趙雲
中国後漢末期から三国時代の武将 ウィキペディアから
趙 雲(ちょう うん、拼音: 再生 、簡体字: 赵云、? - 建興7年〈229年〉[1])は、中国後漢末期から三国時代にかけての蜀漢の武将。字は子龍(しりゅう[2]・しりょう[3]、拼音: 、簡体字: 子龙)[注 1]。冀州常山国真定県(現在の河北省石家荘市正定県)の人。諡号は順平侯。
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三国志の趙雲
要約
視点
[1]……引用文献・書籍
[W ]…引用WEBサイト
[動 ]…引用・参考動画
[注 ]…補足、研究者の推論・考察
仁君を求めて

中平元年(184年)、張角の主導による大規模な農民反乱である黄巾の乱が起こると、趙雲の故郷である冀州の常山国王・劉暠は国を棄てて逃走した[6]。この反乱に乗じて盗賊団を結成した張燕率いる黒山賊の襲撃により、冀州は甚大な被害を被ったが、後漢の朝廷はこれを鎮圧することが出来なかった[7]。
中平6年(189年)に後漢の皇帝・霊帝が崩御すると、この政治混乱に乗じ、各地で諸侯が権力争いを始めた[8]。冀州では支配権をめぐって、冀州牧の韓馥[9]、冀州北部に隣接する幽州の有力豪族出身で、白馬義従という白馬で揃えた精鋭騎兵を率い、鮮卑の討伐で功績を上げた公孫瓚[10]、朝廷に自ら降伏して官職を与えられ、常山国の支配を朝廷に容認させた黒山賊の張燕[11]、四代に渡って三公を輩出した名門出身の袁紹[12]らが対立していた。
『趙雲別伝』(以下『別伝』)曰く、趙雲は身長八尺(約185cm)[注 2]、姿や顔つきが際立って立派だったという[15]。故郷の常山郡(国)から推挙され、官民(役人と民間人の混成)の義従兵[注 3]を率いて幽州の公孫瓚のもとに参じた[16]。
それより前、冀州を奪う野心を抱いていた公孫瓚は、反董卓連合軍の一員として安平に駐屯していた韓馥を攻撃し、これを破った[17]。『英雄記』によれば、この背後には袁紹の参謀・逢紀の策略があり、公孫瓚を利用して韓馥を攻撃させ、窮地に追い込むことで袁紹を頼らせて冀州を奪取する、というものであった[18]。策略通りに公孫瓚を恐れて袁紹を頼った韓馥は、弱みに付け込まれ袁紹に冀州牧を奪われてしまう[19][20]。
初平2年(191年)、『別伝』曰く、袁紹が冀州牧を称したため、公孫瓚は冀州の民が袁紹に従うことを憂いていた。そのような状況下で趙雲が義従兵を率いてやってきたので、公孫瓚はこれを大いに喜んだが、趙雲に対し「君の州の人々はみな袁紹を支持しているそうだが、君はなぜ心変わりして、迷いながらもわたしに仕える気になったのかね?」と嘲笑した[21]。これに対し、趙雲はこう応えた。「天下は騒がしく混乱し、誰が正しいのかも判らず、民は未だ逆さ吊りに遭うような苦難に置かれています。わたしの州の議論では、仁政を行う者に従うべきだと考えました。けっして袁紹殿を軽んじ、私情で公孫瓚将軍を尊重したわけではありません」[22]。こうして公孫瓚の配下となり、ともに征討した[23][注 4][注 5]。
出会いと別れ
冀州での主な出来事 | ||
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西暦 | 出来事 | 内容 |
191年秋 | 袁紹冀州牧を称す | 韓馥を脅し奪う |
秋~冬? | 趙雲が挙兵する | 公孫瓚の配下に |
冬 | 青・徐州黄巾残党 と公孫瓚の戦い |
公孫瓚の勝利 |
〃 | 青洲の田楷の救援 | 劉備に随行 |
〃 | 劉備が平原相に | 公孫瓚より任命 |
192年 正月 |
界橋の戦い | 袁紹の勝利 |
不明 | 趙雲と劉備の別れ | 公孫瓚から辞去 |
193年 | 袁紹と公孫瓚が停戦 | 朝廷が介入 |
〃 | 公孫瓚と劉虞の戦い | 劉虞を殺害 |
6月 | 袁紹と黒山賊の戦い | 黒山賊が大敗 |
199年 | 易京の戦い | 公孫瓚が自害 |
205年 | 張燕が曹操に投降 | 黒山賊が帰順 |

『別伝』曰く、このとき黄巾の乱から挙兵し、名を揚げた群雄のひとりである劉備が公孫瓚の元に身を寄せていた。劉備は趙雲と接するたびに受け入れ、趙雲も劉備に好感を持ち、次第に二人は仲を深めていったという[27]。
青州で袁紹と戦っていた公孫瓚配下の将・田楷の援軍として、公孫瓚が劉備を派遣した際に趙雲も随行し、劉備の主騎[注 6]となった[36][注 7]。
『別伝』曰く、そののち趙雲の兄が亡くなり、服喪のために公孫瓚の下を辞して故郷へ帰ることになった。劉備は趙雲が自らの下にもう二度と戻って来ることはないだろうと悟り、趙雲の手を固く握って別れを惜しんだ。趙雲もまた、「絶対にあなたの御恩徳に背きません」と応えた[39][40][注 8]。
劉備と別れた時期や、そこから建安5年(200年)頃までの趙雲の行動は不明である。192年から200年までの間、常山国では董卓を殺害した呂布が、袁紹の客将として黒山賊討伐戦で活躍し、黒山賊は大敗[43]。その後、張燕らは公孫瓚と手を結んで袁紹と戦ったが、建安4年(199年)3月、幽州と冀州の州境にある易京の戦いで敗れ、公孫瓚は自害[44]。袁紹は華北一帯を支配下においた。張燕ら黒山賊はのちに群雄のひとりである曹操に帰順した[45]。
劉備との再会
趙雲と劉備の再会までの動き | ||
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西暦 | 出来事 | 内容 |
? | 趙雲離脱とその後 | 200年頃まで不明 |
193- 194年 |
徐州の陶謙の救援 | 豫洲の小沛に駐屯 |
194年 | 劉備が徐州牧に | 陶謙死後跡を継ぐ |
195年 | 呂布が劉備を頼る | 曹操に敗北した 呂布が劉備の下へ |
196年 | 呂布の裏切り | 下邳を掌握される |
〃 | ①呂布に敗北 | 曹操を頼る |
198年 | ②曹操とともに 呂布を討ち許昌へ |
献帝の曹操暗殺 計画に賛同する |
200年 | 曹操と争う | 暗殺計画が露顕 小沛で曹操に敗北 |
〃 | ③青洲へ逃走 | 袁譚を頼る (袁紹の長男) |
〃 | ④袁紹を頼る | 袁譚と平原へ |
〃 | ⑤袁紹と合流 | 鄴から200里地点 で袁紹が出迎える |
〃 | ⑥趙雲と再会 | 鄴で劉備に目通り |
〃 | ⑦劉表の元へ | 関羽らが再集結 |

(丸数字の詳細は右表参照)
建安5年(200年)頃、『別伝』曰く、白馬の戦いにて敗北した劉備が、曹操と対峙していた袁紹を頼って来ると[46]、趙雲は冀州の鄴で久しぶりに劉備に目通りした[47]。再会を喜んだ劉備は、趙雲と同じ

荊州の劉表を頼ってやってきた劉備たちは曹操への対抗のため、豫州との州境近い荊州最前線の地である新野を任されることになる[57]。
建安8年(203年)、曹操の命を受けた夏侯惇・于禁らが新野北東に位置する博望坡に侵攻し、劉備軍は伏兵を用いてこれを撃破した(博望坡の戦い)[58]。『別伝』曰く、趙雲はこの戦いで敵将の夏侯蘭を生け捕るという武功を挙げたが、小さい頃からの同郷の友人だったことから劉備に助命嘆願し、法律に明るい人物として軍正(軍の法律の官)[W 2]に推挙し、認められた。趙雲は以降、降将の夏侯蘭が無用の疑いをかけられぬよう、自分から彼に接近しないよう気遣ったという[59]。
長坂坡の戦い


