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アサヒ飲料が製造販売する炭酸飲料 ウィキペディアから
三ツ矢サイダー(みつやサイダー)は、アサヒ飲料が発売している炭酸飲料のサイダー。同社の登録商標(日本第850875号ほか)でもある。
三ツ矢サイダーは、兵庫県川辺郡多田村字平野(現在の川西市平野 多田銀山の一部)で平野鉱泉が発見されたことにはじまる。かつてこの地では摂津三湯に数えられた名湯「平野の湯」と呼ばれる炭酸泉の湯治場があったが、江戸時代末期には廃れていた。明治時代に入り、外国人接待用の炭酸水を調達するために宮内省の命を受けて全国の水源を調査していたイギリス人理学者ウィリアム・ガラン(ウィリアム・ゴーランド、ガウランドとも、William Gowland [ˈgaʊlənd])によって1881年に平野鉱泉が再発見され、炭酸水の御料品工場[注釈 1]が建設された[1]。
1884年に三菱財閥が宮内庁から多田銀山の払い下げを受け、三菱商会が「平野水」として炭酸水を販売。1885年には明治屋が採取権を得て、源満仲にまつわる当地の言い伝えから「一本矢礦泉」に改名して販売。1889年には「
1907年に帝国鉱泉株式会社(旧 三ツ矢平野鉱泉合資会社)[注釈 2]が設立され、従来の平野水を元に、砂糖を煮詰めた茶褐色のカラメルやイギリスから輸入したサイダーフレーバー[注釈 3]を加えた「三ツ矢印 平野シャンペンサイダー」を発売し、1921年に「三ツ矢シャンペンサイダー」に改称されて販売された[1]。
1921年に加富登麦酒が帝国鉱泉株式会社と日本製壜を吸収合併し日本麦酒鑛泉株式会社(根津財閥)となり[3]、1933年に大日本麦酒株式会社[注釈 4]と併合されたが、「三ツ矢シャンペンサイダー」は日本麦酒鑛泉のユニオンビールと共に引き続き製造販売された。
太平洋戦争ではサイダーは軍需品だったため製造が続けられていたが、末期には工場を軍需工場として貸し出されたり、戦災で設備の一部を焼失するなどしていたため、終戦の翌年の1946年7月まで製造が中断されていた時期があった。1946年7月から製造が再開されたが、政府による砂糖の配給が行われていたため、使用が解禁されたばかりの人工甘味料ズルチンに切り替えて製造再開(のちにズルチンの安全性に疑問が出たため、自主的に使用中止)。1951年には砂糖の配給が終了したことから、砂糖を使った「全糖三ツ矢シャンペンサイダー」も発売[4]。なお「シャンパン」の名称使用について、フランスのシャンパン企業から全国清涼飲料連合会に抗議が来たため、1968年に「三ツ矢サイダー」に改名した[1]。
大日本麦酒株式会社は、GHQが指示した過度経済力集中排除法による会社分割で、1949年に朝日麦酒株式会社[注釈 5]と日本麦酒株式会社[注釈 6]に分割され、三ツ矢サイダーはユニオンビールと共に朝日麦酒が継承し、戦前までの「アサヒビール・リボンシトロン」の組み合わせから「アサヒビール・三ツ矢サイダー」の組み合わせに代わった。
なおアサヒビールは、1950年代半ばからビールの販売低迷が始まり、一時は市場占有率10%を切り、会社存続が危ぶまれたが、1987年(昭和62年)にアサヒスーパードライのヒットで、業績復活するまでの約30年間の経営を支えたのは、三ツ矢サイダーの利益だった[5]。
1967年に、柑橘系香味の透明炭酸飲料「三ツ矢レモラ」(二代目)を、1970年に200mlの入りびんを、1971年に透明炭酸飲料で業界初の缶入りをそれぞれ発売し、1973年に姉妹品として三ツ矢フルーツソーダ[注釈 7]を発売した。
この頃の容器は、ビールビンを細くした形で水色のビンに紙ラベルが貼付されていたが、すでに瓶に直接印刷が施されたプリント瓶に切り替えたキリンレモンに対抗して、1972年から水色の文字とマークが印刷されたプリント瓶に順次切り替えられた。 なおこの切替えで不要となった330ミリリットル入りの旧型の瓶は、地方の中小企業に流れて、現在でも朝日サイダー・八戸製氷冷蔵などで使われている[6]。
アメリカ合衆国で人工甘味料ズルチンの安全性が疑われ始めたため、1961年に甘味料をチクロに切り替えた。しかし1969年にはチクロにも安全性が疑われ始めたことを機に、人工甘味料を使用していたすべての製品の製造を中止。砂糖を使用していた「全糖三ツ矢サイダー」に一本化することになった。また安全性をアピールするため、合成着色料の使用も中止し、現在のような透明色のサイダーになった[4]。
1980年には、前年(1979年)に放送を開始したテレビアニメ『ドラえもん』(第2作)とのタイアップを行い、缶入りにドラえもんのデザインを施したり、瓶入りには「ドラえもんグラス」がもらえるプレゼントを行った(バヤリースも同じ)。アニメとのタイアップはこの後も、1982年に『Dr.スランプ アラレちゃん』、『忍者ハットリくん』、1984年に『パーマン』(第2作)と続いた。
1984年に発売100周年を迎えて缶やペットボトル[注釈 8]に記されている「MITSUYA CIDER」が現在の書体で青色に変更されて現在に至る。1995年までは「Asahi」ロゴは側面部分に「by Asahi」と表示していたが、1996年のアサヒ飲料発足を機に「MITSUYA CIDER」の上に「Asahi」が表示された。
