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日本の落語家 (1933-2009) ウィキペディアから
五代目 三遊亭 圓楽(さんゆうてい えんらく、1933年〈昭和8年〉1月3日 - 2009年〈平成21年〉10月29日[1])は、東京府東京市浅草区(現:東京都台東区)出身の落語家。
五代目 | |
三遊亭全生時代(1959年6月6日、当時26歳) | |
本名 | |
---|---|
別名 | 馬面の圓楽 山輪雪太郎 星の王子さま |
生年月日 | 1932年12月29日 |
没年月日 | 2009年10月29日(76歳没) |
出身地 | 日本・東京府東京市浅草区 (現:東京都台東区) |
死没地 | 日本・東京都中野区 |
師匠 | 六代目三遊亭圓生 |
弟子 | 三遊亭鳳楽 三遊亭好楽 六代目三遊亭円楽 六代目三遊亭圓橘 三遊亭楽之介 三遊亭小圓楽 三遊亭五九楽 三遊亭楽麻呂 三遊亭道楽 三遊亭栄楽 三遊亭とん楽 三遊亭楽春 三遊亭真楽 三遊亭竜楽 三遊亭良楽 三遊亭愛楽 三遊亭京楽 三遊亭全楽 三遊亭神楽 三遊亭上楽 三遊亭圓福 三遊亭大楽 三遊亭王楽 |
名跡 | 1. 三遊亭全生 (1955年 - 1962年) 2. 五代目三遊亭圓楽 (1962年 - 2009年) |
出囃子 | 元禄花見踊 |
活動期間 | 1955年 - 2009年 |
活動内容 | 古典落語 |
配偶者 | 吉河 和子 |
所属 | 落語協会 (1955年 - 1978年) 落語三遊協会 (1978年 - 1980年) 大日本落語すみれ会 →落語円楽党 →落語ベアーズ →五代目円楽一門会 (1980年 - 2009年) 若竹カンパニー (マネジメント) |
主な作品 | |
『佃祭』 | |
受賞歴 | |
文化庁芸術祭優秀賞 (1977年) 文化庁芸術祭賞 (1988年) 第23回浅草芸能大賞 (2007年) 旭日小綬章 (2007年) | |
備考 | |
落語協会理事 (1972年 - 1978年) 円楽一門会総帥 (1980年 - 2007年) 円楽一門会最高顧問 (2007年 - 2009年) | |
落語円楽党党首、『笑点』四代目司会者、円楽一門会総帥、円楽一門会最高顧問などを歴任した。没後に弟子の三遊亭楽太郎が六代目円楽を襲名してからは、先代圓楽、五代目圓楽、馬圓楽と呼ばれることが多く、6代目の黒円楽と区別されることが多い。
演芸番組『笑点』の大喜利メンバー・司会者を長く務めていたことで知られる。現役時に所属した芸能事務所は星企画→若竹カンパニー。なお、若竹カンパニーは自身の長男が代表取締役を務める個人事務所であった。身長は177cmと長身である。
若い頃は「星の王子さま」の愛称で親しまれた[2]。端整な顔立ちと博識ぶりにより、1960年代演芸ブームの際には脚光を浴びる。7代目立川談志、3代目古今亭志ん朝、5代目春風亭柳朝(柳朝休業後は8代目橘家圓蔵)とともに「東京落語四天王」と呼ばれた。出囃子は『元禄花見踊』。
1933年1月3日、東京府東京市浅草区(現:東京都台東区)に吉河家の九人兄弟の一人寛海(ひろうみ)として生まれる。
実家は浄土宗の寺院・日照山不退寺易行院(通称:助六寺)。易行院はかつて浅草の清川町にあったが、後に足立区伊興町狭間(現在の住所は東伊興、最寄駅は東武伊勢崎線竹ノ塚駅)に移転している。
吉河家は羽柴秀吉による鳥取城の戦いにて自害した城主・吉川経家(きっかわ つねいえ)を祖とする。経家の三男・吉川家好(いえよし)は後に鳥取藩池田家の家臣となったと藩翰譜にある。1860年(安政7年)、寛海の曽祖父に当たる人物が切腹した。それに立ち会った寛海の祖父・寛雅は「侍というものは、かくも悲惨なものか、もう厭だ」と思いつめて武士をやめ、増上寺に入り、僧侶となったという[3]。 明治に至って、寛雅は苗字を「吉川」(きっかわ)から「吉河」(よしかわ)に改めた[4]。その息子も僧侶を継ぎ、易行院住職となる。