阿斗を抱えた趙雲の騎馬像
袁紹の息子たちと烏桓に勝利し、ついに華北を平定した曹操は[60]、建安13年(208年)荊州への侵攻を開始する[61]。このとき劉表は病死していたので次男の劉琮が跡を継いでいたが、9月に曹操軍が新野に到達すると劉琮は降伏してしまう[62][63]。樊城に居た劉備達は劉琮の降伏を知ると南へ撤退しようとするが、劉備を慕う劉琮の側近の一部と、荊州の民衆10万人がともに南下を開始した[64]。
劉備軍は江陵を目指したが、荊州の当陽・長坂(または長坂坡)にて、曹操自ら指揮を執る精鋭5,000の兵に追いつかれた。劉備は妻子を捨てて、三顧の礼で迎え入れていた諸葛亮と、張飛・趙雲ら臣下の数十騎とともに南へ逃走した[65][66]。
劉備の娘たち二人は曹純に捕らえられたが[67]、張飛が殿を務め[68]、趙雲が阿斗(劉禅)を身に抱え、更にその母の甘夫人を保護したので、無事危機を免れることができた[69][70]。この戦いののち牙門将軍に昇進した[71][注 10]。
『別伝』曰く、「趙雲が北(曹操軍のいる方角)に逃げ去った」と言う者がいたが、劉備は手戟を投げつけて「子龍はわたしを棄て逃げることはない」と相手にしなかった。ほどなくして、趙雲が到着したという[77]。
荊州平定戦
→詳細は「赤壁の戦い」を参照


劉備軍は曹操軍に江陵を制圧されたが[78]、漢水(長江の支流)の漢津で関羽の船団と合流し、劉表の長男・劉琦の軍とも合流して夏口へ逃れた[79]。揚州の呉を治める孫権から派遣された魯粛を迎えた劉備軍は、孫権と同盟を結ぶべく諸葛亮を呉に送る[80]。曹操が江陵の水軍と物資を大量に手に入れたことで、呉では曹操への降伏派が多数を占めていたが[81]、魯粛が劉備と同盟を結ぶことを勧め、同じく孫権配下の周瑜が開戦することを主張した[82]。
同建安13年(208年)孫権軍は赤壁に、曹操軍は江陵から進軍して赤壁の対岸にある烏林に布陣するが、曹操軍はこの湿地帯で疫病被害に遭う[83]。そこへ孫権配下の黄蓋による偽降と周瑜軍の火攻めが加わり、[84][85]、曹操軍は大敗した[86][87]。
建安13年(208年)から建安14年(209年)にかけて、孫権軍と劉備軍はともに曹仁が守る江陵を攻めて陥落させた[88][89]。劉備はその間、軍事行動を起こす理由付けとして劉琦を荊州刺史に推薦[90]、荊州南部四郡(武陵・長沙・零陵・桂陽)を占拠[91]。公安(油江口)を本拠地とした[92]。これにより、劉備はついに領地を手に入れた。しかしこの事が、のちに劉備と孫権の間で荊州をめぐる争いの火種となる。この時は魯粛が劉備との同盟を重視するよう孫権に進言し、劉備に荊州を貸すという形でひとまず収まる[93]。
『別伝』曰く、趙雲は荊州南部平定戦に参加して偏将軍[注 11]・桂陽太守になった[96]。この桂陽攻略時に降伏した前太守の趙範が、自身の兄嫁である寡婦の樊氏を趙雲に嫁がせようとした[97]。趙雲は「わたしとあなたは同姓ですから、あなたの兄ならわたしの兄のようなものです」と同姓を理由に断わった[98][注 12]。しかし樊氏は絶世の美女だったので、なおも趙雲に娶るように薦める者がいたが、趙雲は「趙範は追い詰められて降伏したにすぎず、その本心は測りかね、信用ならない。天下に女性はたくさんいる」と言って、ついに娶らなかった[100]。その後、趙範は逃亡したが、趙雲は樊氏に何の未練も持たなかったという[101]。
阿斗奪還

建安16年(211年)、漢中に拠点を置く五斗米道の指導者の張魯と対立していた益州牧の劉璋は、劉備に救援を要請した[102]。劉備は益州へ向かう際、諸葛亮・関羽・張飛らとともに趙雲を荊州の守備として留め置いた[103]。『別伝』曰く、劉備はこのとき趙雲を留営司馬[注 13]に任じた[106][105]。
その頃、甘夫人が病没し[107]、孫権の妹の孫夫人が劉備の正妻となっていた。これは、劉備がまたたく間に荊州南部を平定し、その勢いに対する孫権の恐れから生じた政略結婚であった[108][93][109]。孫夫人は孫権の妹であることを鼻にかけ、呉の官兵を率いて侍女にはみな刀を携え侍立させ、軍法を無視するなどの振る舞いに劉備は手を焼いていたという[110][111]。そこで劉備は、趙雲にこの事態を収拾させるべく、目付役に任命し、内政を立て直させた[112]。この頃から、劉備と孫権の間では荊州をめぐって同盟関係が悪化していく[113]。
建安17年(212年)頃、『別伝』曰く、孫権は劉備が益州入りしたことを知ると、船を出して孫夫人を呉に帰らせた。その際に、孫夫人は劉禅を連れて行こうとしたが、これを知った趙雲は、張飛と共に長江を遮って、孫夫人から劉禅を奪還した[114]。一方、『漢晋春秋』では「諸葛亮の命を受けて、趙雲が奪還した」と記述されている[115]。
益州平定戦
→詳細は「劉備の入蜀」を参照

同212年、劉璋と不仲になった劉備は劉璋の攻撃を決定する[116]。
建安19年(214年)頃、劉備は荊州に留まっていた諸葛亮たちを援軍として召し出し、荊州の留守を関羽にまかせた。趙雲は諸葛亮・張飛・劉封と共に長江を遡って入蜀し、各郡県を平定した[116]。趙雲は江州(巴郡。現在の重慶市)から別の川に沿って西進し、途上で江陽を攻略・平定し、夏、成都にて諸葛亮らと合流した[117][118]。『華陽国志』では、趙雲はこのとき江陽のほか、犍為も攻略したとある[119][120]。
諸葛亮ら援軍と合流した劉備は、劉璋のいる成都を完全に包囲した。このとき、211年に曹操に反乱を起こしたのち敗れ、張魯のもとに身を寄せていた馬超が劉備のもとへ帰順した。それを聴いた劉璋はついに劉備に降伏し、こうして益州は平定された[116][118]。趙雲は翊軍将軍に任ぜられた[121][118][注 14]。
『別伝』曰く、劉備は益州に備蓄してあった財産や農地を諸将に分配しようとしたが、趙雲はこう反対した。「霍去病(前漢時代に活躍した名将)は匈奴がまだ滅んでいないとして、屋敷を持ったり私的なことに心を砕きませんでした。今の国賊は匈奴程度では済まされず、まだ平安を求めて暮らす時ではありません。天下が完全に平定されれば、それぞれ郷里に帰って故郷で農耕に励むのが一番です。
益州の民は先の戦乱で家も田畑も失ってしまいました。今は彼らにこれを返して、安心して仕事に戻れるようになってから賦役や徴税を行なえば、民心を得ることができましょう」[128][注 15]。劉備はこの意見に賛成して従ったという[131][132]。
定軍山の戦い
→詳細は「定軍山の戦い」を参照

