金田伊功

日本の男性アニメーター(1952-2009) ウィキペディアから

金田 伊功(かなだ よしのり、1952年昭和27年〉2月5日 - 2009年平成21年〉7月21日)は、日本男性アニメーター奈良県出身。

概要 かなだ よしのり金田 伊功, プロフィール ...
かなだ よしのり
金田 伊功
プロフィール
生年月日 (1952-02-05) 1952年2月5日
出身地 日本奈良県
没年月日 (2009-07-21) 2009年7月21日(57歳没)
出身校 専門学校東京デザイナー学院のアニメ科(現:専門学校東京クールジャパン
職業 アニメーター
キャラクターデザイナー
活動期間 1970年 - 2009年
ジャンル アニメーション
受賞 第13回文化庁メディア芸術祭特別功労賞
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「伊功」は「いこう」と読まれることもある。別名義に当初は誤字だったものを使用した「金田伊助」や、スクウェア・エニックス在籍中に他社仕事の際に使った「戸隠三郎」がある。

経歴

要約
視点

生い立ち

航空自衛隊パイロットだった父親を見て育ち、自分もその道を熱望していたが、視力が悪く断念する。この時に映画『空飛ぶゆうれい船』の宮崎駿の作画に衝撃を受け、アニメーション業界を志すきっかけとなる。

高校2年生の時のノートには、当時好きだったテレビアニメアタックNo.1』のヒロイン・鮎原こずえのイラストが多数描かれており、当時からプロレベルに近い画力であった[1]

アニメーターの道へ

アニメの通信教育を経て専門学校東京デザイナー学院のアニメ科(現:専門学校東京クールジャパン)で学び、東映動画(現・東映アニメーション)の契約社員となる。1970年に同社のテレビアニメ『魔法のマコちゃん』で動画デビュー。東映動画を退社後、荒木伸吾のフリー集団のスタジオZ(第1期)[2]、野田卓雄のスタジオNo.1を経て1976年にスタジオZ(第2期)[3]、1980年にスタジオNo.1を結成して活動した。

1974年に野田が作画監督を担当した『ゲッターロボ』に原画として参加し頭角を現すと、1970年代半ばからは『大空魔竜ガイキング』、『惑星ロボ ダンガードA』などの東映動画のロボットアニメ。日本サンライズ(現・サンライズ)での『超電磁マシーン ボルテスV』や『サイボーグ009』のオープニング。『無敵超人ザンボット3』『無敵鋼人ダイターン3』を担当。同時期には国際映画社の『くじらのホセフィーナ』の第03話、第20話でも注目を集めた。

1980年代前半には『銀河旋風ブライガー[4]などのJ9シリーズ、『魔境伝説アクロバンチ』や『機甲創世記モスピーダ』などでもオープニングアニメーションの仕事をし、山下将仁など金田の影響を受けたアニメーターを輩出した[5]

アニメ映画が主体に

1979年の劇場版『銀河鉄道999』以来、アニメ映画の仕事が増え『サイボーグ009 超銀河伝説』『ヤマトよ永遠に』『地球へ…』『宇宙戦艦ヤマト 完結編』『幻魔大戦』『オーディーン 光子帆船スターライト』などのアニメ映画に参加してメカ作画やエフェクトアニメを担当するようになった[6][7]

それらの作品の中には「スペシャルアニメーション(「幻魔大戦」におけるクレジット)」や「メカニック作画監督」と金田のために特別な役職まで設けられたものもあり、スターアニメーターとも言える地位を築いて[5][8]、当時のアニメ雑誌では機会があるごとに金田の情報を取り上げた[9]。熱心なアニメファンの中には金田を主役にした自主制作アニメを制作するグループまで現れた[10]

スタジオジブリへ

1980年代半ばになるとスタジオジブリの宮崎作品の常連になり、主にアニメ映画の仕事をこなすようになっていった[11][12][13]

宮崎監督作品である1984年のトップクラフト作品『風の谷のナウシカ』に、プロデューサーの高畑勲を尊敬していたということから参加した[14]。元々共に仕事をする以前から、金田はアニメ映画『空飛ぶゆうれい船』で宮崎が作画を担当したゴーレムのようなものを描きたくてアニメーターになったと発言しており[15]、宮崎の方も1982年に出版された金田の画集に才能を高く評価する寄稿をしていた[16]

それ以降、スタジオジブリで『天空の城ラピュタ』、『となりのトトロ』、『魔女の宅急便』、『紅の豚』、『もののけ姫』の原画を手がけていく。ちなみに『ラピュタ』においては原画頭(げんががしら)という特例な称号を高畑が考案し[13]、エンディングクレジットでも正式に表記されている。

80年代には中曽根内閣国家機密法を進めており、当時表現規制に反対していた日本共産党系の後援会に名を連ねている[17]

スクウェア・エニックスへ

上妻晋作によるとジブリ時代末期は辛そうだったらしく、当時ジブリ以外で金田の給料を払えるところは日本のスタジオにはなかったために留まっていたという。そんな中、ハワイで映画を制作するということでジブリを辞める[18]。1998年から劇場作品『ファイナルファンタジー』の制作に参加[19]したのをきっかけにスクウェアに入社し、スクウェア・エニックスの旧第7開発事業部所属の社員としてゲームのムービー制作を担当していた。この時期は日本を離れてハワイに滞在しており[20][21]、日本での仕事をしていない。

