願が多くみられ、平癒の礼として数多くの絵馬も奉納されたという[83]。堂の南隣にある小さな空き地では、春の初庚申日には餅まき・芝居が行われたほか[82]、秋の庚申祭には碧海郡西境村(現刈谷市西境町付近)の獅子芝居の奉納が恒例となっていたようである[86]。なお、堂は大正時代に絵馬と共に全焼し[87]、1981年(昭和56年)にも子供の火遊びによって半焼するという憂き目にあっている[88]。
名古屋市緑区桶狭間北2丁目にある小さな地蔵堂をいう(北緯35度3分34.4秒 東経136度58分10.3秒)。本来の本尊は失われているようで、正面(南側)より見て左側(西側)の地蔵堂には3基の石塔が収められており、左から白龍大明王、地蔵池主大神、白天竜王の刻銘を持つ。右側(東側)の小堂には大日如来石像および地蔵石塔道標が収められているほか、小堂の右手に建つ十一面観音石像、石をくりぬいた一対の灯明塔、塔婆板などがある[89]。大字桶狭間に残る民話「ごんべい谷」に登場する権平と孫娘の2人を供養するために建立されたいわれ、毎年春の彼岸入りには餅を供えて供養が行われる[69]。
御嶽神社(おんたけじんじゃ)は、名古屋市緑区有松町大字桶狭間字高根にある御嶽教の教会である(北緯35度3分51.2秒 東経136度58分15.1秒)。桶廻間村では文久年間(1861年 - 1863年)に御嶽講が発足し、以後梶野覚清らを先達とする御嶽山登山が盛んに行われるようになる[82]。現在では宗教法人御嶽神社有松日の出教会として説教所および石鳥居を持つほか、隣接して秋葉神社が祀られている[73]。
出雲大社愛知日の出教会(いずもおおやしろあいちひのできょうかい)は、名古屋市緑区有松町大字桶狭間字巻山にある出雲大社教の教会である(北緯35度3分15.7秒 東経136度58分6.9秒)。祭神として大国主(おおくにぬし)を祀る。1909年(明治42年)に先述の梶野覚清が出雲大社教管長千家尊愛の教えを受けて同教に入信、当教会を設立する[82]。
桶狭間古戦場跡(おけはざまこせんじょうあと)は、名古屋市緑区桶狭間北3丁目(旧有松町大字桶狭間字ヒロツボ)にある史跡である。現在は「桶狭間古戦場公園」として整備されている。
1608年(慶長13年)の『尾州智多郡桶廻間村御縄打水帳』は、この付近を「いけうら田面」と呼び[注 13]、1町1反2畝9歩(約1.11ヘクタール)の深田が存在していたことを示している[90]。そして「いけうら田面」の脇に台地があり、古くから田楽が奉納されてきたこの地は「田楽坪」と呼ばれたという[91]。「いけうら田面」一帯の深田は洞迫間で最も初期に開墾されたものと判明していることから、1608年(慶長13年)から48年前の桶狭間の戦いの折りにも存在していたと考えられ[92]、今川義元や残党が深田に足をとられて討ち取られたのはこれらの深田であったというのが、大字桶狭間側の古くからの主張である。
『尾張徇行記』(1808年(文政5年))などによれば、「いけうら」はそのまま田面の字として残り[93]、ヒロツボ、牛毛廻間、幕山あたりの広い範囲をいったようである[66]。享保年間(1716年 - 1735年)に尾張藩の開田奨励策によって、「田楽坪」と呼ばれた台地を含めた広範囲が開墾され、この頃に「いけうら」の字名も「ひろつぼ」に変わっているが、「田楽坪」の台地にあった「ねず塚」と呼ばれる10坪程度の塚は、そこに立つネズに触れると熱病にかかると恐れられたことからそのまま深田の中に残されている[91]。昭和時代初期に「桶狭間古戦場」と記された標石(「文化13年(1816年)建」という銘を持つ)が鞍流瀬川の底から発掘されるなどし[94]、地元ではこの「ねず塚」を中心とした田楽坪を桶狭間の戦いの主戦地として捉えるようになり、1933年(昭和8年)には梶野孫作がこの地に「田楽庵」を建て、桶狭間史蹟保存会を組織して座談会などを催すようになる[94]。また1950年代には「駿公墓碣」と彫られた粗末な石碑が発掘されたりもしている[95]。
