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日本の実業家 ウィキペディアから
白洲 次郎(しらす じろう、1902年(明治35年)2月17日 - 1985年(昭和60年)11月28日)は、日本の実業家[2]。貿易庁長官(初代)[2]。連合国軍占領下の日本で吉田茂の側近として活躍し、終戦連絡中央事務局や経済安定本部の次長を経て、商工省の外局として新設された貿易庁の長官を務めた[2]。吉田政権崩壊後は、実業家として東北電力の会長を務めるなど多くの企業役員を歴任した[2]。
白洲次郎は1902年(明治35年)2月17日、貿易商白洲文平・芳子夫妻の二男として生まれた。祖父に役人、実業家、神戸女学院の創設者の一人である白洲退蔵がいる。白洲家は元三田藩の士族の出である。
次郎の出生地は東京としている本もあれば兵庫県武庫郡精道村(現・芦屋市)としている本もあるが[注 1]、いずれにせよ白洲家は兵庫県川辺郡伊丹町[4](現:伊丹市)に転居し、次郎は精道尋常小学校に通うようになった。御影師範学校附属小学校高等科(現在の中学校)、1914年(大正3年)兵庫県立第一神戸中学校(神戸一中。現在の高等学校に相当)に入学し、[5]サッカー部に所属した。当時、アメリカ車ペイジ・オートモビル(Paige Automobile )のグレンブルックを父親から買い与えられており、級友等を同乗させている写真が残っている。このペイジ・グレンブルックは、同型車が東京都町田市にある旧居武相荘(後述)で展示されている。神戸一中時代には宝塚少女歌劇養成会(現・宝塚音楽学校)の生徒と恋仲になった。同級生の友人には後に作家で文化庁長官となった今日出海、他に中国古典学の大家として、文化功労者になった吉川幸次郎がいる。祖父の白洲退蔵がキリスト教伝道系学校の神戸女学院の創立に関わったことから白洲家には外国人女性教師が寄宿しており、彼女たちから直接英語を学んだ[6]。
1919年(大正8年)神戸一中を卒業し、ケンブリッジ大学クレア・カレッジに留学[7]。史学科の聴講生として西洋中世史、人類学などを学ぶ。莫大な仕送りを受けつつ、のちに7代目ストラフォード伯爵となるロバート・セシル・ビング(ロビン)と親交し、イギリス貴族のライフスタイルを知る[6]。
自動車は、ブガッティ・タイプ35やベントレー・3リットル(1924年)を所有。ロビンと終生の友となり、1925年冬ベントレーを駆ってジブラルタルまでのヨーロッパ大陸旅行(グランドツアー)を実行している。カメラはライカを所有していた[8]。次郎が所有していたベントレー・3リットルは、現在は埼玉県加須市にあるワク井ミュージアムに展示されている(なお白洲次郎のベントレーが現存している、とワク井ミュージアム館長に教えたのは、自動車評論家の小林彰太郎であり、小林の助言により館長は当時の所有者であった英国人と交渉を行い、この車が日本で保存されることになった[9])。またクレア・カレッジ内にある図書館には、SHIRASU COLLECTIONと称した白洲次郎を記念としたセクションがあり、日本関連書籍が並んでいる[10]。
1928年(昭和3年)、神戸市神戸区(のちの中央区)で父の経営していた白洲商店が昭和金融恐慌の煽りを受け倒産したため、留学を断念し、日本への帰国を余儀なくされた[11]。
1929年(昭和4年)、英字新聞の『ジャパン・アドバタイザー』に就職し記者となった。伯爵・樺山愛輔の長男・丑二の紹介でその妹・正子と知り合って結婚に至り、京都ホテルで華燭の典を挙げた。婚姻届は兵庫県川辺郡伊丹町役場に提出されている。
