Loading AI tools
日本の映画、メディアミックス作品 ウィキペディアから
『南極物語』(なんきょくものがたり、英: ANTARCTICA)は、1983年の日本映画。南極観測隊の苦難とそり犬たちの悲劇を描いている[6]。
南極物語 | |
---|---|
ANTARCTICA | |
監督 | 蔵原惟繕 |
脚本 |
野上龍雄 佐治乾 石堂淑朗 蔵原惟繕 |
製作総指揮 | 日枝久 |
出演者 |
高倉健 渡瀬恒彦 岡田英次 夏目雅子 荻野目慶子 |
音楽 | ヴァンゲリス |
撮影 | 椎塚彰 |
編集 | 鈴木晄 |
製作会社 | 南極物語製作委員会 |
配給 |
日本ヘラルド映画/東宝[1] 20世紀フォックス[1] ティタヌス[1] |
公開 |
1983年7月23日[2] 1984年2月(34th BIFF)[2] 1984年3月30日(NYC)(吹替版)[2][1] 1984年8月9日 1985年3月20日[3][4] 1985年7月11日[2] 1986年3月27日[2] |
上映時間 | 145分 |
製作国 | 日本 |
言語 | 日本語 |
興行収入 | 110.0億円[5][6] |
配給収入 | 59億円[7] |
南極大陸に残された兄弟犬タロとジロと越冬隊員が1年後に再会する実話を元に創作を交え、北極ロケを中心に少人数での南極ロケも実施し、撮影期間3年余をかけ描いた大作映画である[6]。
1971年の『暁の挑戦』以来、フジテレビが久しぶりに企画製作、学習研究社が半分の製作費を出資して共同製作し[6]、日本ヘラルド映画と東宝が配給。フジサンケイグループの大々的な宣伝に加え、少年、青年、成人、家庭向けの計4部門の文部省特選作品となり、映画館のない地域でもPTAや教育委員会がホール上映を行い[8]、当時の日本映画の興行成績新記録となる空前の大ヒット作品となった。1980年代に何度もテレビ放送され、21世紀に入りデジタル・リマスターでの放映の他にも、ケーブルテレビで多く放送されている。
本作の成功の勢いはその後の『ビルマの竪琴』や『子猫物語』などが続き、1980年代以降に続くフジテレビ製作映画の起点ともなった作品である[9]。
キャッチコピーは、『どうして見捨てたのですか なぜ犬たちを連れて帰ってくれなかったのですか』。
1957年(昭和32年)文部省の南極観測隊第1次越冬隊が、海上保安庁の運航する南極観測船「宗谷」に乗り南極大陸へ赴いた。1年以上にわたる南極生活の中で、隊員たちは様々なトラブルや経験に出くわす。
1958年(昭和33年)2月を迎え、第2次越冬隊と引継ぎ交代するため再び「宗谷」で南極大陸へ赴いたが、「宗谷」側は長期にわたる悪天候のために南極への上陸・越冬断念を決定する。その撤退の過程で、第1次越冬隊の樺太犬15頭を、無人の昭和基地に置き去りにせざるを得なくなった。極寒の地に餌もなく残された15頭の犬の運命、犬係だった2人の越冬隊員の苦悩、そして1年後に再開された第3次南極観測隊に再び志願してやってきた隊員の両者が、南極で兄弟犬タロとジロに再会する。
南極観測隊のそり犬として南極へ行った樺太犬たち。第1次南極観測隊では多くの活躍をする。越冬隊の撤退の過程で、シロ(雌)などを除いて無人の昭和基地に置き去りにされてしまう。
映画監督の蔵原惟繕と弟の蔵原惟二プロデューサーが長年温めていた企画[6]だったが、莫大な製作費がかかることが予想され製作は進まなかった[6]。フジテレビでは1969年の『御用金』『人斬り』から映画製作に進出していたが、1971年の『暁の挑戦』が大赤字となってからは中断していた[10]。しかし映画の放送権料が高騰する中で、1回か2回の放送のため数億円を投じるならば映画製作をして自社のライブラリーにした方が効率的という判断に傾く中、1979年夏に放送した蔵原惟繕監督の『キタキツネ物語』が44.4%の高視聴率を記録[11]。『キタキツネ物語』と同様の大自然の物語を作らないかという話になり、蔵原兄弟がフジテレビに26話のテレビシリーズ『タロとジロは生きていた』を持ち込んだ[12]。これにフジテレビ側担当の角谷優が乗り気になり、劇場映画製作を提案。映画『南極物語』の企画が始動した[13]。フジテレビだけでは製作費を準備できず[6]、当初は角谷が東映に製作への参加を仰ごうと[6]、岡田茂東映社長を訪ねたが、「犬がウロウロするだけで客が来るなら、自分たちが苦労して映画撮る必要はない」と門前払いを喰らったという[6][12][14][15]。最終的に学習研究社が製作費の半分を出資することで、製作が正式に決定した[6]。
