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日本の歌手 ウィキペディアから
美輪 明宏(みわ あきひろ、1935年〈昭和10年〉5月15日[1] - )は、日本の歌手。俳優・演出家・タレント・声優・コメンテーター・ナレーターとしても活動している。
長崎県長崎市出身。本名及び1971年までの芸名は丸山 明宏(まるやま あきひろ)で、幼名は臣吾(しんご)。愛称はマルさん。
海星中学校を経て国立音楽大学附属高校を中退した。兄と姉と弟のいる五人兄弟の次男。自らの個人事務所である「株式会社オフィスミワ」所属。身長161cm。
1935年(昭和10年)5月15日(水曜日)、長崎県長崎市で、寺田作一・ヌメの間に、5人兄弟の次男として誕生する。出生名は寺田臣吾だった。母の実家の跡継ぎとして養子に出され、「丸山臣吾」へと改姓する。[2][3]
美輪の実家は、長崎市内の「丸山遊廓」と呼称された遊廓の近くで、「世界」という名前のカフェーや料亭を経営して成功を収めており、経済的に豊かな環境で育った[4]。当時の長崎は軍国主義前で、モダニズムが世の中を支配していた時代であった。400年の歴史のある長崎は、オランダ、ポルトガル、スペイン、イギリスをはじめ、中国・朝鮮人など多様な人種が住んでおり人種差別など皆無であった[5]。
実家は、料亭やカフェのほか風呂屋も経営していた。家庭風呂などない時代であり、良家の者も風呂屋に通っていた。立派な身なりの人がコートからだんだん脱いでいって、さぞかし立派な裸だろうと想像していたら、気の毒なほど貧相な体であったり、逆に労働者が臭うような野良着を着て堂々と入ってきたが、ところが裸になるとマイヨールの彫刻のような素晴らしい体をしていた。それを見た美輪は、「着るものなど嘘っぱちじゃないの!この裸のままが本当の人間なんだ」と感じ、それ以降、人を見るときに容姿、容貌、年齢、性別、国籍、着ているもの、持っているものなど目に見えるものは見なさんな、見えないものを見る、それは心だ!そういう意識が幼心に芽生えた[5]。
カフェーではありとあらゆる人が身分を隠して来ていたが、そこには神父もいれば教師や政治家もいて、はじめは紳士然としていても酔うほどに正体を現して、ホステスのスカートの下や着物の裾から手を入れたり頭を突っ込んだりしてひっぱたかれ、頭から酒をかけられてニヤニヤしていたが「この人の昼間の顔何なの?[2]これが本当の姿なんだ」と、ものを見る目がそうなってきたため、心が揺るがなくなった[5]。1941年12月、イギリスやアメリカ合衆国との戦争体制に入った中で父親は「敵性文化を商売にする事は時局にそぐわぬ」と言われて、やむ無くカフェーを閉店せざるを得なくなり、金融業に転業する。
1945年(昭和20年)8月9日、雲1つない快晴の日、長崎県長崎市本石灰町にある自宅で、当時10歳の美輪は窓際で夏休みの宿題に御伽草子の「万寿姫」の絵を描いていた。絵の仕上がりを確認するため、2、3歩後方に下がった時、何千ものマグネシウムを焚いたような白い光をみた。その直後に、激しい爆発音が聞こえ、家がぐらぐら揺れて傾いた。それは原子爆弾によるものであった(長崎市への原子爆弾投下)。女中に促され2人で布団をかぶるとすぐさま空襲警報が鳴りだし、その後爆風で机の下に飛ばされていた兄を起こして、3人で防空壕に向かった[6]。6日後の終戦の日に爆心地近くにあった生母の実家へ祖父母を1人で探しに行き、惨状を目の当たりにする[注釈 1][注釈 2]。
