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日本における英語、英語圏諸国に関する学問 ウィキペディアから
英学(えいがく)とは、日本における英語及び英語圏諸国(イギリス・アメリカなど)に関する学問・文化全般のこと。狭義においては英語学あるいはこれを中心とした英語主体の学問(英文学など)のことを指す。
幕末の黒船来航以前は、慶長年間にウィリアム・アダムスによって英学教授がおこなわれたが、1623年(元和9年)に平戸のイギリス商館が閉鎖して日英関係が途切れた以降は、西洋の学術はオランダ(ただし、中国経由の漢訳文献もある)から入ってきたために一括して蘭学と呼称された。黒船来航後は他の欧米諸国との交流が開始されるようになると、オランダ以外の言語やそれに基づく学術・知識も流入するようになった。このため、英語及びこれによって記載された英語圏の学術・技術に関する学問を「英学」と称するようになった。
日本に最初に来たイギリス人であるウィリアム・アダムスは、大航海時代が成熟期を迎えていた1600年4月29日(慶長5年3月16日)にオランダ船のリーフデ号に乗り、オランダ人の船長ヤコブ・クワッケルナック、ヤン・ヨーステン(八重洲の地名の由来となった人物)、メルヒオール・ファン・サントフォールト(後に堺で貿易商を営む)らとともに豊後国臼杵の黒島に漂着した[1]。
英国国教会のプロテスタントの信徒であったアダムスは、先に日本で活動するカトリックのイエズス会の宣教師らから激しい抵抗にあうが、徳川家康に航海の目的や世界の情勢などを臆せず説明し、家康から江戸へ招かれることとなった。当時イギリス、オランダと世界で覇権を争うスペインとポルトガルはカトリックの国で、プロテスタントのイギリス人やオランダ人たちの日本進出を防ぎ日本での利権を守ろうと画策したが、家康から疑念を持たれ、彼らの策は失敗に終わった[2][3]。
江戸に迎えられたアダムスは、家康に重用されて外交顧問と通訳を務めるが、外交だけでなく幾何学や数学、航海術などの英学を家康以下の側近に教授した[1][3]。アダムスは、家康にヨーロッパの形勢や貿易の利点なども説き、持っていた海図によって航海の経路などを説明した。こうして家康は、アダムズを顧問にしたことによって、英国の文明に触れ、これまで以上に遠方の世界に視野を拡大していった。スペインが誇る無敵艦隊がイギリスに敗れたことで世界の覇権地図が大きく塗り替えられたことや、イギリスやオランダが新たに東洋を目指して進出していること、加えて、キリスト教にもカトリックだけでなくプロテスタントの存在があることなど、アダムスによって家康は当時の世界情勢をかなり正確に理解することとなった[1][4]。
また、アダムスは船大工としての経験もあったことから、家康から、西洋式の帆船を建造することを要請され、伊東に日本で初めての造船ドックを設けて、1604年(慶長9年)に80tの洋式帆船を完成させ、1607年(慶長12年)には大型の120tの洋式帆船(ガレオン船)であるサン・ブエナ・ベントゥーラを完成させた。この出来事は、日本の造船史上で特筆すべき業績といわれる[5][6]。これらの功績から家康は、アダムスを旗本に取り立て、相模国逸見に采地と三浦按針の名乗りを与えられて、外国人でありながら日本のサムライとなった[1]。
アダムスは、日本とオランダ、イギリス両国との国交樹立を支えた人物としても知られる。1609年(慶長14年)には、オランダとの交易を希望した家康の求めに応じてオランダ国王使節が来日した際には、家康のいる駿府城で外交顧問であるアダムスの協力のもとで日本とオランダとの国交が結ばれオランダの通商が許され、アダムスはオランダ東インド会社日本支店となる肥前国松浦郡平戸島のオランダ商館設置に携わった[7]。また、1613年(慶長18年)にイギリス東インド会社のクローブ号が交易を求めて日本に来航した際にも、一行に付き添い、家康らとの謁見を実現させ、貿易を許可する朱印状を取りつけるなどの手助けをした。同年、上記オランダ商館の近くでアンドレア李旦の屋敷を借りイギリス商館(イギリス東インド会社日本支店)を設置し、日英貿易を開始した[8]。
