浅野中学校・高等学校
神奈川県横浜市にある私立中高一貫男子校 ウィキペディアから
神奈川県横浜市にある私立中高一貫男子校 ウィキペディアから
浅野中学校・高等学校(あさのちゅうがっこう・こうとうがっこう)は、神奈川県横浜市神奈川区子安台一丁目に所在し、中高一貫教育を提供する私立男子中学校・高等学校。
浅野財閥の創始者・実業家である浅野總一郎が明治期に欧米を視察し、フォード・モーター等米国の有力企業で人材教育が重視されていることを受け、当時の日本の教育が教養主義に偏っているのを憂い、1920年(大正9年)淺野綜合中學校を設立。施設利用の効率化による勤労主義、実学教育、広い視野の獲得を主としたゲーリーシステムを導入し、学校内に実習工場を設置、幅広い知識と実践的指導力を身に付けさせる科学技術教育と実用的な語学教育を特色としていた。旧校名である浅野総合中学校の「綜合」には、教養主義に陥らない幅広い知識と実践的指導力を身に付けさせるという意味が込められている。
実学主義に基づく幅広いバランスの取れた教育を行うという新しい理念をもって創立された学校である。教養と高度な職業能力を併せ持ち、リーダーシップを発揮しうる人材を浅野セメント(日本セメントを経て、現在の太平洋セメント)や日本鋼管(今のJFEホールディングス)などの浅野財閥各社をはじめとする企業へ供給するということを意図していた。
戦後の学制改革に伴い旧制中学を改組し中高一貫体制を確立し、1995年度(96年度入学)を最後に高校入学の募集を停止した。1980年代頃より、東京大学や国公立大学医学部などの難関大学[2]への進学実績を伸ばしており、栄光学園、聖光学院と共に「神奈川男子私立御三家」の一つに数えられている[3][4]。
京浜工業地帯、横浜ベイブリッジを眼下に見渡す高台に位置し、曇天でもよく見える。晴れた日には遠くに富士山を望むこともできる。58,655m2の広大な敷地を有し、そのほぼ半分は淺野總一郎翁像がある「銅像山」と呼ばれる自然林に占められ、豊かな緑で包まれている。校地の東側に隣接する「子安台公園」は、戦前まで校地の一部であったが、戦時中に陸軍に高射砲陣地として接収され、返還されることなく公有地となったものである。
学校周辺には防空壕跡がある。防空壕には主に、数百人の生徒や重要書物などが保管された。各学年ごとに防空壕が作られていた。
制服は中高ともに黒の詰襟で[5]、かつては制帽もあった[要出典][6]。通学の際には指定のカバンまたはリュックサックを携帯することを義務付けられている。また、スマートフォンの持ち込みは申請で許可される。
生徒の自主学習を促すためアルバイトは禁止されている。
自主独立の精神、義務と責任の自覚、高い品位と豊かな情操を具えた、心身ともに健康で、創造的な能力を持つ、逞しい人間の育成に努める。
中学と高校で異なる。中学の校章は、浅野綜合中学校の時代から受け継がれているもので、3つのAを三方位に配置し、月桂樹で形作ったものである。「A」は浅野の頭文字であると同時に“一番・優秀”を表し、三方位は浅野綜合中学校の綜合教育である「智能啓発」(知育)「品性陶冶」(徳育)「体育励行」(体育)の"知・徳・体"の標榜を表したものである。校章を包む二枝の「月桂樹」は、浅野生に与えられる"勝利の冠"を意味し、そこには勝利という結果だけではなく、勝利を目指して自らを鍛え、何度失敗しても起き上がって挑戦をする勇気を持てほしいという願いが込められている。
戦後、高校が設立された際に、「高」に置き換えた浅野高等学校の校章も作られた(ただし模様は異なる)。
作詞:高野辰之 作曲:信時潔 旧制浅野綜合中学時代に制定された。戦時中、3番の「身を立て道を尽くして後に…」の部分が「身を立て国に尽くして後に…」に変更されていた。浅野学園同窓会 ホームページで、聴くことができる。
