軽井沢ゴルフ倶楽部

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軽井沢ゴルフ倶楽部

軽井沢ゴルフ倶楽部(かるいざわゴルフくらぶ)は、長野県北佐久郡軽井沢町にあるゴルフ場である。

概要 軽井沢ゴルフ倶楽部 Karuizawa Golf Club, 所在地 ...
軽井沢ゴルフ倶楽部
Karuizawa Golf Club
軽井沢ゴルフ倶楽部
軽井沢ゴルフクラブの空中写真。
2015年11月16日撮影の4枚を合成作成。国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成。
所在地 日本
長野県北佐久郡軽井沢町南ヶ丘3000番地
座標: 北緯36度19分51秒 東経138度37分26秒
概要
開業 1931年昭和6年年)7月1日
運営 メンバーシップコース
設計 小寺 酉二
運営者 株式会社 軽井沢ゴルフ倶楽部
コース

OUT IN
HOLEPARYARDHOLEPARYARD
1 4398 1 4384
2 4393 2 4392
3 3214 3 3128
4 4341 4 4356
5 4416 5 5596
6 4425 6 4400
7 3144 7 3191
8 5568 8 4408
9 5480 9 5492
363379 363347

その他
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概要

要約
視点

軽井沢ゴルフ倶楽部は、1919年(大正8年)8月、別荘地の住人の間で「軽井沢にゴルフ倶楽部を」との話が大きくなり、離山の麓の野澤組所有の別荘地で7万坪余を借りて、9ホールのゴルフ場計画が持ち上がったのが始まり[1]。コース設計は、英国のセントアンドリュースで育ったトム・ニコルで、発起人は日本人が8名と外国人9名が集まった[1]

1921年(大正10年)夏、6ホールの造成工事が完成し、翌1922年(大正11年)夏、増設3ホールが完成、計9ホール、距離3,447ヤード、パー36の「軽井沢ゴルフ倶楽部」が開場(現・旧軽井沢ゴルフクラブ)された[1]。コースは、フェアウェイが野生の野芝で、グリーンはサンドグリーンで、全国では第7番目のゴルフ倶楽部だった[1]。クラブハウスはなく、食事は別荘でとるか出前をとった[1]

その後、メンバーも増え、18ホールのゴルフ場にとの声が高まり、成沢地区の南ヶ丘に46万坪が売りに出されたことから、発起人会を8人で結成し新たなゴルフ場建設案が計画され、徳川圀順近衛文麿が発起人代表を務めた[1]1930年昭和5年)3月、クラブの移転とクラブハウスの建設が決定した。ゴルフ場用地は、地代はメンバーが立替購入した[1]

計画では、46万坪を別荘地とゴルフ倶楽部に分け、その別荘地を売却して土地代を返済し、残りをゴルフ倶楽部の建設費にした[1]1931年(昭和6年)7月1日、コース設計は、ゴルフ場建設発起人8人の中のひとりであった小寺酉二が行い、インコース9ホールが造成工事が完了し、開場された[1]。小寺は米国プリンストン大学に留学し、戦後日本ゴルフ協会の中枢で活躍、「軽井沢ゴルフ倶楽部」の他、「相模原ゴルフクラブ」(神奈川県、1955年(昭和30年)開場)、「嵐山カントリークラブ」(埼玉県、1962年(昭和37年)開場)などの設計を手掛けた。

1932年(昭和7年)、アウトコース9ホールの造成工事が完成し、計18ホール、距離6,573ヤード、パー71のゴルフ場が完成し、開場(新軽)された。1932年(昭和7年)、「軽井沢ゴルフ倶楽部」は成沢地区南ヶ丘に18ホールを開設して移転を完了した。発起時の会員数は193名で、名誉会員の皇族が12名、細川近衛鍋島徳川などの華族が30名、三井一族が5名で三菱からは岩崎小弥太1名、ゴルフの赤星家は4名(但し、四郎六郎の名はない)、鳩山家は秀夫・千代子夫妻と一郎、外国人は37名であった[1][2]。移転当時は、クローズな雰囲気の倶楽部だったが、戦後は、作家、有名人、著名人が入会してオープンになった[1]

1943年(昭和18年)、戦況の悪化で閉鎖することになる。終戦後、1945年(昭和20年)8月1日、米軍第7騎兵師団が接収し、乗馬訓練や飛行機の滑走訓練に使われた[1]。1951年(昭和26年)、米軍第7騎兵師団による接収が解除された[1]。再開したときの役員は、理事長が古沢丈作、理事に柏原孫左衛門、小寺酉二、三井栄子アントニン・レーモンド白洲次郎など、監事が鶴見祐輔田中徳次郎[3]。1952年(昭和27年)、白洲次郎が常任理事に就任、1982年(昭和57年)2月、理事長に就任した。この時、倶楽部方針に掲げたのが「PLAY FAST」だった[1]。白洲は、ゴルフは14歳のとき始め英国留学時はやらなかった、ハンディは2までなっている[1]。1950年代から1970年代にかけては、石坂洋次郎吉川英治川口松太郎三益愛子獅子文六邦枝完二宮田重雄佐佐木茂索池島信平ら文士たちもこぞってゴルフに興じ、この集まりは「文壇ゴルフ」と呼ばれた[4]

