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火薬と金属の粉末を混ぜて包んだ鑑賞物 ウィキペディアから
花火(はなび、煙火)は、火薬と金属の粉末を混ぜて包んだもので、火を付けて、燃焼・破裂時の音や火花の色、形状などを演出するもの。火花に色をつけるために金属の炎色反応を利用しており、混ぜ合わせる金属の種類によって様々な色合いの火花を出すことができる。野外で使用するのが一般的であるが、室内で使用する場合もある[1]。[2]
花火の光・色彩・煙を発生させる火薬の部分を星(ほし)という[3]。多くの場合は火薬が爆発・燃焼した時に飛び散る火の粉の色や形を楽しむが、ロケット花火やへび花火(蛇玉)、パラシュート花火のように、火薬の燃焼以外を楽しむものもある。花火大会のほか、イベントなどの開催を告げるため、また、祝砲の代わりにも使われる。
花火(広義の煙火)は、打揚花火や仕掛花火など「がん具煙火以外の煙火」と「がん具煙火」に大別できる[5]。
信号又は観賞用の煙火は消費方法によって打揚煙火(打上花火、打揚花火)と仕掛煙火(仕掛花火)に分類される[5]。
火薬を球状に成形した「星」を詰めた紙製の球体「玉」(煙火玉)を打ち上げる花火である。上方を向いた円筒の底に発射薬を敷きその上に玉を置き打ち上げに備える。打ち揚げは「投げ込み」と呼ぶ火種を円筒上方の射出口から投げ入れて発射薬に点火する。打ち上げと同時に玉から出ている導火線に引火し、玉は所定の高さまで上昇しながら導火線が燃え玉内部の割火薬に到達し玉が破裂し星に引火・飛散する。玉の大きさ(花火の高さ)によって発射薬の量と導火線の長さが調整・選定される。玉の破裂後、星には光の尾を引きながら燃焼するもの、落下途中で破裂するもの、色が変化するものなど、様々なタイプがある。玉の内部に星を均一に詰めることが重要であるが、詳細な技術は花火師の秘伝とされる。
複数の花火を利用するなど作為的に仕掛けを施した花火。
信号又は観賞用の煙火は構造や性能によって煙火玉(花火玉)と煙火玉以外の煙火に分類される[5]。
打上花火の主流は、打ち上げ時に光が同心円状に広がるものが多く、玉そのものの形も球形をしている。これに対し、初期の花火は打ち揚げても円状にはならず、花火そのものの形も円筒形のものが多かった。円筒形の花火は、球形に比べ、火薬量などを増やすことができ、華やかな光や色を出すことが可能であるが、破裂途中で色の変化をさせることは困難だとされる。かつて、日本の花火も同心円状に広がるものの製造は困難で、一部の武家花火師のみの秘伝とされていたと言われるが、明治期に鍵屋十二代目弥兵衛が技術を取得し、以後、円形の花火が多く作られるようになったとされる。
伝統的に打上花火の「玉」の大きさは寸、尺で表される。直径約6.06cmの二寸玉(2号玉)から直径約60.6cmの二尺玉(20号玉)、さらに三尺玉(30号玉)、四尺玉(40号玉)まである。二尺玉は直径約500m程度、世界最大といわれている四尺玉は直径約800m程度まで広がる。ただし、この号数表記は打ち揚げ筒(内側)の太さであって、実際の花火玉の直径はこれよりも若干小さくなる。具体的には、20号玉の直径は60cmではなく約57cmである。また、最近[いつ?]開発された世界最小の打ち上げ花火は、玉の直径1cm、打ちあげる距離は2m。ただし、まだ開発段階のため、実用化。
『世界の果てまでイッテQ!』の企画で、開花時の直径が推定1kmになる花火玉(四尺三寸大千輪)を作り、打ち揚げた。しかし、花火玉自体が重過ぎたために上昇せず水中で爆発、失敗に終わった。
煙火玉(花火玉)は割物とぽか物に分類される[5]。
代表的な打上花火である「割物」の鑑賞のポイントとして以下のようなものがある。
煙火玉はスターマインなどの仕掛花火にも用いる[5]。
