冨士 眞奈美(ふじ まなみ、1938年〈昭和13年〉1月15日 - )は、日本の女優・随筆家・俳人。血液型はA型。本名、岩崎 真奈美。アンテーヌ所属。俳号は衾去(きんきょ)。
概要 ふじ まなみ 冨士 眞奈美, 本名 ...
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6人きょうだいの三女(上から女、女、本人、男と続き、5人目と6人目の性別は不明)として育った[1]。静岡県三島市[2]で生まれた後、1歳の頃に一家で東京都滝野川区(現・北区)で暮らし[3]、小学校に上がる前、三島で暮らす祖父の急死により、ひとり娘の母とともに一家で三島へ戻った[3]。県立三島北高校卒業[1]。
1956年にNHKのテレビドラマ『この瞳』の主役に抜擢されてデビューし[3]、これを機に上京して芸能活動を始めた[1]。1957年、NHK専属女優の第一号となり[1]、『輪唱』の三姉妹役で共演した馬渕晴子・小林千登勢とNHK三人娘と呼ばれて人気を博した。また、俳優座付属養成所第9期生として3年間演技の基礎を学んだ[1]。
1960年から『東は東』の司会を滝田裕介と務めるなど、20代の頃からテレビドラマとバラエティーのレギュラーをこなした。
1970年、『細うで繁盛記』でのヒステリックで意地悪な小姑役でイメージチェンジを遂げ、当たり役となった。このドラマでは三島で11年間の少女時代を過ごした経験を活かし、方言指導も買って出、「...にゃー」の特徴的な語尾は番組サブタイトルにまでなった[4]。また石立鉄男主演のコメディーシリーズにも連続して起用された。
1974年、脚本家林秀彦との結婚した後、37歳で1女をもうけたのを機に一時女優業を休業し、以後子育てに専念して仕事はエッセイや小説の執筆などの文筆業などに留めた[1](ただし、この他CM出演・句会出席などの活動は続けていたとされる)。1984年に離婚により本格的に芸能活動を再開させ[1]、以後俳人、作家としても知られるなど多才ぶりを発揮[3]。
2003年には、ドラマ『末っ子長男姉三人』(TBS系列)での深津絵里との軽妙な掛け合いが話題を呼ぶ。
2007年、弟の様に可愛がっていた俳優座後輩の石立鉄男が亡くなった際には追悼番組にゲスト出演し、エピソードとして、昔売れなかった頃に凄く欲しかったカーディガンを石立からプレゼントしてもらって大感激した思い出話を涙ながらに語っていた。
2022年現在、加齢のために意図的に活動を減らしているという。同年公開の『ばあばは、だいじょうぶ』に認知症を患った祖母役で出演し、久々のスクリーン復帰作となった[5]。
生い立ち
弟(長男)が生まれた後、父は毎週日曜日になると冨士を含めた3人の娘にお揃いの服を着せ、近所の飛鳥山公園に連れて行って皆で甘味処でみつまめを食べたという[3]。冨士によると、「みつまめはとても美味しくて遊びに行くのは楽しかったけど、当時両親は初めての男の子である長男を溺愛していました。きっと長男と2人きりになりたい母が、われわれ女の子3人を外に連れ出すため、父に頼んで飛鳥山に行かせたに違いありません(笑)」と回想している[3]。
ある日自宅にあった食べ物が原因で疫痢になったが、病院で診てもらう際、母親にせがんで付いてきた弟にも感染してしまった[3]。一時弟と共に生死の淵をさまよったが、数日後に無事寛解した[注釈 1]。三島へ戻った翌1945年年、東京は大空襲に見舞われたが、引っ越していたことで結果的に命拾いした[注釈 2]。
当時自宅の本棚に本がぎっしり詰まっていたことから、子供の頃から自然と読書好きな文学少女となった[1]。その一方、少女期はお転婆な性格な面もあって男の子たちとビー玉やめんこの他、度胸試しでちょっとした崖から飛び降りたり[1]、男の子に混じって草野球をするなど、活発だったという。
オペラがきっかけで女優の道に
中学2年生の頃、元声楽家とされる一人の音楽教師[注釈 3]と出会い、授業で蓄音機でオペラを聴かせてくれたことでオペラ鑑賞が好きになった[1]。高校の音楽教師は芸大ソプラノ専科出身で、オペラ好きな冨士をかわいがってくれた[1]。以降その教師から授業とは関係なく、『椿姫』や『蝶々夫人』などオペラのアリアの譜面を貸してもらい、写譜をして歌詞に読みがなを振るなどしてその曲を一生懸命覚えた[1]。
