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かつて存在した日本の企業グループ ウィキペディアから
セゾングループ(英語: Saison Group)は、かつて存在した流通系の企業グループ。西武グループの流通部門を母体とし、西武百貨店や西友、クレディセゾンなどを中核とした流通グループであり、堤清二が代表を務めた。かつて小売業として日本有数の規模の売り上げを誇った。グループ名の「セゾン」は、フランス語で「季節」を意味する[1]。
堤康次郎が創業した箱根土地(後のコクド、現在はプリンスホテルに合併)を源流とする現在の西武鉄道(西武ホールディングス)が中心の「西武企業グループ」を母体とし、1964年に康次郎が死去したのちに、流通部門を継いだ次男の堤清二が西武流通グループとして独立。のち西武セゾングループと改称し、多角化をさらに推し進め「西武」を外してセゾングループと名乗ることで、異母弟の堤義明が社長を務める西武グループとの独自色を鮮明にした。
バブル景気を背景とした1980年代までの急激な拡大成長の一方、1990年代初頭には平成不況を受け早くもリストラに着手したことで、加盟社数は非常に流動的だが、最盛期の時点で12基幹グループ・約100社を数えた。
基幹グループは歴史順に、西武百貨店・西友・朝日工業(西武化学工業)・西洋環境開発(西武都市開発)の4基幹グループを母体とし、「生活総合産業」宣言によりクレディセゾン(西武クレジット)・西洋フードシステムズ(レストラン西武・吉野家D&C・ダンキンドーナツ等)緑屋・朝日航洋・セゾン生命保険(西武オールステート生命保険)を新たな基幹企業に選定。さらにバブル時代を迎え、インターコンチネンタルホテル・大沢商会、ようやく利益貢献に回ったパルコ、コンビニ時代を反映するファミリーマートが加えられ12グループ体制となった。1990年に西武ピサ、ウェイヴ、リボーンスポーツシステムズ、西武百貨店文化レジャー事業部の3社1事業部が合併して誕生したピサを加えて、最盛期13グループ体制とすることもある。また、上述に収まらない個別事業の管掌及びグループ間の調整を図り、横断的な問題への対処・研究を目的に、1987年10月に「セゾンコーポレーション」が設立された[2]。
1990年代のバブル崩壊以降経営危機に陥り、2001年にグループは崩壊した。中核の西武百貨店は同じく経営危機にあったそごうと合併して後にセブン&アイホールディングス傘下のそごう・西武が設立され、西友はアメリカのウォルマートが買収、パルコは大丸松坂屋を運営するJ.フロントリテイリング傘下に、ファミリーマートは伊藤忠商事の子会社になるなど、旧セゾングループの資本関係はほぼなくなった。一方でクレディセゾン(セゾンカード)が旧グループの提携カードを発行するなど、一部協力関係は残っている。
一代で西武の礎を築いた堤康次郎が1964年に急死。生前に父から徹底的な帝王学を受け、康次郎の跡を継いだ堤義明は、いったんは自らが相続した西武の流通部門を、間もなく異母兄である清二に渡した。
父なき後は「兄弟会」を設置し秩序の維持に努めたが、父の七回忌の場で義明との「相互不干渉」の確約を交わし、西武二分裂が確定的となったことで、1971年に「西武流通グループ」を旗揚げした。その後「セゾングループ」に改称した[注 1]
ただしその後も、清二は1986年まで西武鉄道の取締役に名を連ねていた。また、西武線沿線の西友店舗の一部は西武鉄道からの賃貸物件で、西友・西武百貨店・パルコが西武線沿線に出店している。西武百貨店では、後に義明がオーナーとなったプロ野球・西武ライオンズのユニフォームスポンサーとなり、ライオンズの優勝セールをセゾングループ各店で行うなど、協力すべき点では協力するという関係だった。また江川事件では、三菱グループに対する抗議・制裁に西武鉄道グループと同調する姿勢を取った。
この他、堤康次郎が滋賀県出身という縁もあり、西武鉄道グループと同様に西友・西武百貨店・パルコが滋賀県にも進出した。
なお、西武ライオンズの優勝セールについては、2004年までは旧セゾングループの西武百貨店・西友・ファミリーマートで行っていた[注 2]。西武百貨店がセブン&アイ・ホールディングス傘下入りした2008年以降は、西友からイトーヨーカドーに、ファミリーマートからセブン-イレブンに権利が移行している。また、そごう・西武傘下のロビンソン百貨店、東京都・埼玉県・千葉県内のそごうでも行うようになった。2018年の優勝セールの権利は、広島東洋カープの地元であるそごう広島店(別途カープの優勝セールを開催)と、エイチ・ツー・オー リテイリングおよびその傘下の阪急阪神百貨店が保有し、2019年10月に阪急百貨店に移行した西武高槻店(→高槻阪急)とそごう神戸店(→3代目神戸阪急)[注 3]を除き開催された。