かつては玩具花火とも呼ばれたが、日本煙火協会での表記はこちらに統一されている[注 1]。購入や使用に免許が不要な花火の総称で、線香花火のような手で持つものが代表的なものであるが、小型ではあっても打上花火になっていて、筒があって上空で破裂するものも存在する。日本では日本煙火協会が出荷品の検査を行っており、合格したものには「SFマーク」がつけられる。
火薬量の制限は、花火の種類により異なるが、最高でも15グラム以下となっている[11][注 2]。おもちゃ花火であっても、束ねて使う場合はおもちゃ花火とは見なされず、煙火(届出・免許が必要な花火)としての届出が必要になる[12][13]。
おもちゃ屋などで単品で発売されることも多いが、大抵は一つの種類の数本入りから複数種類の花火100本くらいを詰め合わせにしたものが、晩春から初秋にかけてスーパーマーケットやホームセンター、駄菓子屋などで売られている。
帰省や旅行の際、旅先で使うために出発前に購入したり、使い切れなかった花火を自宅に持ち帰ったりすることがあるが、花火を携行して交通機関を利用する場合、持ち込みに禁止や制限があるので注意を要する。航空機を利用して旅行する場合、安全上の理由から少量であっても機内への持込みも受託手荷物の取り扱いも出来ない[14][15]。列車・バスを利用する場合、少量の持ち込みはできるが、持ち込める量に制限がある[注 3]。また、宅配便での発送はできない[18][19]。
原子を励起した時に電子が外側の軌道に移り、元の軌道に戻る時に放出されるエネルギーに応じた色の光を放出する炎色反応および放射を利用している[26]。添加される元素はアルカリ金属、アルカリ土類金属が多く用いられる。
花火の起源については諸説ある。一般的には花火のルーツは古代中国の狼煙(のろし)とされ、煙による通信手段であり、火薬の技術の発達とともに花火が誕生することとなった[27]。
21世紀の現代において、中華人民共和国は世界の花火生産量の9割を占めると推定されており、最大の輸出国である[28]。「四大花火の里」と呼ばれる地域にメーカーが集積している(江西省万載県・上栗県と湖南省瀏陽市・醴陵市)[28]。
ヨーロッパに伝わったのは13世紀以降で、初期のものは祝砲の音を大きくしたり、煙に色などがつくようにしたりしたものだったと考えられる。ヨーロッパでの主な生産地はイタリアで、火薬と花火製造が盛んに行われた。
鑑賞用の花火は14世紀、イタリアのフィレンツェに始まるとされ、キリスト教の祝祭で用いられる人形に口から火を吐く仕掛けのために用いられたとされている[27]。
16世紀になるとイングランドで花火の技術が大きく進歩する。1532年、ヘンリー8世は王室軍隊の花火師を徴用するための規則を定め、戴冠式や王室の結婚式、誕生日などでテムズ川で水上花火を楽しんだという記録がある。
さらに17世紀になるとポーランドやスウェーデン、デンマークなどに花火学校が設立され、体系的な知識を有す専門的な花火師集団が形成されていった[27]。イングランドのジェームズ1世はデンマークから技術者を招聘し、娘エリザベスの結婚式を花火で盛大に祝った。また1672年にはウリッジ兵器廠に花火研究所が設立され、1683年には花火に関するテキストが刊行されるなど、花火技術は漸次発展していった。
日本における花火の最古の記録としては、室町時代の公家万里小路時房の日記『建内記(建聖院内府記)』1447年5月5日(文安4年3月21日)条に記されている。浄華院における法事の後に境内にて、「唐人」が花火と考えられる「風流事」を行ったという記事が確認されている。そこでは、竹で枠を作り、火で薄や桔梗、仙翁花、水車などの形を表現したもの、火が縄を伝って行き来するといったものや、「鼠」と称し火を付けると「走廻」るもの、手に持って火を付けると空中を「流星」のように飛ぶもの、などが披露されたという。時房は「希代之火術也」と賞賛し、褒美を与えている。
この時代は足利義満の死後途絶えていた日明貿易が足利義教によって再開されており、花火も大陸から持ち込まれていたとも考えられる。