それまで芝居未経験だったが高校在学中、姉の勧めで劇団民藝やNHKの役者オーディションを受験[1]。NHKのオーディションでは書類に「趣味・オペラ」と書いたのを目にした審査員から「君、オペラを歌えるの?」と聞かれたため、急遽アカペラで『蝶々夫人』を歌った[1]。すると、その人物が「面白い、自分はこの子にかけてみたい」と気に入り、他の審査員の反対を押し切ったことで採用が決まった[1]。
デビュー後
女優になるとすぐに連続ドラマ「この瞳」の主役に決まり、トントン拍子で女優の道を歩んでいった[1]。ただし、デビューから3年半ほどは収入が多くなかったため貧乏生活を送り、電話も風呂もない狭い部屋に住みながら、数日間毎日同じ服を着て過ごしたという[1]。20歳の頃に資生堂の専属モデルとなったことで、ようやく暮らしに余裕ができて少し広い所に引っ越した[1]。当時は女優の仕事に執着していなかったが、ほどなくして父が亡くなり、「この仕事で一家を支えていかなきゃ」という気持ちに変わったという[1]。
30代半ばの頃に独身として女優業に邁進していたある日、先輩女優・山岡久乃から未婚のまま女優活動を続けた後悔を聞いた[注釈 4]。これに一人の女としてハッとさせられ[注釈 5]、その時までに決まっていた仕事をこなした後、林との交際に時間を作って慌ただしく結婚した[1]。
- 趣味は相撲・野球観戦、俳句とイタリアオペラ鑑賞[1]。
- プロ野球では長嶋茂雄や野茂英雄、大谷翔平[5]のファンである。数字にまつわる持ち物は長嶋の背番号と合わせていると公言しており、野茂については引退後に発売されたSports Graphic Number PLUSの完全保存版野茂英雄1990-2008にコメントを寄せている。
- 相撲・野球だけでなく実際にはスポーツ全般を見るのが好きで、仕事などのスケジュールがかぶらない限り長年オリンピック中継は録画はせず、全てライブ映像で視聴している[注釈 6]。また、ラグビー観戦にも興味を持ち始めている模様[5]。
- 俳句を始めたきっかけは、俳人・中村汀女が『テレビ句会』という番組に出演し、ゲストの谷川俊太郎、黛敏郎と共に出演したこと[1]。それまで短歌は作っていたが俳句の経験はなく、同番組で初めての俳句作りがとても面白く、汀女から筋がいいと褒めてもらったことが“成長剤”になり、俳句に目覚めた[1]。2008年から俳壇賞選考委員を務める[1]。また、俳句に関して坪内稔典らから高く評価されている。
- オペラでは、プッチーニの『トスカ』のアリアが大のお気に入り[1]。
- 岸田今日子・吉行和子とは古くから親交が厚く[注釈 7]、ユーモラスな交流関係が注目されて度々トリオで起用されていた。
- 黒柳徹子ともNHK専属時代よりプライベートでも大変親交が深く、『徹子の部屋』には番組開始当時から定期的に出演している。離婚前の林や娘の岩崎と一緒に出演し、2019年の岩崎と出演時には生前より親交があった小林千登勢からプレゼントされたスカーフを巻いて出演していた。2022年9月19日放送時は岩崎と出演して、親友の吉行和子と4月に出演予定だったが、直前に急病で倒れキャンセルとなってしまい前回出演時よりも体重が10キロ減った事などを岩崎と話している。また、後輩の加賀まりこは古くからの交流がある仲良しの1人でもある。
- 大山のぶ代とは冨士のデビュー作「この瞳」で共演し、新人女優時代はお互い収入が少なかったことから2年ほど(別の媒体で本人は、「上京後からの4年半」とも証言)安アパートの同じ部屋で一緒に暮らすなど[1]当時からの仲良しであった[6]。
- 遠縁には前田美波里(母方の叔母が前田の母のいとこと結婚)[7]、岸惠子(母方の叔母の夫が岸の母方のいとこの妻の弟)[7]がいる。
- 幼少期に住んでいた東京の自宅は、渋沢栄一の邸宅の真ん前にあった[注釈 8]。幼い頃は渋沢邸の勝手口の石段でよく遊んでいた[3]。
- 父は新聞記者で、結婚後に夫婦でデモに参加したり選挙の応援運動に熱心だった。このことが影響し、子供ながらに一番好きだった番組はラジオ(まだテレビがない時代)の選挙速報だった[1]。
- 10代の頃に特に好きだった本は、小学5年生の頃に石川達三の『転落の詩集』、中学生時代に尾崎紅葉の『金色夜叉』、高校時代にマーガレット・ミッチェルの『風と共に去りぬ』、スタンダールの『赤と黒』[1]。
