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倉橋 良介(くらはし りょうすけ、1919年11月19日[1] - 1995年5月1日[2])は、日本の映画監督である[3][4][5][6][7][8]。日東テレビ映画常務取締役、プロダクション鷹取締役を歴任[3]。別名に風魔 三郎(ふうま さぶろう)[5][6][7]。
1919年(大正8年)高知県香美郡土佐山田町に生まれる。京都府立京都農林学校卒業後、京都市役所の吏員として5年間働く[1]。
その後松竹京都撮影所に入社、『破れ太鼓』(1949年)の木下恵介、『薔薇合戦』(1950年)成瀬巳喜男の助監督を務めた記録がある[5]。1954年(昭和29年)1月27日に公開された、岩井半四郎主演の『とのさま街道』で監督に昇進している[5][6]。以降、1960年(昭和35年)までの6年間に16作を監督している[5][6]。
1961年(昭和36年)7月2日に放映を開始した連続テレビ映画『神州天馬侠』(同年12月24日放映終了)の監督をして、テレビ映画に進出した[8]。1962年(昭和37年)11月4日に放映を開始した連続テレビ映画『織田信長』(東伸テレビ映画、1963年10月27日放映終了)では、「脚本」のみにクレジットされた[8]。1963年(昭和38年)12月11日に放映を開始した連続テレビ映画『海の野郎ども』(日本電波映画、1964年7月29日放映終了)では、監督を務めている[8]。このころ松竹を退社している。
1965年(昭和40年)8月に公開された成人映画『赤いしごき 日本毒婦伝』を風魔 三郎の名で監督し、同年10月に公開された成人映画『野武士』を「倉橋良介」名義で監督して劇場用映画に復帰、同2作を製作した木俣堯喬が主宰するプロダクション鷹で、いわゆる「ピンク映画」を撮り始める[5][6]。同年11月に国映が配給して公開された成人映画『ギラついた裸獣の群れ』も含め、これらは「成人映画」に指定された時代劇映画であった[9][10]。同作の撮影技師広田彰三は、かつて倉橋がチーフ助監督を務めた『薔薇合戦』のときの撮影助手であり、美粧の林政信、桜井文子は東映京都撮影所のヴェテランスタッフであった[10]。木俣堯喬が代表を務める日東テレビ映画株式会社(1965年4月17日設立)、ならびにプロダクション鷹(1965年6月1日設立)は設立当時、京都市右京区嵯峨甲塚町1番地に所在し、それぞれの会社で常務取締役、取締役を務めた[3]。
1972年(昭和47年)1月1日に放映を開始した『木枯し紋次郎』第1部では、市川崑ら大御所が監督することもあって、助監督を務めている[8]。以降の作品歴についての資料は見当たらない[5][6][8]。同年秋以降の情報が掲載されている『映画年鑑 1973』によれば、プロダクション鷹(日東テレビ映画株式会社)はすでに東京都渋谷区千駄ヶ谷5丁目に移転しており、同社の役員のリストに倉橋の名はない[4]。日本映画監督協会に加入していないため、現在の消息は不明である[11]。存命であれば2014年(平成26年)には満95歳である。
特筆以外はすべて「監督」である[5][6][7][8]。東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)等の所蔵・現存状況についても記す[7]。
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