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イギリスの住宅 ウィキペディアから
イギリスにおけるタウンハウス (英: Townhouse) とは、貴族の町や市、多くの場合ロンドンでの居宅をいい、彼らの地方でのより大きく荘厳な邸宅であるカントリー・ハウスと対をなすものである。
現代のマーケティングにおいては、イギリスの不動産業者や不動産開発業者、次いで北米の業者が、ヴィクトリア朝に建設された労働者を収容するための安価な集合住宅の否定的なイメージを払拭するために、新しく作られた都市部の集合住宅をタウンハウスと呼んでいる。例えばウェストミンスターのセントジェームズに現存するような貴族の系譜に連なる集合住宅は、ほとんど忘れられているが、本来タウンハウスとは、パリにおけるフランス貴族の居宅であった "オテル・パティキュリエ" (英語版) に匹敵するものである。
歴史的にはタウンハウスとは、貴族、あるいは裕福な家系の都市部における住居であるが、彼らは1軒または複数のカントリー・ハウス、多くの場合マナー・ハウスを所有していて、年間の大半はそちらに住んでおり、その不動産が彼らの資産や政治力の大半を生み出していた。ロンドンの法曹院の多くがこの機能を有しており、例えばグレイ法曹院は、初代グレイ・ドゥ・ウィルトン男爵レジナルド・ドゥ・グレイ (英語版) のロンドンのタウンハウスだった。18世紀以降地主とその使用人達は、ソーシャル・シーズン [注釈 1] (英語版) の間タウンハウスに住むようになった[1] :84-85 [2] 。
また18世紀以降、富裕層、特に庭園のある敷地を持つ者に集合住宅を購入させることは、ジョージアン様式建築 (英語版) の成功例の一つだった。ほんの一握りのタウンハウスだけが戸建てだったが、地方には数百あるいは数千エーカーの敷地を持つカントリー・ハウスを所有する貴族でさえ、都市部では集合住宅に住んでいた。例えばノーフォーク公は、地方にはアランデル城 (英語版) を所有していたが、1722年以降の彼のロンドンでの居宅であるノーフォーク・ハウス (英語版) はセント・ジェームズ広場 (英語版) にあり、30メートル (100フィート) を超える横幅を持つ集合住宅だった。
中世では貴族のロンドンの住居は、ロンドン・ウォールの内側かシティ・オブ・ロンドンの境界内に建てられていて、一般に"イン" (Inn、宿の意) として知られている。例えばリンカーン法曹院 (Lincoln's Inn) はリンカーン伯爵のタウンハウスであったし、グレイ法曹院 (Gray's Inn) はグレイ・ドゥ・ウィルトン男爵のタウンハウスだった。貴族達は次第にシティ・オブ・ロンドンからウェストミンスター宮殿への公式な主要道であるストランド通り沿いに広がっていき、議会と裁判所の機能も移っていった。ケンジントンやハムステッド等の地域は、19世紀までロンドン郊外の村 (ハムレット) だったため、ホランド・ハウス等は真の歴史的なタウンハウスとはみなされない。司教もまたロンドンの住居を持っており、それらは一般に"宮殿" (Palace) と呼ばれ、例えばランベス宮殿、エリー宮殿等がある。多くの貴族所有のタウンハウスは、第一次世界大戦で、焼失したりあるいは居住用としては使われなくなったりした。
ストランド通り最大の邸宅は、その時代王国内で最も裕福であったランカスター公ジョン・オブ・ゴーント (1340-1399) のサヴォイ宮殿である。ストランド通りにはテムズ川河口に面しているという利点があり、そこに邸宅を持つ貴族達は、個人的な荷揚げ場所を確保することができた。次の流行は、テューダー朝の王室が近いセント・ジェームズに向かってさらに西に移動することだった。18世紀に入りコヴェント・ガーデンが、ベッドフォード・エステート (英語版) を所有するベッドフォード公により開発され、メイフェアがグローヴナー・エステート (英語版) を所有するウェストミンスター公により開発された。現代以前の最後の流行は、ベルグレイヴィアの元は沼地であった土地に住居を建てるというもので、ここもまたウェストミンスター公により開発が行われた。以下に、大半は解体されているが、"オテル・パティキュリエ" (英語版) に匹敵するタウンハウスの例を掲げる。
ほとんどのタウンハウスはロンドンにあるが、地方都市にもまたいくつかの歴史的なタウンハウスが存在する。例えば、バンプファイルド・ハウス (第二次世界大戦により滅失) はデヴォン州の州都エクセターにあり、バンプファイルド家のボルティモア男爵 (英語版) のタウンハウスであった。男爵家の地方における主たる居宅はデヴォンにあるポルティモア・ハウスだった。エクセターにはまたベッドフォード・ハウスがあり、これも既に滅失しているが、ベッドフォード公のタウンハウスだった。公爵はベッドフォードシャー州のウォバーン・アビーに住んでいたが、その広大な不動産を管理するために西部に拠点を必要としていた。
"ジョージアン様式のダブリン" (英語版) は5つの広場 (Garden square) (英語版) から構成されていて、それは主要な貴族のタウンハウスを含んでいた。その広場とは、メリオン広場 (英語版) 、セント・スティーブンズ・グリーン (英語版) 、フィッツウィリアム広場 (英語版) 、ラスランド広場 (英語版) (現在のパーネル広場) 、マウントジョイ広場 (英語版) である。それらの広場にある多くのタウンハウスは、現在はオフィスとなっており、一部解体されたものもある[8]。
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