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長野県諏訪市にある情報関連機器、精密機器メーカー ウィキペディアから
セイコーエプソン株式会社(英語: Seiko Epson Corporation)は、長野県諏訪市に本社を置く情報関連機器、精密機器を手掛ける電機メーカーである(登記上の本店は東京都新宿区にある)。略称・ブランドは「エプソン(EPSON)」。
本社(長野県諏訪市) | |
種類 | 株式会社 |
---|---|
機関設計 | 監査等委員会設置会社[1] |
市場情報 | |
略称 | エプソン・EPSON |
本社所在地 |
日本 〒392-8502 長野県諏訪市大和3-3-5 |
本店所在地 |
〒160-8801 東京都新宿区新宿4-1-6 JR新宿ミライナタワー 29階 |
設立 |
1942年(昭和17年)5月18日 (有限会社大和工業) |
業種 | 電気機器 |
法人番号 | 4011101010841 |
事業内容 | 情報関連機器、精密機器、電子部品 |
代表者 |
小川恭範(代表取締役社長) 瀬木達明(代表取締役専務執行役員)[2] |
資本金 |
532億400万円 (2019年3月31日現在) |
発行済株式総数 |
3億9963万4778株 (2019年3月31日現在) |
売上高 |
連結:1兆1289億14百万円 単体:8234億48百万円 (2022年3月期) |
経常利益 |
単体:1235億15百万円 (2022年3月期) |
純利益 |
単体:1155億69百万円 (2022年3月期) |
純資産 |
連結:5427億47百万円 単体:3804億円 (2022年3月31日現在) |
総資産 |
連結:1兆2664億20百万円 単体:8248億98百万円 (2022年3月31日現在) |
従業員数 |
連結:77,642名 単体:12,630名 (2022年3月31日現在) |
決算期 | 3月31日 |
会計監査人 | EY新日本有限責任監査法人[3] |
主要株主 |
日本マスタートラスト信託銀行株式会社(信託口):23.52% 株式会社日本カストディ銀行(信託口):8.04% 三光起業株式会社:4.22% セイコーグループ株式会社:3.61% みずほ信託銀行株式会社 退職給付信託 みずほ銀行口 再信託受託者 株式会社日本カストディ銀行:2.45% エプソングループ従業員持株会:2.23% 第一生命保険株式会社 (常任代理人 株式会社日本カストディ銀行):1.84% STATE STREET BANK WEST CLIENT - TREATY 505234 (常任代理人 株式会社みずほ銀行):1.42% 服部悦子:1.30% 株式会社八十二銀行 (常任代理人 日本マスタートラスト信託銀行株式会社):1.28% (2023年3月31日現在) |
主要子会社 |
エプソン販売 100% 東北エプソン 100% 宮崎エプソン 100% |
関係する人物 |
服部一郎(元社長) 中村恒也(元社長) 安川英昭(元社長) 草間三郎(元社長) 花岡清二(元社長) 碓井稔(元社長) |
外部リンク |
corporate |
特記事項:大株主の三光起業は、服部家(服部金太郎の子孫一族)の資産管理会社である(同家の資産管理会社である青山企業は10%強を保有していたが、2011年11月17日に保有株の大部分を売却している)。服部家は、セイコーグループ株式会社の大株主でもある。 |
インクジェットプリンターを始めとするプリンターや、プロジェクター、パソコン、スキャナーといった情報関連機器、水晶振動子(クォーツ)、半導体などの電子デバイス部品の製造、さらに産業用ロボットや小型射出成形機、分光ビジョンシステムなどの産業用機器の製造を行っている。また子会社ではないものの、セイコーグループ株式会社、セイコーインスツル株式会社とともに「セイコーグループ中核3社」の1つとされ、SEIKOブランドの各腕時計の開発・生産も行っている。また、現在では、オリエント時計の事業を統合し、オリエントスターやオリエントブランドの腕時計の開発・生産・販売もエプソンで行っている。