少なくとも戦国時代には鉄砲や火薬とともに鑑賞用の花火が伝来したとされている[27]。まもなく日本でも花火が製造されるようになったとされているが、以後もキリスト教宣教師や「唐人」といった外国人の手による花火の記録が多く見られる。
1582年4月14日(天正10年3月22日)にポルトガル人のイエズス会宣教師が現在の大分県臼杵市にあった聖堂で花火を使用したという記録(『イエズス会日本年報』『フロイス日本史』)は、大友宗麟が花火を活用して聖週間の祭儀をキリシタンを増やすための盛大な公開イベントとしたものである。聖土曜日の夜から翌明け方までの復活徹夜祭では、三つの城楼から花火細工が出て来る仕掛けが、三千もの提燈(教会堂や日本の物語を象った夜高行燈)の行列に豪華さを加えた。さらに数々の花火が「空中で実にさまざまな形となった」ので人々は皆立ち止まって花火見物をした。そして真夜中には教会堂も中庭も広場も立錐の余地もない人込みとなった[29]。
外国人による花火の技術を学び日本でも独自に花火が作られたと考えられるが、その最初はよくわかっていない。1585年に、現在の栃木県栃木市で、皆川山城守と佐竹衆が戦のなぐさみに花火を立てたという説もあるが、戦の最中に当時貴重だった火薬をそのようなことに使うはずがないという主張もされている。
太田牛一著『信長公記』巻十四に見える1581年2月18日(天正9年正月15日)のところに「御爆竹の事」に見える「御爆竹」を花火の爆竹であるとし、安土城下で爆竹(花火の一種)の製作されたと考える説もあるが、これは竹を燃やして音を立てる小正月の催しの一つとして少なくとも鎌倉時代から行なわれているものであり、火薬を使用した花火であったかどうかは即断できない。
ただし、この頃には鉄砲に使用する需要から火薬の大量生産が行なわれるようになって、日本独自の花火の製作も行われていたことであろう。
戦国時代から江戸時代初期にかけて「花火見物」が行われたとする記録としては、伊達政宗が居城の米沢城で、1589年8月17日(天正17年7月7日)夜、「大唐人」による花火を見物したというもの(『貞山公治家記録』『伊達天正日記』など)、1613年8月に徳川家康が駿府城で英国使節ジョン・セーリスと謁見した際、同行した明の商人から火の粉が筒から吹き出るような形状の花火を見せられたという記事(『駿府政事録』『宮中秘策』『武徳編年集成』)などがある(但し政宗の記事は元禄頃の編纂資料によるものであり、家康の記事と酷似するなど問題が指摘されている)[27]。
江戸時代になり、戦がなくなると、花火を専門に扱う火薬屋が登場した。徳川発祥の地である、岡崎を中心とした三河地方(現在の愛知県東部)は江戸時代、徳川幕府によって唯一、火薬の製造・貯蔵を公式に許可されていた。そのような歴史もあり花火は昔から岡崎を中心とした三河地方に普及発達し、全国に三河花火の名をほしいままにした。その名残か、現在においても三河とその東隣の遠州地方(現在の静岡県西部)周辺は全国的にみて煙火の製造業や問屋が多く集積している。
1648年には幕府が隅田川以外での花火の禁止の触れを出しており、花火は当時から人気があったとされる。当時のものは、おもちゃ花火であったと考えられる。1712年頃出版された絵入り百科事典『和漢三才図会』(寺島良安著)には、鼠花火、狼煙花火[30]などが紹介されている。
花火禁止令が慶安元年(1648年)、寛文5年(1665年)、寛文10年(1670年)などにも出され、江戸中では、花火は全く行われないようになり、漸次地方へ移っていった。打ち上げ事故が起き、禁令が出されるということを繰り返したとされている。
2013年時点で現存する日本で最も古い花火業者は、東京(当時の江戸)の宗家花火鍵屋であり、1659年に初代弥兵衛がおもちゃ花火を売り出した。