建安20年(215年)、曹操が張魯を攻撃し、張魯は敗走、のち降伏し、曹操は漢中一帯を平定した(陽平関の戦い)[133]。同年、益州を手に入れたことにより、孫権から荊州の返還を求められていた劉備は、一部の領地の分割に応じることにした[134][113]。
建安22年(217年)、参謀の法正が劉備に漢中を攻めるよう進言し、漢中をめぐって曹操と劉備の間で戦いが始まる。法正の策に従い、劉備は自ら漢中に赴き、趙雲も劉備の本隊に従軍した[135]。建安23年(218年)、劉備は陽平関に兵を置き、曹操軍との戦いは一進一退の攻防が1年続いた。
建安24年(219年)正月、劉備は定軍山へ移ると、後を追ってきた夏侯淵と対峙する。劉備は先陣に名乗りをあげた黄忠に法正を組ませ、夏侯淵を討ち取ることに成功した[136][137][138][139]。3月、曹操は自ら大軍を率いて漢中に赴き、劉備と対峙する[140][141]。
『別伝』曰く、このとき曹操軍は数千万袋もの兵糧を北山の下に運んだ。黄忠はこれを奪うことができると考え、趙雲の兵を借りて出陣したが、約束の時間を過ぎても黄忠が戻ってこなかったため、趙雲は少数の兵を率いて軽装で偵察へ向かったところ、曹軍の前鋒と遭遇し、交戦になる。趙雲は敵陣に突撃しては後退を繰り返して曹軍を翻弄し、無事に自陣へ戻った。しかし部下の将軍張著が負傷し、敵陣に取り残されていたので趙雲は再び馬に乗って張著を迎えに行った[142][143]。その後、曹軍は再び盛り返して趙雲らの陣まで追撃してきた。陣にいた沔陽長の張翼は、門を閉じ拒守しようとしたが、趙雲は逆にこれを開かせ、旗を伏せて戦鼓を止めさせた。曹軍が、静まり返った趙雲の陣に伏兵があると疑って引きあげたところを、趙雲は戦鼓を叩いて合図し、うしろから弩を乱射した。曹軍は驚き、互いに蹂躙して漢水の中に落ち、大勢が死んだという[144][注 16] [注 17]。
劉備は翌朝、趙雲の陣に自ら視察に向かい、「子龍の一身はすべてこれ肝(きも)である」と称賛し[146]、軍中は趙雲を号|して「虎威将軍」と呼んだという[147][注 18]。のちに兵法書『兵法三十六計』に記される『空城計』と呼ばれる心理戦とされ、歴史上初めて行い、成功させたのは趙雲とされる[153][154]。
対呉戦争
→詳細は「夷陵の戦い」を参照
同年7月、漢中を手に入れた劉備は、前漢の高祖・劉邦にならい漢中王を称する[158][157]。この際、関羽を筆頭に馬超・張飛・黄忠が前後左右将軍に封じられたが、このとき趙雲は益州平定後に任じられた翊軍将軍のまま据え置かれた[注 19]。
この直後、関羽は荊州から北に侵攻し、快進撃を見せたが[159][160]、荊州の領有を巡って劉備との関係が悪化していた孫権が曹操と密かに結んだことで、江陵など荊州の主要拠点を次々に失い、孫権軍に捕えられて処刑された(樊城の戦い)[161][注 20]。
建安25年(220年)正月に曹操が病死すると、子の曹丕が献帝に禅譲を迫って皇帝に即位し、ついに後漢は滅びた[162]。これを受け、建安26年(221年)4月、劉備は群臣の擁立を受け、漢の正統な継承者として「漢」の皇帝を称し、即位した[163][注 21]。呉に殺された関羽の仇討ちと荊州奪還のため、劉備は呉への出兵を決意する。多くの臣下が不利を説き、劉備を諫止したが、聴き入れられず[164]、「天の時(天運)が味方しない」と諫言した秦宓は劉備の怒りを買い、一時投獄された[165]。

(青が蜀軍、赤が呉軍)
趙雲は江州で後詰となる。
『別伝』曰く、大いに怒った劉備に対し、趙雲はこう諫言した[166]。「国賊は曹魏であり孫権ではありません。まず魏を滅せば、呉はおのずと降伏してきましょう。漢室を簒奪した曹丕を良しとしない民心に寄り添い、速やかに関中を平定し、黄河・渭水の上流を拠点として凶逆を討伐すれば、関東義士は必ず食料を携え馬に乗り、漢の王師を支援いたしましょう。魏を放置して、先に呉と戦うべきではありません。一度戦端が開かれば、容易に終結させることは不可能です」[167][注 22]。
しかし劉備は聴き容れず、同年7月、呉征伐のため荊州方面へ侵攻を開始。諸葛亮は成都に、趙雲は後詰で江州督として巴に留まることになる[170]。戦いは約一年続いたが、章武2年(222年)6月、夷陵の戦いで呉の陸遜の火攻めにより、蜀漢は大敗を喫する。『別伝』曰く、劉備の大敗を知った趙雲は永安(白帝城)まで救援したが、既に呉軍は撤退していた[171]。
劉禅の即位

弧を託す劉備と群臣たち
(右奥の青い服の人物:趙雲)
夷陵の戦いの大敗後、病を発して床に伏していた劉備は章武3年(223年)4月、永安宮にて崩御した。同年5月、元号を建興に改め、子の劉禅が即位すると、趙雲は中護軍[注 23]・征南将軍[注 24]へ昇進、諸葛亮・魏延らと同時に、永昌亭侯に封じられた。のち鎮東将軍[注 25]に昇進した[180]。
第一次北伐

(赤が蜀軍、青が魏軍)
右端の赤の点線は魏延が提案し、諸葛亮に退けられた進路。
隣の赤線は趙雲・鄧芝の進路。
魏への北伐は、海抜約3,000メートルを越える秦嶺山脈の険しい山道を進軍しなければならなかった。
建興4年(226年)、魏では曹丕が逝去。長男・曹叡が第二代皇帝に即位した[181]。建興5年(227年)、諸葛亮は出師表を劉禅に上奏した。趙雲は諸葛亮と共に曹魏への侵攻に備え、漢中に駐留する[182]。
建興6年(228年)春、諸葛亮が斜谷街道を通って郿を奪うと宣伝すると、曹叡から派遣された曹真は大軍を進めた[183][184]。趙雲と副将の鄧芝が別動隊を率いて囮となり、箕谷でその相手をする間[185][186]、諸葛亮は本隊を率いて祁山を攻撃し、動揺した南安・天水・安定の三郡が蜀に寝返った[187]。
趙雲と鄧芝は兵力で劣り、敵は強大であったことから、箕谷の戦いでは不利を強いられたが、兵士たちをよくまとめて陣を堅守し、大敗には至らなかった[188][注 26][注 27]。
しかし街亭では、諸葛亮が諸将の反対を押し切って先鋒に抜擢した馬謖が命令に背き、魏の張郃に撃破され大敗[193][194]。蜀軍は敗戦により手に入れた三郡を手放し[195][196]、全軍漢中に撤退、諸葛亮は馬謖を処刑した[197]。
そののち諸葛亮は「街亭では命令を違える過ちを犯し、箕谷では警戒を怠るという過ちを犯しました。その責任は任命した私にあります」[注 28]と上奏し、諸葛亮は自身の位階を三階級下げ右将軍に降格[199]、趙雲は鎮軍将軍に降格された[200][注 29]。一方で、『華陽国志』では位階ではなく「秩を貶した」との記録がある[206]。
『水経注』によると、この撤退戦の際に趙雲は赤崖より北の百余里に渡る架け橋を焼き落すことで魏軍の追撃を断ち切っており、その後しばらくは鄧芝と共に赤崖の守りにつき、屯田を行っている[207]。
『別伝』曰く、この退却時に趙雲が自ら殿を務め、兵を巧みに取りまとめたので、輜重をほとんど捨てずに済んだ。諸葛亮は鄧芝に「街亭の戦いでは、我が軍が撤退する際、兵は隊列を乱し、散り散りになってしまいました。しかし箕谷の戦いでは、兵は統制が取れていて、秩序を保って撤退する事ができました。これは一体何故でしょう?」と尋ねた。鄧芝は「それは趙雲自らが殿となったため、兵は秩序を乱す事なく撤退し、軍需品や器物をほとんど捨てずに済んだのであります」と答えた[208]。諸葛亮は恩賞として趙雲が持ち帰った軍需品の絹を将兵に分配しようとした[209]。
しかし、趙雲は以下の進言をして敗戦の責任を明らかにした。「敗軍の将になぜ恩賞があるのですか。どうかその品々をそのまま赤岸(赤崖)の倉庫に納めて、10月になってから冬の褒賞として配られますよう、お頼みします」。この進言に諸葛亮は大いに喜んだという[210][注 30](→第一次北伐)[注 31][注 32]。
最期