渡米前にはスパロボ系同人誌を発行する同人サークル「スタジオザルツウェルツ」にも参加している。

映画『ファイナルファンタジー』の仕事を終えて、日本への帰国後はスクウェア・エニックスの開発推進部に所属して2002年発売の『ファイナルファンタジーXI』、2003年発売の『半熟英雄対3D』、2005年発売の『半熟英雄4 7人の半熟英雄』、『武蔵伝II ブレイドマスター』など同社のゲームのオープニングアニメやキャラクターの3Dモーションを担当。中でも『半熟英雄対3D』のささきいさおの歌うテーマソングに合わせて往年の金田びかり、金田パース(後述)が炸裂するオープニングムービーは話題を呼んだ[21]

死去

2009年7月21日心筋梗塞により57歳で死去[22]。同年8月30日に有志によって行われた「金田伊功を送る会」には日本のアニメーション関係者が約800名、一般のファンが300名ほど参加した。野田卓雄庵野秀明りんたろうらによって弔辞が述べられ、亀垣一平山智本橋秀之友永和秀が故人の思い出を語った。

また、同年12月には第13回文化庁メディア芸術祭特別功労賞を受賞、2014年には東京アニメアワードフェスティバル・アニメ功労部門に選出された。

金田流の確立と流行

要約
視点

ロボットアニメなどにおいて緩急をつけながら舞うように動くアクロバティックなメカ表現やこれに通称「金田パース」と呼ばれる大胆に誇張された遠近感とポージングを加えた独特な作画スタイルを生み出し[23]、日本のアニメーションにひとつの変革を起こした[24][5]。「金田びかり」と呼ばれる実写のレンズの逆光で起きるゴーストを表現として取り入れられている[25]

スタイル

元来、金田のスタイルは虫プロから続く日本のテレビアニメーションに要求されている限られた時間と予算といった制約の中で、いかに表現を膨らませるかという条件から生み出された苦肉の策でもあった[24]。少ない枚数で動きを出すためのひとつの方策として動きの中割りを極端に省いたり、広角や魚眼のレンズで見たような視点といったアイデアを積み重ねて確立した。 コマ飛ばしというスタイルはスピーディかつ大胆なアクションシーンが表現できる。アニメーションはフルモーションといったアメリカスタイルを払拭し、その後の日本のアニメーションの表現スタイルを確立。ジャパニメーションの礎となった。

そうして生み出された派手なアクションシーンに当時の若手アニメーターやまだ視聴者であり後にアニメーターになっていく層も感化され、言わば「金田フォロワー」とも呼ぶべき一群を1980年代に形成した。具体的には鍋島修亀垣一越智一裕山下将仁大張正己摩砂雪板野一郎いのまたむつみらの名前が挙げられる[5][26]。エフェクト作画で知られる橋本敬史も金田に憧れてアニメ業界入りしたという[27]

以上のような在京の「金田フォロワー」に対し、在阪の作画スタジオとして1980年代の作画シーンにおいて黄金期を形成していたアニメアールの中核メンバーである、毛利和昭[28]吉田徹[29]沖浦啓之[30]逢坂浩司[31]らも金田作画から受けた影響と魅力を証言している。

またその影響はアニメのみならず漫画の世界にも波及し、金田流のパース表現を取り入れる漫画家も現れた[32]

アクション、ロボットアニメ等数多くの作品で彼はその力量を発揮した。また少女を主人公にした宇宙戦争漫画BIRTH』を徳間書店の「リュウ」「ザ・モーションコミック」で描き、これは後に金田とそのフォロワー陣を中心とした作画スタッフによってOVAアニメ化もされた。この頃が商業的ピークであり、金田ブームと言っても良い現象が業界を席捲した。

作画監督泣かせの個性

しかし一方でその絵には若干の癖があり、作画用設定資料に似せて描いていても彼ならではの個性がそこかしこに表れてしまい、各作品の作画監督はキャラクターを似せる修正や登場メカニックの形状的な整合性の維持に苦心する「作監泣かせ」としても知られた[33]

宮崎駿からは、「邪道な作画ばっかすんな」と咎められたという逸話もある[24]。一方で宮崎は、苦心の分その効果も強烈であったと評価しており[33]、『風の谷のナウシカ』の当時に「金田の描くナウシカが一番感じが出ていた」と語っていた[16]

なお、ロボットアニメで名を馳せたが、自身は「巨大ロボットアニメは線が多くて、それほど好きではなかったが、当時は今ほど作画においての制約がなかったので携わっていた」と語っている[34]。事実『無敵鋼人ダイターン3』の後番組である『機動戦士ガンダム』に僅かしか関わらなかったのは、キャラクターデザインの安彦良和からレイアウトに縛られた作画を要求されたからだと語っている[35]。その一方で「性に合っていた」とも語っていた[36]

参加作品

1970年
1971年
1972年
1973年
1974年
1975年
1976年
1977年
1978年
1979年
1980年
1981年
1982年
1983年
1984年
1985年
1986年
1987年
1988年
1989年
1990年
1991年
1992年
1993年
1994年
1995年
1996年
1997年
1998年
2001年
2002年
2003年
2004年
  • DESIRE(オープニングアニメ原画、PS2版)
2005年
2006年
2007年
2009年
2011年
2012年

著作

  • 『金田伊功スペシャル』(徳間書店、1982年7月31日) ISBN 4-19-402547-4
  • 漫画『わが青春のフローレシア』(月刊ベティ創廃刊号、吉村牧子との共作、1982年8月15日)
  • 漫画版『バース』第1巻 (原案/武上純希・カナメプロ 徳間書店、1983年12月20日)

参考文献

  • 氷川竜介『20年目のザンボット3』 太田出版1997年
  • 氷川竜介取材・構成「証言・巨大ロボットアニメの時代 金田伊功インタビュー」『動画王 Vol.1 決戦!巨大ロボットアニメ』 キネマ旬報社、1997年、pp.186-200。

出典

外部リンク

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