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日本のゲームライター、作家 (1952-) ウィキペディアから
さくま あきら(1952年7月29日[1] - )は、東京都杉並区出身のゲームライター・作家。血液型はA型。本名は佐久間 晃(読み同じ)。
東京都立武蔵丘高等学校から1年浪人。立教大学経済学部、劇画村塾出身。小池一夫曰く「自分の一番弟子」。自身が中学生のときから強い影響を受けたという作曲家のすぎやまこういちにあやかって、ペンネームを平仮名にする。
漫画評論家を廃業した後は、漫画雑誌『週刊少年ジャンプ』の読者投稿コーナー『ジャンプ放送局』の構成を1982年から1995年にわたり担当したほか、コンピュータゲーム「桃太郎シリーズ」(『桃太郎伝説』シリーズ、『桃太郎電鉄』シリーズなど)や『忍者らホイ!』などにゲーム監督・監修などとして制作に携わる。
コンピュータゲーム『ドラゴンクエスト』シリーズの生みの親として知られる堀井雄二とは学生時代からの友人である。
既婚者。妻と娘が1人、孫は4人(2022年現在)。音楽ユニット「藤岡藤巻」の藤岡孝章は従兄。
2011年7月6日付で文化人タレントとしてビー・ブレーブと業務提携契約を締結[2]、その後同契約を解消しフリーランスに戻る。
実家は玩具店。3歳の時に母親を亡くしたため、実の母の顔を全く覚えていない。その後父親の再婚で継母と暮らすようになるも、反りが合わず、よく自分や姉に対し嫌味な発言をされたという。子供時分から思春期に至るまで良い思い出はなく、たびたび家出をすることで自我を主張していたという。成人したのちに親戚に「よく不良にならなかった」と感慨深く言われたという(そのような経緯もあり、現在の自分の家族(特に養娘や孫)に対しては血縁関係の有無を越えた家族として接している)。
幼少の頃から漫画に親しんでいたこともあり、同級生よりも漢字を覚えるのが早く、優等生と呼ばれていた。しかし、バンドや漫画にはまったことから成績が下降。高校時代には数学で0点を記録し、物理部の部員でありながら物理で赤点を取り話題になった。それでも成績の良いクラスメートの勉強法を真似して持ちなおし、一浪の末に立教大学へ進学。
立教大学では「漫画研究会」に所属し、その繋がりで早稲田大学の堀井雄二や土居孝幸と出会い、卒業後再会して仕事を共にする事となる。
一年の留年を経て大学を卒業した後、ライターとなった。
25歳の頃、「一期生には大物が出る」との理由で、当時開講したばかりの劇画村塾へ入塾。編集コースに参加したがあまり身が入らず、漫画原作などを執筆していた。
『月刊OUT』の『私立さくま学園』や週刊少年ジャンプの『ジャンプ放送局』といった読者投稿コーナーに携わる一方、漫画評論家としても活動していた。その活動は単行本『だからマンガ大好き!』(1982年)『まんが雑学ゼミナール まんがを100万馬力で読む方法』(1983年)にまとめられている。また、夏目房之介の『粋なトラブル』(1984年)など漫画の単行本に解説文を寄稿することもあった。
後に堀井雄二らとともに出版会社「花伝社」を設立し、新人漫画家を育成する雑誌『マンガハウス』を発行するが、億単位の赤字を出し2年で終了する。
ある時、さくまと堀井が土居孝幸の家を訪れて話をする機会があった。その中で「(『ドラゴンクエスト』のラストボスの)竜王を倒すのが桃太郎っぽいよね」「ゲームの村も金太郎の村、浦島の村としたらわかりやすいよね」などと話が弾み、堀井から「ゲームは儲かるよ。出版社をしていたときの多額の借金も返せるよ。」との話を聞く。当時堀井が制作していた『ドラゴンクエストIII そして伝説へ…』の当初の発売予定が1987年12月だったことから、さくまは、それより前に発売すればそこそこ遊んで貰えるかもという思惑を抱き、ゲーム制作を志すことになる。
