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かつて存在した日本のゲームメーカー ウィキペディアから
株式会社スクウェア(英: SQUARE CO., LTD.)は、かつて存在した日本のコンピュータゲームソフト会社。2003年(平成15年)4月1日に同業のエニックスと合併し、スクウェア・エニックス(法人としては現在のスクウェア・エニックス・ホールディングス)となった。以下ではこの旧スクウェアについて解説する。
古くは『ディスク・オリジナル・グループ DOG』などでファミリーコンピュータ ディスクシステム向けソフトを開発していた。同社発売の『ファイナルファンタジーシリーズ』はエニックス(現スクウェア・エニックス)発売の『ドラゴンクエストシリーズ』と並ぶ、日本でのコンピュータRPGの両巨頭である。
1983年(昭和58年)10月に創業者・宮本雅史の父が経営する徳島県の電気工事会社電友社のソフト開発部門として設立されたが、1986年(昭和61年)9月に独立。設立当初の資本金は1000万円。2002年(平成14年)3月31日当時の資本金は119億4500万円。また、元社長・武市智行の出身である四国銀行との関連も深い。
創業時に事業所を置いたのは、光栄と同じ神奈川県横浜市港北区日吉だった。ここでは人材確保を目的に、40台もの最新パソコンを自由に使える会員制サロンを開設していた。かくしてすぐ目の前にある慶應義塾大学日吉キャンパスや、横浜国立大学、神奈川大学など横浜周辺にキャンパスを置く大学の学生たちが出入りするようになる。その中からは同社でアルバイトを始め、そのまま正式入社した者もおり、同社の初期作品を手がけたスタッフには神奈川県にある大学の出身者が多い。
創業から半年後の1984年春、サロンの会員から選ばれたメンバーと公募で集められた者、計10名のスタッフによるゲームソフト開発が開始される。当初はNECPC-8801シリーズを中心としたパソコン用のアドベンチャーゲームやロールプレイングゲームを主力商品とした。シナリオ面でも評価されたほか、ビジュアル性にこだわりを見せた内容がクローズアップされる事が多かった。部分的ではあるがアニメーションを取り入れた『WILL デス・トラップII』、パッケージイラストにいのまたむつみを起用した上にゲーム本編のアニメ風ビジュアルで人気となった『アルファ』、日本サンライズと組んで内容面でもビジュアル面でもロボットアニメの雰囲気を強く打ち出した『クルーズチェイサー ブラスティー』などはゲーム情報誌でも大きく取り上げられた。またラインナップ充実のため、他社作品の移植にも力を入れていた。
1985年(昭和60年)から任天堂とライセンス契約を結びファミコン用ソフトを提供し始める。ファミコン市場への参入は開発スタッフからの要望に応えてのものだったという。当時のパソコンは機種ごとに独自仕様であり、後継機種であっても従来機のソフトが動かない事も多く、移植にも新規開発と同等に労力を要したのに対し、ファミコンには内部仕様の変更はあれどハードの変更がなく、また移植の必要もないのでより腰を据えて開発に臨めるという理由からである[2]。1986年には、ファミコン初のアクションRPGとして『キングスナイト』を発表した。しかし実質、RPG要素の薄い従来型のシューティングゲームであり、販売本数も伸びなかった。その後もパソコンゲームメーカーと組んでファミリーコンピュータ ディスクシステムで多くのゲームを送り出す DOG(Disk Original Group) ブランドを展開するなど意欲を見せるも、なかなかヒット作を出せずにいた。
市場からの撤退も考えていた中、坂口博信(後に副社長)らが開発し、1987年に発売された『ファイナルファンタジー』のヒットで飛躍の足がかりを掴み、その後は『サガ』シリーズ、『聖剣伝説』シリーズ等のRPGを主に制作、一気に大手メーカーとなった。
『ファイナルファンタジー』のヒットは同社に多大な利益をもたらした。『ファイナルファンタジーII』の発売と前後する時期、代々木で『ファイナルファンタジー』のグッズショップを展開した。このショップではスクウェアからライセンスを得て各社が発行していた出版物等の他、イメージイラストを使用したマグカップ等オリジナルグッズも扱っていた。
1992年(平成4年)に宮本に代わり水野哲夫が社長に就任。ゲームボーイ用ソフトの開発を引き上げ、タイトルをスーパーファミコンに専念。ミリオンセラーを続々と叩き出し、株式店頭公開も行う。1995年(平成7年)には本社を目黒区のアルコタワーに移転。同年は『ドラゴンクエストシリーズ』の堀井雄二、漫画家の鳥山明と共に『クロノ・トリガー』を制作、更にはマリオシリーズのキャラクターを扱った『スーパーマリオRPG』も任天堂と共同制作し、同社は絶頂期を迎える。
