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イギリスの歴史学者 ウィキペディアから
ヘンリー・トマス・バックル(英: Henry Thomas Buckle, 日:伯克爾、1821年11月24日 - 1862年5月29日)は、イギリスの歴史学者。History of Civilization in England〈イングランド文明史〉)の著者[1][2][3]。
1821年、裕福なロンドンの哲学者・商人であるトマス・ヘンリー・バックルの息子として、ケント州のリー区(Lee)に生まれた。病弱であったため、正式な学校教育を受けることが困難であった。そのような幼少期を過ごしたが、読書に対する愛情が大いに励みとなった。20歳になる前に、世界でも屈指の実力を誇るチェスプレーヤーとして、その名を知られるようになった。1840年1月に父親を亡くした後、母親と共に大陸を旅する(1840年から1844年まで)。その際に、全ての学識と熱意を偉大なる歴史的業績に注ぐことを決意する。以後17年間に渡り、1日に10時間もの時間を研究に費やしたと言われている。
当初は中世史に関する研究を進めるつもりであったが、1851年までに文明史研究に専念することを決意した。以後6年間は執筆作業(編集と改訂)に取り組み、#History of Civilization in Englandの第1巻が1857年に刊行された[4]。これにより文学的・社会的名声を確立した。1858年、王立研究所において人生初の公開講義"Influence of Women on the Progress of Knowledge"(知識の進歩に対する女性の影響力)を行なった。この講義は1858年4月にフレイザー誌上に公刊され、のち Miscellaneous and Posthumous Works[5]〈著者の死後に出版された種々の功績〉(1872) の第1巻に再掲載された。
1859年4月1日に母親を亡くす。この喪失感は、彼が当時書いていたJ・S・ミルの『自由論』に対する論評に影響を与えた。この論評はフレイザー誌、および〈著者の死後に出版された種々の功績〉(1872) に掲載された。
#History of Civilization in Englandの第2巻が1861年5月に出版される[4]。その後まもなく、健康上の理由からイングランドを去り旅に出る。1861年の冬から62年の3月初旬までエジプトで過ごし、シナイとエドムの砂漠を越えてシリアの方角へ向かい、1862年4月19日にエルサレムへ到着した。11日後、ベイルートからヨーロッパに向けて出発したが、ナザレで熱病にかかり、その後ダマスカスで死去した。
バックルの名声はひとえに#History of Civilization in Englandによって今日まで残っている。これは未完成に終わった壮大な構想の序説であり、その構想は、第1に「著者の方法論の原理」および「人間の進歩の道筋を決定する一般的な法則」について述べ、第2にスペインやスコットランド、アメリカそしてドイツといった、顕著で独特な特徴を持つ実際の国々の歴史を通してそれらの原理や法則を例証するというものであった。その主な見解は以下の通りである。
バックルは歴史を正確な科学として扱ったことで記憶されている。このことが彼の着想の多くが学問上の一般的な見解とされた理由であり、その姿勢は後続の社会学者や歴史学者たちのさらなる正確かつ入念な科学的分析へと引き継がれていくことになったのである。
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