生家には修行僧や使用人など年上の男性が他にも住んでいたため、幼少時の寛海は自分の父親がそのうちのどの人かすら分からなかった。分かったのは5歳ぐらいで、食事時の無作法をたしなめた人がいて、その人との会話の中で初めてその人こそ父であることが判明した。
第二次世界大戦では東京大空襲に遭うも、吉河一家は命をとりとめた。しかし、この戦争は寛海の進路に影を落とす。終戦後、「これからは食糧難だから農業だ」という父親の薦めで農民になることを決意するが、当時の東京にはなかなか農業を学べるところがなかった。寛海は結局、隣県でしかも家から遠い埼玉県立杉戸農業学校(現:同杉戸農業高等学校)に入学、卒業する。
上野鈴本演芸場で落語を見た時に「戦争ですべてを奪われ暗い顔をした人々にこうやって笑いを起こさせることができる落語はすごい」と落語家になることを決意する。
1955年2月、6代目 三遊亭圓生に入門し、寛海は「三遊亭全生」(ぜんしょう)と名乗る。圓生には「一人前になるまで50年は食えませんよ」と言われたが、寛海は「30歳までに真打になれなかったら辞めます」と言って入門した。なお圓生に入門した理由は「当時は志ん生師匠や文楽師匠の方が師匠より格上だったが、高齢(寛海が噺家を志した時点で両名とも既に還暦を超えていた)で自分の面倒を最後まで見てくれるか分からなかったから」と述べている。
1958年3月に二つ目に昇進。1962年10月に真打に昇進して5代目「三遊亭圓楽」を襲名する。落語家を諦める期限としていた30歳を迎える約3か月前であった。
1978年の落語協会分裂騒動では「師匠をおいて残れない」と圓生一門とともに[注釈 1]落語協会を脱退。当時、圓楽は圓生に「あたしが引退した後、お前が三遊派の総領として弟子を守っていくんでげすよ」と念を押されていた。圓生が引退している身であれば脱会はしなかったが(もともと、圓楽は騒動の原因となった真打昇進に関しては圓生と正反対の考え方を持っていた)、当時、圓生は78歳と高齢ながら現役を退いておらず、師匠に逆らい自分が弟弟子と行動を共にすることなぞできないと悟り、師匠とともに「落語三遊協会」を立ち上げた。
1979年に圓生が亡くなると、6代目三遊亭圓窓・三遊亭圓彌・三遊亭圓丈ら圓楽以外の圓生の直弟子たちは落語協会に復帰。圓楽は新たに「大日本落語すみれ会」を設立。すみれ会はその後、「落語円楽党」「落語ベアーズ」と改称し現在の「圓楽一門会」となる。
1985年3月、「噺家の純粋培養」を企て寄席に出られない圓楽一門の新たな活動の場として東京都江東区東陽町に自費で寄席「若竹」を設置[5]。しかしオフィス街かつターミナル駅から離れた立地条件の悪さに加え、弟子たちが圓楽の意に反して余興(上方でいう「営業」)等に精を出して「若竹」の出番を休んでいたりしたため、これに憤った圓楽は「若竹」の閉鎖を決意し、1989年11月25日に閉鎖した[注釈 2]。以降、圓楽一門は圓楽傘下の芸能社である星企画の取ってくる余興等にのみ活動の場を求めなければならなくなった。「若竹」閉鎖後は借金返済のために日本中で講演したため、高座から離れる機会が多くなり、圓楽はその時期のことについて「借金返済のため、噺家として大事な50代に全国を講演で回った。悔やんでも悔やみきれない」と語っている[6]。
『笑点』降板後に出演した『徹子の部屋』(2006年6月5日放送)では落語家として引退はせず、後輩の指導にあたると発言した。また同年7月20日放送の『クイズ$ミリオネア』では、林家木久扇の応援としてVTR出演している。
2007年2月25日に落語会「国立名人会」で高座に復帰することとなり、自分の進退をかけ本番の半年前から稽古をして臨んだ。しかし、その出来に納得がいかずに引退を決意。口演後の記者会見で現役引退を表明した。弟弟子の6代目三遊亭圓窓が「まだやれるじゃないの。高座に上がらない圓楽兄さんなんて考えられない」などと説得をしたものの決意は固かった。引退記念の高座が予定されていなかったことから、この日演じた『芝浜』が最後の高座となった。