2010年(平成22年)、桶狭間の戦いから450周年にあたることを記念して公園の改修が行われ、「近世の曙」と呼ばれる今川義元・織田信長両人のブロンズ像のほか、合戦当時の地形・城・砦、今川・織田両軍の進路などを配したジオラマが築造されている[96]。
アクセスは、名古屋市営バス幕山停留所(北緯35度3分22.4秒 東経136度58分13.3秒)より南東へ徒歩約5分以内。なお、豊明市が運営する「ひまわりバス」のバス停留所に「桶狭間古戦場公園」が存在するが、これは豊明市栄町南舘にある「桶狭間古戦場伝説地」の近在にあるもので、大字桶狭間の桶狭間古戦場跡へのアクセスにはならないので注意が必要である[97]。
釜ヶ谷(かまがたに)は、生山南麓にある谷地を指し、近崎道の途上にあって、桶狭間の戦いの折りには織田方が驟雨の中で突撃の機をうかがうために身を潜めていたとされる場所である[99]。桶狭間史跡保存会所蔵の写真によれば、この地は昭和初期に至るまでうっそうとした林で覆われた一帯であったことがうかがわれる[100]。
かつて近崎道の東に沿って竹次池(たけじいけ)と呼ばれたため池があったが(所在地は豊明市栄町武侍)、これは江戸時代以降に建造されたものである[101]。後に「長池」と呼ばれるようになり、近年埋め立てられて消滅している。
瀬名陣所跡(せなじんしょあと)は、名古屋市緑区桶狭間(旧有松町大字桶狭間字寺前)にある史跡である(北緯35度3分14.4秒 東経136度58分14.9秒)。桶狭間の戦いの2日前の1560年6月10日(永禄3年5月17日)に瀬名氏俊を大将とする今川方の先遣隊約200名が陣を構えた場所とされる。『東照軍鑑』(成立年代不詳)に「義元ハ瀬名伊予守・朝比奈肥後守父子高天神ノ小笠原ヲ先懸トシテ五千騎桶挟(オケハサマ)表ヘ押出シ…」とあり[102]、このうち瀬名の役割は村木[注 14]・追分村・大高村・鳴海村各方面の監視、および近日中の本隊到着に向けて本陣の設営であったと考えられている[1]。瀬名隊の陣所は東西15メートル、南北38メートルほどであったといわれ、当時トチノキで覆われた林であったのが後年は竹藪となり、地元では長らく「セナ藪」・「センノ藪」などと呼ばれていたが、1986年(昭和61年)に大池の堤防工事が行われた際にこのセナ藪も滅失する[1]。現在では「瀬名伊予守氏俊陣地跡(せないよのかみうじとしじんちあと)」と刻まれた標柱が残されているほか、案内板が立っている。
なお、大池の堤防工事が行われる以前はすぐ脇を鞍流瀬川が流れており、数多く舞うホタルやハグロトンボの姿がよく見られたといい、住民はそれを桶狭間の戦いの戦死者の魂魄だとして、捕獲することをはばかっていたという[105]。
戦評の松(せんぴょうのまつ)は、名古屋市緑区有松町大字桶狭間字幕山にある史跡である(北緯35度3分12.6秒 東経136度58分8.6秒)。桶狭間の戦いの折りに、今川義元がこの地で評議を行ったという伝説があり、それを示す石碑も残されているが、一般には、今川方の先遣として当地に布陣した瀬名氏俊が配下の部将を集めて戦の評議をしたのがこの地にあった松の大木の根元であったとされる[1]。『天保十二年丑年五月知多郡桶廻間村圖面』にも長坂道に沿って大きな松の木が描かれており、地元で「一本松」・「大松」などと呼ばれて親しまれていたが[1]、1959年(昭和34年)9月に襲来した伊勢湾台風のために枯死してしまう[14]。2代目の松は1962年(昭和37年)5月19日に植樹されたが[14]、2008年(平成20年)に虫食いのために枯死、翌2009年(平成21年)3月に幼木が植樹され、現在は3代目である[106]。