2003年(平成15年)6月、東京証券取引所市場第一部へ株式を上場した。証券コードは6724。日経平均株価の構成銘柄の一つ[4]。
1942年、服部時計店(現在のセイコーグループ)の元従業員で諏訪市で時計の小売・修理業を営んでいた山崎久夫により、有限会社大和工業(だいわこうぎょう)として創業。服部家・第二精工舎からの出資を受け、第二精工舎(現在のセイコーインスツル)の協力会社として腕時計の部品製造や組み立てを行っていた。
1943年に第二精工舎が工場を諏訪市に疎開、諏訪工場を開設する。終戦後も第二精工舎の疎開工場は諏訪の地にとどまり、大和工業との協力関係を強めていった。1959年に大和工業が第二精工舎の諏訪工場を営業譲受し、株式会社諏訪精工舎となった。
諏訪精工舎は、諏訪市とその周辺地域で腕時計の一貫生産体制を確立する。諏訪精工舎を含め、戦中・戦後に諏訪圏(岡谷市、諏訪市、茅野市、下諏訪町、富士見町、原村)・塩尻市・松本市・伊那市には精密機器製造業(時計、カメラなどの部品製造・組立)が集積、同地域は「東洋のスイス」と称されるまでになる。1961年に子会社として信州精器株式会社(後のエプソン株式会社)を設立。 1985年に諏訪精工舎と子会社のエプソン株式会社が合併して、現在のセイコーエプソン株式会社に商号を変更した。
セイコーグループ各社との協業により、独自設計の機械式腕時計(マーベル)・自動巻き機械式腕時計、卓上小型水晶時計、世界初のクォーツ腕時計(アストロン、初代)、自動巻き発電クォーツ腕時計(オートクオーツ)、スプリングドライブ、世界初のGPSソーラー腕時計(アストロン、2代目)等を開発、時計の高精度化・低価格化を進めた。時計の製造・開発から派生するかたちでプリンターや水晶振動子(クォーツ)、半導体、MEMSデバイス、液晶ディスプレイ、高密度実装技術・産業用ロボットなどの開発を行い、それらが現在の当社の主要事業に結実・発展している。現在の主力事業・主力製品はインクジェットプリンターや液晶プロジェクターなどの情報関連機器である。創業事業である時計事業もセイコーブランド向けの製品の開発・生産を続けている。
国内拠点の多くが長野県内に点在し、その他に山形県酒田市、秋田県湯沢市[注 1]、北海道千歳市にも製造拠点がある。
子会社にエプソン販売(国内市場向けエプソンブランド商品販売全般)や宮崎エプソン(水晶デバイス事業)、東北エプソン(半導体、プリンター部品の製造)、エプソンアトミックス(金属粉末、金属射出成形部品、人工水晶原石の製造)、孫会社にエプソンダイレクト(PC周辺機器のユーザ、法人向け直販)などがある。
前述のように、創業者の山崎久夫が服部時計店(現セイコーグループ)の元従業員であったことや、創業当初に服部家や第二精工舎(現セイコーインスツル)からの出資を受けていたこと、また第二精工舎の協力会社として腕時計の部品製造や組み立てを行っていたこと、前身の諏訪精工舎は大和工業が第二精工舎の諏訪工場を営業譲受して生まれたことなど、古くから強い関係があった。
セイコーエプソンと、セイコーグループ、セイコーインスツルをあわせて「セイコーグループ中核3社」と呼ばれることも多い[5]。
しかし資本上は、セイコーグループやセイコーの創業家である服部家(服部金太郎の次男・正次の家系の個人および一族の資産管理会社)が大株主であるものの支配はしておらず、子会社や関連会社のような上下関係ではない。
2016年11月30日に、エプソン販売株式会社からAR対応のスマートグラス、EPSON MOVERIO「BT-300」を発売。独自開発の有機ELディスプレイを採用し、軽量化、高輝度、高画質化まで実現している。
時計が主要な事業であった頃から液晶デバイスの開発を行っていたが、プロジェクターの研究・開発はポケットTV用に開発したポリシリコンTFT液晶パネルの応用から始まった。1989年に世界初の液晶プロジェクター「VPJ-700」を発表。1994年、PCを利用したプレゼンテーション用途に着目したデータプロジェクター「ELP-3000」を発売し、大きな評価を得た。[25]以降、液晶パネルを使用した3LCD方式のプロジェクターを製品展開している。