テレビシリーズ『タロとジロは生きていた』は、実話に基づいて佐治乾が脚本を書いたドキュメンタリー・タッチのものだった[12]。しかしこの段階では映画会社にも俳優にも興味を持たれず[12]、そこに人間味を加えるとともにドラマ性のあるエピソードを紡いで、映画的感動を盛り上げることができるかが試行錯誤された[12]。まず石堂淑朗が脚本に加わり、次に監督の蔵原が『青春の門』や『必殺シリーズ』で腕を見込んだ野上龍雄を加えた[12]。
蔵原監督を含めた製作陣は、主役は高倉健以外にいないと確信していた[6]。しかし高倉は当時東宝の『海峡』の撮影に入っており、何度会いにいっても、「いまは撮影に集中しているので」と話を聞いてもらえなかった[6]。真冬に竜飛岬で行われた『海峡』ロケに角谷プロデューサーらが交渉のために押しかけたら、高倉は足踏みをしながら芝居に集中し、寒さを凌いでいた。角谷らも鼻水を垂らしながら撮影が終わるのを待っていると、高倉が寄ってきて「寒いでしょう。僕は『八甲田山』、『動乱』、『駅 STATION』、『海峡』と、このところ寒いロケ地ばかりなんです。次は南極に行けというんですか?」と一言いった。角谷は何も言い返せず、東京に戻った[6]。制作発表の直前になっても主役が誰になるのか決定出来ず。高倉から蔵原監督に連絡があったのは制作発表の前日で、高倉は「返事をお待たせしましたが、よろしくお願いします」と伝え、蔵原監督も角谷も涙をポロポロと流しながら、高倉と握手をした[6]。高倉は、著書でこの映画を、度々回想している。渡瀬恒彦演じる越冬隊員・越智健二郎の婚約者役として、夏目雅子が出演してくれ、映画がとても華やかになった[6]。登場シーンはごくわずかだが、本作は岸田森の遺作である(喫茶店の主人として渡瀬と夏目との3者シーンで蝶マニアの岸田の趣味である蝶の標本らしき物が画面の奥に写っていて、それに触ろうとする店のお客に対しそれに触るなというセリフもある)。また俳優である大林丈史が助監督もやっているのは、南極ロケにおいて(南米圏に近いため)必須のポルトガル語が堪能だったことによるものである。
毎年、南極に入れる人数は国ごとに決まっていて、誰でも行けるわけではなく、南極で撮影ができるのかどうかも分からなかった[6]。本撮影の前に夏の間だけニュージーランドと南極を往復する観光船に蔵原監督とカメラマン2名の3人が乗船し、風景だけ先に撮影してくることになった[6]。この撮影で海が猛烈に荒れて南極まで辿り着けず引き返した。船内で転倒した蔵原監督は、肋骨を3本も折る大けがをした[6]。この後、ニュージーランド空軍の協力を得られ、飛行機に乗せてもらい、南極の素晴らしい映像が撮れ、製作陣のモチベーションも上がった[6]。
制作発表会見の翌々日、撮影スタッフは撮影隊第1陣として、メインのロケ地である北極圏のカナダ・レゾリュートに向けて出発した[6]。レゾリュートは人口150人ほどの小さな町で、たまたまインド人が経営するロッジがありそこをロケ地に選んだ[6]。泊まれる人数は限られており、最小限の俳優とスタッフでロケに臨んだ[6]。昭和基地のセットは現地で製作したが、極力人数を絞っていたため、通常セットを作る美術の大道具を連れて行ってなく、そこで、撮影助手、照明助手から俳優まで、全員総出でイチから手作りした[6]。気温は連日マイナス40度超えで、柱は芯まで鉄のように凍って釘を打ち込めず、無理して打ち込むと釘の方が曲がった。この苦闘により撮影スタッフの心が一つになった[6]。