- 性格について本人は、「大らかで大雑把なタイプで基本的にとことん考えるのは嫌い。それでも何か悩みそうな時は、大まかに四捨五入的な考え方で踏ん切りをつけて自分をラクにしています」と評している[1]。
- 若い頃は父譲りのかなり酒に強く、仕事終わりなどに毎日外で酒を飲み、さらに帰宅後も飲むような生活をしていたが、いつ頃からか酒を飲みたい気持ちがなくなったという[注釈 9]。
- 『富士真奈美素顔対談』 上下 新日本出版社 1973
- 『もしかしたら幸せ』立風書房 1977
- 『人のいる風景』集英社 1979
- 『いびり亭主学 犬のように時には馬のように』ベストセラーズ 1981
- 『恋よ、恋唄』中央公論社 1985
- 『もういちどロマンチック』ハーレクイン・エンタープライズ日本支社 1986
- 『とけて流れて』毎日新聞社 1991
- 『ろくでなし』近代文芸社 1997 のち文春文庫
- 『身ひとつの今が倖せ 俳句のある人生』光文社 2005 のち知恵の森文庫
- 『てのひらに落花 俳句のある人生』本阿弥書店 2008
- 『瀧の裏 冨士眞奈美句集』深夜叢書社 2008
共編著
- 『おんなの自己診断学』飯島ふみ子共編著 講談社 1979
- 『夫婦喧嘩のすすめ』林秀彦共著 サンマーク出版 1983
- 『ここはどこ 時に空飛ぶ三人組』岸田今日子、吉行和子共著 文春文庫 2000
- 『わたしはだれ? 櫻となって踊りけり』岸田今日子、吉行和子共著 集英社 2000
- 『東京俳句散歩』吉行和子共著 光文社・知恵の森文庫 2004
- 『吉行和子・冨士眞奈美おんなふたり奥の細道迷い道』集英社インターナショナル, 2018.8
注釈
本人は後のインタビュー記事で、「普段神様を信じない父でしたが、この時ばかりは父は日記で神頼みをしていました。後にそのことを知りましたが、その内容は『男の子(長男)はわれわれに授かった宝物ですから、この子だけは助けて下さい。(どうしてもあの世に)連れて行くならこっちの子にして下さい』って私を捧げようとしていたんです。ひどすぎると思わない?」と述懐している[3]。
本人は「当時滝野川の近くは軍関連施設が偏在していたので、区内は特に甚大な被害を受けたことでも知られています。祖父が健在であれば、私は滝野川小学校に入る予定でした。もしあのまま滝野川に住んでいたら、今の私はいなかったかもしれません。人の歴史というものは分かりませんね」と回想している[3]。
冨士が当時聴いた噂話によると、その教師は将来を嘱望されていたテノール歌手だったが挫折し、東京から冨士が通う中学に音楽教師としてやって来たという。
山岡は妹が赤ん坊を出産した後、病院でその子を抱かせてもらった。その後冨士に「私が欲しかったのは女優としての名声ではなくて、この(赤ん坊の)重みだったんだわ。でも、(年齢的に)もう取り返しがつかない、そう思ったら泣けちゃった」という話[1]。
山岡の話以外にも本人は「女優の仕事は欲を出すときりがないし、辞められない。また、当時ちょうど同世代の女優さんたちも出産ラッシュの時期でしたし」と回想している。
リアルタイムで観ることについて本人は、「今、自分が過ごしているその時間に、彼ら(選手たち)も緊張して勝負に臨んでいるのかと思うと、胸が踊るんです。彼らは過酷な練習を積み、勝負の時間を迎える。とてもスリリングだし、そんなアスリートの姿を見られることはすごくありがたい頂き物。『生』を実感します」と語っている[1]。
岸田とは、1962年のテレビドラマ『鏡子の家』で親友役として出演して以来、親友に。冨士が結婚している間に岸田と吉行が仲良くなり、離婚後、吉行と俳句の会で仲良くなったという。
ただし渋沢は、冨士が生まれる前の1931年に亡くなっている。
後に本人は「多分、若い頃にもう一生分飲んで酒量のキャパ(容量)を超えちゃったのね」と語っている[1]。
出典
“冨士眞奈美”. NHKアーカイブス. 2023年8月26日閲覧。
「このドラマ伊豆の熱川が舞台とあって、この伊豆弁がふんだんに使われているわけだが、この方言指導を買って出ているのがレギュラーの"富士真奈美"。『私がやるズラ』と自ら買って出たそうだ」1970年4月15日付讀賣新聞朝刊《てれび街》富士真奈美が方言指導