白洲次郎の後、帝国ホテル元社長の犬丸一郎が理事長職を引き継いだ[5]。公表されている直近の理事長は、陸奥相馬氏第33代当主、相馬和胤[2]

コースは、コース全体的にはフラットだが微妙なアンジュレーションがあり、グリーンは高速グリーンのため、グリーンの攻略がスコアメイクに繋がる。それだけ、フェアウェイやグリーンのメンテナンスは素晴らしい[1]

所在地

〒389-0102 長野県北佐久郡軽井沢町南ヶ丘3000番地

コース情報

  • 開場日 - 1931年7月1日
  • 設計者 - 小寺 酉二
  • コースタイプ - 林間コース
  • コース - 18ホールズ、パー72、6,726ヤード、コースレート73.9
  • フェアウェー - コウライ
  • ラフ - ノシバ
  • グリーン - 1グリーン、ベント(ペンクロス)
  • ハザード - バンカー、池が絡むホール
  • ラウンドスタイル - 全組キャディ付、ビジター全組キャディ付歩いてのラウンド、1組4人原則、状況によりツーサム可
  • 練習場 - 15打席250ヤード
  • 休場日 - 無休、11月~4月冬期クローズ[6]

交通アクセス

エピソード

  • 1930年代にこのゴルフ場で駐日米国大使ジョセフ・グルーハリウッド俳優ダグラス・フェアバンクスとゴルフをプレーしたことは、あまり知られていない[8]
  • 当時総理大臣であった田中角栄が、アメリカ大使をゴルフ場に連れてきて、プレーさせてほしいといったとき、白洲次郎は「日曜日はメンバーズオンリー」とプレーを拒否したという[1]
  • 田中角栄がメンバーとなってから、汗かきで「腰手ぬぐい」でプレーすることが俱楽部で問題となったとき、白洲次郎は「腰手ぬぐいは、角栄さんの必需品」と笑い飛ばしたという[1]
  • 当時の中曽根康弘首相がやってきたときも、白洲次郎は規則を曲げず、お付きの護衛警官をコース内に一歩も入れなかった。中曾根は白洲を「ディシプリン(規律)の権化のような人」と評した[9]
  • 白洲次郎は、ここのゴルフの目的は”競技”ではなく”練習と親睦”であるとし、下手がラインを読むなどもってのほか、誰かひとりが時間を多く使うことは許されない、要する打数が多いのなら、一打にかける時間は短くしなければならないといった[1]。ここで掲げた”PLAY FAST”は、スロープレーの追放のみならず、ゴルファーとしての心構えを呼びかけるものであり、言葉の語源は、「プレーは早く、スウィングはゆっくり」という英国の諺による[10]
  • 1番と10番ティーグラウンドに行く、テラスの時計が白洲次郎の定席だった。周囲に睨みを利かせスロープレーヤーを見かけると、どんな偉い人にでも面と向かって注意した[1]
  • 白洲理事長は、リゾートコースであるから服装も開放的、Tシャツでも良いとし、それまで会則にあったジャケットの着用を義務づけた項を外した[11]
  • 白洲がある日「クラブの中に商品の広告がチラチラするのはけしからん。広告にはすべて絆創膏を貼ってしまえ」と言い出して、理事会でもそれが決まり、冷蔵庫アイスボックスに至るまでみな紙で隠された。それからほどなく、細川護貞が同クラブにプレーしに出かけたところ、まさに白洲が1番のティーグラウンドからスタートするところで、いたずら心を出した細川が「ちょっと待った、待った」と止めたところ、白洲は気勢をそがれて「なんだ!」と不快気な顔をした。そこで細川が笑いながら「あなたは商品の広告に全部絆創膏を貼れといわれたが、あなたのそのボールにも私が絆創膏を貼ってあげましょう」というと「バカ野郎」と言って上機嫌でスタートしていった(細川護煕談)[12]
  • 白洲次郎は特に従業員への対応が手厚で、白洲理事長が急逝した後、会報で、女子従業員による白洲理事長を思い出す座談会を開いたが、女性たちは涙と嗚咽だけで、遂に座談会にならなかったという話も残る[2]
  • 軽井沢ゴルフ倶楽部の特徴として、個室がない、予約システムがなく来場順にスタート、いつでもトーナメントが開催できるようコンディションにある、ビジターのラウンドは可能だが「プロゴルファー」は出入り禁止、新聞記者、警護、秘書や運転手などクラブハウス立ち入り禁止[1]

脚注

関連文献

関連項目

外部リンク

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