鍵屋初代弥兵衛は大和国篠原(吉野郡、後に奈良県五條市)出身であり、幼少の頃から花火作りに長けていたと言う。1659年、江戸に出てきた弥兵衛は葦の中に星を入れた玩具花火を売り出した。弥兵衛はその後研究を続けて両国横山町に店を構え、「鍵屋」を屋号として代々世襲するようになり、現代に続いている(2018年時点で15代目)[31]。その後、大型花火の研究を進め、1717年には水神祭りに合わせて献上花火を打ち上げている。
なお、隅田川川開きの花火の起源として、これまで広く流布していた言説に次のようなものがある。
しかし、このエピソードは、明治中期から昭和初期にかけて徐々に創られていったものであり、歴史的事実とはかけ離れている[32]。例えば、コレラの日本国内での流行は、1822(文政5)年に西日本一帯で起きたのが最初であり[33]、1730年代に流行したというのは事実に反する[34]。詳細は「隅田川花火大会」を参照。
鍵屋と並んで江戸の花火を代表したのが玉屋である。玉屋は六代目の鍵屋の手代であった清吉が1810年に暖簾分けをして、市兵衛と改名の上、両国広小路吉川町に店を構えたのが始まりである[35]。
このように鍵屋、玉屋の二大花火師の時代を迎えるようになった江戸では、両国の川開きは、両国橋を挟んで上流を玉屋、下流を鍵屋が受け持つようになった[27]。「たーまーやー」「かーぎーやー」というかけ声が生み出された[注 4]。当時の浮世絵を見ると玉屋の花火は多く描かれており、また「橋の上、玉や玉やの声ばかりなぜに鍵やといわぬ情(じょう)なし」(「情」と鍵屋の「錠」をかけている)という狂歌や「玉屋だと またぬかすわと 鍵屋いい」という川柳が残っていることからも、玉屋の人気が鍵屋をしのいでいたと考えられる[独自研究?]。しかし1843年5月16日(天保14年4月17日)、玉屋から失火、店のみならず半町(約1500坪)ほどの町並みを焼くという騒動があった[37]。当時、失火は重罪と定められており、また偶然ながら将軍徳川家慶の東照宮参拝出立の前夜であったことから厳しい処分が下され、玉屋は闕所(財産没収)、市兵衛は江戸お構い(追放)となってしまい、僅か一代で家名断絶となってしまった[37]。
当時は、鍵屋のような花火専門業者の花火は町人花火と呼ばれた。このほか、大名らが配下の火薬職人らに命じ、競って隅田川で花火を揚げたという。これらの花火は武家花火と呼ばれる。特に、火薬製造が規制されなかった尾張藩、紀州藩、水戸藩の3つの徳川御三家の花火は御三家花火と呼ばれ、江戸町人らに人気があった。また仙台の伊達家の武家花火も、伊達政宗以来の豪放な藩風を反映させ、仙台河岸の花火として江戸町人の人気を得て、見物人が大挙押しかけ、江戸藩邸近くの萬年橋の欄干が折れるという事故まで発生している。武家花火は、戦に用いる信号弾のようなものが進化したもので、狼煙花火と呼ばれ、いわば垂直方向に着目した花火であり、色や形を楽しむ仕掛け花火を中心とした、いわば平面に特化した町人花火とは方向性が異なった。この方向の違いを共に取り入れたのが現代の日本の花火技術である。
日本煙火芸術協会創立者で煙火に関する書物を数多く著した花火師の武藤輝彦(1921年 - 2002年)によれば、打揚花火は、1751年に開発されたとされている。それ以前の花火は、煙や炎が噴き出す花火であったと考えられている。
鍵屋は第二次世界大戦期に十三代天野太道が花火製造を取りやめ、2013年時点では打ち揚げ専業業者となっている。
花火に関しては特に江戸での記録が多く残っているが、これ以外の地方で花火が製造されなかったわけではない。特に、外国と交易のあった九州と、長野県、愛知県などでは、江戸時代から花火が作られていた。特に、三河国岡崎地方(愛知県岡崎市付近)は徳川家康の出身地ということで、火薬に関する規制が緩やかであり、江戸時代から町人が競って花火を製造した。2013年現在も岡崎周辺におもちゃ花火問屋が多いのはこの名残だといわれる。これ以外の日本国内での花火の主な産地は長野県、新潟県、秋田県、茨城県で、徳川家にゆかりのある地方が多い。
ヨーロッパで18~19世紀に化学の発展によって新しい化合物が合成され、それらを原材料にした「西洋花火」が明治元年(1868年)に日本に初めて輸入された。[38]