結婚祝いに父から贈られたランチア・ラムダで新婚旅行に出かけた[12]。英字新聞記者を経て1931年セール・フレイザー商会に勤務し取締役となり、1937年(昭和12年)日本食糧工業(後の日本水産)取締役となった。セール・フレイザー商会は明治初期より横浜で貿易商をしていたセールとフレイザーが明治30年に合併し、機関車や兵器などの輸入と銀行業務を行なっていた会社で、社長のジョージ・セールは白洲のケンブリッジ留学時代の学友だった[6][13]。
この間、商談などで海外に赴くことが多く駐イギリス特命全権大使であった吉田茂の面識を得[11]、イギリス大使館をみずからの定宿とするまでになった。またこの頃、牛場友彦や尾崎秀実とともに近衛文麿のブレーンとして行動する。近衛とは個人的な親交も深く、奔放な息子・文隆の目付役をしていたこともあった。
第二次世界大戦勃発の翌年の1940年(昭和15年)、東京府南多摩郡鶴川村能ヶ谷(のち東京都町田市能ヶ谷)の古い農家を購入し、鶴川村が武蔵国と相模国にまたがる場所にあったことから武相荘(ぶあいそう)と名付け、政治や実業の一線から離れて農業に励む日々を送った。
1943年(昭和18年)、疎開先の白洲のもとに召集令状が届くも、英国時代に関係を深めていた東部軍参謀長・辰巳栄一に嘆願して握り潰してもらう。戦後白洲と同じ吉田茂の側近となった辰巳であったが、2009年の米公文書記録管理局の機密解除の結果、辰巳はCIA協力者として日本の軍事機密をアメリカ側に漏洩していたことが判明した[14][15][16]。
1945年(昭和20年)、東久邇宮内閣の外務大臣に就任した吉田の懇請で終戦連絡中央事務局(終連)の参与に就任する。GHQの要求に対して白洲はイギリス仕込みの英語で主張すべきところは頑強に主張し、GHQ要人をして「従順ならざる唯一の日本人」と言わしめた[17]。
昭和天皇からダグラス・マッカーサーに対するクリスマスプレゼントを届けた時に「その辺にでも置いてくれ」とプレゼントがぞんざいに扱われたために激怒して「仮にも天皇陛下からの贈り物をその辺に置けとは何事か!」と怒鳴りつけ、持ち帰ろうとしてマッカーサーを慌てさせたというエピソードが「マッカーサーを叱った男」として伝記等で流布されている[18]。しかし占領期のGHQ関連文書を保管するマッカーサー記念館の調査結果によると、1945年12月から1946年12月にかけての執務記録、面会予定表、ゲストブック、いずれにも白洲の名は無かったため、このエピソードの信憑性には疑義が呈されている[19]。
同年には憲法改正問題で、佐々木惣一京都帝国大学教授に憲法改正の進捗を督促する。1946年(昭和21年)2月13日、松本烝治国務大臣が中心として起草した憲法改正案(松本案)がGHQの拒否にあった際に、GHQ草案(マッカーサー案)を提示されている。GHQ草案の翻訳と日本政府案の作成に当たった白洲は2月15日にGHQ草案の検討には時間を要するとコートニー・ホイットニーに宛てて書簡[注 2]を出し時間を得ようとするが、これはGHQから不必要な遅滞は許されないと言明された。
1945年(昭和20年)12月15日、商工省の外局として設立された貿易庁の長官に1949年(昭和24年)12月1日に就任する。汚職根絶などに辣腕を振るい、商工省を改組し通商産業省(のち経済産業省)を設立した。その辣腕ぶりから「白洲三百人力」と言われる。
同年、日本最大・最新鋭の日本製鐵広畑製鉄所(現:日本製鉄広畑製鐵所)が、日本側に返還されることになった。白洲は外貨獲得のためにイギリス企業に売却を主唱するも、永野重雄の反対によって頓挫した。永野は「(広畑製鐵所を)取れなかったら腹を切る。将来の日本経済のため、製鉄業を外国資本に任せられるか」と啖呵を切ったとされる。