原爆により、父の貸付先が相次いで破産・死去したため、返済を受けられなくなった美輪一家は貧乏生活を余儀なくされた。その前に美輪の父の後妻が死去しており、父の後々妻も失踪する等の不幸に見舞われ、美輪は幼い異母弟達と辛い日々を送ることとなった。
終戦後、自身が鑑賞した映画に出演していた加賀美一郎のボーイソプラノに衝撃を受け、程無くして、声楽とピアノのレッスンを受け始める。海星中学校では、同期に西岡武夫がいた。
エンリコ・カルーソーやベニャミーノ・ジーリの様なオペラ歌手、コンサート歌手を夢見て、1951年の春、15歳の美輪は国立音楽高等学校(現在の国立音楽大学附属高等学校)に進学するため上京する。この頃、音楽学校の教員の勧めで「丸山明宏」に改名する。このことについて美輪は「SmaSTATION!!」内で「小さい頃から家の周りにメイドさんがいろいろいたんだけど、その人たちが占いが好きだったのね。で、行くと『この子は不幸な子で…』っていうのが全部当たったわけ。『東京に出て、散々苦労した挙句、野垂れ死にする』って言われて、全部当たったわけ。死ぬ、っていうことだけが当たってないだけで。そのときの私の音楽学校の先生が、姓名判断を勧めてくれて、『丸山明宏』に替わったわけ。」と述懐している。[7] なお、この改名については霊理学派姓名研究会の伊藤晴康の鑑定に従ったという説もあるが真偽は定かでない。[8]
ある時、帰省した際に、父が生活が苦しくなった親戚に対して無情に見捨てるような態度をとったことに激怒し、大喧嘩した。父から絶縁を言い渡され、仕送りも当然ながら止められた。美輪は東京で自活するために高等学校を中退し、生活費を稼ぐために進駐軍のキャンプ廻りをして歌を披露した。2015年時点で「芸歴64年、1951年(昭和26年)に進駐軍のキャンプ廻りでジャズを歌いギャラを頂いたことがプロとしての始まり」と本人が語っている。新宿駅で寝泊りしていた時期もある。
1952年、17歳になった美輪は、ゲイバーやバーテンなどのアルバイトにも従事して日当を稼いでいた。その頃、銀座7丁目にあるシャンソン喫茶「銀巴里」(1951年 - 1990年)で美少年(ボーイ)兼歌手募集の張り紙広告を見て応募した。シャンソン喫茶「銀巴里」と歌手として専属契約を交わし、国籍・年齢・性別不詳として売り出す。次第に人気を博し、三島由紀夫、吉行淳之介、野坂昭如、大江健三郎、中原淳一、遠藤周作、寺山修司、なかにし礼等、文化人の支持を得る。歌手としての道を歩み始めた頃、父は事業に失敗し、美輪のもとを訪ねて金の無心をしてきた。かつての、父の親戚への無情な仕打ちと同じことを美輪が出来るはずもなく、かといって父を許せない気持ちが消えるはずもなかったが、兄弟の生活を守るために美輪は銀巴里での歌手活動とは別にアルバイトと称してキャバレーや進駐軍キャンプで歌った。
1957年、シャンソン「メケ・メケ」を日本語でカバーし、艶麗な容貌で、シャンソンを歌い上げ、一躍人気を博す。元禄時代の小姓衣装を洋装に取り入れ、レース地のワイシャツ等を身に纏いユニセックスファッションと[注釈 3]、三島由紀夫が「天上界の美」と絶賛した美貌で、マス・メディアから「神武以来の美少年」、「シスターボーイ」と評され一世を風靡する[9]。同じ、1957年製作の映画『暖流』(増村保造監督。大映)に歌手として出演している。