明治時代になると、海外から塩素酸カリウム、アルミニウム、マグネシウム、炭酸ストロンチウム、硝酸バリウムといった多くの薬品が輸入され、それまで炭火色といわれる橙色の強弱のみで表現されていた花火に新たな色彩が加わったばかりか明るさも大きく変化した[27]。これらの物質の輸入開始は1879年から1887年にかけて段階的に行われ、日本の花火の形は大きく変化した。これ以前の技術で作られた花火を和火、これ以後のものを洋火と言い分けることもある。
新たな薬品によって多彩な色彩を持つ鮮やかな花火が誕生した反面、化学薬品に対する知識不足から相当な事故が発生したのも明治時代である。特に塩素酸カリウムは他の酸性薬品と混合すると不安定になり、僅かな衝撃でも爆発する危険性が高まる性質を有しており、和火時代の酸化剤として使用していた硝石と同様に扱った場合重大な事故を招く結果となった。
多彩な色彩を持った洋火を大規模に打ち上げた記録としては、1889年2月11日の大日本帝国憲法発布の祝賀行事で、皇居の二重橋から打ち揚げたものである。
それまで、花火の製造は打ち揚げには何の免許も規制も存在しなかったが、1910年に許可制となった。これ以前の地方の花火は、農家などが趣味で製造しているものが多かったが、この後、化学知識を駆使する必要から花火師の専業化が進むことになる。
大正期には発光剤としてのマグネシウムやアルミニウムなどの金属粉が登場し、夜空により鮮やかに大輪の華を咲かせられるようになった。また塩素酸カリウムに鶏冠石を混合した赤爆を編み出し、大きな発音効果を有す花火が完成していった。また青木儀作や廣岡幸太郎などの名花火師が登場したのも大正期である[27]。
このように順調に技術を発展させていった花火であるが、昭和に入り、日中戦争など戦火が拡大する世界情勢下で、停滞期を迎えることになる。花火製造は禁止はされないかわりに高い物品税がかけられたが、それでも当初は出征兵士壮行の花火や、英霊を迎える慰霊花火など、慰霊祭や戦勝祈願の花火が上げられていた。しかし戦火の拡大により隅田川川開きの花火大会も1937年に中止となった。そんな中、花火製造業者は防空演習で使用する発煙筒や焼夷筒(焼夷弾の音を再現する)を製造していた。
第二次世界大戦敗戦後は1945年9月に長野市の諏訪神社で花火が揚げられるが、翌10月に連合国軍総司令部(GHQ)により火薬製造が禁じられた。しかし、1946年7月4日には、各地のアメリカ軍基地で日本業者がアメリカ独立祭の打ち揚げ花火を揚げ[27]、戦後初の花火大会として1946年8月10日、岐阜市の長良川河畔で全国煙火大会(後に全国花火大会となる)、9月29日と30日に茨城県土浦市で開催された第14回全国煙火競技大会(後に土浦全国花火競技大会となる)、1947年の新憲法施行記念で皇居前広場(皇居前広場では最後の花火打ち上げとなった)などが行われた。
日本の花火製造業者の粘り強い説得により、1948年にはGHQが在庫花火の消費を許可。これを受け両国花火組合主催、読売新聞社が後援、丸玉屋小勝煙火店が単独で打ち上げる、両国川開きの花火大会が1948年8月1日に復活した。この時は打ち揚げ許可量僅か600発であったが、平和な時代の大輪の華に70万人の観客があった(『両国川開年表』)。
敗戦後はおもちゃ花火を含め、日本の花火は海外に多く輸出されたが、2013年時点では中国からの輸入量の方が多く、輸出は激減している。多くの花火業者は、2013年時点でも地元に根付いた零細・中小企業であり、技術を親の手から子の手へと伝える世襲制をとっている。
日本では、夏の夜の風物詩とされている。一部の自治体では大規模な花火の打ち揚げを「花火大会」と称して行っている。花火大会の大半の開催時期は7、8月に集中している。
主に歴史のある花火を紹介する。この中には手筒花火の様に地方公演も行うなど地域交流の1つともなっているものもある。
日本の花火大会一覧を参照。