特色として、希望大学への進学を実現するための6ヵ年カリキュラム、授業を基本にした効率的な指導、実績に裏付けられたオリジナルテキスト(数学、歴史など)の利用、の3点が挙げられる。3学期制が導入されている。
運動系17部、文化系12部。任意加入である。
戦前~戦後間もない頃は神奈川県内屈指の野球の強豪校として知られ、甲子園に春1回・夏3回出場している。最高位は全国ベスト8。戦後は、夏の県大会優勝1回(甲子園出場)、同ベスト4が2回、秋季県大会優勝3回、春季県大会優勝1回。
棋道部は近年、文部科学大臣杯中学校囲碁団体戦全国大会で好成績(第3回大会はベスト8、第4回大会は優勝、第5回大会は準優勝)を収めている。
中学・高校で単一の生徒会『浅野学園生徒会』が組織されている。
生徒会役員の構成要員は生徒会長、高校副会長、中学副会長、会計、書記の5つであり、それぞれ毎年度10月頃公示・1月頃投開票の生徒会役員選挙により翌年度の生徒会役員が選出される。
なお、中学副会長は時に浅野中学校の生徒代表として扱われ、中学スポーツ大会の開会宣言、中学校卒業式の式辞朗読などを行うことがある。
敷地内には、グラウンド、本館、中学棟、高校棟、講堂、生徒ホール、図書館(清和書林)体育館(打越アリーナ[8])、第1広場、多目的コート、部室(クラブハウス)、テニスコート(3面)、ハンドボールコート(2面)、浅野總一郎翁の銅像がある。地下2階、地上5階建ての高校棟は最新機器を導入したコンピュータ室、ICT教室、120インチビデオプロジェクターを備えた語学演習室[9]をはじめ先進の教育環境を整えている。2007年春には中学棟に新しくエレベーターが設置されるなどバリアフリー化も進んでいる[10]。スポーツ施設が各種整い、クラブ活動や体育の授業に活用されている。2014年には開校95周年を記念した独立した図書館(清話書林)、バスケットコート2面、バレーコート4面、バドミントンコート12面相当のアリーナ、それぞれ2面ずつの柔道場・剣道場、10台ある卓球場、1面のボクシングリング、30メートル×2レーンのアーチェリー場、温水・ヒーター付の25メートル×8の室内プール(冬場は暖房費がかかるので使用不可)を備え、冷暖房完備の体育館(打越アリーナ)が建設された。体育館は県内有数の規模を誇り、アーチェリー場を除くすべての施設は公式試合を行う際の基準を満たしたものとなっている。2017年には学内全体に115台の無線LANアクセスポイントを導入[11]し、教員にタブレット端末を支給。2021年度には中学の生徒全員へのChromebookの導入がなされた[12][13]。
校地の南東に銅像山と呼ばれる小高い山がある。頂上に浅野總一郎翁の巨大な銅像が置かれている。台座には、浅野總一郎が設立に関与した各企業名等の他、彼の業績が讃えられている。徳富蘇峰による頌徳文も刻まれている[14]。山頂は駐車場としても利用される広場になっており、浅野總一郎が開拓した京浜工業地帯を見下ろせる。2020年の創立100年に合わせて広場に「100周年記念リング」が設置され、床には浅野總一郎の辿った軌跡が記されており浅野總一郎の銅像の目線の高さまで上ることができる[15]。また初代校長水崎基一像が中学棟西側のフリースペースの中、浅野サク像が中学棟2階講堂入口横に置かれている。
銅像山西側斜面には昭和後期まで防空壕がそのまま残されていた。戦時中は、浅野財閥の日本鋼管の重要書類を空襲から守るためにこの防空壕に保管した[16]。防空壕はエスケープポイントして活用されていた時期もあったが、現在はコンクリートで固められている。
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