趙雲・趙統・趙広の塑像
建興7年(229年)に死去[1][注 33]。趙雲の長子・趙統が跡を継ぎ、官位は虎賁中郎・行領軍に昇った[216]。
なお、諸葛亮が建興6年(228年)11月に上奏したとされている『後出師表』では、「漢中に至ってより一年、趙雲・陽羣・馬玉・閻芝…(中略)…を失った」[217]とあり、228年11月以前に趙雲が亡くなったことになっている[注 34]。
死後
死亡から32年後の景耀4年(261年)春3月、趙雲は順平侯の諡号を追贈された[220]法正・諸葛亮・蔣琬・費禕・陳祗・夏侯覇は死後すぐに、関羽・張飛・馬超・龐統・黄忠は半年前の景耀3年(260年)9月に追贈されていた[221][注 35]。時の論はこれを栄誉とした[225][注 36]。
『別伝』曰く、趙雲が諡を追贈される前、劉禅は詔勅で以下を述べた。
趙雲はかつて先帝(劉備)に仕え、功績はすでに顕著である。朕は幼い頃から多くの苦難を経験してきたが、忠義に溢れる彼を頼りに、幾多の危険を乗り越えることができた。諡号というものは、英雄の大いなる功績を称えるためのものである。世間の意見でも、趙雲に諡号を贈るのがふさわしいと声が上がっている。[228]
趙雲はかつて先帝(劉備)に仕え、その功績はすでに顕著であります。天下の経営に尽力し、法と秩序を重んじ、功績は記録に値するものでした。中でも当陽の役(長坂坡の戦い)における彼の義は金石を貫き、忠義を尽くして主君をお護りしました。主君がその功績を記憶にとどめ、彼を厚遇したのは当然であり、臣下は死を恐れず忠誠を尽くします。もし死者に知覚があるとすれば、その名は不朽の名声を得るに足るでしょう。生者もその恩義に深く感謝し、身命を捧げる覚悟です。謹んで諡法を調べますと、柔順・賢明・慈愛・恵愛を持つ者を「順」と称し、職務を秩序正しく、けじめのある事を「平」と称し、災禍・反乱を鎮め、平らげる事を「平」と称します。よって、趙雲殿に諡して順平侯と称すべきです。[229][注 37]
滅亡
→詳細は「蜀漢の滅亡」を参照
趙雲の長子・趙統のその後については、史料に明確な記述はない。炎興元年(263年)、魏の蜀漢討伐が開始されると、趙雲の次子趙広は牙門将(軍)として姜維に随行し、沓中にて戦死した[231]。
正史の研究
要約
視点
出自
出自に関する記録は「常山の真定人」のみであり、家族背景についても不明である[232]。渡邉義浩は、『別伝』の「劉備と同じ床で眠った」という記述と、「趙雲が曹操軍に降った」と報告した者を劉備が打ちつけ、趙雲を信じた逸話に触れ、二人の間に侠としての強いつながりが見られるとして、劉備・関羽・張飛らと同じく下層民と定義している[233]。一方、矢野主税は、具体的な根拠を挙げていないものの、趙雲の出自を豪族と推定している[234]。また、同じ趙姓であり、かつ常山真定の人でもある前漢の趙佗との繋がりがある可能性も挙げられているが、趙佗との直接的な関係を示す記録はなく、あくまで推測の域を出ない[235][236]。
年齢
![]() | この節のほとんどまたは全てが唯一の出典にのみ基づいています。 (2025年5月) |
正史にも『別伝』にも生年についての記述はないため年齢不詳であるが、以下を基に推論されている。
- 挙兵:(挙兵時期から)
「常山郡(国)から推挙されて官民の義従(義勇)兵を率いた」[16]という『別伝』の記述から、さまざまな考察がされている。趙雲のように州郡と協力して兵を率いた人物の年齢は、正史ではおよそ18歳前後~20歳以上の者に多くみられることから[注 38]、趙春陽と方北辰は趙雲の生年を170年前後、つまり191年の挙兵時は20歳前後の説を支持している[237][動 8]。175年~180年頃に生まれたとする説[注 39]もあるが、生年を180年と仮定すると191年時点で11、2歳となり、この年齢で義従兵を率いたとは考えづらく、趙春陽はどんなに遅い生年でも175年までとし、それ以降に生まれた可能性を否定している[237]。 - 史書:(文中の表現から)
『別伝』には趙雲と劉備の出会いについて、「時先主亦依託瓚,毎接納雲,雲得深自結託(この時、先主(劉備)も公孫瓚の元を頼っていた。(劉備は)常に趙雲を受け入れたので、趙雲は深く身を委ねることができた)」[27]と記述され、『別伝』が書かれた後の時代(北宋)に編纂された『資治通鑑』では、この趙雲と劉備の出来事を「劉備見而奇之,深加接納…(略)(劉備は趙雲を見て、その才能を奇(あや:才能を認め高く評価すること)し、深く受け入れた)」[239]と解釈(表現)しており、『別伝』と『資治通鑑』双方に見られるこれら表現は、正史では「王允と呂布」[240]、「劉備と田豫」[241]のような、10歳以上年の離れた年長者や目上の者と年少者に対しての記述で確認される。よって、劉備(161年生まれ)と趙雲においても10歳ほどの年齢差(趙雲が年下)であったと考えられるという[237]。 - 干支:(字から)
趙雲の字「子龍」の「龍」から干支の辰年生まれとする説もあるが、陸遜の孫の陸雲・字「士龍」は262年生まれの午年、陸雲公・字「子龍」は511年生まれの卯年生まれで、このように「龍」の名が使われていても辰年生まれであるとは限らない[237][注 40]。
家族と墓地
要約
視点
家族

詳細はそれぞれの該当記事を参照。
- 兄:名は不詳。『趙雲別伝』に記載。『三国志演義』には登場しない。
- 妻:名は不詳。民間伝承や『演義』関連作品では様々な妻が登場する。
- 趙統:長子。蜀漢の武将。『演義』では弟と共に趙雲の墓守を命じられる。
- 趙広:次子。蜀漢の武将。『演義』では兄と共に趙雲の墓守を命じられる。
正史、演義にも登場しない人物
子孫
『三国志』および『趙雲別伝』には、趙雲の家族が蜀漢滅亡後にどうなったかの記述はなく、詳細は不明である。しかし、四川省西充県の趙氏に伝わる『西充趙氏宗譜』によると、蜀漢滅亡後、趙雲の長子である趙統と次子の趙広の子孫は皆四川に残り、趙広の息子とされる趙諮は射洪に、趙統の息子とされる趙纂は凡渓(現在の四川省西充県一碗水太平)にそれぞれ定住したが、その後、元末の戦乱により一族は離散し、明代になるとわずか8人が残り、一族の趙権が西充から南部県神壩鎮橋楼村九龍山の麓にある大木樹岩に移住し、子孫は橋楼村を中心に広がり、後に三つの支流に分かれたと記される[W 3]。神壩鎮には数千人の趙氏一族が存在し、西充の趙氏一族は数万人にのぼるといわれるほか、趙雲の故郷にある河北省正定県には、趙雲の子孫と称する人々によって建てられた『趙雲廟』が存在する[242]。
墓地
正史には趙雲がどこに葬られたのか記録はないが、以下に趙雲墓とされている墓が3か所ある[243]。
大邑