白洲は「俺はボランティアではない」が口癖で、イギリス留学時代の人脈をフルに活用し、主としてイギリス企業とアメリカ企業の日本進出時に代理人を務め、ロンドンに設けた個人口座に成功報酬ベースでコミッションを振り込ませていた。
1950年(昭和25年)4月から5月にかけて、連合国との講和問題で首相特使に任命され池田勇人蔵相や宮澤喜一蔵相秘書官と共に渡米[21]、ジョン・フォスター・ダレスらと会談、平和条約締結の準備を開始した。
1951年(昭和26年)9月、サンフランシスコ講和会議に全権団顧問として随行した。外務省の説明によると、首席全権であった吉田茂は当初、英語で演説を行うつもりだったが、日本の「ディグニティ(尊厳)」のために、当日になって、急遽日本語で演説することとした[22]という。白洲によれば、この時受諾演説の原稿を外務省の役人がGHQの了解を得た上でGHQに対する美辞麗句を並べかつ英語で書いたことに白洲が激怒、「講和会議というものは、戦勝国の代表と同等の資格で出席できるはず。その晴れの日の原稿を、相手方と相談した上に、相手側の言葉で書く馬鹿がどこにいるか!」と一喝、急遽日本語に書き直した。
原稿は随行員が手分けして和紙に毛筆で書いたものを繋ぎ合わせた長さ30m、直径10cmにも及ぶ巻物となり、内容には奄美群島、沖縄並びに小笠原諸島等の施政権返還が盛り込まれた[23]。しかし、サンフランシスコ条約会議に、事務の元締めとして参加した西村熊雄条約局長は、受諾演説文は、日英両国語で作っていたこと、および、吉田は英語で演説するつもりだったが、シーボルド大使が西村熊雄に日本語で演説することを勧めたため、同僚や白州顧問等と相談したところ、皆、賛成であり、吉田にその旨伝えた、としている[24]。
1952年(昭和27年)11月19日から1954年(昭和29年)12月9日まで外務省顧問を務めた。吉田退陣後は政界入りを一部から望む声もあったが政治から縁を切り、実業界に戻った。
吉田側近であったころからすでに公社民営化を推進しており、1949年(昭和24年)には日本専売公社が発足している。そして1951年(昭和26年)5月には、日本発送電の9分割によって誕生した9つの電力会社のうちの1つ、東北電力会長に就任した。また、九電力体制を作った「電力王・電力の鬼」松永安左エ門の私的シンクタンク・産業計画会議の委員に就任した。
就任の同年福島県の只見川流域が只見特定地域総合開発計画に指定されたことから1959年(昭和34年)に退任するまで、只見川流域の電源開発事業に精力的に動き奥只見ダムなどの建設を推進した。
また当時東北地方で開発可能な水力の4分の3を有していた只見川[25]の水利権を巡って、古くからの権利を主張して徹底抗戦してきた東京電力に対し、当時の野田卯一建設大臣を説得して、水利権を東北電力に切り替えるという超法規的措置を引き出した。これによって、東北電力繁栄の基礎が築かれた。
東北電力退任後は荒川水力電気会長、大沢商会会長、大洋漁業(現マルハニチロ)、日本テレビ、英国ウォーバーグ証券(S. G. Warburg & Co.)の役員や顧問を歴任した。
軽井沢ゴルフ倶楽部の理事長を務めゴルフに興じたほか、80歳までエンジンを2400ccに改造した1968年型ポルシェ911Sに乗り、三宅一生のショーにモデルとして出演もした。また、初代ソアラ(Z10型)のオーナーであり、その改善点を伝える形で没後の1986年1月に発売が開始されることとなった2代目トヨタ・ソアラのアドバイスなども行なっており、その際に上記のポルシェをトヨタに寄贈し参考にせよともしている。