「メケメケ」以来のブームは、1年程で沈静化した。その間に、週刊誌で自身が同性愛者である事を公表したことや、旧来のシャンソンのイメージ(美輪曰く「蝶よ花よ、星よ月よに終始する“おシャンソン”」)に無い、自ら和訳した生々しい内容のシャンソンを歌唱した事に対する反発もあり、人気は急落する。そんな逆風の中、作詞・作曲活動を開始した。今もって美輪の主要なレパートリーとなっている「うす紫」、「金色の星」、「ふるさとの空の下」等の音楽作品は、この頃、既に作詞・作曲していた。しかし、その活動は当時の聴衆からも歌謡界からも理解を得られず、レコード化すらできなかった。美輪曰く「人様の情けに生かされた」不遇の時代が続くと共に、吐血等の原爆症に悩まされ始める事になる。
しかし、1963年には、中村八大らの助力により日本初となる全作品、自らの作品によるリサイタルを開催した。1964年には、「ヨイトマケの唄」を初めてステージで披露する。1966年、前年の内にレコード化された「ヨイトマケの唄」(「ふるさとの空の下で」とのカップリング)が注目され、人気が再燃する。
1967年、寺山修司の演劇実験室・劇団天井桟敷旗揚げ公演で、寺山が美輪のために書き下ろした舞台作品『青森県のせむし男』や『毛皮のマリー』に主演する。
1968年、自叙伝『紫の履歴書』を発表する。(初版は大光社より)
江戸川乱歩原作、三島由紀夫脚本の舞台作品『黒蜥蜴』に主演して以降も、『椿姫』、『マタ・ハリ』、ジャン・コクトー原作『双頭の鷲』といった舞台や『黒薔薇の館』、『雪之丞変化』等の映画・テレビドラマでの主演を続ける。また、1970年からは、TBSラジオ「ラジオ身の上相談」を担当し、芸能人が担当する人生相談としては、異例の25年という長期に渡り続いた。
1971年、三島由紀夫の供養のための読経中に『美輪』の字が浮かび、「生前三島氏が三輪神社で修行していたことに気づき神が与えてくれた名前だ」と思い、姓名判断を調べると、完全無欠な画数だったため、丸山明宏から美輪明宏に改名した[10]。「女優引退宣言」(女性役を演じなくなるので、当時こう表現された)を行い、歌手活動に専念する。銀巴里や渋谷ジァン・ジァンでのライヴや全国各地でのリサイタルを精力的に行い、『白呪』(1975年)等のアルバムも多数発表した。また、男性役では、映画(1977年 井上ひさし原作『日本人のへそ』)やドラマ(1976年『さくらの唄』)に出演している。
1978年『枯葉の寝床』(原作 森茉莉)で舞台活動を再開するが、幼い頃より中華料理やイタリア料理、肉料理中心で食生活を過ごしてきたことによる影響が出始める。この頃より慢性気管支炎も発症し、年々悪化していく。俳優、歌手活動に支障を来たし始め、トークショー等のテレビ出演を控える様になる。しかし、その後も演劇では、1979年にエディット・ピアフの生涯を描いた、自作自演となる『愛の讃歌』を初演したり、1980年のTVアニメ「メーテルリンクの青い鳥 チルチルミチルの冒険旅行」では夜の女王役を演じている。
1983年には、舞台『毛皮のマリー』や『青森県のせむし男』を再演した。更に1984年には、『双頭の鷲』を再演するが、体調は悪化する一方で、1985年の『大典礼』(原作・演出 フェルナンド・アラバール)を最後に1993年の『黒蜥蜴』再演まで舞台から遠ざかった。この頃の通院時に医師からは「3ケ月の命かもしれない」と告げられたこともあったと1989年3月6日に出演・放送された「笑っていいとも!・テレフォンショッキング」で明かしている。
歌手としては、1984年にパリで、1987年には、パリ、マドリード、シュトゥットガルトでリサイタルを開催し、『ル・モンド』、『リベラシオン』を始め多数の新聞・雑誌に紹介・絶賛された。また、1986年からはPARCO劇場でのロングリサイタルが開始され、それ以外にも、全国各地でのリサイタル公演を開催し、舞台に立てなくなった後も切れ目なく活動を続けた。