大邑は成都の西側に位置する。
- 大邑趙雲墓:中国学会で広く認められている墓。
四川省成都市の大邑県にある銀屛山(『三国志演義』では錦屛山[244]。山の名前については後述)の南麓に位置[245][246]。趙雲が晩年、羌族の反乱を鎮圧するため、この地に駐屯したという逸話が大邑に伝わっている[注 41]。静恵山には趙雲が土城や羌族を監視する台(望羌台)を築いて、羌族の侵入を防いだとされる遺跡が複数残されていた[247][248][注 42]。のち趙雲が亡くなると、この地に葬られたとされる(後述)。墓の前に建てられた子龍廟は明末の戦争で破壊された[243]。
1665年、大邑知県の李徳耀が趙雲墓のために祠堂と碑を建て[250]、その後も何度かの改修、拡張工事が行われ、1891年5月には文荘公が奏請して趙雲が祀典に列せられ、以降、該当の地方官が春秋に祭祀を執り行った[251]。
1930年には大邑県長・解汝襄が県民と一緒に子龍廟を拡張し、前殿、本殿、拝殿などからなる壮観な建造物になった。清代の頃から毎年春になると、子龍廟の近くで盛大な廟会が開かれ、大変賑やかだったという[252]。
1949年以降も庶民の憩いの場であったが[243]、その後は文化大革命で破壊されてしまう。2011年に墓の修復が始まり、その際に誤って墓道を掘り当ててしまったが、最終的に採掘を中止し、現状のまま保存する決定が下されている[253]。その後は四川地震で工事が中断されていたが、現在政府により修復作業が進められ、2025年に一般公開が予定されている[W 5]。
1961年、県級文物保護単位指定、1985年、市級文物保護単位指定、1996年、省級文物保護単位指定、2005年には「大邑趙子龍文化研究会」が成立[253]、趙雲の故郷・正定県「河北省趙子龍文化研究会」、台湾『佳里子龍廟永昌宮』(「#台湾」を参照)と積極的な交流が行われている[254]。
以下は明清時代の地方志にわずかに記録されているという「趙雲が大邑に葬られた理由」とされる。
- 墓の発見:
大邑の趙雲墓についての最古の記録は、明末の曹学佺が記した『蜀中広記』108巻中の巻13で、「本志に曰く、静恵山、一名東山…(略)」[248]と書かれている。この『本志』について、大邑地元学者の衛復華の説では、明版の『大邑県志』を指すと考えられており、また、楊慎が編纂した『邛州志』にも、当時大邑県が邛州に属していたことから、大邑県に関する記述、ひいては趙雲墓に関する当時の状況についての詳細が含まれていたと推測できるが、これらの史料は戦乱や流賊(諸地方を渡り歩く盗賊)による破壊によって失われ、清代には現存していない。他の現存する史料では『大明一統志』に南陽の趙雲墓(後述)が記されているが[255]、大邑の名はなく、葉威伸は明代中期以降に初めて大邑の趙雲墓と廟が発見された、あるいはこの時期に造り出されたのではないかと推測している[256]。
- 山の名前:
清代に入ってからの文献・史料では「大邑に趙雲墓がある」ことと、墓のある場所として、そこで初めて「銀屛山」の名が確認されるため、葉威伸は銀屛山の名は清代に名付けられた可能性を指摘し、さらに元末から明初頃に成立した『三国志演義』には趙雲の墓の場所として「錦屛山」の名が出てくるが、大邑のいかなる志書にも錦屛山の名は見当たらないことから、清代の銀屛山の名称は『演義』の錦屛山と結びつけて名付けられたのだろうと推測している[257][注 43]。
錦屛山の名は『演義』の作者とされる羅貫中が何らかの史料を元に名付けた可能性もあるが[注 44]、『演義』において錦屛山は「趙雲の墓」の場所以外にも物語中2度登場し、1つは劉璋の配下である張任らが錦屛山を通って紫虚上人に吉凶を尋ねる場面[259]、もう1つは劉禅が錦屛山が崩れる夢を見た直後に諸葛亮の死の知らせを聞くという場面[260]で、錦屛山は蜀の人物や政権などの死と滅亡に結びつけられているが、これは『演義』の創作か、或いは当時の民間伝承に基づいて作り出した可能性もあるという[261]。
明代以前の地理書では、南宋の『方輿勝覧』にのみ、淮西路の無為軍(現在の安徽省無為市)に「山の形によって名付けられた」という『銀瓶山』という名の山があったことが記されている[262]。葉威伸によれば、これらの情報から考察すると、清代に至ってから、「明代以来、趙雲の墓と廟がこの地にあるという言い伝えがある」、「民間伝承や『三国志演義』の説と合致する」、「東山・静恵山一帯の山の形が銀色の屏風に似ている」ことから、人々が銀屛山と呼ぶようになったといい、史料への記載については、南宋以降この地域は静恵山と呼ばれ、明代には趙雲の墓と廟が「静恵山の下」に位置づけられていたが、清代初期に至って、銀屛山が静恵山や東山などの山々から独立した名称を持つようになり、趙雲の墓と廟もこの時に銀屛山に位置づけられるようになった、としている[263]。 - その他の墓の伝承:
大邑の東門紅光地区にある兔児墩は「趙雲夫婦の合葬墓」という伝承があり、左右二つの小さな土盛りは趙雲の目と言い伝えられていた[264]。2007年9月~11月にかけて発掘調査が行われ、前漢の土坑墓2基と後漢のレンガ積みの墓4基が出土したが、出土品から趙雲夫婦の合葬墓ではないことが確認された[265]。葉威伸によれば、こういった伝承は大邑に複数存在するが、これらは現存する趙雲墓の真偽を疑うことから生まれたものであり、趙雲は大邑の他の場所に葬られたとする主張もあるものの、その根拠はほとんどが地元の口伝だという[266]。
南陽
- 南陽趙雲墓:南陽市南三十里に存在した墓。
趙雲の墓についてもっとも古い記録である明の天順5年(1461年)『大明一統志』に記述がある[255]。盗掘に遭い、現在は碑文の拓本が残っている。以下は墓にまつわる伝説である。
清の順治帝は自身を劉備の生まれ変わりだと名乗り、「二弟の関羽が夢に現れ、三弟の張飛は遼陽に、四弟の趙雲は南陽にいると告げた」と大臣たちに言い、神勅を発して遼陽で張飛の生まれ変わりを、南陽で趙雲の生まれ変わりを探させた。南陽の知県は3か月間、趙雲らしき人物を探したが見つけられなかった。
この時、偶然にも南陽市の南三十里の村で、誤って人に怪我を負わせてしまった罪で役所に送られた趙走軍という農民がいた。 知県は趙走軍の濃い眉、大きな目、長身で整った容姿を見て趙雲に違いないと思い、名前を聴いた知県は「”走”に”軍”を足すと、”運(运)”(うん)=”雲(云)”(うん)ではないか? 彼は間違いなく趙雲の生まれ変わりだ!」 と頭の中で考え喜んだ。知県は縛られていた趙走軍を解き、明日都へ向かうことを告げた。事情を知らない趙走軍は、都行きは傷害の罪で処刑される事だと思い、恐ろしくなった彼はその夜、首を吊った。
趙走軍が自害したと聞いて、知県は急いで都に戻って皇帝に謝罪した。 順治帝は一部始終を知ると、彼を責めることなく、四弟に永遠に会えなくなったことに激しく涙を流し、趙走軍を王侯として手厚く南陽に葬り、子龍祠を建てて永遠に偲ぶようにとの詔を発し、これが南陽の趙雲墓になった。 — 「南陽趙雲墓」の伝説より[267][268]
臨城
- 臨城趙雲墓:発見がもっとも新しい墓。
2005年5月19日、河北省邢台市の臨城県麒麟崗から光緒・戊戌(24年(1898年))の『漢順平侯趙雲故里』の碑が発見され、2009年に河北省政府によって無形文化遺産リストに含まれた[269]。 この臨城県の動きは正定県との趙雲の故郷をめぐる論争を引き起こし、学界でも議論を巻き起こした[W 6][W 7]。地元の伝説によれば、臨城県には3つの趙雲故里の碑があったとされている[270]。臨城の趙雲墓については、1982年に臨城県文化管理局が行った文化財調査の際に臨城県澄底村の西1.3キロで発見された[271]が、大邑趙雲墓や南陽趙雲墓が、明代に遡る『大明一統志』や現地の年代記に記録されているのに対し、臨城趙雲墓は年代記や歴史書には見つかっていないため、研究者は趙雲の墓である可能性は低いとみている。 民間伝承によると、趙姓の人々がこの墓前で千年以上にわたって春と秋に祭祀を行ったというが、墓石や記念碑はなく、廟も建っていない[272]。 以下はその理由とされる。
趙雲別伝
要約
視点
「別伝」とは
「別伝」とは、主に後漢時代から東晋時代までにおける、単独の人物に関する伝記である。その多くは名士を中心とした知識人層の名声を高める目的を持っていたが、中にはあまり重要視されなかった人物に焦点を当てるためや[274]、あるいは晋代以降に世家の子弟が多く就任していた秘書郎(皇室の蔵書を管理し、校正や編纂を行う官吏)や佐著作郎(国史の編纂をする著作郎の下に位置する官吏)の課題として書かれた[275]。後漢時代から続く人物評の流行のみならず、魏晋時代における名士層の気風の発達に伴い盛んに製作された別伝は、対象の人物に関する雑多な内容が盛り込まれており、「正統」である史書とは異なる視点や性質を有するほか[276][277][278]、表現に小説的技法が見られるのが特徴である[279]。裴媛媛によれば、別伝の作者名が往々にして無記載である理由としては、単なる佚名によるもの以外では、別伝が成立する初期段階では書面ではない逸聞の寄せ集めに過ぎなかったために、それを引用する後世の歴史家たちが便宜的に「別伝」という通称を用いたこと、またそれらの逸話が単独の人物ではなく複数人から伝わったことも挙げられる[280]。だが時には、『孫資別伝』に対して裴松之が指摘しているように[281]、家伝由来の伝記であるために該当する人物の失点を隠して記されたものも存在した[282]。また顔師古が『東方朔別伝』について「みな実際の出来事ではない」と難じたように、怪奇現象などの確証に欠ける逸話が載せられることもあった[283]。とはいえ、全ての別伝がそれらと同様に信憑性が低いとは限らず、依然として別伝の史料的価値は高いといえる[284][285]。
「別伝」の存在が確認できる三国時代の主な人物は以下の通り[286][287][注 46]。
魏 | 呉 | 蜀 |
| ||||||
「趙雲別伝」とは