1996年(平成8年)、水野に代わり武市智行が社長に就任。『トバルNo.1』でPlayStationに参入。そして翌1997年(平成9年)に発売した『ファイナルファンタジーVII』は国内で400万本、全世界で1,035万本という売上を記録。しかし、同時期に任天堂と絶縁状態になり山内溥社長(当時)にゲームボーイでのソフトリリースを「死んでもさせるつもりはない」とまで言われるほど険悪な関係に陥る。(詳しくはスクウェア・エニックス#任天堂との関係を参照)。一方、1999年(平成11年)にバンダイから発売された、任天堂ゲームボーイのライバルとなる携帯ゲーム機ワンダースワンに参入し、同機種の売り上げに貢献。しかし、ゲームボーイの牙城は崩すことはできなかった。なお、2002年(平成14年)には和解して任天堂のゲーム機で再びソフトをリリースしている。
2000年(平成12年)5月、武市に変わって鈴木尚副社長が社長となる。
また2000年(平成12年)頃からは制作するゲームソフトを『ファイナルファンタジー』絡みの作品に絞ろうとする方針を打ち出した。そのため、一部の開発者が退社してモノリスソフトやブラウニーブラウン、サクノス、アルファドリーム、ポンスビック[3]などの会社を設立していった。しかし、鈴木尚社長退任後は方向を転換し、ブラウニーブラウンやモノリスソフトには外注を依頼している。
米国のゲーム会社、エレクトロニック・アーツ社の日本進出の際に合弁で「エレクトロニック・アーツ・スクウェア株式会社」を設立した。また、逆にスクウェアが海外進出する際も、米国子会社「SQUARE ELECTRONIC ARTS LLC.」を合弁で設立した。
2001年(平成13年)に制作した映画版『ファイナルファンタジー』の興行成績が振るわず、特別損失を計上。鈴木尚社長は責任を取って辞任し、和田洋一に社長が交代。財務体質を改善するため、ソニー・コンピュータエンタテインメント(SCE)の資本参加を受けた。実はSCEに資本参加を求める前に当時絶縁状態にあった任天堂に救済を求めていたが、両者の考え方の違い、特にオンライン面にまだ懐疑的だった任天堂が救済の条件に、スクウェアが推し進めていたPlayOnline事業の凍結を求めたため、交渉は決裂に終わっている[要出典]。
2002年(平成14年)11月26日に株式会社エニックスとの合併を発表。しかし、スクウェアのオーナーであり、筆頭株主の宮本が株式交換比率1対0.81ではスクウェアの価値を低く見ているとして合併に反対を表明し、後に比率が1対0.85に変更されるというアクシデントもあった。2003年(平成15年)4月1日に合併し、スクウェア・エニックスとなった。これをエニックスによる救済措置と見る向きが多い。なお、この時点で既にスクウェアの財務状態は改善されていた[4]。
1990年代には大阪に開発所を設けていたことがあり、「時空の覇者 Sa・Ga3」「ファイナルファンタジーUSA ミスティッククエスト」「ルドラの秘宝」「アインハンダー」などを生み出した。
1990年代後半の3DCG制作が全盛の頃、ハワイのホノルルに開発スタジオを置いていた時期もあり、坂口博信は現在もホノルルを拠点に活動している。
1990年代中盤は、他のゲーム会社でヒットソフトを作った開発陣を移籍させるというヘッドハンティングが目立ち、それによって従来のRPGだけのメーカーというイメージを脱却しようと、対戦型格闘ゲーム、スポーツゲームなどその他のジャンルのシリーズものの確立を目指した。
一時期、スポーツゲーム、テーブルゲームなどで、「AQUES(アクエス)」というサブブランドを使用していた。
スーパーファミコンの全盛期、アスキー(現エンターブレイン)のパソコンゲーム情報誌「ログイン」に、毎号4〜6ページの求人広告を出稿していた。見開き単位での構成で、主に当時のスクウェアがアピールしていた「労働裁量制による働きやすさ重視の企業」という点を強く打ち出した内容となっていた。この時期、既にパソコンゲームソフト市場からは事実上撤退していたスクウェアのこの広告は、同誌に掲載される広告の殆どがゲームその他のパソコンソフトやパソコン本体のものだった事も手伝って、かなり浮いた存在だった。
全てDOGブランドより発売。
会社が合併した2003年4月以降に発売されたソフトについては、スクウェア・エニックスのゲームタイトル一覧の項目で掲載。
ゴルフのアドレスやグリップで使われる「スクウェア」が由来である。
スクウェア(square)には「正方形」「広場」「頑固な」「きちんとした」などの意味があり、ゴルフでは飛球線に対して90度に正対している状態を指す。問題に対して逃げ腰ではなく、直視していく企業体を目指す意味で名付けられた。また、ゲームソフトのクリエーター達が集まる広場「スクウェア」を意味している。会社生誕の地である四国(四角形から)への謝意、先端機器が整備された製作環境の中で、クリエーター達が豊かな感性と創造力を発揮し、世界に通用するエンタテインメントを提供する国際的企業となる思いが込められている[1]。
1992年(平成4年)、水野哲夫社長就任後にCIを導入。ロゴタイプが改められ、以後発売の製品には「SQUARESOFT」(スクウェアソフト)ブランドを用いていた。初期の雑誌広告などではスクエアーソフトという表記も確認されている。
一時期使用していたサブブランド「AQUES(アクエス)」の由来はAdvanced QUality of Entertainment&Sports の頭文字を取ったもの[7]。
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