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日本の女優、俳人、エッセイスト ウィキペディアから
冨士 眞奈美(ふじ まなみ、1938年〈昭和13年〉1月15日 - )は、日本の女優・随筆家・俳人。血液型はA型。本名、岩崎 真奈美。アンテーヌ所属。俳号は衾去(きんきょ)。
6人きょうだいの三女(上から女、女、本人、男と続き、5人目と6人目の性別は不明)として育った[1]。静岡県三島市[2]で生まれた後、1歳の頃に一家で東京都滝野川区(現・北区)で暮らし[3]、小学校に上がる前、三島で暮らす祖父の急死により、ひとり娘の母とともに一家で三島へ戻った[3]。県立三島北高校卒業[1]。
1956年にNHKのテレビドラマ『この瞳』の主役に抜擢されてデビューし[3]、これを機に上京して芸能活動を始めた[1]。1957年、NHK専属女優の第一号となり[1]、『輪唱』の三姉妹役で共演した馬渕晴子・小林千登勢とNHK三人娘と呼ばれて人気を博した。また、俳優座付属養成所第9期生として3年間演技の基礎を学んだ[1]。
1960年から『東は東』の司会を滝田裕介と務めるなど、20代の頃からテレビドラマとバラエティーのレギュラーをこなした。
1970年、『細うで繁盛記』でのヒステリックで意地悪な小姑役でイメージチェンジを遂げ、当たり役となった。このドラマでは三島で11年間の少女時代を過ごした経験を活かし、方言指導も買って出、「...にゃー」の特徴的な語尾は番組サブタイトルにまでなった[4]。また石立鉄男主演のコメディーシリーズにも連続して起用された。
1974年、脚本家林秀彦との結婚した後、37歳で1女をもうけたのを機に一時女優業を休業し、以後子育てに専念して仕事はエッセイや小説の執筆などの文筆業などに留めた[1](ただし、この他CM出演・句会出席などの活動は続けていたとされる)。1984年に離婚により本格的に芸能活動を再開させ[1]、以後俳人、作家としても知られるなど多才ぶりを発揮[3]。
2003年には、ドラマ『末っ子長男姉三人』(TBS系列)での深津絵里との軽妙な掛け合いが話題を呼ぶ。
2007年、弟の様に可愛がっていた俳優座後輩の石立鉄男が亡くなった際には追悼番組にゲスト出演し、エピソードとして、昔売れなかった頃に凄く欲しかったカーディガンを石立からプレゼントしてもらって大感激した思い出話を涙ながらに語っていた。
2022年現在、加齢のために意図的に活動を減らしているという。同年公開の『ばあばは、だいじょうぶ』に認知症を患った祖母役で出演し、久々のスクリーン復帰作となった[5]。
弟(長男)が生まれた後、父は毎週日曜日になると冨士を含めた3人の娘にお揃いの服を着せ、近所の飛鳥山公園に連れて行って皆で甘味処でみつまめを食べたという[3]。冨士によると、「みつまめはとても美味しくて遊びに行くのは楽しかったけど、当時両親は初めての男の子である長男を溺愛していました。きっと長男と2人きりになりたい母が、われわれ女の子3人を外に連れ出すため、父に頼んで飛鳥山に行かせたに違いありません(笑)」と回想している[3]。
ある日自宅にあった食べ物が原因で疫痢になったが、病院で診てもらう際、母親にせがんで付いてきた弟にも感染してしまった[3]。一時弟と共に生死の淵をさまよったが、数日後に無事寛解した[注釈 1]。三島へ戻った翌1945年年、東京は大空襲に見舞われたが、引っ越していたことで結果的に命拾いした[注釈 2]。
当時自宅の本棚に本がぎっしり詰まっていたことから、子供の頃から自然と読書好きな文学少女となった[1]。その一方、少女期はお転婆な性格な面もあって男の子たちとビー玉やめんこの他、度胸試しでちょっとした崖から飛び降りたり[1]、男の子に混じって草野球をするなど、活発だったという。
中学2年生の頃、元声楽家とされる一人の音楽教師[注釈 3]と出会い、授業で蓄音機でオペラを聴かせてくれたことでオペラ鑑賞が好きになった[1]。高校の音楽教師は芸大ソプラノ専科出身で、オペラ好きな冨士をかわいがってくれた[1]。以降その教師から授業とは関係なく、『椿姫』や『蝶々夫人』などオペラのアリアの譜面を貸してもらい、写譜をして歌詞に読みがなを振るなどしてその曲を一生懸命覚えた[1]。
それまで芝居未経験だったが高校在学中、姉の勧めで劇団民藝やNHKの役者オーディションを受験[1]。NHKのオーディションでは書類に「趣味・オペラ」と書いたのを目にした審査員から「君、オペラを歌えるの?」と聞かれたため、急遽アカペラで『蝶々夫人』を歌った[1]。すると、その人物が「面白い、自分はこの子にかけてみたい」と気に入り、他の審査員の反対を押し切ったことで採用が決まった[1]。
女優になるとすぐに連続ドラマ「この瞳」の主役に決まり、トントン拍子で女優の道を歩んでいった[1]。ただし、デビューから3年半ほどは収入が多くなかったため貧乏生活を送り、電話も風呂もない狭い部屋に住みながら、数日間毎日同じ服を着て過ごしたという[1]。20歳の頃に資生堂の専属モデルとなったことで、ようやく暮らしに余裕ができて少し広い所に引っ越した[1]。当時は女優の仕事に執着していなかったが、ほどなくして父が亡くなり、「この仕事で一家を支えていかなきゃ」という気持ちに変わったという[1]。
30代半ばの頃に独身として女優業に邁進していたある日、先輩女優・山岡久乃から未婚のまま女優活動を続けた後悔を聞いた[注釈 4]。これに一人の女としてハッとさせられ[注釈 5]、その時までに決まっていた仕事をこなした後、林との交際に時間を作って慌ただしく結婚した[1]。
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