『三国志』の成立から約100年後の南朝宋時代、文帝からその簡素な記述を補うよう命を受けた裴松之は、当時まだ残されていた史料・文献を広く調べ、詳細な注釈を付した[289]。裴松之が『三国志』に注をつけて引用した数々の書物を批判し、史実を確定しようとしたのは、不確実な内容を記す史書が増えたためであった[290]。この裴松之注によって『三国志』の内容は大幅な充実をみることになった[289]。
『趙雲別伝』は裴松之が引用した文献の一つであり、趙雲の生涯を詳細に記した個人の伝記である[291]。本伝と区別するために「別伝」と称される[292]。正史『三国志』趙雲伝が簡素な記述に留まるのに対し[注 47]、『趙雲別伝』には趙雲に関する記述が本伝のおよそ3倍に及び、公孫瓚との関係から劉備への仕え、官職の変遷、さらには会話内容までが記されており、趙雲の生涯をより深く理解できる貴重な史料である。しかし『趙雲別伝』は作者や成立時期が不明であるため、その信憑性については、国家が編纂した正史に比して低く評価されることがある[295]。また李光地は、「趙雲の美徳はみな『別伝』に見られるが、本伝では全く触れられていないのは、なぜなのだろうか?」と、記述の相違に対して疑問を呈している[296]。
一方では、『趙雲別伝』の記述は肯定されている。方北辰や周思源は、歴史人物(趙雲)の講義をTV番組で行った際、正史と共に『趙雲別伝』を採用している[動 9][動 4]。渡邉義浩は、「裴松之は、『趙雲別伝』については、内容的な誤りなどを指摘することはない。裴松之は、『三国志』を補うことができる史料と認定していたと考えてよい」と述べている[297][注 48]。矢野主税は、対象の人物の功績を残すのみならず、その人物周辺の政治的動向が反映されていることから、別伝は「一般史書の欠を補う貴重な史料」だと論じ、その一例として、『趙雲別伝』内に「蜀の後主が〔趙〕雲の死後賜った詔をのせているが如きにも見られる」ことを挙げている[300]。また、家伝に依拠した可能性も踏まえつつ、「当時、世上に流布していた人物評を基として書かれた」という作品的性質から、別伝とは「ある個人の作というよりも、当時の社会の作というべきもの(中略)換言すれば、門閥社会の、その人物に対する評価」ではないかとも述べている[301]。
他方では、『趙雲別伝』の記述を否定する向きも見られる。何焯は、趙雲が劉備に仕えた時期が本伝と異なることを指摘し、また第一次北伐で降格された趙雲が褒賞を受けたことには「諸葛亮は賞罰が厳粛であるのに、趙雲を降格する一方で、どうして妄りに報奨を与えられるものだろうか。そうでないことは明らかだ。別伝の類はみな子孫が美辞で飾り立てたものであるため、承祚(陳寿)は採用しなかったのだ」と述べている[302]。劉備の呉討伐に対する諫言については、国家経営は諸葛亮の担当であり、彼が諫めるのは当を得ているが、趙雲のような武臣が口を挟むのは分不相応であるとして、「〔趙雲の〕家伝は〔他人の〕美談を奪い取っているのだ」と主張する。また劉備の大敗を受けて諸葛亮が想起したのが法正だったことに触れながら「雑号将軍〔である趙雲〕の及ぶところではない」とし、さらには、『趙雲別伝』は諸葛瑾の書状[注 49]や孫権が帝位を称した際の諸葛亮の言葉[注 50]を模倣したのだろうとも述べている[305]。
正史の評価
要約
視点
歴史的評価

歴史上の趙雲は蜀漢の二朝に長く仕えた功労者であるにもかかわらず[306]、五虎将の末席に置かれたのは、彼が他の武将ほどの戦功が顕著でなかったため、という見方が強い[307][308][309]。
後世、中国では趙雲を目上に対して臆せず諫言する勇敢さに加え、文官的な知性、大臣の気質を持つ儒将として高く評価した(→#個人の評価を参照)。蜀漢の名臣名将の塑像が祀られた四川省成都市の成都武侯祠『昭烈(劉備)殿』西側にある「武将廊」の趙雲の塑像が文官の服を着せられているのは、このためであるとされる[要出典]。清代は『三国志演義』の流行により高まった趙雲の人気もあり、蜀漢の武将としては、本殿に祀られている別格扱いの関羽・張飛を除いて「武将廊」に筆頭の位置に置かれている(文官を祀った東廊「文官廊」では龐統が筆頭)[注 51][注 52]。現在の成都武侯祠の文武官の塑像は清代に作り直されたもので、塑像の増減や調整が過去数回あり、現在の配置は1953年に改修された時のものである。