また同年4月1日放送の『いつみても波瀾万丈』の出演をもって、テレビ出演の引退も表明した(2008年3月9日放送『笑点』には弟子の真打昇進披露口上のため出演した)。なお、1967年(昭和42年)から担当していた日本香堂のCMは2009年まで出演を継続していた。生前の圓楽の言によれば「ギャラもらってるからね」という理由でCMのみの出演を続けていたとのことであるが、実際は日本香堂の会長と私的にも交流があったためであり、また引退後も自分の健在をアピールできる唯一の場であったためと圓楽没後に前述の会長がテレビで語っている。
同年11月に胃がんの手術を受け、翌2008年3月には肺がんの手術を受けた[7]。
2008年8月、愛弟子の楽太郎に自らの名跡である圓楽を6代目として襲名させることが明らかとなった(林家木久扇による、子息の2代目木久蔵襲名以来となる生前贈与となる予定であった)。このことは弟子の好楽や後任司会者の歌丸により『笑点』でもネタにされている。圓楽は「私はもう落語家を引退した身ですから」として楽太郎の6代目円楽襲名後は落語界から完全に引退し、隠居することを表明していた。名前については、木久扇の師匠である林家彦六(8代目林家正蔵、彦六は三遊亭圓楽を3代目として名乗っていたこともあった)のように隠居名を名乗らず、本名の「吉河寛海」に戻すことを明らかにしたが、「師匠が落語家でなくなってしまうのは嫌だ」という楽太郎の反対により「5代目圓楽」「6代目円楽」とを並立させる(楽太郎は〈圓〉ではなく〈円〉を通すと表明)予定であった。
2009年5月、肺がんが再発。同時期に脳梗塞も再発し、半身不随となった。9月に慶應義塾大学病院に入院し[注釈 3]、本人の意向により10月23日に退院。自宅(および近所に住む長男宅での)療養に入った。10月29日午前8時15分、転移性肺がんのため、長男宅で死去。76歳。訃報は翌日の10月30日に公表された。圓楽の死去を受け、愛弟子の楽太郎を始め、桂歌丸、立川談志、林家こん平、8代目橘家圓蔵、鈴々舎馬風など多くの落語家が哀悼のコメントを発表した。また、かつては『笑点』の裏番組(『ヤングおー!おー!』)の司会を長年担当し、東西の噺家タレントとしてライバルであり戦友でもあった桂三枝(現:6代桂文枝)が自らのブログで圓楽へ向けた哀悼のメッセージを綴った[8]。
圓楽は2010年2月に行われることになっていた楽太郎の6代目円楽襲名を楽しみにしており、襲名に際し2代の圓楽揃い踏みが行われるはずであったが、目前にして叶わぬ夢となってしまった。
死去の一報を受けた日本香堂は自社のホームページで哀悼の意を表した[9]。その後、日本香堂・毎日香のCFナレーションは、2010年2月28日より、同日の『笑点』をもって名跡を襲名した直弟子・6代目円楽が継承している。また、死去翌日の『NNN Newsリアルタイム』(日本テレビ)ではその死がトップニュースで報じられた。
戒名は、「光岳院情誉圓楽寛海居士」(こうがくいんじょうよえんらくかんかいこじ)。遺影も圓楽が生前に選んでおり、国立演芸場での高座で『芝浜』を演じている際の写真が使われた。死去直後の週の11月1日の笑点は歌丸が喪服で追悼する特番が大喜利の前に組まれ、生前の若いころの落語を演芸コーナーで放送し、死去前に収録した大喜利が放送された。死の翌週、2009年11月8日の『笑点』では追悼特別企画として生前を振り返り、後半では「ありがとう円楽さん、追悼大喜利」を放送し、5代目を偲んだ。副音声での解説放送は休止された。
一門・親族による、通夜・密葬は2009年11月4日・5日の両日に代々幡斎場で非公表で執り行われ、同年11月21日に一門主催による「お別れの会」が東京會舘で行われた。この「お別れの会」の席の中で、これまでの「圓楽一門会」をそのまま「五代目円楽一門会」(会長:三遊亭鳳楽)へ改称・改組する方向であることが明らかになった。