身内のスタッフを「蟹を食べよう」という口実で誘うため、当時札幌市に本社があったハドソンを制作元に選んだ。ゲームのシナリオは原稿用紙4000枚分に及び、かつてさくまの会社に勤めていたショッカーO野が手書きの原稿をワープロで打ち直した。3か月の制作期間を経て1987年10月26日にファミリーコンピュータ用ゲームソフト『桃太郎伝説』が発売。もしも売れなければ『ジャンプ放送局』の中でギャグにするつもりだった、とさくまは語っていたが、思いがけず100万本以上のヒットを記録したため、以降シリーズ化される事となる。制作の際には、堀井がテストプレイに参加していた[3]。
その後、ゲーム開発や連載などで多忙を極める。一時期は『ジャンプ放送局』などの傍らでゲームを4本同時に制作していた。1995年には病院で血圧を測ったところ数値が200を越え看護師に驚愕された。そうした中、眼精疲労や頚椎椎間板ヘルニア等により体調を崩し、1982年より続けてきた『ジャンプ放送局』を1995年12月に終了する。
その後、イラスト投稿雑誌『チョコバナナ』の編集長を務めていたが、ある時トイレで突然倒れ病院へ運ばれる。診察の結果、脳内出血と診断され、さらに糖尿病を併発していたことも分かり、そのまま入院することになる。後にさくまは「それまでも周囲に血圧を測れと言われていたらしいが、全く聞く耳を持たなかった」「食事療法(1日1,600キロカロリー)をしたら、それだけで1か月で5kgやせた。昔なら確実に1日3,500キロカロリー食べていた」と振り返っている。
退院後、1年半以上に及ぶリハビリ生活の傍ら、ゲーム制作や『チョコバナナ』の編集、アニメ雑誌『Magazine MEGU』の読者コーナー「☆比喩魔(ほしひゆま)」の編集などを続ける。その様は周囲から「とても病人の仕事のペースじゃない。そもそも病人は仕事しない。」と言われた。その一方で、業界内では重体説や再起不能説が囁かれていたという。ただ、それ以降も三度の食事は基本的に外食で、自宅で食事する際もテイクアウトの弁当などで済ませていることが多く、栄養の偏りや糖分・塩分の過剰摂取について主治医から度々注意を受けている。
2003年、現代版劇画村塾「小池一夫塾」の開塾にあたって「ゲームクリエイターコース」講師を務める。
後輩のいしぜきひでゆきの誘いもあり、2010年4月に大阪電気通信大学の客員教授となる。
後述の通り2011年に発生した東日本大震災などを契機に『桃太郎電鉄』シリーズの開発を中断。2012年1月初旬、再び脳内出血で倒れ[4]一時入院[5]、自宅でのリハビリ生活に入った。
2015年には、ハドソンを吸収合併したコナミと決別。2016年、任天堂からのオファーに応じ、ハドソン時代からコナミ時代を通して初の外部から発売となる『桃太郎電鉄2017 たちあがれ日本!!』をリリースした。2017年8月には、取材で携わっていた岩手県三陸鉄道にふるさと納税を通じて2000万円を寄付した[6][7]。
2019年1月1日、亜急性心筋梗塞のため救急搬送される[8]。『桃太郎電鉄』シリーズはコナミと和解し、制作総監督として『桃太郎電鉄 〜昭和 平成 令和も定番!〜』を2020年11月19日にリリース。
2021年3月12日、第24回文化庁メディア芸術祭の功労賞を受賞した[9]。
2022年5月25日、誤嚥性肺炎のため入院したことを妻がTwitterで報告した。容体は安定しており、受け答えもできるという[10][11][12]。6月4日に退院したものの[13]、12月3日に誤嚥を起こし、東京慈恵会医科大学附属病院に再入院[14][15]、同月11日に退院した[16]。
2024年8月22日、CEDEC AWARDS 2024特別賞を受賞した[17]。
特に記載のないものはディレクション担当
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