七ツ塚(ななつづか)は、名古屋市緑区桶狭間北2丁目(旧有松町大字桶狭間字武路)にある史跡である(北緯35度3分28.2秒 東経136度58分15.5秒)。桶狭間の戦いで今川義元が戦死し織田方が勝利したことを受け、織田信長は村人に命じて武路山の山裾に沿い7つの穴を等間隔に掘らせ、そこに大量の戦死者を埋葬させたという[1]。このうちふたつ(七ツ塚・石塚)が後年まで原型をとどめ、これを取り壊すものは「たたり」に遭うという言い伝えから長らくそのままにされていたが、1989年(平成元年)の区画整理の折りに内のひとつが整備され[1]、碑も建立されて現在に至る。
なお、合戦とは本来関わりなく、経塚のように宗教的作善目的で建立されたとする見解もあり、こうした場合の建立時期は戦国時代以前にさかのぼる可能性もあるという[52]。
桶狭間古戦場まつり(おけはざまこせんじょうまつり)は、桶狭間の戦いの戦死者を慰霊するために催される祭りである。豊明市と名古屋市緑区でそれぞれ同名の祭りが開催されている。
開催日は毎年6月第1土曜日・翌第1日曜日で[107]、主催は桶狭間古戦場まつり実行委員会、共催は豊明市および豊明市観光協会である。土曜日には、国の史跡戦人塚(北緯35度3分25.1秒 東経136度59分43.7秒)[注 15]において戦人塚供養祭、桶狭間古戦場伝説地において今川義元の墓前祭、香華山高徳院において今川義元の霊前祭が行われる。日曜日には、市民参加による武者行列が豊明市栄町内を練り歩き、その後香華山高徳院で合戦の様子を再現した寸劇が披露されるほか、火縄銃の発砲実演や棒の手演技、芸能発表、ハイキング大会、フリーマーケットなど、数々の催しが繰り広げられる[107]。 かつて、義元の死を悼み供養するという義元まつりであったが、義元だけでなく織田信長の偉業も讃えなければ義理が悪いのではないかという土川元夫(かつての名古屋鉄道株式会社取締役社長)の提案により、以来古戦場まつりとなったという[108]。
開催日は桶狭間の戦いが勃発した5月19日の直前にあたる5月中の日曜日で[注 16]、主催は桶狭間学区区政協力委員会、桶狭間古戦場保存会、共催は有松商工会、有松桶狭間刊行振興協議会、桶狭間消防団、有松・桶狭間・南陵子ども会、和光山長福寺、桶狭間神明社などである[109]。桶狭間古戦場公園において桶狭間の戦いの戦死者に向けた慰霊式典が行われる。ほかに、公園では古武道演舞の奉納、芸能発表、和光山長福寺では歴史講演会の開催、和光山長福寺駐車場では屋台が建ち並んで飲食が可能となっている。史跡巡りのツアー、スタンプラリーなども同時に開催される[110]。夕刻になると、大池の周囲で3,500本のろうそくが灯される万灯会が行われる[109]。
桶狭間区(おけはざまく)は、豊明市に存在する行政区である。桶狭間区はさらに桶狭間1、桶狭間2、桶狭間3、桶狭間4に分かれるが、全体の範囲は、おおむね豊明市栄町南舘のうち豊明市道大脇舘線の東側、ホシザキ株式会社本社敷地周辺、および豊明市栄町山ノ神とする。1960年(昭和35年)4月1日に当時の愛知郡豊明町が行政区の再編を行い第7区のひとつとして桶狭間を設置[111]、1972年(昭和42年)4月2日の再編により単独の桶狭間区に昇格している[111]。2013年(平成25年)4月1日現在の人口は2,238、世帯数は969を数えている[112]。
桶狭間神社(おけはざまじんじゃ)は、豊明市栄町字山ノ神にある神社である(北緯35度3分28.4秒 東経136度58分59.1秒)。正式には神明社(しんめいしゃ)といい、1947年(昭和22年)に創建、祭神として鎮宅霊神を祀る[113]。地名にあるように元は山の神を祀っていたが、後年桶狭間区の氏神となり、神明社に改号している[113]。
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