1988年に製造部門が分社化されてアサヒビール飲料製造株式会社となり、1996年に販売会社のアサヒビール飲料株式会社と合併してアサヒ飲料株式会社となる。
2004年に香料を天然原料のものに、水を天然水100%に変えて一層すっきりした味に仕上げて売上数量が増加し、業績不振から一転してV字回復した。近年流行の微炭酸へ移行することもなくキリンレモンと並び強炭酸を維持するなどして根強いファンを持つ。
2009年5月26日に「カロリーゼロ、糖質ゼロ、保存料ゼロ」の「三ツ矢サイダー オールゼロ」を全国で発売した。カロリーゼロ、糖質ゼロ商品は126年間で初めてである[注釈 9]。同商品はアルミ缶商品で250mlと300ml、ペットボトルで500mlと1,500mlの2タイプ計4種類を販売する。2015年3月24日のリニューアルで『三ツ矢サイダー ゼロ』に改名し、2016年3月22日のリニューアルで『三ツ矢サイダー ゼロストロング』に再改名した。
源泉の自噴量が少なくなったことにより、発祥の地である平野工場は1954年に閉鎖され、アサヒビール系列のホームセンター・サンシャイン平野店になったが 2005年3月に閉店した[注釈 10]。1912年に建設された大正天皇御料品製造所はこのホームセンターの奥で三ツ矢資料館になっていたが、サンシャインの閉店とともに公開が中断された。
2016年、アサヒ飲料の環境方針の下、一部製品(1.5Lボトル4万箱)に植物由来の原料を使用したオールバイオペットボトルの採用を開始した[8]。
2017年6月15日、国際味覚審査機構(iTQi)による優秀味覚賞を受賞[9][10]。
2018年3月からは「カルピスウォーター」と共に、ダイドードリンコが管理する自動販売機への供給を開始している(自動販売機用の430mlペットボトルのみ)[11]。
2019年1月にプラスチック資源循環や海洋プラスチック問題の対策において、持続可能な容器包装の実現に向けた目標として「容器包装2030」を策定。プラスチック製容器包装の重量削減を目指している[12]。
平安時代中期、摂津源氏の祖源満仲が住吉大社の神託に従い三つ矢羽根の矢を放ち、矢の落ちた多田(現在の兵庫県川西市多田)に居城(新田城、多田城)を建てた伝説による。満仲はこの矢を探すのに功労が大きかった孫八郎という男性に、領地と「三ツ矢」の姓と三本の矢羽の紋を与えた。満仲はある日鷹狩りに出かけた際、偶然居城近くの塩川の谷間で、一羽の鷹が湧き出ている水で足の傷を治して飛び立つのを目撃した。この湧水が霊泉としてあがめられ、付近の住民がこの天然鉱泉を入浴として利用し、明治初年頃まで「平野温泉郷」として存続した。
江戸時代、平野鉱泉は付近にある多田神社[注釈 11]の用人(家老)、三ツ矢旗兵衛の領地であった。明治期になり、来訪した外国要人に提供する良質な水を探すため明治政府は日本全国で水質調査を行った。1881年、大阪の造幣局の技術顧問であったイギリス人の化学・冶金学者ウィリアム・ゴーランドが平野鉱泉の水を分析したところ、炭酸ガスを多く含み「理想的な鉱泉」と認定し、当地に炭酸水を汲む御料工場が建設された。その後御料工場は三菱に払い下げられ、権利を得た明治屋が1884年に三ツ矢伝説から名称を取り入れた「三ツ矢平野水」と「三ツ矢タンサン」を発売した。平野鉱泉の水は「平野水」として広く世間に認知されるようになり、「三ツ矢」の商標も確立した。この「平野水」は、広辞苑第五版は炭酸水の代名詞として記載している。伝説の元となった三ツ矢氏の墓は、川西市の多田神社西隣の西方寺に現存する。1998年に西方寺の本堂工事のため、多田院墓地へ移設された。
現在販売されている清涼飲料水では老舗で、一般に「日本初の(最古の)サイダー」とも呼ばれているが事実とは異なる。
2007年にダイドードリンコと共同事業で昔の商品を再現した「復刻堂・三ツ矢サイダー」を期間限定で発売した。2010年に新デザインで発売されて缶に昭和30年代のマスコットキャラクターであるインディアンの子供3人が描かれている。いずれも缶には「三ツ矢サイダー」がアサヒ飲料の登録商標であることが記されている。ダイドーは以前にサッポロ飲料とも共同事業を行い「復刻堂・リボンシトロン」を発売している。
著名な愛飲者として、演歌歌手の北島三郎がいる。舞台の本番前には、必ず炭酸を抜いた三ツ矢サイダーを飲む[15]。
1979年も大滝詠一がCMソングを手掛ける予定だっだ。「透明ガール」と言うコピーとCMモデルがブルック・シールズなのは決まっていた。CMソングはパレードの「サンシャインガール」に伊藤アキラが新たな日本語詞を付けたカバー。しかし、ブルック・シールズが使えなくなり幻に終わる。尚、歌の録音は行われており、「サイダー79 (サンシャイン・ガール)」のタイトルで『NIAGARA CM SPECIAL Vol.1 3rd Issue 30th Anniversary Edition』に収録されて日の目を見た。
販売・製造元がアサヒ飲料になって以後、三ツ矢のマークを冠した三ツ矢サイダーの姉妹品・シリーズ品として、発売期間限定のサイダー飲料がいくつか併売されている[注釈 13]。グループ会社のアサヒグループ食品からは、三ツ矢サイダーブランドのキャンディーが発売されている。
★印:2024年2月4日時点で発売されている製品
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