右京区
京都市の区 ウィキペディアから
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右京区(うきょうく)は、京都市を構成する11区のひとつ。1931年に嵯峨町と梅津村・京極村など9村が京都市に編入されたのに伴い設立。市内西北部に位置し、京北町合併後は京都市の区の中では最大の面積である(それまでは左京区が最大だった)。
区南部は古くは都の皇族や公家の別荘が点在していたが、現在は主として住宅地になっている。
区西部や北部は山間地である。かつては山国郷(京北山国・黒田地区)の木材が桂川を下り、下流の嵯峨・梅津などで陸揚げされて京の中心部へ運ばれた。
区を構成する町:京都市右京区の町名
区北部の京北は全域が丹波高原に当たる。旧京北町の町役場が置かれた周山と宇津が主な盆地だが、その他は山地で、この盆地をつなぐように桂川が流れる。
区南部は、北方の山岳部を除いては桂川に沿っており、ほぼ平坦である。
京北は編入前から右京区と周山街道(国道162号)や桂川によって結ばれていた。
右京区に相当する地域の人口の推移 | ||||||||||||||||||||||||||||||
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総務省統計局 国勢調査より |
現在の右京区がある地域の歴史は古く、かつてこの地には山背(山城)国府が置かれていたともいわれる。 渡来人の秦氏もこの地方を拠点として活躍したと思われ、氏寺として広隆寺を建立した。 秦氏と関係の深い桓武天皇が平安京を定めると、京中に寺の建立が禁止されていたために、現在の右京区域にも多くの寺社が立ち並んだ。 嵯峨天皇が嵯峨離宮(後の大覚寺)を建てたりするなど多くの貴族はこの地に馴染み、また嵐山に遊んだ。
戦国時代以降より桂川水運が盛んとなり、嵯峨周辺に豪商が成長したが、その中で嵐山の豪商角倉了以が徳川幕府と結びつき、保津川(桂川)ほか各地の河川の開削を行った。このためか角倉家は大いに発展し、東南アジアにまで進出するに至る。鎖国以後も桂川水運の管理を任され、現在の南丹市世木より下流の桂川の重要な港には角倉役所が置かれた。桂川の水運は嵐山や梅津を荷揚場とし、天神川を水路として丹波以北からの品物を京都中に運んだ。
右京区京北地区の歴史としては、平安京造営の際に木材を献上した山国郷が歴史上最初に現れる。これが基となって朝廷に縁を持ち、南北朝時代には光厳天皇が山国郷に一寺常照皇寺を開きこの地に葬られた。戦国時代には土豪宇津氏が当地に割拠したが、明智光秀の攻撃を受けて滅んだ。この地に周山城が築かれたという。
右京区役所(総合庁舎)は、京福電鉄嵐山本線(嵐電)太秦広隆寺駅前(右京警察署東隣)から、地下鉄東西線太秦天神川駅併設の建物SANSA右京に移転した。
右京区の担当集配郵便局は、以下の管轄となっている。
区役所の最寄り駅:太秦天神川駅
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