1990年、東京芸術劇場のこけら落し公演『マリー・ローランサン』を演出した。この時、既に『黒蜥蜴』再演の企画は持ち上がっていたが、体調面から断念している。また、この年、40年近く唄い続けて来た銀座のシャンソン喫茶店・銀巴里が閉店となり、美輪は最後の日の「さよならコンサート」で自ら作詞作曲した『いとしの銀巴里』を涙ながらに歌い上げた。この模様を各メディアは挙って大きく報じ、また翌1991年の映画『黒蜥蜴』のニューヨークでのヒットなども重なり、美輪が曰く、この頃から、「メケメケ、ヨイトマケ、黒蜥蜴に続く四回目のブーム」の時期が訪れ、テレビやCM等への出演が増えた。
1993年、1985年の『大典礼』以来、舞台に立てない程に悪化していた持病が、前年に奇跡的に完治した事で、24年ぶりに待望の『黒蜥蜴』を再演[注釈 4]。前売りのチケットは発売日当日に完売する等、世間から脚光を浴びた。また、この再演時には、自ら主演、演出、美術、衣装、選曲を担当した。以降、上演される舞台は、1994年、1996年の『毛皮のマリー』以外、全て美輪自身の演出となった。自身が、大道具、小道具、美術・衣装・選曲を務める事が多く、脚本・振り付けを担当した作品(美輪明宏版「椿姫」)や原作まで担当した作品(「愛の讃歌」)もある。
1994年には、海外から演出、照明、音楽等、当代一流のスタッフを招き、舞台『毛皮のマリー』を再演した。この形式は、1996年の再演時にも継承されるが、美輪曰く「演出があんまりひどい時は、私が手直しした」との事で、結局、2001年の再演では、自ら演出する事となる。キャストも美少女を含め、全員男性で演じる本来の形式に戻された。
1996年、三島由紀夫が30年来熱望していた美輪演出・主演による『近代能楽集より、葵上・卒塔婆小町』を上演した。三島を歓喜させた当初のプラン通り、葵上では、舞台デザインにサルバドール・ダリと尾形光琳を取り入れ、音楽は、武満徹の『ノヴェンバー・ステップス』を取り入れ、99歳の老婆から19歳の美女への早替り(卒塔婆小町)など趣向を凝らした舞台となる。また、その年の秋には『愛の讃歌』を17年ぶりに再演した。
1997年、13年ぶりの『双頭の鷲』再演で読売演劇大賞優秀賞を受賞した。宮崎駿監督アニメーション映画『もののけ姫』では、山犬神、モロの君の役で声優を務め、東京スポーツ映画大賞助演男優賞を受賞する。「黙れ小僧!」は特に印象的な台詞として多くの人に記憶された。
1998年には、『葵上・卒塔婆小町』を再演し、秋にはデュマ・フィス原作「美輪明宏版 椿姫」を30年ぶりに再演する。この年2本の芝居を上演したのを最後に、翌年の『双頭の鷲』以降、舞台作品は年1本の上演ペースとなる。一方、美輪が舞台活動を再開した1993年以降、芝居のスケジュールとの調整が必要となり公演がない年(1996、1997年)もあったPARCO劇場でのロングリサイタルは1998年以降「音楽会」と名を改め、毎年行われる様になる。以来、美輪のステージは春先の芝居、秋の音楽会で定着した。
2000年、銀巴里閉店後、唯一のライブ活動の場となっていた渋谷ジァン・ジァンが閉場となり、2000年3月29日が美輪のジァンジァンにおけるラストライヴとなった(閉場は2000年4月25日)。そして、エディット・ピアフの生涯を描いた舞台『エディットピアフ物語愛の讃歌』を上演した。また、この年、アルバム『白呪』が再発売される。桑田佳祐がフジテレビ系『桑田佳祐の音楽寅さん』内で『ヨイトマケの唄』を歌ったのもこの年である[注釈 5]。