清代に作られた趙雲の塑像
(左:孫乾)
成都武侯祠の趙雲像は老人の姿で塑像されている[313]。成都武侯祠博物館の『武侯祠大観』によると、「塑像の外見は後代の伝承や小説・戯曲由来である」という[314]。
中国では本来、趙雲は老将のイメージが強かったのが[186]、日本のゲームなどのイメージが輸入され、若武者のイメージが広まったとする見解がある[315]。実際のところ、趙雲のイメージは、中国各地で演じられる戯曲によってさまざまである[316][317](→「#古跡と施設」成都武侯祠、「#京劇」)。
成都武侯祠以外では、康熙61年(1722年)、歴代帝王廟に趙雲が従祀名臣の列に加わっている[318]。小林瑞恵はこのことについて、趙雲を不忠者と評しなかった清代の『演義』版本の流行による影響を指摘している[319][注 53]。また、「文武両道の儒将」という趙雲のイメージは『演義』から成立したともいう(→#趙雲像の形象)[320]。
個人の評価
同時代の評価
明代以前の評価
- 陳寿:「①黄忠・趙雲は共に彊摯壮猛、揃って軍の爪牙となった。灌嬰・滕公の輩であろうか?」[323][注 54]「②陳到は名声・官位ともに常に趙雲の次にあり、どちらも忠節勇武な人物として称えられた」[325]
- 薛登:「武芸に関しては、趙雲は勇気があるが、諸葛亮の指揮を必要とした。周勃は偉大な人物だが、彼には陳平の策略はない。もし樊噲が蕭何の役目を担ったならば、必ず状況を見極めて適切な指示を出すという機会を逃してしまっただろう。逆に、蕭何が前線に赴いたとしても、君主を危機から救うような効果はなかったであろう。闘将は敵の攻撃を打ち砕くことに長け、謀将は事態を的確に予測することに長けている」[326]
- 大唐平百済国碑銘:「趙雲は一身全て胆、勇敢三軍。関羽は万人の敵、名声は百代に渡る」[327]
- 朱黼:「(対呉戦争の諫言について)この意見は深い洞察に基づいており、天下の情勢を的確に捉えている」[328]
- 鄭元佑:「趙雲が蜀で民を安んじたように、無限の需要を限られた資源で共有するのは得策ではない」[329]
- 蕭常:「趙雲は勇猛の臣でありながら、田畑や家屋を返還して民心を大切にしたり、軍資を冬の下賜にしたり、呉を赦免して魏を重視したり、国家に対する明確な理論を築き上げたが、これは諸葛亮でも考えに至らないことだ。同姓を理由に趙範の兄嫁を受け入れないなど、己への厳しさは当時の武将の中でも随一ではないか?」[330]
- 郝経:「趙雲は忠誠を尽くして、その身をもって君主を守り抜いた。その志は初志貫徹であり、漢の忠義の士であった。功績と志は曹樊(曹参と樊噲)の輩のようである。趙雲は特に博識で先見の明がある。勇ましいが注意深い。たびたび忠言を献じ、その度に時勢を的中させた」[331]
明代の評価
清代の評価
- 王夫之:「猇亭で敗れ、先主(劉備)が亡くなり、国の精鋭は夷陵で尽きた。趙雲のように公(諸葛亮)の志に共感する老将もいなくなった。(中略)もし先主が、関羽を信頼したように公を信頼し、趙雲の言葉を聞き入れて東征をやめ、曹丕が天下を簒奪したばかりで人心も定まっていないときに、孫権と手を結んで中原を問いただしていたならば、国力もまだ十分で、士気もまだ盛んだった。漢の運が衰えていたとしても、なぜ英雄の血が許昌と洛陽に流されず猇亭にのみ流される必要があったのか?」[335]
- 李紀:「昭烈(劉備)は趙雲を使って漢中を奪い、関羽を遣わし樊城を攻めた」[336]
- 黄彭年:「趙雲は数十騎で敵に遭遇し、門を開け旗を伏せ、戦鼓を止め敵を油断させるという大胆な戦略で勇気を示した」[337]
- 李景星:「関羽・張飛・馬超・黄忠・趙雲はいずれも蜀の名将である。故に合伝されている」[338]
- 趙作羹:「(益州農地分配の諫言について)趙雲の提案を見るに、これは統治の基礎と言える」[339]
- 林暢園:「孫夫人の横暴は趙雲と法正によって制御できた。このように賢者は国にとって非常に有益である」[340]
- 陳允錫:「(東征に対する趙雲の諫言について)これは素晴らしい戦略だ。劉備はそれに従わず敗れた。天は漢に味方しなかった」[341]
- 計大受:「(東征に対する趙雲の諫言について)この時点で彼は諸葛亮の大節に値する人物だ。そこには古代の大臣たちの遺風がある」[342]
- 李澄宇:「長坂の戦いで趙雲が後主を抱いて保護し、甘夫人もみな難を逃れた。孫夫人が呉に戻ると、趙雲と張飛は河を遮って後主を奪還した。この二つの出来事は今でも私たちの心に鮮明に残っている。彼の逝去後、関羽・張飛・馬超・龐統・黄忠と同じく美諡を与えたのは良い行いだ」[343]
- 陳淡野:「人はみな器であり、各々にはそれぞれの器量を持っている。 天地のごとき器量は聖人や皇帝がそれに倣うのと同じである。 山川大海の器量は貴人の定めである。 古夷齊には他人を許容する器量あり、孟夫子には剛健の器量あり、范文正には世を救う徳の器量あり、郭子儀には福の器量あり、諸葛亮には智の器量あり、歐陽永には才の器量あり、呂蒙正には寛容の器量あり、趙子龍には勇の器量あり、李德裕には力の器量あり。これらはすべて偉大な器である」[344]
- 王復禮:「①順平(趙雲)はまさに儒将であった。自己を律するは厳しく、人との接し方は慎重であった。道理を見る目は明晰で、私心を捨てる力は強かった。当陽(長坂)で後主を救い、奮って身を顧みず、漢水(漢中・定軍山)で功績を立て、その威勢は虎のようであった。ことわざにあるように、「胆欲大而心欲小。志欲圓而行欲方。(胆は大きく、心は小さくあれ。志は円く、行いは方正であれ)」。まさに順平のことである」[345]「②当陽の戦いと孫夫人の帰郷。もし趙雲がいなければ、後主は命を落としていたかもしれない。したがって、功績や才能に関わらず、彼は三国の他の誰よりも優れている」[346]
- 呉雲:「天性の勇猛さを持ち、将軍でありながら自ら矢石を浴び兵士を率いて最前線に立つ。これは趙順平(雲)、常開平(遇春)の遺風だ」[347]
- 張溥:「(対呉戦争の諫言について)(趙雲は)大義を理解し政策を決定するという点で魯粛と同じだったが、劉備は彼の諫言を聞き入れなかった」[348]
- 陳造:「趙子龍が魏軍を退けた時、劉備は彼を「全身が度胸の塊」と称賛し、後世に語り継がれるべき武勇だと述べた。まさに死地から生還し、敗北を勝利へと転換させたのだ」[349]
- 李榘:「蜀の猛将といえば、世の中では必ず関羽と張飛を最初に挙げるだろう。彼らの勇猛果敢な気概と、忠義を貫く節操は、古今を通じて傑出した人物と言える。しかし、彼らが欠けていたのは智謀であり、それが原因で敗れてしまった。私が思うに、趙雲は武将として、一万の敵にも恐れられる勇気を心に宿し、その胆力は君主に称賛され、関羽や張飛にも引けを取らない。さらに、賞の辞退や呉への出征を諫めるなど、謙虚で深く考え、時勢を見極める能力は、関羽や張飛には及ばない。まさに真の良将である。劉備、諸葛亮、関羽、張飛、そして趙雲は力を合わせて漢の復興を目指した。しかし、関羽と張飛が亡くなり、その後劉備も世を去り、趙雲が亡くなり、諸葛亮もまもなく世を去る。蜀には君臣ともに優れた人物がいなくなり、滅亡を免れることはできなかった」[350]
- 朱軾:「趙雲・関羽・張飛・馬超・黃忠、強者を併称して五虎将。陳寿は、趙雲の剛強で勇猛なところを灌嬰と滕公にたとえたが、これは趙雲のすべてを言い尽くしたものではない。趙雲は知略が深く、度量が広く、公孫瓚の反乱の際、使者とのやり取りでその才を見せた。劉備との関係は、鄧禹が光武帝に仕えたように、先見の明があった。当陽での護衛は、麦飯豆粥を煮るような手間を惜しまないほど徹底していたし、漢中の戦では、戦況を転換させるような巧みな戦略を立てた。夏侯蘭を推薦し、自分と親しくなることを避け、岑彭のように韓歆を有用な人物と見抜き、馬武のように旧部下を率いようとしなかった。趙範からの結婚の申し出や田園の贈与などを固く拒み、憂国の念を抱き公務に励む様子は、呉漢が妻が多くの田地を買ったことを怒ったという故事に似ている。要するに、趙雲の計略や戦略は、特に出兵を諫める言論に際立っていた。その見解は、諸葛亮の平生の用兵と大筋において似ており、もし趙雲が生きていれば、大将軍の地位は姜維ではなく趙雲に与えられただろう」[351]
- 易佩紳:「趙雲は武臣であったが、儒臣としての性格も併せ持っていた」[352]
- 李光地:「趙雲と張嶷は偉大な将軍であるだけではなく、明決で思慮深く、成熟した人物であり、古の重臣に選ばれるだろう」[353]
- 厳如熤:「褒斜道の桟道、桟閣は趙雲と王平のような忠実で謹慎な良将を配置し、その指揮を任せたのは当然のことであった」[354]
- 牛運震:「『趙雲別伝』には、劉備との係わり、田宅贈与の辞退、東征に関する助言などの経緯が記されているが、いずれも全体的な情勢把握という点で注目に値する」[355]
- 宋徵璧:「張遼と趙雲は敵陣を我が物顔で動き回り、その勇猛果敢な振る舞いで敵を圧倒し、恐れさせた。しかし自分の勇猛さを頼りにするようなやり方は、大将としての真の力量とは言えない」[356]
- 沈国元:「趙雲が田宅を拒否し、魏を滅ぼそうとしたのは、単なる武将としての勇気ではなく、古代の賢臣のような深い政治的見識に基づいた行動である。このような志気を、単なる武将としての能力だけで判断すべきではない」[357]
- 朱可亭:「①趙雲は関羽、張飛と共に、馬超・黄忠を加え五虎将と呼ばれた。陳寿は彼らの強靭・勇猛な姿を見て、灌嬰や滕公に匹敵すると評した」[358]「②孫臏は竈の数を減らして敵を欺き、虞詡は竈の数を増やして敵を威嚇した。趙奢は陣を築いて守りを固め、趙雲は陣を開いて敵を惑わせた。このように虚実と強弱は戦況に応じて変化し、軍事は常に予測不能なものである」[359]
- 魏裔介:「昭烈(劉備)は涿鹿の地で起ち上がり、一旅の兵を率いて、曹孟徳(曹操)、袁本初(袁紹)、劉景升(劉表)、呂奉先(呂布)の間で苦難を乗り越え、ついに天下を三分する基業を築いた。西南の文武の佐命は、諸葛亮、関羽、張飛を以て先とするが、しかしながら、私は順平(趙雲)を見るに大節が磊々として、ただの名将というだけでなく誠に古の大臣と呼ぶにふさわしい。長坂の戦いにおいて、順平がいなければ、劉禅(阿斗)母子は危うかったであろう。北山の戦において、順平がいなければ勝利を得られなかったであろう。漢中において、昭烈は順平を称えて、「子龍の一身はすべて胆である」と言った。私が思うに、胆とは忠義が集まったものである。忠義が性から発せなければ、どうしてこのような胆を持つことができようか。また、成都に田宅を構えようとしなかったのは、霍去病の言葉を引いて、「匈奴を滅ぼさぬうちに、どうして家を構えることができましょう。今の国賊は匈奴ばかりではない。天下が定まるまで安んじることはできない。天下が定まれば、それぞれ故郷に戻って耕すべきです」と言ったことは、まさにその通りである。また、先主(劉備)が東征しようとしたときに諫め、「国賊は曹操であって孫権ではない。関中を図り、河渭の上流から凶賊を討つべきである」と言った。その識見は特に素晴らしい。惜しいことに、先主は諫言を聞き入れず、独断で進んだために敗れ、王業が中絶してしまったことは、まことに嘆かわしい。順平の言葉を採用して、孫権を捨てて関中、秦隴(長安と涼州)を奪取していれば、漢室は興隆したであろう。先主は人を見る目はあったが、用兵の識見は時勢や権謀術数に暗かったため、自ら軍を率いるとしばしば敗れた。しかし順平のような優れた武将を、微賤の身から見出して終生信頼し合ったことは、先主の大きな功績である。史書に記された順平の功績は古今に輝き、陳寿は趙雲を灌嬰や滕公に匹敵する人物と評した」[360]
- 同治桂陽直隷州記:『順平(趙雲)は勇猛な虎将、土地を平定し城塞を鎮めた。婚姻を拒み田宅を辞退、その毅然とした意志は一層勇気で奮い立つ』[361]
清代以降の評価
三国志演義の趙雲
要約
視点