1965年3月12日、『笑点』の前身となる『金曜夜席』の放送が開始され、圓楽は桂歌丸や林家こん平とともに出演。当初は大喜利コーナーの司会を担当したが、後の『笑点』での司会ぶりとは違い、かなりぎこちない司会ぶりであったため、早々と演芸・対談コーナーの司会で企画立案者でもある立川談志に譲って辞任し、第4回から回答者となった。
1966年に放送が始まった『笑点』では初回から大喜利回答者として出演した。1968年に立川談志と当時のメンバーの対立により降板したが、1970年に復帰。以降は紫色の紋付を着用するようになったため、挨拶では「ラベンダーマン」と名乗ることが恒例となった。しかし、圓生から「おまえはこんな安っぽい芸人で終わるのか」とたしなめられたことから、落語に専念するため1977年3月27日をもって番組を再び降板した[2]。降板後、司会として復帰するまでの間にも、1978年正月の鶴亀大喜利に師匠の圓生とともに出演したり、弟子であり後継メンバーとなった三遊亭楽太郎の師匠として師弟大喜利にゲスト出演したりするなど、番組との関わりは続いていた。後に弟子となる林家九蔵を笑点メンバーに誘ったのも圓楽だった。
1982年12月8日に当時の司会であった三波伸介の急死に伴い、1983年1月9日から司会者として『笑点』に復帰した。しかし当人は、2回限りの臨時司会のつもりで引き受けたと語っていた。司会就任後しばらくはさまざまな色の紋付を着ていたが、同年9月4日放送分より、紺の色紋付に定着した。
就任してからしばらくは、答えの合間にその博識を生かした都々逸をしばしば披露したり、40分時代の初期には落語に専念していた時代に学んだ知識を生かして「よろずガイダンス」というコーナーで落語にまつわる話を披露するなどしていた。しばしば台本は無視、林家こん平の回答に対して着物を脱がせたこともあり、「司会者が笑い過ぎ」といった理由で、当初は批判も少なくなかった[2]。だがそれは従来と雰囲気を変えるために意図的に行ったことであり[2]、徐々に出題、指名、座布団の差配、メンバーへの助言など最小限の仕事に絞られていく。これは放送時間の短縮に加え、三波が司会をしていたころの司会者の強烈なキャラクターを柱とした番組から[注釈 4]、スピーディーにやり取りする中でメンバーのキャラクターにクローズアップし、司会者だけでなくメンバー全員を主役とするという新しいスタイルに移行した結果である。司会就任後しばらくは視聴率面で苦戦を続けたものの、こうした番組作りの変化が功を奏し、次第にかつてのような人気番組の地位を取り戻していった。
面長な容姿から「馬」呼ばわりされたり、「若竹の借金」「小言が長い」「本番中に居眠り」などとネタにされたり、回答者の家族の悪口(歌丸の妻・冨士子夫人など)や下ネタを織り交ぜた回答をすると、爆笑しつつも容赦なく座布団を没収していた。
圓楽の司会就任から1年後、それまでの松崎真に代わる新しい座布団運びとして山田隆夫が就任。これ以降、回答者だけでなく座布団運びも番組の流れに積極的に絡むようになり、悪ふざけが過ぎたり自らを罵倒する回答をしたメンバー(主にこん平及び弟子のたい平、春風亭昇太の司会就任後は桂宮治)に怒った山田が座布団から突き飛ばして独断で座布団を没収することがあるが、これも圓楽の助言がきっかけで始められた[12]。山田罵倒ネタの際には、山田の判断に一任したり、彼を擁護する発言をすることが多かった。
圓楽は大喜利メンバー全員で一つのファミリーを形成しているとの考えを持ち、番組の空気やリズムになじむのに時間がかかるということでメンバーの入れ替えはほとんど行わなかった[注釈 5]。また、メンバー全員が出演するロケ企画(ボウリング大会・山田隆夫の新居訪問・木久蔵ラーメン店訪問バスツアーなど)が頻繁に行われたのもこの時期である。23年間司会を務めながら、その間に新加入した大喜利メンバーは三遊亭小遊三と林家たい平[注釈 6]の2人だけ。1988年に弟子の三遊亭好楽が復帰してからは、たい平が加入するまでの16年間を同じメンバーで通した。こん平が長期の休演を余儀なくされた際も、圓楽は「代わりに変な芸人は入れるな。入れるなら、山田くんを大喜利に入れればいい」と語ったという[12]。
