Loading AI tools
日本の小説家 ウィキペディアから
柴田 錬三郎(しばた れんざぶろう、1917年〈大正6年〉3月26日 - 1978年〈昭和53年〉6月30日)は、日本の小説家、ノンフィクション作家、中国文学者。本名齋藤錬三郎(さいとう れんざぶろう)。 代表作に『眠狂四郎』シリーズ、『赤い影法師』『御家人斬九郎』『三国志 英雄ここにあり』などがあり、剣客ブームを巻き起こし、時代小説に新風を送った。「シバレン(柴錬)」の通称でも呼ばれた。
1951年 | |
ペンネーム | 君尾哲三 |
誕生 |
柴田 錬三郎 1917年3月26日 日本 岡山県邑久郡鶴山村 |
死没 |
1978年6月30日(61歳没) 日本 東京都新宿区信濃町 |
墓地 | 伝通院 |
職業 | 作家 |
国籍 | 日本 |
教育 | 学士(文学) |
最終学歴 | 慶應義塾大学文学部支那文学科 |
活動期間 | 1938年 - 1978年 |
ジャンル | 歴史小説、推理小説、時代小説 |
主題 | ニヒリズム |
文学活動 | 剣豪小説 |
代表作 |
『イエスの裔』(1952年) 『眠狂四郎無頼控』(1956年) 『赤い影法師』(1960年) 『徳川太平記』(1965年) 『真田十勇士』(1975年 - 1976年) 『御家人斬九郎』(1976年) |
主な受賞歴 |
直木賞(1951年) 吉川英治文学賞(1970年) |
デビュー作 | 『十円紙幣』(1938年) |
ウィキポータル 文学 |
岡山県邑久郡鶴山村(現・備前市)の地主・柴田知太の三男として生まれる。父は日本画家でもあった。3歳で父を亡くしたが、遺された漢籍に親しみ、唐宋詩人の詩を愛吟して育った[1]。
鶴山尋常小学校を卒業後、1929年に旧制岡山県第二岡山中学校に進学。校友誌に詩や短篇を発表する。親の薦めもあり、始めは医学部に進学することを考え、上京して慶應義塾大学医学部予科を受験して入学したが、半年後に文学部予科へ移る。慶大予科3学年の時に、『十円紙幣』を君尾哲三のペンネームで『三田文學』に発表する。1940年に、庄内藩の齋藤家の出身である齋藤栄子(清河八郎の妹・辰の孫)と結婚、齋藤家の婿養子となり、齋藤錬三郎と名乗る。同年、慶大文学部支那文学科卒業。在学中から魯迅に傾倒し、卒業論文は『魯迅論』、その後も『三田文學』に小説「魯迅幼年期」(1940年)や、魯迅に関する論考を発表している。
はじめ、内国貯金銀行(現在のりそな銀行の前身)に入行したが3か月で辞職。銀行退職後、「泰東書道院」が主宰していた月刊誌『書道』の編集部に就職。日本出版協会に勤める。また同年、長女・美夏江が誕生している。
1940年に徴兵検査を受け第三乙種となる。1942年に日本出版文化協会に入り、また清河八郎を描いた『文久志士遺聞』を刊行、12月に召集され、相模原第89重砲連隊入営。3週間の基礎訓練を終えたのちに、医学部予科に在籍していたことから衛生兵となる。相模原陸軍病院に配属されたのち、横須賀陸軍病院へ転属勤務、入院して召集解除となる。1年後に再招集を受け、1945年に衛生兵として輸送船で南方へ派遣される途中、バシー海峡にて敵潜水艦の魚雷に遭い乗艦が撃沈、7時間漂流し、奇跡的に味方の駆逐艦に救助された。漂流中はひたすら北宋の曹志固の「虞美人草の詩」を詠じていたという[2]。
その後、田所太郎、大橋鎭子らと『日本読書新聞』の再刊にたずさわった。のち雑誌『書評』編集長となり、また『三田文學』等に文芸評論を発表する。
戦後は『日本読書新聞』の編集長を務めながら、1947年に『文學季刊』に「狂者の相」を発表するが、陰惨な描写に批判が集まり、カストリ雑誌に大衆小説を書くが原稿料不払いが多く、児童読み物出版社で世界名作ダイジェストを書いて生活費と妻の結核の治療費をまかなった。佐藤春夫に、堀口大學、井伏鱒二、井上靖といった文学者と共に師事して、1949年に『日本読書新聞』を退職、文筆活動専業となる。当時かつて交渉のあった女性について佐藤春夫に問いただされて小説『日照雨』が書かれ、柴田らしき人物も登場することから「芥川賞欲しさに自分の女を売った」という噂が流れたが、まったく弁明をせず、後に「柴練はサムライだ」と評価された[3]。