その後、オランダとイギリスの貿易利権を巡る競争が激化していく中、1623年のアンボイナ事件により、東南アジアや東アジアにおけるオランダの覇権が強まり、イギリスはそこから撤退せざるを得なくなり、日英関係も断絶することとなる。こうして、1623年(元和9年)にイギリスは平戸のイギリス商館を閉鎖し、日本での英学を含む英語圏との交流も閉ざされることとなった。
慶長、元和と続いた日英関係が断たれた後の江戸時代の日本は鎖国状態にあり、英語圏との関係は閉ざされていたが、これらの地域に関する関心度が低かった訳ではない。
文化5年(1808年)のフェートン号事件以後、江戸幕府においてイギリス・アメリカの脅威が議論の対象となり、これらの国々に対する研究が行われるようになった。翌年吉雄権之助らが幕命によって長崎出島のオランダ商館の荷倉役で英語に堪能であったヤン・コップ・ブロムホフより英語の教授を受け、文化8年(1811年)に『諳厄利亜興学小筌(あんげりあこうがくしょうせん)』という会話・単語集が刊行されている。その後、文化11年(1814年)に阿蘭陀通詞の本木庄左衛門(正栄)が中心となって編纂した『諳厄利亜語林大成』という6,000語からなる日本最初の本格的な英単語集が出された。天保12年(1844年)には天文方渋川敬直がLindley Murrayの英文法書のオランダ語訳からの重訳『英文鑑』を刊行した。
また、オランダ語・中国語による英米関係の書籍を翻訳する動きも現れた。吉雄忠次郎が文政8年(1825年)に出した『諳厄利亜人性情志』や安部竜平が嘉永2年(1849年)に出した『新字小識』、小関高彦が安政元年(1854年)に出した『合衆国小誌』などである。
1848年には、日本に密入国したラナルド・マクドナルドが、幽閉先の長崎・西山郷(現・長崎市上西山町)にあった大悲庵(崇福寺の末寺)で、長崎奉行の命により幕府の公式通訳である阿蘭陀通詞14名に英語を教え、日本初の母語話者(ネイティブ)による公式の英語教師となった。生徒であった森山栄之助は後にペリー艦隊来航時に通訳を務めた[9][10]。
また、日本人で最初に生きた英語を話すことができたのはジョン万次郎であろう。彼は英語圏でイマージョン・プログラムを受けた日本で初めての人物とも言える[11]。浜田彦蔵も漂流したのち、渡ったアメリカで教育を受け、洗礼も受けてジョセフ・ヒコと名を改め、アメリカ市民権を得て、日系アメリカ人第1号となった人物である。1859年に初代駐日アメリカ公使のタウンゼント・ハリスによって神奈川領事館通訳に採用され日本に帰国した[1]。
1853年(嘉永6年)にマシュー・ペリー率いる米国艦隊が来航(黒船来航)し、翌1854年(嘉永7年)に日米和親条約を締結しアメリカの圧力で開国すると、これ端緒として洋学研究と教育の必要性が生じ、外交、貿易の面で一部のエリートに国防の手段として英語の習得が急がれるようになった。そのため、江戸幕府はこれまで『蕃書和解御用』で行われていた洋書翻訳事業を独立させることとし、1855年(安政2年)に『洋学所』を江戸・九段下に開設。翌1856年(安政3年)には、これを『蕃書調所』(開成所の前身で東京大学、東京外国語大学の源流)と改称し、ペリー来航時に米国大統領国書の翻訳を行った箕作阮甫が首席教授に就いた。
幕府は下田と後述の箱館(函館)に加え、1857年(安政4年)頃から後述の長崎、神奈川(横浜)で、通訳育成のためにイギリス人やアメリカ人などのもとで英語学習を進めていくこととなる[1]。
また、私塾でも英学が教えられるようになるが、ペリー艦隊来航時に通訳を務めた森山栄之助は、江戸・小石川に英語塾を開き、外交官や通訳として活躍する人材を多く輩出した[12]。