実際の南極観測に同行したのは樺太犬だが、制作当時には既に希少犬種となっていたため、映画では北極圏のイヌイットが飼うエスキモー犬を使った[6]。エスキモー犬は当時、南極観測に多く用いられていた[注 5]。蔵原惟二とドッグトレーナーが北極圏中を探し回り、約800頭と面接し、タロとジロに似た犬を見つけた[6]。合計22頭の犬を調達し、一頭一頭の性格を見極め、映画に出演する15頭を厳選した[6]。演技の調教は一切やらず。犬の自由な動きをカメラに収め、編集で芝居を作ろうというのが蔵原監督の方針。このため犬たちの撮影だけで120時間くらいカメラを回した[6]。犬を自由にさせているだけでは撮れないショットもあり、犬が倒れるシーンは麻酔薬を使用。首輪抜けのシーンは、まず犬の腹を空かせておき、それから首輪をつけて、近くに餌を置いて撮影した。首輪の鎖をアザラシに咥えられて犬が海中に引きずり込まれるシーンはスタジオのプールで撮影。水中に潜ったスタッフが鎖を引っ張った[6]。
氷の割れ目からタロとジロに襲いかかるシーンに出演しているシャチは、和歌山県白浜町にあるテーマパーク、アドベンチャーワールドで飼育されていたシャチの「弁慶」である[16]。
「犬は何頭死んだんだ?」とよく周囲から聞かれたが、角谷プロデューサーは「もちろん一頭も死んでいません。人命や犬命を損なうことも、大きな事故もなかった、それが本当に何よりでした」と話している[6]。
昭和基地のセットがあるロケ現場とロッジは4 - 5キロメートルしか離れていなかったが、ブリザードが吹くと地形がまったく変わる。磁極に近いので方位磁石も使えない。高倉はセットでの撮影を終え、一足早く宿泊先のロッジに向かったが、その途中で強烈なブリザードが吹いてきて迷子になった[6]。スタッフがロッジに戻ると2時間も前に出た高倉が戻ってなく大騒ぎになった。ようやく発見されて高倉が救出されたときは、車のバッテリーが尽きかけ、車内は冷蔵庫のように冷え切っていた。見つかったとき、高倉は「ここで死ぬと思った」と漏らしたという[6]。
南極ロケは約2ヶ月[6]。キャストの中では高倉だけ南極ロケに参加。蔵原監督が「健さんとペンギンが一緒に映った映像を撮りたい」と熱望したことがきっかけで、カナダロケの後に高倉と蔵原監督とカメラマン二人の4人だけのロケ[6]。近くにはクレバスが大きな口を開けていた氷原にテントを張って泊まったところ、猛烈なブリザードが発生してテントが飛ばされた。4人は寝袋の中でどうすることもできず、声を掛け合いながら4時間耐えた[6]。南極ロケの約2ヶ月間、渡瀬恒彦がタロとジロを世田谷の自宅で預かって世話をした[6]。
ラストシーンはカナダロケの最後に撮影する予定だったが、高倉が「まだ犬との交流がきちんとできていないので、このシーンはすべての撮影の最後に撮りたい」と提案。そこでラストシーンだけは、流氷がやってくる冬の北海道に撮りに行ったが、暖冬で北海道に流氷が来ず。結局、2分足らずのラストシーンを撮るためだけに、もう一度北極圏に行った[6]。
撮影隊はリアルな映像を求めて各地へ飛び、南極 - 北極圏 - 京都 - 北海道稚内 - 南極 - 東京 - 北海道紋別 - 北極圏と飛行距離は約14万キロ。地球を3周半した勘定[6]。
音楽はヴァンゲリスが担当した。当時、ヴァンゲリスは映画『炎のランナー』のサウンドトラックでビルボードのシングル/アルバムチャートで全米No.1を獲得、第54回アカデミー賞オリジナル作曲賞を受賞した直後で、『ブレードランナー』や『ミッシング』など世界中からオファーが殺到しており、依頼の際、マネージャーから報酬として当時の日本映画を数本撮れるほどの金額を提示された。一時は断念しかけたが、本人に参加を確約してもらい、マネージャーと粘り強く交渉してヴァンゲリスの音楽担当が実現した[17]。
後述のテレビアニメ『さすがの猿飛』でのパロディ「肉丸南極物語」では、そのためにヴァンゲリスによって新曲も作曲されている[18]。
