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日本の財閥 ウィキペディアから
浅野財閥 (あさのざいばつ)は、浅野総一郎が設立した財閥である[1]。十五大財閥の一つに数えられる。
浅野財閥 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
創業者: | 浅野総一郎 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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標章: | 会社ごとに異なる | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
浅野総一郎がコークス販売で成功を収めたのをきっかけとして、渋沢栄一の渋沢財閥の支援の下、大規模化していった。1884年(明治17年)、官営工場である深川セメント製造所の払い下げを受けて浅野セメント(日本セメントを経て現:太平洋セメント)を創立。以後、同社を中核企業として発展した[2]。
第五銀行を買収し、日本昼夜銀行後の浅野昼夜銀行と改称した銀行を経営していたが業績不振に陥り、安田財閥に売却したため傘下に銀行を有していない[3]産業財閥。このため浅野総一郎と同郷である安田善次郎率いる金融財閥の安田財閥との強いつながりが生まれ、同財閥の産業部門的な性格を有していた。徳富蘇峰はこの関係を、浅野はエンジン、安田は石炭と当時は主要燃料だった石炭にたとえた[4]。浅野財閥は、安田財閥からの資本に依存していたが、安田財閥が資金を出したのは、浅野総一郎や一族の経営能力を高く評価したからである[5]。
安田財閥からの支援によって、1896年(明治29年)に東洋汽船(日本油槽船、昭和海運を経て、現:日本郵船)を設立した後、1920年(大正9年)に浅野造船所(ユニバーサル造船を経て、現:ジャパン マリンユナイテッド)を設立し、造船や、鉄鋼業にも進出した。1908年(明治41年)には鶴見埋立組合(鶴見埋築、東京湾埋立会社、東亜港湾工業を経て、現:東亜建設工業)を設立し、1913年(大正2年)から横浜市鶴見地区の埋立(浅野埋立)を開始した。埋立地には原材料運搬等に供することを目的に鶴見臨港鉄道(現:JR鶴見線・川崎鶴見臨港バス・東亜リアルエステート株式会社等)を開通させ、浅野セメントのほか、総一郎の女婿である白石元治郎が設立した日本鋼管(現:JFEホールディングス)、創業者一族が総一郎夫人の遠縁で沖牙太郎の死後に総一郎が経営を引き取った沖電気(現:沖電気工業)[6]、三菱財閥の旭硝子(現:AGC)などが立地。京浜工業地帯として発展した。
第一次世界大戦による好景気から1920年(大正9年)の大恐慌までの5年間に、20以上の新会社を設立して、またたく間に巨大になった[7]。1918年(大正7年)8月、浅野総一郎により一族の投資による証券保有会社、浅野同族株式会社が設立され財閥化した[8]。その後は反動恐慌、震災恐慌、金融恐慌、昭和恐慌(世界恐慌)が連続して、浅野財閥は苦境に陥ったが[9]、安田財閥の支援によって倒産を免れた[10]。1928年(昭和3年)には、直系企業の払込資本金額では三井財閥、三菱財閥、安田財閥、住友財閥に次いで5位の財閥で、直系企業・直系企業子会社・傍系企業の払込資本金額の合計では、住友財閥より上位の4位の財閥だった[11][12][13]。1931年(昭和6年)の満州事変と金輸出再禁止以降、日本経済は回復し浅野財閥も業績が改善する[14]。浅野同族株式会社は、1944年(昭和19年)6月に、株式会社浅野本社に社名を変更した。
戦後の連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)による財閥解体で、1947年(昭和22年)3月に、三井、岩崎(三菱)、住友、安田、中島、浅野、大倉、古河、野村、鮎川の10財閥の56家族が資産凍結と持株の提出を命令され、また、財閥系企業の役職を辞任させられた[15]。ここに浅野財閥は解体された。
傘下の企業は戦後、旧安田財閥の富士銀行(戦前の安田銀行、現:みずほ銀行)をメインバンクとした。また同行が音頭を取って社長会である芙蓉会(芙蓉グループ)を結成すると、日本セメント、昭和海運、日本鋼管、沖電気工業はメンバーとして名を連ねた[16]。
浅野財閥は銀行を持たないので、他財閥などと共同で会社を設立して資本を得て、その会社の経営を浅野一族が掌り、傘下会社はそれぞれ証券保有会社を持ち、これを通した資本投下と浅野自身の資本を合わせて孫会社の支配を行うという方法で、小額資本にもかかわらず非常に多数の会社を支配した[17]。それゆえ、浅野一族は各人が2ダースから3ダースの会社の重役を兼務していた[18]。その主な共同出資者は安田財閥、渋沢財閥、大川平三郎、田中栄八郎、徳川家(旧将軍家)、尾高豊作である。それでも資金が足りないので、安田財閥の安田銀行を筆頭に、渋沢財閥の第一銀行や、日本興業銀行、台湾銀行などから融資を受けて財閥を運営した[19]。
浅野財閥は、政商や鉱山業から発生したのではない点でも、また自らの事業から他社・他財閥を排除しない点でも、例外的な財閥だった[20][21]。
浅野財閥の企業は、戦前から、「浅野」を社名に使わない企業が多く(下のグループ企業を参照)、マークも各社で異なり、統一されていなかった。
浅野財閥では、投資による支配、重役を送り込む支配、直接支配、間接支配など、複雑多様な支配形態があり、そのうえ、大会社が比較的少なく群小会社が特に多いので、全ての会社を把握することが困難である[22]。資本金は別にして、直系会社の数では、三井・三菱・安田などの財閥を凌ぐ[23]。昭和18年時点で、直系・傍系会社は94社、公称資本金7億円[24]。
セメントは歴史の古さでも、規模でも、投資額でも、浅野財閥の中心である。北は北海道から、南は台湾まで、日本全国に浅野財閥のセメント工場が散在し、日本のセメント生産高の半分以上を占めると言われた[44][45]。
満州事変以降の軍需景気により、製鉄業・造船業が拡大躍進し、セメントに代わり、浅野財閥の花形となった[100]。
埋立築港事業は浅野財閥の専売特許のようなもので、他の追随を許さない[150]。
浅野財閥は古くから海運業に携わり、第一次世界大戦の頃は、東洋汽船が成功して、セメントに次ぐ事業になったが、戦後の大正15年に経営悪化で日本郵船に身売りしてからは、見るべきものがない[184]。
浅野財閥の鉄道事業は、セメント原料運搬の必要から経営する事になったものが多い[245]。
浅野財閥は一時は銀行経営にも手を出したが、失敗したため、産業財閥に留まる。
浅野総一郎は早い時期から石油に関わり、最初の浅野石油部は成功したが、その後の会社は失敗に終わった。
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