日米和親条約によって、下田と箱館(函館)が条約港としての開港が決まると、下田は条約締結の1854年3月31日に即日開港され、箱館は約1年後の1855年4月17日に開港された。こうして下田とともに日本の最初の開港場となった箱館は、多数の外国船が出入りするようになり、多くの外国人が来訪した。これら訪日外国人によって多くの洋書がもたらされ、洋学への関心が高まっていった。こうした状況の中、1856年(安政3年8月)に、箱館奉行の竹内保徳、堀利煕の申請により、江戸幕府によって北海道初の学問所である『諸術調所』が開設された[13]。武田斐三郎が教授役となり、蘭学に加えて英学が教えられ、航海術、測量、造船、砲術、築城、化学などの教授のほか[14][15]、通訳の養成を行った[16]。江戸の蕃書調所では理論を学べたが、諸術調所では実地を学ぶことができた。この諸術調所で教える武田斐三郎の元で、榎本武揚、前島密(日本近代郵便の父)、井上勝(日本鉄道の創設者、長州五傑の1人)、吉原重俊(日本銀行総裁)、蛭子末次郎(開拓使船長)らが学んだ。新島襄(同志社大学創設者)も入学しようと1864年(元治元年)に箱館に来たが、折悪く武田が江戸へ行っていたために、ロシア領事館に身を寄せて、それがきっかけで、新島は渡米することとなった[14]。
1861年(文久元年5月)に、箱館奉行は阿蘭陀通詞の名村五八郎に命じて、運上所内に『稽古所』を設置し、公務の余暇に英語を教授させた。名村は長崎の阿蘭陀通詞の家の出身で、江戸で英学を修めた名通詞として、1856年(安政3年)に箱館奉行支配調役下役格として箱館に着任している。この幕府による官設の英語教授所は、『稽古所』のほかに『教学所』とも呼ばれ、さらに「箱館洋学所」(変更された年代は不明)となった。ここでの主目的は学術研究でなく、通訳の養成が主な目的であった。五八郎は後述の1860年の万延元年遣米使節に通弁(通訳)として同行しているが、箱館で彼から英語を教授されたなかには、立広作、塩田三郎、海老原錥四郎、鈴木清吉、南川兵吉、東浦房次郎、近藤源太郎、小林国太郎、合田光政、若山恒道、益田孝、三田佶(三田葆光)、下山瑞庵らがいる。その後、五八郎は江戸へ転出したが、英語教育を最も必要とした箱館は、その後任として1865年(慶応元年6月)、江戸の『開成所』(蕃書調所の後身)の教授であった堀達之助(阿蘭陀通詞、ペリー来航時の通訳、ラナルド・マクドナルドに学んだとされる一人)を迎えた[17]。
長崎でも、1857年(安政4年)に、幕府は長崎奉行に命じ、長崎海軍伝習所のあった長崎西役所内に『語学伝習所』を設立し、日米通商修好条約締結の翌月の1858年(安政5年)8月には長崎奉行の岡部長常によって英語に特化した『長崎英語伝習所』が設立された。教師には英国領館員のイギリス人ラクラン・フレッチャー(Lachland Fletcher、後の横浜領事)に加え、オランダ人の2名ウィッヘルス(オランダ海軍将校)とデ・ホーゲルが就任し、阿蘭陀通詞の楢林栄左衛門(栄七郎、高明)と西吉十郎(成度)が頭取を務めた。次いで幕府の公式通詞(通訳)たちは、長常から幕府の伝習所以外でも広く英語を学ぶことを命じられ、1858年9月(安政5年)に長崎に寄港した米国船ポウハタン付きの牧師ヘンリー・ウッドや[18]、1859年(安政6年)1月に寄港した米国人マクゴーワン(Daniel Jerome Macgowan、瑪高温、マゴオン)らに英語を学んだ[19][20]。