しかし1985年(昭和60年)11月に、妻の正子と伊賀・京都を旅行後、体調を崩し胃潰瘍と内臓疾患で入院、同年11月28日に急性肺炎のため東京都港区赤坂の前田外科病院で死去した、83歳没[1]。墓所は兵庫県三田市の心月院である。
妻の正子と子息に残した遺言書には「葬式無用 戒名不用」と記してあった。実はこの遺言書のフレーズは、白洲の父親が死去した際に残した遺言の内容とまったく同じであった。そして白洲の墓碑には正子が発案した不動明王を表す梵字が刻まれているだけで、戒名は刻まれていない。
なお、1987年11月に自動車雑誌「NAVI」で、白洲の生涯を扱った「日本国憲法とベントレー」(その後「白洲次郎の日本国憲法―隠された昭和史の巨人」として刊行)が連載されたこともあり、没後2年を経てにわかに白洲の生涯とその功績が注目されることとなった。
白洲次郎に関する一次資料は、ほとんど現存しておらず、実像としての次郎は謎が多い人物である[注 3][27]。華麗な経歴と整った相貌、彼特有の美学やライフスタイルに、謎の多い人物像も相まって、その存在は彼の死後ある種の伝説的なものとなった。関連書籍や特集記事は多数出版されており、その多くは容姿や振る舞い、行動力に至るまで「外国人(白人)に勝るとも劣らない日本人」として描写されている[28]。
親交のあったフランス文学者の朝吹登水子は、白洲の外見について「白洲次郎さんはとても背が高く、がっしりした体格で、波打つ長髪と彫りの深い日本人ばなれのした容貌で、 4、5 歳の私は『あんな美男子はいないなあ』とびっくりして彼をながめたものである」と述べている[29]。
身長について、孫の白洲信哉は「次郎はいまのぼくと同じくらいでしたから、175cmほどでしょう。不思議なことに新しい伝記が書かれるたびに、どんどん背が伸びているんです。とうとう185cmまで伸びました。身内の間では、そのうち2mを越すんじゃないかって冗談を言っています」と述べている[30](尚、白洲自身がGHQに提出した身上書には身長:1m75cm、体重:65kgとある[31])。
白洲信哉によれば、次郎は吃音があり、本人に言わせると、むしろ日本語より英語(キングズイングリッシュ)のほうが喋りやすかった[30]。妻の正子も「白洲(次郎)は英語のほうがうまかったぐらいの人だったの」と述べている[32]。
欧米文化に素養があったハイカラな大富豪の父・文平のもとで生まれ育ったことに加え、英国留学でストラフォード伯爵家のロビンと交遊した影響などから、英国貴族流のライフスタイル、ダンディズムを好んだ[33]。その一方で、自身が武士の家系であることを自覚し、日本人としての誇りも強く持っていた[34]。
白洲夫妻が戦前から戦後、そして最晩年に至るまで一貫して通い続けた場所が、長野県にある避暑地・軽井沢であった[58][59]。軽井沢は、ヨーロッパに似た高原風景が広がり、明治時代に西洋人や上流階級のために避暑地として開拓された場所で、「日本の中の西洋」と目されていたが[60]、次郎が軽井沢を訪れるようになったのは、妻の実家・樺山家が旧軽井沢の万平ホテルの近くに別荘を持っていたためであった[29]。結婚後、夫妻は旧軽井沢の別の場所に別荘を借り(ハウスナンバー903番)、そこで夏の生活を送るようになる[29][56]。戦後の1956年、軽井沢ゴルフ倶楽部近くの南ヶ丘に新たに別荘を建て、以後そこに毎夏訪れ、晩年まで使用した[56]。