戦後、花火が解禁された1948年8月1日の記念に、東京本所厩橋で大規模な花火爆発事故の起きた1955年8月1日の追悼、世界最大ともいわれる教祖祭PL花火芸術の開催日8月1日の記念を兼ね、花火の日が8月1日に制定された(1967年制定)。このほか両国川開きが旧暦5月28日であったことから、5月28日も花火の日となっている。
サプライズ花火は事前に予告せずに打ち上げる花火である[39]。シークレット花火ともいう[40]。2020年代前半に新型コロナウイルス感染症の流行に伴い、密集を避けるため等の理由で度々行われた[39][41]。
花火の取り扱いには国ごとに法規制がある。がん具としての花火にも文化により法規制に違いがある。国によっては花火の爆音が銃声と混同されかねないことから、記念日以外は花火の使用を禁止していることもある。
火薬類取締法による規制がある。
消防法では危険物の扱いを受ける。
航空法により、打ち上げる花火が到達する空域によっては、打ち上げが禁止される場合、または打ち上げる場合に事前に国土交通大臣への届出が必要な場合がある(制限表面も参照)。 また、災害発生時に緊急用務空域が指定された場合、花火の打ち上げに一時的に許可または通報が必要となる。
日本の「がん具煙火」に相当する物は「consumer fireworks」(消費者向け花火、花火師が上げる物はprofessional fireworksと呼ばれる)と呼ばれる。それらの取り扱い(購入、所持、消費)には、州ごとに年齢制限(多くの州は16歳)があり、消費も年末年始や独立記念日前後に限られている場合が多い[42]。
パーティー用クラッカーなど一部の品目を除き購入や消費に制限がある[42]。
パーティー用花火(party popper)やクラッカーボール(throwdown)などを除き、がん具煙火の購入や消費などにも年齢制限(原則満18歳)がある[42]。
手持ちスパークラー(handheld sparklers)やパーティー用花火(party popper)、噴水(ice fountain)などを除き、がん具煙火の購入や消費などにも年齢制限(原則満18歳)がある[42]。
がん具煙火の購入や所持には年齢制限(満16歳)があるが消費に許可は不要[42]。
花火により、重金属の残留物、硫黄化合物、粒子状物質、その他の低濃度の毒性物質などを含有する煤煙が生じる[43][44][45][46]。 これらの燃焼による副生成物は、原材料の混合の仕方により大きく異なってくる。 (例えば、バリウム塩を加えることで、花火の緑色を出すことがある[43]。これらの物質には毒性のあるものも含まれる。)
また花火は過塩素酸塩の排出源にもなっているとされてきた[47][48][49]。 アメリカ合衆国環境保護庁のリチャード・ウィルキンらは、環境中の過塩素酸塩による人体や野生動物への影響を念頭に置いて、水域上空での花火類の使用についての研究を行った。 過塩素酸塩の排出源は雷や特定の化学肥料からロケット燃料や爆発物中に含まれるものまで多岐にわたる。 科学者らは長年の間、地域の花火大会がもう一つの排出源となっているのではないかと疑ってきたが、ほとんど研究がなされていなかった。 ウィルキンの研究グループは2004年、2005年、2006年に花火大会の前後にオクラホマ州にある湖の水を分析することで、花火が過塩素酸塩汚染の原因の一つであることを立証した。 花火大会から14時間以内に、過塩素酸塩の濃度はバックグラウンド濃度の24倍から1,028倍へと上昇した。 24時間後に濃度は最大となり、20日から80日後には大会前の水準へと落ち着いた[50]。
過塩素酸塩は固体塩の一種であり、地下水や表流水に容易に溶解し移動する。 過塩素酸塩が飲料水に混じっていると甲状腺のヨウ素の取り込みが阻害されることが知られている[48][49][51][52]。 連邦全体での飲料水の基準は現在存在しないものの、いくつかの州では公衆衛生の目標や対策レベルを既に設定しており、最大基準値を確立しようしている州もある。 たとえば、アメリカ合衆国環境保護庁では飲料水と同様に環境への過塩素酸塩による影響が研究されている[53] 。 またカリフォルニア州は過塩素酸塩使用に関する指針を発行した[54]。