1859年(安政6年)4月下旬には米国総領事タウンゼント・ハリスが長崎に入り、開港地となる長崎においてもアメリカの外交拠点を構築するために、ハリスはアメリカ人商人の一人でニューヨーク出身の実業家ジョン・G・ウォルシュ(ウォルシュ兄弟の2番目の弟)を長崎の米国領事に選任する[21]。これに合わせて上海から米国聖公会のジョン・リギンズとチャニング・ウィリアムズがプロテスタント初のアメリカ人宣教師として、それぞれ長崎に来日し、ハリスの支援の下、長崎奉行・岡部長常からの要請で崇福寺広徳院に立教大学の源流となる私塾を開設し、鄭幹輔、何礼之(大阪洋学校/現・京都大学創設者)、平井義十郎(平井希昌)ら公式通事(唐通事)たちに英学の教授を行った。この塾は日本におけるミッションスクールの起りであった[22]。リギンズは、漢訳の科学書や歴史書、医学書、聖書等を多く頒布し、特に『聯邦志略』は、アメリカ合衆国の独立宣言、歴史、地理、政治、文化、行政、教育等が具体的に書かれており、近世封建社会下にあった当時の多くの日本の志士に影響を与えた[23][24]。また、リギンズは、日本の英学会話書の嚆矢と言われる『英和日用句集』を出版し、現在利用されるローマ字綴りを編み出した[25][26]。1859年11月にはオランダ改革派の宣教師グイド・フルベッキも長崎に来日し、リギンズとウィリアムズの出迎えを受けて崇福寺広徳院に同居し、英学を教授していく。当時は、ハリスが加えた日米通商修好条約の第8条によって、本国人の宗教の自由と居留地内での教会設置が認められ、宣教師は外国人向けの礼拝は行えたが[27]、日本人への宣教活動は禁じられていた。しかし江戸幕府は、上述の通り、開国で増加する外交活動を支える通訳を育成する必要性から語学教育を推進し、長崎奉行を通じて宣教師らに英語教授を要請し、宣教師らは要請を受けて英学教育を展開した。また、1860年8月には米国聖公会の宣教医であるハインリッヒ・シュミットも長崎に来日し、私塾と診療所を設けて英語教育とともに、長崎奉行の認可も得て医療活動と医学教育を行った[28][29]。
こうした活動の背景には、アメリカ総領事でニューヨーク市立大学シティ・カレッジを創設した教育者としても知られるハリスの支援があったが、ハリスは「宣教師たちが英学教育と医療活動を進めることが伝道上の良策であり、慎重堅忍よく慮って、熱心に駆られて行き過ぎることのない様に自制して働くならば、最後の栄冠を受けるだろう。」と述べ、宣教師らによる教育と医療の活動を援助した[30][31]。また、ハリスの支援の元で活動したリギンズも、「英語を学ぼうとする日本人に英語の書物を提供することで、両国民の間の社会的かつ友好関係が大いに促進される。また、キリスト教者として貧しい人々や悩んでいる人に善意を示し、すべての人々に親切と礼儀をもって接することによって宣教師に対する偏見を取り除くことができ、同時にかつて陰謀を企てたイエズス会などとは違うものであるということを観察力のある日本人に確信することができる。」と伝えており、ハリスと同調して活動を行い、日本の英学教育の発展に寄与した[32]。
1862年(文久2年)に長崎英語伝習所は、片淵郷の組屋敷内の乃武館(だいぶかん、旧・長崎原爆病院跡地、旧・済生会長崎病院跡地)の内に移転して『英語稽古所(英語所)』と改称され、1863年(文久3年7月)には、英語稽古所は立山役所の東長屋に移転し、リギンズとウィリアムズに学んだ唐通事の何礼之と平井義十郎(希昌)が同所頭取に任命された[20]。同年(文久3年12月)、英語稽古所は江戸町の活版所跡に移転し、『洋学所』と改称され、ウィリアムズとフルベッキはこの洋学所でも英学を教授する[20][33]。この洋学所へ繋がる幕府の教育機関である長崎英語伝習所の組織は、日本人への布教が許されていなかった外国人宣教師達の良き就職場所にもなった[34]。
長崎に加えて神奈川・横浜にもアメリカ人宣教師が上陸し、英学教育が進められていくことなるが、1859年10月に米国長老教会の宣教医であるジェームス・カーティス・ヘボンが上海から長崎経由で神奈川・横浜に到着すると、成仏寺本堂を住まいとし、宗興寺に神奈川施療所を設けて医療活動を開始する。翌11月にはフルベッキの同僚であるオランダ改革派のサミュエル・ロビンス・ブラウンとデュアン・シモンズも神奈川・横浜に上陸し、ブラウンはヘボンの住む成仏寺の庫裡を間借りして、シモンズは夫妻で宗興寺に居住した。その後、ブラウンは領事からの依頼で英語を指導することとなり、1862年には幕府によってヘボンを中心に組織された『横浜英学所』が開校され、英学教育が行われた。