1951年6月に『三田文學』に発表した『デス・マスク』が第25回芥川賞・第25回直木賞候補に入る。翌年『イエスの裔』で第26回直木賞を受賞した。松本清張らと共に、賞を取ったものの食えない時期が長く、この頃の注文原稿は、受賞後に『オール讀物』に書いた講談ネタの「新説河内山宗俊」「カステラ東安」の他は、地方新聞に書いた恋愛もの、『オール讀物』でのヒッチコックやヒトラーなど古今の有名人の実話風読み物や毎日新聞の匿名のコラム欄[4]、『小説公園』『面白倶楽部』での現代小説であり、柴田にとって暗中模索の時期となった。1954年に『週刊タイムス』からの依頼で初の時代長編小説『江戸群盗伝』を連載し、ストーリーテラーとしての才能を意識する。
1956年から、創刊されたばかりの『週刊新潮』で編集長斎藤十一の依頼により連載された『眠狂四郎』シリーズでは、戦後を代表するニヒル剣士の眠狂四郎を登場させ、読み切りという斬新な手法をとった連載手法と通俗的な要素を織り込み、『柳生武芸帳』の五味康祐と共に剣豪小説の一大ブームを巻き起こし、「剣豪作家」のイメージが定着した。1960年から『週刊文春』に連載された忍者もの『赤い影法師』や、1962年から『オール讀物』で連載した、明治末期から人気を得た書き講談シリーズ立川文庫に擬した「柴練立川文庫シリーズ」では伝奇小説としても高く評価され、また荒唐無稽であると同時に、講談ネタのヒーロー像が「現代人の自虐意識の現れ」へと変遷しているとされた[5]。また同時期に『剣は知っていた』『血汐笛』などの恋愛を主体にした時代物も手がけた。
中国ものでは『柴錬三国志』『柴練水滸伝』『毒婦四千年』などがあり、1969年に『三国志英雄ここにあり』で第4回吉川英治文学賞を受賞した。現代小説では『チャンスは三度ある』などがあり、『図々しい奴』について奥野健男は「戦後の繁栄に向う世界を堂々と既成の権威を無視し、しかし古い真に良いものを敬愛していきのび、成功した立身出世物語」であり「青白き、進歩的良心的な知識人、上流階級のアンチテーゼ」と評している[6]。
1966年から1977年まで、直木賞の選考委員を務める。柴田が選考委員をしていたこの間の受賞者には、五木寛之、野坂昭如、陳舜臣、井上ひさし、藤沢周平などがいる。他、小説現代新人賞の選考委員も務めた。次いで今東光と共に「文壇野良犬会」を結成し、水間寺での住職権限を争う大乱闘や梶山季之の急逝における葬儀争奪戦での役回りなど、比叡山の僧兵かと見まがうがごときの活動も繰り広げた[7]。この野良犬の会には、黒岩重吾、吉行淳之介、陳舜臣、田中小実昌、野坂昭如、戸川昌子、長部日出雄、井上ひさし、藤本義一などが参加した。NHKテレビの人形劇『真田十勇士』(1975-77年放映)の原作も書き下ろした。
随筆・エッセイも多数発表している。また、「3時のあなた」(フジテレビ)や「ほんものは誰だ?!」(日本テレビ)など、テレビ番組への出演も晩年まで積極的に行うなど、現代で言う文化人タレント的な一面も持っていた。ドラマ『おらんだ左近事件帖』の第14話では浪人に扮し、剣の切っ先で大きく円を描いてから対手を斬るという、眠狂四郎ばりの殺陣を披露している。
赤穂浪士もの『復讐四十七士』連載中の1978年6月30日、肺性心のため慶應義塾大学病院で死去した。享年61。訃報には池波正太郎「柴田さんの作品には豊かなイマジネーションの底にリアリティがありました。きちんと文学的素養というか、美的センスがありました」などのコメントが寄せられ、尾崎秀樹はその作品を「単なる荒唐無稽さやエロチシズムをねらったものではなく、中国文学に学び、フランスのモダニズム文学に影響を受けたその教養を基礎とし、作者自身の近代的自我をも投影させて、その作品世界を構築した骨太さがあり、時代に対する抵抗感も秘めていた」と評している[8]。昭和30年代に佐藤春夫の門弟たちによる誕生日を祝う会で、佐藤から、剣豪小説もいいが豊かな才能を浪費せずに文学的なしっかりした小説を書けと言われて、書きます、と答え、それ以来唐の玄宗皇帝を題材にした作品の構想を練っていたが、果たせなかった[3]。墓所は師の佐藤春夫と同じ文京区小石川の伝通院にあり、戒名は蒼岳院殿雋誉円月錬哲居士。墓のデザインは横尾忠則による。
没後に集英社で「選集」全18巻が刊行。1988年には柴田錬三郎賞が創設された。
柴田の妻・栄の弟はフランス文学者の齋藤磯雄。妻の大伯父(祖母・辰の兄)に、幕末の志士・清河八郎(本名は齋藤正明)がおり、各・墓地は柴田と同じ小石川・伝通院にある。遠藤周作や吉行淳之介とは遠縁にあたる。駆け出し時期の遠藤や吉行は柴田邸に入り浸っていた。ジャーナリストの大森実はいとこにあたる。
(眠狂四郎については「眠狂四郎」の項を参照)
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.