1969年、撤退した「東京丸物」を継承する形でパルコ第一号店を池袋に開設。パルコに限っては、奔放な性格であるが信頼を置いていた増田通二に任せ、運営には干渉せず放任した。
1973年の渋谷進出にあたっては、若者文化やアートとの協調を掲げ、従来になかったミックス型フロア構成とバラエティ感覚で挑み大反響を呼ぶ。この渋谷パルコの成功体験により、いわゆる「文化戦略」がスタートした。また、渋谷パルコの開業は、渋谷が現在のような「若者の街」へと発展する契機となった。
当時、『資本論』的な資本主義がコモディティ化によって古くなり、技術のイノベーションやコピーライトなどの知的な要素、デザインの美といったものが入らない限り、商品は売れなくなっていった時代だった[4]。
: ──百貨店から先端の文化・情報を発信、客はまるでディズニーランドを回遊するように、渋谷に点在するギャラリーや劇場を巡って知的好奇心を満たす。快適なアメニティをロボットやニューメディアがバックアップしつつ、活動主体はあくまで人間本位。優れた文化を生む自由な社風と、互いに束縛を受けない緩やかな企業連鎖。重複事業までも認め、競合することが逆に発展的効果を促す──[要出典]
こうした数量的ではなく「文学的」経営ビジョンは「感性経営」と呼ばれ話題となった。高度経済成長が一巡し、国民が物質的豊かさを享受するとともに政治的無関心が出現し始めた1970年代は、何か目新しいコンセプト、カルチャーやエンタテインメント性こそが欲望され、タイミングとして絶妙だった。こうして文化全般をポストモダン的に展開するセゾン系独特の手法は、1980年代にパルコ系「アクロス」誌が提唱した「新人類」の台頭によって支えられ、先鋭的ブランドイメージを築いた。
西武百貨店では、池袋本店は全国のモデル店として「文化」を軸に実験的な改装を重ね、また他方では、渋谷西武や渋谷パルコなどで先行開発した渋谷エリアが若者の街として急浮上し、磐石な二極体制ができあがった。池袋本店では最大規模の売上を稼ぎ出しつつ、若者文化の情報発信源と化した渋谷からは、のちに「渋谷系」やストリート系、女子高生文化といった数々の社会現象が生まれ、若者消費を牽引した。
しかし一連の急展開は、名門堤家の信用力をバックに付けた銀行融資に依存したものであり、あくなき投資で見かけ上の規模は膨張を続けるものの、利益率は著しく低いまま借金体質が続いた。
「文化の西武」を遺憾なく発揮させるには、広告から売場の末端に至るまで、外部に依存しない独自展開が必要だった。
1975年、セゾンの文化拠点として西武池袋本店に「セゾン美術館」(西武美術館)を併設。集客狙いの催事場の域を超え本格的な展示に挑み、現代アートを中心とした独自路線の展示を行った。さらに池袋店本館には数多くの文化スペースを設け、次々に新鮮な企画が打ち出された。一方でパルコ系の文化事業は、それ自体がファッション商品であると位置づける。
1975年に大型書店の「リブロ」(西武ブックセンター)、アート系書店で美術品も扱う前衛的な形態だった「アール・ヴィヴァン」(ニューアート西武)が発足。「パルコ出版」や「リブロポート」、「トレヴィル」などを通じて、販売部数は期待できない本格的な美術書や文芸書を独自に出版した。
1979年には、アングラ系小劇場・ミニシアターの先駆けとなる「スタジオ200」、学校外から知識・教養の普及を図る「コミュニティカレッジ」、日本初の総合スポーツ店「スポーツ館」を開設。
現在六本木ヒルズが建つ場所に在った「ウェイヴ」(ディスクポート西武、1983年)は、当時まだ入手困難だった音楽を集め、新たなジャンルを開拓した。
西友はスーパーマーケット業界では劣勢だったため、上質な売場提案による差別化を検討。その一環で開発され1980年に発売したプライベートブランド「無印良品」がヒットした。また脱チェーンストアとして、「西武」の名を冠し立地ごとにカスタマイズした西友独自の百貨店業態を模索した(のちのLIVIN)。
西友は米タイム社と提携し「西武タイム」(現:角川・エス・エス・コミュニケーションズ)で情報誌を展開した。これはのちにチケットセゾンを吸収し、誌面と連携した。