教師にはブラウン、ジェームス・ハミルトン・バラ、ディビッド・タムソンの3人の宣教師が就任し、長崎でリギンズに学んだ石橋助十郎(政方)や太田源三郎らも教鞭を執った。シモンズは、1860年に宣教師を辞任するが、その後も医師として日本で医療と医学教育を行った。1863年(文久3年)に、ヘボンは横浜居留地にヘボン塾(明治学院の前身)を開設。同年、箕作秋坪の紹介で眼病を患った岸田吟香を治療し、これをきっかけに当時手がけていた『和英語林集成』を岸田吟香が手伝うようになる。1866年(慶応2年)には和英語林集成の印刷のため、ヘボンは岸田吟香と共に上海へ渡航し、1867年(慶応3年)に和英語林集成を出版した。
1862年8月には、横浜のイギリス領事館の初代チャプレンとして英国国教会のマイケル・ベイリーが来日し、翌年10月にはプロテスタントとして横浜で最初の教会である横浜クライストチャーチ(現・横浜山手聖公会)の初代聖堂が横浜居留地105番(現在の中区山下町同番地)に完成すると、教会の初代チャプレンに任命される。ベイリーは聖職の傍ら、英語塾を開き、日本人に英語を教えた[35]。
鎖国状態下では、貿易の窓口となった長崎を除いてほぼ文献のみを通じて西洋文明に接していたのであるが、黒船来航以後の開国への動きと状況に伴い、攘夷派とは異なり、西洋文明の現実を体験理解し、日本へ移植することで日本の近代化を図ろうとするものが幕府や藩の中にもあり、明治維新を迎えるまでおよそ300人の海外使節や留学生が海外に派遣された[1]。
江戸幕府による使節としては、最初に1860年の万延元年遣米使節(第1回遣米使節)が派遣されたが、これは幕府の有力な役人に欧米文化の実態を見学させて、日本に一大改革を実行しようという開国主義者であった閣老堀田正睦とタウンゼント・ハリスの深謀遠慮によるものであった。次いで、1862年の文久遣欧使節(第1回遣欧使節)、1864年の横浜鎖港談判使節団(第2回遣欧使節、遣仏使節)、1865年の外国奉行・柴田剛中らの慶応元年遣欧使節(第3回遣欧使節、遣英使節)、1866年の外国奉行・小出秀実らの第1回遣露使節、1866年の勘定奉行・小野友五郎らの第2回遣米使節、1867年の前年に注文した軍艦の受取と書籍購入のため派遣された小野友五郎らの第3回遣米使節がある[1]。
幕府による留学生としては、1861年の内田恒次郎、榎本釜次郎、大野規周(日本で最初の懐中電灯を造った人物)らのオランダ留学生、1865年の山内作左衛門、市川文吉、小沢清次郎、大槻彦五郎、田中次郎、緒方城次郎の6名によるロシア留学生が組織された。1866年(慶應2年)に幕府は、3000石以上の者に英仏両国へ留学することを許可し、同年に開成所から中村正直(敬輔、敬宇、同人社創設者)、箕作奎吾、外山正一、菊池大麓、川路寛堂(川路太郎)、林董など14名を選んでイギリスに留学させた。彼らは80名程の志願者から試験で選抜された俊才で、多くが20歳未満であった。中村正直が35歳で、川路太郎が23歳で共に留学生の取締を命じられた。彼らは途中英国が東アジア・東南アジア・地中海の要所のことごとく占有していることに驚き、ロンドンに到着してからは、エレベーターや夜の街を真昼の如く照らすガス灯に驚嘆したことが、川路によって『英航日録』に記されている。彼らは教師のロイドの家で猛勉強をしていたが、幕府が倒幕して送金が途絶えたことから、慶應4年6月25日に横浜に帰国した。その時、一行の頭髪はすでにみな散切頭にしていたため、そのままの姿で江戸に入れば、浪士たちから襲われることが必至であると危惧された。そのためやむなく、つけまげなどをして江戸へ帰ったという。中村は英国が世界の最強国となったのは、イギリス国民の自主自立にあると悟り、その後に『西国立志伝』を翻訳し、明治のベスト・セラーとなった[1]。また、後述の長州五傑の井上馨や伊藤博文なども英国留学中は散切頭にしたものの、帰国後は、まげ姿に戻している