フジサンケイグループの総力を挙げた宣伝とメディアミックスが行われた。『笑っていいとも!』にはタロとジロが出演[19]。1983年7月17日にはテレビアニメ『さすがの猿飛』でパロディ「肉丸南極物語」[18]、公開当日の7月23日には特別番組『南極物語スペシャル』を放送、制作秘話やエピソードを織り交ぜながら映画を紹介し、更に渡瀬恒彦と植村直己の対談も放送[20]、さらにバラエティ番組『オレたちひょうきん族』の「タケちゃんマン」で7月30日に「タケちゃんマンの南極物語の巻」が放送[21]。この他にもフジテレビとニッポン放送で連日大々的なキャンペーンが行われた。
映画公開自体をイベント化して大ヒットをもたらした大々的な宣伝は、当時の角川映画の方法論を踏襲してそのお株を奪うものであったが[22][23]、一方で電波の私物化であるとの批判も起こった[24]。
全国キャンペーンには、タロとジロを演じた犬と、犬の飼い主役で3シーンのみ出演の荻野目慶子がキャンペーンガールとなって全国をまわった。荻野目はイメージソング「愛のオーロラ」も歌い、フジサンケイグループのキャニオンレコードから発売された[25]。その他のメディアミックスについては、学研の『学習・科学』全誌で大々的に取り上げられ、学研とサンケイ出版から関連書籍が出された他、ポニーキャニオンからは当時の8ビットパソコン向けにゲームが発売された。
日本国内では1200万人を動員して61億円の配給収入を挙げた[26]。1980年公開の黒澤明監督の『影武者』の記録を塗り替えて当時の日本映画の歴代映画興行成績(配給収入)1位を記録し[27]、この記録は1997年公開の宮崎駿監督のアニメ映画『もののけ姫』まで、あるいは実写映画としては2003年公開の『踊る大捜査線2』に抜かれるまで破られなかった。フジサンケイグループを中心に当時としては記録的な240万枚の前売り券が販売[28]。共同製作の学習研究社と協力して全国の家庭も対象に前売券を販売した[29]。
日本の劇場公開版の上映時間、ビデオテープ(レーザーディスク・VHD、2001年にDVD)本編の収録時間は、いずれも約143分。初めてのテレビ放送で一度未公開シーンを追加し、2日に分け2時間・計4時間枠で放送された他は、編成上の都合により短縮編集版がテレビ放映されたこともある。
後年に、米国(英語吹替・112分)・オーストラリア(前同)・イタリア(イタリア語吹替・モノラル・90分)・フランス(フランス語吹替)の各国で「ANTARCTICA」のタイトルでビデオが発売された。日本版との差異の大半はシーンのカットによる時間短縮であるが、そのほかにシーンの脈絡が日本版と前後する部分(米国版)や、日本版(特別編含む)で全く使用されていない音楽(日本版ラストシーンの続きに当たるメイン・テーマのCD未収録部分約1分50秒間)を使用している部分(イタリア版)などがある。
公開1年後の1984年(昭和59年)10月5日・6日に、製作元のフジテレビ系列で、前・後編に分け正味約180分の「南極物語 特別編」(劇場公開版に未収録の場面を加えた現在でいう「ディレクターズ・カット版」)が放送された。なおこの特別編は、以後再放送もビデオ・DVDなどで販売もされていない。
2001年(平成13年)11月21日に発売されたDVD(日本版)の特典ディスクには予告編が収録されている。日本版1編(1分20秒)と米国版2編(2分30秒と3分30秒)であり、日本版は初期のもので南極物語の曲は用いられていない。米国版のほうは(米国公開が日本公開の翌年であったこともあり)南極物語の曲が使用されており、2分30秒版ではグレゴリー・ペックがナレーションをしている。
実際には、日本版にもきちんと南極物語の曲を使用、「文部省特選」である旨も表示し、後に「第二回予告篇コンクール<邦画部門>金賞」を受賞している完成度の高い後期版(3分20秒)の予告編(画面では「予告篇」と表示)があったが、このDVDには収録されていない。
副音声の解説者の肩書きはいずれも1983年映画公開当時のもの。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.