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松本清張の小説、メディアミックス作品 ウィキペディアから
『内海の輪』(ないかいのわ)は、松本清張の小説。「黒の様式」第6話として『週刊朝日』に連載され(1968年2月16日号 - 10月25日号)、1969年5月に中編集『内海の輪』収録の表題作として、光文社(カッパ・ノベルス)から刊行された。連載時のタイトルは「霧笛の町」[1]。
東京のZ大学に勤務する考古学者・江村宗三は、愛媛県松山の洋品店主の妻である西田美奈子と不倫関係になっていた。14年前、美奈子は宗三の兄嫁であった。美奈子の現在の夫・慶太郎は不能な老人となって久しい。落ち合った宗三と美奈子は、広島県の尾道で宿泊したが、火の点いた美奈子は、自分が松山の家を出ることを主張し始める。スキャンダルで考古学会から葬られることを恐れる宗三。有馬温泉に移ると、美奈子は自分が身篭っていることを告げ、宗三の子を産むと宣言、絶望に落ちた宗三はついに思案を固める[1][2]。
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1971年2月10日に松竹系にて公開された[1]。現在はDVD化されている。
他
1970年11月5日、東京銀座三笠会館で製作発表が行われ[3]、席上、三嶋与四治松竹製作本部長が「『影の車』『家族』とたんねんに作ったものが好評を得ているが、松竹はその波にのって年二、三本のそうした作品を製作する。来年(1971年)の第一作はこの『内海の輪』第二作は『アーロン収容所』[注 1]を予定している。今度の松本原作ものは既に野村監督で『ゼロの焦点』『張込み』をやっているが、在来の野村・橋本コンビと違った形で作ることになり人選の結果、斎藤耕一監督に白羽の矢を立て、又斎藤監督と意気の合う山田氏に脚本をお願いした。松本原作は男が主体となったものが多いが、女を主体にするもので未映画化小説60余篇を企画部で選んで『霧笛の町』に決定、題名を映画向きに変えて着手することになった。これは岩下志麻君にうってつけのものだし、相手役の考古学教授には中山仁君が出演を快諾した。(1970年)11月20日に第一稿が出来るのでその時点でキャストを決め、12月初旬決定稿が出来次第クランクインする。ロケを六甲付近と、雪の新潟が必要なのでその辺の調整を考える。1971年1月下旬アップするが、封切はロードショーにするにしてもこれから決める」と話した[3]。岩下志麻は「お話があって早速読みましたが推理小説というより愛のドラマのように感じました。女のサガとでもいいましょうか、女の愛の一つのタイプのもので一生懸命演じてみたいと思います」と話した[3]。事情は不明だが、考古学助教授役は、中山仁から中尾彬に変更になっている。
撮影の竹村博は「前年、この作品と同じ原作者(松本清張)の映画化『影の車』が封切され、作品の中に三色分解やレリーフなど特殊技法が駆使されていた(撮影は川又昂)。この『内海の輪』でも、そうした思い出なり過去のシーンがコンストラクションの中において当然出てくるのだが、今回はそうした特殊処理は一切排除し、主人公たちの行動を第三者の立場から傍観して客観的に描こうというのが第一の目的だった」などと述べている[2]。また女性心理が中心になっている原作から、女の哀れさ、男のエゴイズムの丸出しを上手く表現描出したいと考えた...撮影実数27日、約9400尺」などと述べている[2]。
三國連太郎は妻(岩下志麻)の全身を撫でることしかできない性的不能者の役だが、三国は愛欲演技のリアリズムで定評があり岩下も覚悟を決めていた[5]。岩下の肩を噛むシーンがあり、三国が「本当に噛みついていいか?」と岩下に聞くので「OKです」と言ったら激しく噛みつき撮影中断[5]。さらに指を岩下の秘部に二度触れた[5]。三国は東映在籍時代の『越後つついし親不知』で佐久間良子の秘部に触り、佐久間は三国と一切口をきかなくなったといわれる常習犯だったが[5]、本作では三国の方が照れて有料試写会には姿を見せなかったという[5]。
『週刊明星』1971年2月14日号に「雪の新潟、水上温泉、そして大阪、松山市、尾道、倉敷、仙酔島、有馬、蓬萊峡などに約20日間のロケを行った」と書かれている[6]。全体の3分の2がロケ[2]。 瀬戸内海ロケは1971年1月8日、広島県尾道市からスタートし[2]、水中翼船に乗り愛媛県へ[2]。冒頭の釣り場シーンは愛媛県松山市[2]。尾道へ戻り、旅館内と尾道市内の撮影[2][7]。その後、広島県福山市鞆の浦仙酔島[2][7]。大弥山で高所恐怖症の岩下志麻の撮影[2]。仙酔島撮影は2日間[2]。この後、岡山県倉敷市に移動[2][7]。1月19日、兵庫県西宮市蓬萊峡着[2][7]。一旦、大船撮影所に戻り、その後、群馬県水上温泉[2]。以降、大船のセットでクランクアップまで、ほぼ連日徹夜の強行撮影[2]。撮影の竹村の証言から撮了は1971年1月末か2月に入ってからと見られ、公開日が1971年2月10日のため、ポストプロダクションは1週間程度と見られる。
断崖のシーンはラストではないものの、全国の景勝地、恋愛がもつれ、主人公がエリートコースを守るため愛人を殺す設定など、後の2時間ドラマの基本フォーマットネタが使われる。
岩下志麻は1960年代からの人気女優であったが、中尾彬も当時テレビ、映画に引っ張りだこの人気俳優になっていた[7]。中尾は「毎日、思わぬ観光旅行ができるうえ、日本一の女優さん相手にラブシーンができるなんて」とロケを喜んだ[7]。
映画公開中か、公開後の『シナリオ』1971年4月号で、脚本の山田信夫と宮内婦貴子が公開状を出した[8]。内容は「出来上がった『内海の輪』は、私たちのシナリオによる映画ではない。脚本を全面改訂したものになっている」という抗議だった[8]。これに対して斎藤耕一は『シナリオ』1971年8月号で「自分の作品系列を見れば、脚本通りに映画が完成したという例は1本もない。はなはだしい場合は、結末が白から黒に変ってしまったものさえある。では、どうして脚本通り撮れないのか。ぼくにとって、作品の完成という言葉の意味は、脚本を書きだすときに始まり、以後永久に終わることなく続くであろう激しい試行錯誤の一時的な中断に過ぎない。演出コンテというものが、あくまで真実に対する仮説の上に成り立っているものだと解釈すれば、脚本もまた本質的には同じである。事実は絶えずひとつだが、仮説は無数にあり、その選択は自由である」などと反論した[8]。
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「松本清張の内海の輪」。1982年4月17日21:02-22:53、TBS系列の「ザ・サスペンス」枠にて放映[10]。視聴率18.7%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)。現在はDVD化されている。
「松本清張スペシャル・内海の輪」。2001年3月27日21:33-23:24、日本テレビ系列の「火曜サスペンス劇場」枠にて放映。現在はDVD化されている。
ラストの犯行の決め手になる小道具が原作や映画版と異なる。
※風景だけのシーンではなく、俳優参加のシーン。
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