花火からの汚染物質は健康リスクについての懸念を招く。 大多数の人について長期にわたり多数の排出源からの低レベルの毒物へ暴露した場合の影響というのはよく分かってない。 一方でぜんそく患者や多種類化学物質過敏症の患者にとっては、花火からの煙が疾患を悪化させる可能性がある[55][56]。
マサチューセッツ州を含む複数の州は過塩素酸塩についての飲料水の基準を立法化してきた。 カリフォルニア州議会では2003年に過塩素酸塩汚染防止法(AB 826)が制定された。 この法律ではカリフォルニア州有害物質規制局(DTSC)に対して過塩素酸塩および過塩素酸塩の含有物質についての最適な管理方法を示す規制を採択するよう求めた。 この管理方法は2005年12月31日に採択され、2006年7月1日に施行された[57] 。 またカリフォルニア州は飲料水の基準を2007年に制定した。 アリゾナ州、メリーランド州、ネバダ州、ニューメキシコ州、ニューヨーク州、テキサス州を含む複数の州では、強制性のない勧告基準を制定した。
司法もまた過塩素酸塩汚染に関連した判決も下してきた。 例えば、2003年にカリフォルニア州の連邦地方裁判所は、過塩素酸塩は発火性であり「特徴的に」有害な廃棄物であるを理由に、包括的環境対処・補償・責任法の適用を決定した[58]。
中国の製造業者と協力し、汚染物質である過塩素酸塩を低減し、究極的には除去しようとしていると主張する米国企業も存在する[59]。
インドでは都市部を中心に大気汚染が深刻化している中で、ヒンドゥー教の祭日であるディーワーリーの時期に鳴らされる爆竹が汚染レベルの悪化に拍車を掛ける傾向が見られた。2017年、インド最高裁判所は、ディーワーリ前後の期間の爆竹販売を禁止した[60]
花火の事故としては、花火工場における製造過程での事故と花火大会における実演時の事故とに大きく分けられる。花火大会における事故は、花火の危険性だけでなく、群集事故など多くの観客が集まるために起こりうる事故を防ぐために事前にさまざまな予防措置が運営側によって施されるようになっているが、まだまだ防ぎ切れていない。また、家庭で行なわれる花火でも、火薬の危険性を十分認識していない児童が遊戯の主体であるため、取り扱い時の不注意や、ふざけて人、動物、物に向けるなど危険な行為を行なう[61]ことによって、事故を起こしがちである。また、遊戯後の火の不始末による火災の危険性もある。
家庭、公園等の個人で花火をする時は、バケツなどに水を汲むなどしていつでも消火できる環境にして遊び、燃え尽きた後の花火はきちんと水で消火を行い、十分に鎮火したことを確認したあと処理すること。また、小さい子供だけ等の成人した管理者が不在ので花火をするのは避けること。不発の花火(特に打ち上げ花火のものは「黒玉」と呼称される)には再発火や爆発の危険があり、水に漬けるなどの処置が必要となるので放置、管理を行う。
従来から花火の事故は多くあったが、統計が残っているのは1950年代ごろからである。1950年代から1960年代にかけては花火工場の爆発事故が多く、毎年10人以上の死者が出ていた時代もあった。多くは花火工場が爆発し従業員が死亡するというものだったが、近隣の建造物や一般人の生命に危害を及ぼしたものもあり、これらの事故により花火製造に関する規制は徐々に厳しくなった。ただし、安全な種類の火薬を用い、保管量を守れば、そのような事故の大部分は防げたはずだという主張もある。
野球で両チームが本塁打を打ち合い、点の取り合いになる状況を「花火大会」と形容する。この場合、冒頭に球場名が付く事もある。
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