2001年2月11日の放送では、本来3問行われる大喜利を2問で終わらせようとしてしまった[注釈 7][注釈 8]。圓楽本人によると、このミスは脳梗塞の兆候の現れで、このことがきっかけで降板を考えるようになったとのこと[13][注釈 9]。また、この他にも2005年6月12日の放送でたい平の名前を思い出せず、たい平が挙手をした際に「誰だっけ?」と発言してしまったり[注釈 10]、他のメンバーに対しても指名してから名前が出るまでに間が空くことがあった。
その後2005年10月13日に脳梗塞の症状が現われ入院し、10月16日分の放送を最後に番組を休養することとなった。2006年1月1日放送の新春14時間特番『大笑点』の終盤で久々のテレビ出演こそ果たしたものの、万全の体調ではなく、無理を押しての出演であった。同年3月26日から笑点の収録に復帰したもののやはり体調が万全でなく、冒頭の案内部分のみで大喜利司会には復帰できなかった。5月14日放送分(4月22日収録)の放送開始40周年特番を最後に勇退し、歌丸に司会の座を正式に譲った[注釈 11]。23年間の司会期間は、2022年現在『笑点』で最長記録となっている。
司会当時のエンディングでの締め文句はもっぱら「といったところで笑点お開き!また来週のお楽しみ、ありがとうございました。」で定着していた(地方収録など回によっては、若干異なる場合もあった)[注釈 12]。
2007年1月1日に放送の『大笑点』では、降板後では初めてゲスト出演。翌2008年3月9日には高座・テレビ引退後久々に弟子の真打昇進披露口上のため『笑点』出演となったが、体調を考慮して三本締めの音頭は惣領弟子・三遊亭鳳楽が行った。
笑点の大喜利には、「実は台本があり、誰がどのような答えを言うかはあらかじめ決まっている」という都市伝説があったが、笑点の司会者時代の回想で、大喜利の際には「あの答えは誰に答えさせようか、視聴率を気にしながらよく悩んだ」と、それを否定する趣旨の発言をしている。
歌丸には「圓楽さんに逆らえる人間は落語界にはいない」[注釈 13]とまで言われ、好楽・楽太郎ら弟子からはもちろん、他の落語家からも尊敬されていたが、「司会がうまい(落語は大したことない、という意趣返し)」などと揶揄(やゆ)されることもあった。追悼特別企画ではその「緻密な司会ぶり(ミスの多さ)」がネタにされた。
また歌丸は著書の中で「圓楽さんは三波さんに比べるといい加減な人でしょう。でもそのおかげで我々回答者が『ちゃんとしてください!』と突っ込み返すことができる余地が生まれた。そこがまた良かったんです。」と評しており、追悼特別企画では「圓楽さんは我々と同じ噺家の『間』を持っていたため、歴代司会者の中で一番やりやすい存在でした」と述べている。
追悼特番では笑点だけでなく落語の寄席での失敗、弟子一同を集めて小言を垂れる際に羊羹をバナナのごとく丸ごと一棹頬張りながらという(おかげでまともに小言を聞いていた弟子は一人もいなかった)ほどの甘い物好きぶりや、寒がりで紋付からはみ出るぐらいの厚着をして高座に上がったことなどが語られ、湿っぽさを感じさせない和やかで明るい雰囲気で進められた。
そして司会引退および逝去以降も、座布団10枚の賞品のネタ[注釈 14]にされたり、主に楽太郎(六代目円楽)から歌丸・昇太罵倒ネタの際に(物真似されるなどして)引き合いに出されるなど、今なお「笑点といえば5代目圓楽」のイメージは生き続けている。
没後10年の節目となる2019年には、落語家入門から笑点の司会就任までを描いたテレビドラマ『BS笑点ドラマスペシャル 5代目三遊亭圓楽』(主演:谷原章介)が放送された。
香盤順、現在門下のみ。孫弟子は五代目円楽一門会を参照。
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