諸藩においても公式にあるいは秘密裏に藩の使節や留学生を海外に送りだしたものがあった。
諸藩では、藩主によって、その藩の子弟を教育するための学校である藩黌(藩校)が設置され、その教科は大体においては昌平坂学問所(昌平黌)の教科に倣ったものであったが、藩により、また時代の状況の応じて変動があった。各時代による教科の変遷として、寛永から宝永では、漢学、習字、宝暦から安永では、これに皇学、医学が加わり、天明から享和では算術、洋学が加わり、文化から天保では、さらに天文学と音楽が加わった。このように当初は漢学と習字だけであったが、次第に科目が増えて、幕末においては外国との関係が喫緊な課題となるにつれ、洋学関連の科目が追加されていった。幕末においては、幕府が蘭学を奨励したため、諸藩もその政策に沿って蘭学を奨励した。ペリー来航を端緒として、従来の外圧への抵抗策を外圧への順応策に切り替えて、特に軍事力の強化の推進を図った。当時は英国の国際的地位の高さとやアメリカとの関係などからも、文化、技術、思想、外交、貿易などすべての面で英語学習の重要性が痛感されたため、幕府とともに諸藩でも英語教育に力を注いだ[1]。
上記以外の藩においても、前述の薩摩、佐賀両藩の規模には及ばないが、英学が採用された。いくつかの例を挙げると、岩瀬肥後守忠震は、1858年(安政5年)江戸向島の別墅において、英書の講読を開始した。1865年(慶応元年)11月には、膳所藩でも英語を課目に加えており、翌年、広島藩では洋学伝習所において英語の教授を開始している。佐倉藩の成徳書院においても、年代を不明だが、幕末の外交交渉当った開国論者であった藩主の堀田備中守正睦が3年制の洋学校を設置し、蘭学、英学、医学、砲術など新式の学術を強く奨励した。その他、土佐藩、福井藩、熊本藩、長州藩においても、英学が次第に起っていた[1]。
英学の流行にともない、開港地の長崎や神奈川(横浜)での外国人による私塾以外にも日本人による英学私塾の設立も多くなるが、明治維新前に設置された主な塾として以下の塾などがある[1]。
明治以降の日本のおける英学の流れとしては、引き続き幕末に来日した宣教師らによる教育活動が挙げられる。プロテスタント初の宣教師として1859年(安政6年)に幕末の長崎で立教大学の源流となる私塾をジョン・リギンズとともに創設した米国聖公会のチャニング・ウィリアムズは、1868年(明治元年)11月に次の拠点地となる大阪を訪れ[48]、翌年7月に大阪に活動拠点を移し、大阪・川口の外国人居留地近くの与力町の自宅に小礼拝堂を設け、さらに翌年の1870年(明治3年)に『英学講義所』(後の大阪・英和学舎/立教大学の前身の一つ)を開設する[49]。その後ウィリアムズは東京に移ると、1874年(明治7年)2月に東京・築地に英学を教える『立教学校』を開設した。
1863年(文久3年)に米国長老派教会のジェームス・カーティス・ヘボンが横浜で開いた『ヘボン塾』は、1880年(明治13年)に築地居留地へ移転し『築地大学校』となった後、1883年(明治16年)9月には横浜の先志学校を併合して『東京一致英和学校』となった。1886年(明治19年)6月には、 同校は東京一致神学校、英和予備校と合併して『明治学院』となった[50]。こうした先駆となった宣教師に続いて、明治維新後の日本には多くのキリスト教宗派の宣教師が来日して、英語教育を始めとする英学の教育活動を展開していった。
明治維新にともない、英学に触れ、欧米の近代文明に触発された日本人による英学教育もさらに活発化していった。福澤諭吉が英国国教会のキングス・カレッジ・スクールをモデルとして、1868年(慶應4年)に創設した英学塾の『慶應義塾』は[46][47]、明治維新後に米国長老派教会のクリストファー・カロザースや、英国聖公会福音宣布協会のアレクサンダー・クロフト・ショーらを始めとする外国人宣教師を雇い入れ、カリキュラムの近代化を進め英学教育を本格化させた。また、福澤が1866年(慶應2年)に出した『西洋事情』は広く読まれ、慶應義塾では、ジェレミ・ベンサムやヘンリー・バックルなどの著書を通じて英米の歴史・法制・思想などの研究も行われて官民に多くの人材を輩出した。