1982年、西武百貨店はテレンス・コンランとの提携による池袋西武「ハビタ館」より家具市場に参入。西友側では「DAIK(ダイク)」を展開し、モダンリビングのトレンドを先取りした。西武百貨店は家具専門のハビタ館の後継ともいうべく、1998年に北欧インテリア専門店「イルムス」と業務提携し、翌1999年に池袋店にイルムス館として日本初導入、スカンジナビアモダンの流行に先鞭をつけた。
1984年の映画配給「シネセゾン」など、セゾングループの映画事業への進出は、旧態依然としていた映画業界の常識を覆す斬新な取り組みが見られた。また、1987年には演劇の場として銀座セゾン劇場を開設した。
1984年には、倒産した大沢商会を傘下に収めたことで、国内高級ブランドのホールセールをほぼ独占、ファッション総合商社の西武が完成。[要説明]
ホテル業では西武鉄道・国土計画グループ(当時)の「プリンスホテル」に、スケールではなく質で対抗し、少数宿泊でラグジュアリーを提供することを目指した「ホテル西洋銀座」を1987年に開業。翌1988年には国際的な高級ホテルチェーン「インターコンチネンタルホテル」を約2,800億円で買収し、西友子会社とした。
1990年代初めのバブル崩壊から長期平成不況期に入ると、イメージ戦略は必ずしも消費と結びつかなくなり、百貨店離れ・スーパー離れを引き起こした。高級消費財や娯楽への消費は抑制され、脱・流通業として手がけられた不動産・ファイナンスは多額の負債を抱えた。またイトマン事件を巡り、西武百貨店関西が絵画取引を巡って許永中など闇社会と関わっていたことが報道されるなど、企業イメージを失墜させる不祥事も発生した。
本業の西武百貨店は、在庫・経費管理の甘さから経常利益が不振となっており(例として、最盛期の1992年は売上高8,081億円に対して営業利益は76億円、経常利益は-104億円であった)、店舗の改装など過剰な設備投資が目立っていた。
カリスマ的な堤家の存在を暗黙の信用担保とした体質、堤清二のワンマン体制、地方の不採算店舗など、華やかなブランドイメージの影で覆い隠されてきた問題が一気に明るみに出た。1991年に堤清二が代表から失脚し、西武百貨店に復帰した和田繁明は、店員の顧客への対応の悪さなどを「西武百貨店白書」で赤裸々に記述した。後に和田はそごうグループの再建にも当たった[5]。
こうして本業が揺らぐ中、不動産開発の西洋環境開発(西武百貨店傘下)とノンバンクの東京シティファイナンス(西友傘下)はともに多額の負債を抱え、1990年代後半のセゾンはリストラを断行した。当初はそれぞれ親会社の西武百貨店・西友でリストラ・資産売却を実施。西友はファミリーマート・良品計画など上場子会社とインターコンチネンタルホテルグループの持株を手放した。1996年には西武百貨店からロフトが分社独立した。
しかし、第一勧業銀行(現在のみずほ銀行)を筆頭とした取引銀行団の意向は強く、それでも残った負債のために、クレディセゾンなど他のセゾングループ企業や、堤清二個人からも支援を要求したため、各所で資産売却を決行し、最後の懸案だった西洋環境開発の清算をもって、2001年に「セゾングループ」は事実上解散した。
旧セゾングループ系各社は、グループの解散により資本的根拠は薄くなったものの、協力関係は一部に残っている。
西武百貨店を傘下に置くミレニアムリテイリング(現:そごう・西武)は、2004年7月、第三者割当増資で野村ホールディングス傘下の投資会社「野村プリンシパル・ファイナンス(NPF)」が500億円、みずほフィナンシャルグループの投資子会社「みずほコーポレート」が400億円出資する事となり、NPFが筆頭株主となった。この時、西武鉄道も10億円を出資している[6]。しかし、翌2005年にセブン&アイ・ホールディングスが株式のすべてを取得し、経営統合すると電撃的に発表した[7]。
2006年9月にクレディセゾン(セゾンカード)は西武ホールディングスと「SEIBU プリンスカード」の発行を開始。2011年にはクレディセゾン単体で扱っていたそごう・西武の提携クレジットカードを、セブン&アイとクレディセゾンの合弁会社であるセブンCSカードサービスへ会社分割の方法で事業譲渡した。現在でもクレディセゾン(セゾンカード)が旧セゾングループの提携カードを発行することが多い。
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