2002年に芸能生活50周年を迎える。この年には、三島由紀夫の三十三回忌に際して、『近代能楽集より 葵上・卒塔婆小町』を再演している。(相手役は宅麻伸)
2004年にジブリアニメ映画のハウルの動く城で「荒れ地の魔女」の声を演じる。
2005年には、テレビ番組『オーラの泉』が始まり、「愛の伝道師」として出演している。
2006年、美輪明宏原作、演出、美術、衣装、主演、舞台『エディットピアフ物語愛の讃歌』を再演した。
2007年、美輪明宏携帯サイト「美輪明宏 麗人だより」を開設した。
2009年、劇場版ポケットモンスター ダイヤモンド&パール アルセウス 超克の時空へ(劇場版ポケモン第12弾)でアルセウスを演じる。
2010年、三島由紀夫原作の舞台『近代能楽集より 葵上・卒塔婆小町』を再演した。(相手役は木村彰吾、岩田知幸)
2012年、『第63回NHK紅白歌合戦』に初出場を果たし、「ヨイトマケの唄」を歌った。77歳での『NHK紅白歌合戦』初出場は史上最年長で、デビュー60年での初出場も史上最長記録である。歴代出場者全体の年齢から見ても、1989年の『第40回NHK紅白歌合戦』に満78歳で出場した藤山一郎に次ぐ歴代2位[11]。
2013年1月24日発売の「週刊文春」で、約8年前に自身の個人事務所「オフィス・ミワ」社長と養子縁組している事が報じられた[12]。美輪の17歳年下で、文学座の研究生だった17歳の頃、美輪の付き人が辞めることとなり、知人の紹介で付き人となって以来、身の回りの世話をするようになった。その後は『青年座』や『青俳』などに在籍し、NHK大河ドラマ『黄金の日日』にも出演経験があり、声優としても活動していた(芸名:藤堂貴也)。「オフィス・ミワ」前社長が高齢のため退任した後、社長に就任し名実ともに美輪を支えてきた。『第64回NHK紅白歌合戦』に出場し、藤山一郎の持つ最年長出場に並んだ。
同じく2013年、フランス人の映画監督による美輪明宏のドキュメンタリー映画が作られ、DVDにもなった。ナレーションはフランスの産業大臣の妻が担当した。
2014年4月から、美輪明宏主演の舞台『愛の賛歌〜エディット・ピアフ物語』がリバイバルで全国公演される。前回の公演ではこの舞台を見た瀬戸内寂聴が感激して楽屋を訪れ、「私は今まで映画や舞台をたくさん見てきたが、この芝居が一番感動した」と言って号泣したという。同じく、この舞台を見た東山紀之も感激して美輪の楽屋を訪れ、「僕、今まで自分がこんなに泣けるとは思わなかったですよ」と言い号泣したという。同年『第65回NHK紅白歌合戦』に出場し、史上最年長出場記録を打ち立てた[注釈 6]。
2015年、『第66回NHK紅白歌合戦』に出場を果たし(翌年落選し、これが現在最後の出場となっている)、自身の持つ史上最年長を更新すると同時に史上初の80代での出場となる。なお、当時80歳での美輪の出場は正規枠では最年長出場記録を保持しているものの、正規出場者以外では2010年の『第61回NHK紅白歌合戦』に当時83歳で出演した熊倉一雄がいる。
2019年9月11日、軽い脳梗塞を発症し入院した[13]。舞台公演が中止になる[13]。その後入院から約2か月後の2019年11月17日、TBSラジオ「美輪明宏薔薇色の日曜日」で仕事に復帰した。同年12月17日に東京・西新宿で行われた「明治きのこの山・たけのこの里国民総選挙2019」の結果発表会に出席し公の場での復帰を果たす。
2022年、第73回NHK放送文化賞を受賞[14] 。
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