続いて中村正直がサミュエル・スマイルズの『西国立志編』、ジョン・スチュアート・ミルの『自由論』を翻訳して、自立・勤勉・節約などの近代資本主義社会の倫理を広め、1873年(明治6年)には英学塾の『同人社』を創設した。この他にも札幌農学校教頭ウィリアム・スミス・クラークに代表されるお雇い外国人や同志社を創設した新島襄、女子英学塾を創設した津田梅子などの功績は高く評価されている。
英文学の普及は少し遅れて1880年代以後のことになる。井上哲次郎らによる『新詩体抄』の翻訳、坪内逍遥の『小説神髄』による紹介などを通じて英文学が伝えられ、明治16年(1883年)2月に河島敬蔵が、日本初となる原本によるシェイクスピア劇の完全な逐語訳『ジュリアス・シーザー』を『欧州戯曲ジュリアスシーザルの劇』として発表した[51]。同年10月には井上勤がチャールズ・ラム版のシェークスピアの『ヴェニスの商人』を『西洋珍説人肉質入裁判』というタイトルで刊行している[52]。坪内は後に東京専門学校(現早稲田大学)で英文学を教えた。東京帝国大学でも明治24年(1891年)に英文学科が置かれて夏目漱石・土井晩翠らを輩出する。
しかし、1890年(明治23年)にはビスマルク憲法(ドイツ帝国憲法)を模範とした大日本帝国憲法が施行され、ドイツを手本とした国家・法体系が確立されていくにつれて、イギリス・アメリカに対する語学・文学以外の面での関心は衰退し、代わって獨逸学が大きな影響を持つようになる。以後の英学は英語とそれに関連した学問研究に縮小されていくことになるが、1910年代に入ると「英語学」と「英文学」の分離が生じ、更に1930年代に入ると「米文学」や「英語教育」の分野も独立して考えられるようになっていった。
戦前日本における英語ブームとしては、斎藤秀三郎の英和辞典、英語文法書といった、その後の日本の英語学(のみならず、英語に関係する学問分野)に大きな影響を残した業績が生まれた(日本の学校英語の範型は、斎藤秀三郎の『実用英語文法』 (Practical English Grammar) で確立されており、また、彼の経営した「正則英語学校」には、英語学者市河三喜や、英米法学者高柳賢三等が学んでいる。加えて、彼の著作である『熟語本位英和中辞典』は、その後の英和辞典に大きな影響を与え、今日に至っている)。
1941年(昭和16年)になると、ABCD包囲網(夏)に反発した日本軍が真珠湾攻撃とマレー沖海戦(いずれも12月)を起こしたため、英語は敵性語とされ、軍部を中心に英単語の日本語への置き換えが進められた。
1945年(昭和20年)9月2日には第二次世界大戦の敗北により、日本は1952年(昭和27年)4月28日にサンフランシスコ講和条約が発効し主権回復するまで、GHQ(実質的には主にアメリカ)の進駐を受けた。連合国軍占領下の日本において、復興面でも多大な支援を受け、政治・経済・文化のあらゆる面で密接なつながりを持つようになった。
第二次世界大戦までは、英米両国がいずれも大国(多極体制)であった。しかし、冷戦時代には、アメリカが超大国(二極体制)となったため、超大国アメリカの政治的・経済的影響から義務教育や中等教育にもアメリカ式英語が取り入れられ(英語 (教科))、一般の人々も英語に触れる機会は増え、どん欲にカタカナ英語として日本語の中に定着するなどの動きが活発になった。
冷戦終結後の現在は、アメリカを中心としたグローバル経済の到来が語られ、世界ビジネスに不可缺な道具として、世界共通語としての英語が重要視されている。また、不況によるリストラを受けた労働者の能力向上学習に対して国・政府の補助が出るなどから、英会話教室のビジネスが一つのマーケットとなっている。
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