家庭向けのインクジェットプリンターのカラリオシリーズの普及期に、人気タレントをCMに使って大胆に宣伝を行い、製品のヒットやブランドの認知に一役を買っていた。1997年頃迄はライバルのキヤノンのBJシリーズにはペンギンなど色彩鮮やかな動物や鳥類・風景の写真が主に使われていたのに対して、対照的な広告であった。
自社のブランドを広く認知させるため、各種イベントやアスリート等へのスポンサードを行っている。
元レーシングドライバーの中嶋悟は、長年のパートナーとして広く認識されている。
販売拡大とブランドイメージ向上を図るための新たな広報活動として、1983年(昭和58年)より全日本F2に参戦するハラダレーシングのスポンサーとなり、モータースポーツへ初参戦を果たした。この時、同チームに加入したのが中嶋だった。速くてマシンを壊さないドライビングスタイルの中嶋が商品とオーバーラップさせられる選手であるとして、翌年より中嶋(及び中嶋企画)への支援が開始された(ハラダレーシングはこのシーズンで撤退)。
1984年(昭和59年)には、ネスカフェゴールドブレンドのTVCMでキャラクターに起用されたレーシングカーデザイナーの由良拓也と中嶋が共演。全国放映されたCM中で由良がデザインする中嶋のマシンが"EPSON"のロゴと共に何度も大写しされたことにより、自社が全く関与しない形でTV中継を含むレース観戦者以外の一般視聴者にも広くその会社名を知られるきっかけとなった。当時の広報担当者は、この思いもよらない宣伝効果が知名度と業績の劇的な向上につながったとして、「今のわが社があるのは中嶋さんのおかげ。今後も会社を上げて全力でサポートしていく」と語っている。
1987年には中嶋のF1参戦に伴いパーソナルスポンサーとしてF1に参入。1988年(昭和63年)から1991年(平成3年)まで中嶋の所属チーム(ロータス、ティレル)のスポンサーとしての活動も展開。この時期には中嶋を起用したテレビCM(ノートパソコンやCI広告)も制作され、当時のF1ブームも重なり企業イメージと知名度が飛躍的に上がり、就職希望者が大幅に増加するといった現象もみられた。また1991年(平成3年)にはノートパソコン「NOTE&BOOK」のテレビCMに、中嶋が歌う『悲しき水中翼船』がCMソングとして使用(CMにも出演)され、CDが発売された時には現役F1ドライバーが歌手デビューしたとして大きな話題となった。
中嶋の現役引退後も中嶋企画への支援は継続され、2000年(平成12年)より子会社のエプソン販売がスポンサー活動を引き継いでいる。
より高度かつ広範囲な専門知識を有する技術技能者を育成するため、セイコーエプソン工科短期大学校を開設している。認定職業訓練による職業訓練施設で高度職業訓練専門課程を実施する。
施設はセイコーエプソン本社構内にある。1969年(昭和44年)、社内に技能研修所が組織化され、1971年(昭和46年)に技能研修生らが機械整備科,時計組立科2ヵ年の訓練を開始した。1987年(昭和62年)に セイコーエプソン高等職業訓練校が長野県知事より認可され開校。1988年(昭和63年)から セイコーエプソン工科短期大学校として認可され開校した。課程は現在 機械システム系精密電子機械科に、定員20名で開校。対象者は高等学校卒業以上で、原則2年以上の職場経験者を事業部・各社の推薦をうけた者で、期間・訓練時間は2ヵ年(3,600時間)に渡る。カリキュラムには座学のほか、自主製作活動、FA総合課題実習、選択専門実習(機械・FA系コース、電子・ソフト系コース、真空・フォトリソコース)実践実習、海外研修、となっている。
有価証券報告書によれば、平均年収は以下のように推移している。
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