白洲は軽井沢で国内外の著名人らと、東京にいるときと同様に交流を持った。別荘(旧軽井沢)の隣に住んでいた河上徹太郎夫妻の知遇を得、親交を結んだほか[61]、細川侯爵家、三井家、朝吹家、麻生家などの一族と家族ぐるみの付き合いを送り[56]、帝国ホテル元社長の犬丸一郎は白洲に勧められて軽井沢に別荘を建てた[56]。母校ケンブリッジ大学のラグビーチームが来日した際には、軽井沢に彼らを招待している[62]。一方で、軽井沢での白洲の様子を知る長女夫妻によれば、白洲夫妻は、華やかなパーティーに行くのがあまり好きなタイプではなかったとも指摘している[56]。孫の白洲信哉によれば、夕方になると次郎はドライマティーニやジン・トニックなどの食前酒をつくり、それを飲みながら暖炉に薪をくべるのが、軽井沢での日課だったという[55]。なお、軽井沢の白洲家別荘はすでに現存しない(2018年の時点では現存していたようである[63])[56]。
軽井沢ゴルフ倶楽部では、次郎は名物理事長として知られた[64]。東京からポルシェやランドローバーを飛ばしてクラブハウスに乗りつけると、プレーに来る会員たちのマナーに遠慮なく注意したという[65]。白洲本人も、「軽井沢では私がうるさいと評判をとっている」と述べている[44]。なかでも当時首相であった田中角栄とゴルフにまつわる”攻防”が繰り広げられたことは有名である。詳細は軽井沢ゴルフ倶楽部#エピソードを参照。
次郎が最後に軽井沢を訪れたのは、亡くなる直前の1985年秋であり、夫婦のふたり旅であった[61]。
因みに、長女の桂子と夫の牧山圭男(政治家・牧山耕蔵の孫)が初めて出会ったのは、お互いに家族で避暑に来ていた夏の軽井沢である[56]。
ここでは第三者による批判的な白洲次郎評を挙げる。
白洲家は、摂津国三田藩(現・兵庫県三田市を中心とした地域)の儒学者の家柄。曽祖父は白洲文五郎、曽祖母は播磨国小野藩(現・兵庫県小野市)一柳氏の家老黒石氏の娘・里子[76]。祖父は三田藩儒の白洲退蔵(文政12年7月15日(1828年8月15日[76])、現在の兵庫県三田市屋敷町にて出生)。退蔵は明治維新後は鉄道敷設などの事業を興し、一時横浜正金銀行の頭取も務めた[76]。また現在の元町、三宮といった神戸港周辺の神戸市の都市開発や神戸ホーム(神戸女学院大学の前身)の創立にも尽力した。
父・白洲文平はハーバード大学卒業後、三井銀行、鐘淵紡績(カネボウ、現・クラシエ)を経て綿貿易で巨万の富を築き、豪放磊落な人柄で「白洲将軍」と呼ばれた。日本各地に邸宅を築き、なかでも文平が兵庫県川辺郡伊丹町に建てた大豪邸は「白洲屋敷」と呼ばれ、町のランドマーク的存在であったと伝えられている。
宝塚歌劇団・宙組(そらぐみ)は、2008年に「黎明の風」という題名で白洲の波乱の生涯を扱った。2月、宝塚大劇場で初演。同大劇場は宝塚歌劇団の本拠地であり、兵庫県宝塚市は白洲家の出身地である三田市の隣町でもある。2 - 3月は宝塚大劇場で[77]、4 - 5月は東京宝塚劇場で上演。5月にDVDやCDも発売。
白洲を演じたのは同歌劇団理事で専科の轟悠。マッカーサー(大和悠河)や吉田茂(専科の汝鳥伶)をタカラジェンヌが演じ話題となった。白洲は東宝に大きな影響を持ち(本人はフィルム納入等で直接関係を持ち義兄・樺山丑二は東宝取締役、長男・春正は元東宝東和社長)、また前述のとおり白洲が神戸一中時代にタカラジェンヌと知り合いガールフレンドとしたことなど宝塚歌劇団に対する様々なエピソードを持ち、劇中でも触れられている部分がある。
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