[1]……引用文献・書籍
[W ]…引用WEBサイト
[動 ]…引用・参考動画
[注 ]…補足、研究者の推論・考察
人物設定

羅貫中によって書かれたとされる長編白話小説『三国志演義』(以下『演義』)において、趙雲は少年として登場し、70代の老将軍に至るまで長く活躍する[365]。大胆かつ細心で、知勇兼備の着実な武将(後世では常勝将軍と呼ばれる[要出典])として描かれ[366]、「常山の趙子龍」[367]の名乗りで広く知られている[要出典]。
『演義』屈指の名場面として、趙雲が単騎で劉備の子・阿斗を救出する「長坂坡の戦い」は趙雲の武勇と忠義を象徴し、その英姿は読者に強烈な印象を与え、その人気を決定づけたと言える[368]。関羽・張飛・馬超・黄忠ら蜀漢の諸将と並んで「五虎大将軍」(五虎上将・五虎将とも)の一人となっている。この称号は、『三国志平話』などの語り物芸で使われ、『演義』にも採用された架空の称号である[369][注 55]。
性格面においては「義に厚くプライドの高い関羽」や「乱暴者の張飛」といった個性的で破天荒な登場人物たちが多い中で、「冷静沈着な趙雲」は諸葛亮から与えられる任務を着実にこなすため、作中、劉備・諸葛亮の双方から特に重要な任務で重用される場面が多い[動 4]。趙雲は、史実では本来無関係な場面において劉備の護衛あるいは関羽・張飛を補う存在として登場する[371]。登場時期が比較的早く、五虎将のうち一番最後まで生き残るという都合の良さも相まって、趙雲は『演義』において「どんな場面にも使うことのできる便利な人物」として起用されている[372]。「文武両道」の造形も、その役割に合わせてなされている[372]。また趙雲は張飛と対照的に描かれており、失敗を犯しがちな張飛に対して、趙雲は行動にほぼ欠点がないが、これは大衆に好まれた「暴れん坊」としての張飛の個性をより際立てる働きを持っている[373]。
『演義』では武将が一騎打ちを行うシーンが頻繁に描かれるが、趙雲は一騎打ちでの勝利数が最も多い25勝となっており、次いで関羽16勝、張飛14勝、呂布7勝となっている。『演義』は蜀勢力を善玉とし、物語の主人公として描いているため、蜀の武将で長生きだった趙雲が最多勝利者となったと推測されるが、長坂坡の戦いでは曹操軍の将軍50人を討ち取っており、趙雲の武勇を際立たせるための意図的な描写と言える[374][注 56]。
以下は、『演義』の趙雲の主な事績(あらすじ)。
※【 回】後ろの[注 ]は毛宗崗の趙雲に関する点評(コメント)
為求仁君

Hem Vejakorn
少年・趙雲は袁紹に仕えていたが[注 57]、国や民を救済する心がない人物だと判り、公孫瓚の元へ向かうと、袁紹配下の文醜に襲われているところに遭遇し、文醜と五、六十合渡り合ったが決着はつかず、文醜は退却。公孫瓚は趙雲に感謝し、臣下に迎えた。そののち劉備・関羽・張飛たちが援軍にやって来る。公孫瓚は劉備に趙雲を引き合わせると、劉備と趙雲はお互い惹かれあい離れがたく思った。別れの日、二人は互いの手をとり、涙を流しながらいつか再会できるようにと挨拶を交わす。その後、公孫瓚は袁紹に敗れ、趙雲は各地を放浪の末、ついに劉備と再会、配下となった。
【三国演義 第7・11・28回】[注 58][注 59]
襄陽赴会
劉備一行は荊州で劉表に手厚く遇される。ある日、劉表は後継ぎについて相談する。「後妻の蔡氏との子・次男劉琮を立てたいが、長男を廃するは礼法に反する。しかし長男劉琦を立てると、蔡氏一族は軍の要職に就いており、必ず災いが起こるだろう」劉備は「長男を廃することは昔から乱を起こす道です」と答え、盗み聞きした蔡氏は弟の蔡瑁と劉備の暗殺を計画する。
劉備の元に襄陽から使者がやってきて、劉表は病気が悪化し動けないので代わりに慰労会に出て客を迎えてほしいという。劉備は趙雲を護衛にして300の兵と襄陽へ向かう。蔡瑁は蒯越と相談し、別室を用意して趙雲を引き離すことにした。宴もたけなわになった頃、伊籍が劉備に耳打ちして蔡瑁の計画を告げ、劉備は逃走。大きな川が行く手を阻んだが、馬の的盧が三丈も跳躍したおかげで追手から逃れた。劉備がいないことに気づいた趙雲は蔡瑁に劉備の行方を尋ねる。シラを切る蔡瑁に疑心暗鬼になるが、証拠がない今は軽はずみな行動は控えた。趙雲は一晩中探し回ってついに草堂で劉備と再会した。劉備は司馬徽(水鏡先生)の草堂にたどり着き、今後について教えを乞うていたのだった。
【三国演義 第34-35回】[注 60]
単騎救主

劉備は三顧の礼をもって諸葛亮を軍師として迎えることになった。しかし劉表が病死し、後を継いだ劉琮は劉備に何も伝えず曹操に降伏した。突然曹操の大軍に攻め寄せられた劉備軍は長坂坡で追いつかれる。劉備の妻子を捜索していた趙雲は敵将の夏侯恩を討ち取ると、宝剣『青釭剣』を手に入れた[注 61]。その頃、糜芳は趙雲が曹操軍の方角へ逃走するのを見たと劉備に告げ、張飛は「やつを見つけたら俺が刺し殺してやる!」と息巻いた。劉備は「子龍は私が逆境にある時から従ってくれた。子龍は私を裏切らないと思う」と言って信じなかった。
趙雲はついに阿斗(劉禅)と糜夫人を発見するが、糜夫人は足手まといになることを恐れ阿斗を託し、井戸に身投げしてしまう[注 53]。趙雲は阿斗を懐に抱えて曹操の大軍の中を単騎で駆け抜けた。曹操はあれは誰かと側近に聴き、曹洪が大声で問うと、趙雲は「我こそは常山の趙子龍だ!」と答えた。曹操は趙雲を手に入れたくなり、生け捕りを命じる。これが幸いして、趙雲は包囲から逃れることができたが、まだ追ってくる敵将を次々討ち取り、その数は五十人に上った。無事に劉備の元へ戻った趙雲は、糜夫人の死を告げ阿斗を差し出す。劉備は阿斗を地に放り投げ、「おまえのような子供のために大事な将軍を失うところであった!」と言った。趙雲は慌てて阿斗を拾い上げるが、劉備の言葉に感激して「肝脳地にまみれさせても、このご恩に報いることはできません」と涙した[注 62]。
【三国演義 第41-42回】[注 63][注 64][注 65][注 66]
取桂陽

趙雲は桂陽攻略を志願するが、張飛も名乗りを上げたので二人は喧嘩になる。くじ引きの結果、趙雲が出撃することになる。桂陽太守の趙範は臣下の陳応があっさり撃退されたので降伏を願いでた。
趙範と趙雲は同郷と分かり、喜んだ二人は4か月生まれが早い趙雲を兄として義兄弟の契りを結ぶ。趙範は亡くなった兄の嫁の樊氏を趙雲に引き合わせ、美人の樊氏を娶るよう勧める。趙雲は「おまえの兄嫁ならわたしの兄嫁でもある。何故道理に背くことができるのか!」と大いに怒り、趙範を殴り倒して城を出て行った。怒った趙範は陳応と鮑隆に趙雲を捕らえるよう命じるが、趙雲に斬り捨てられ趙範は捕縛される。劉備は趙範の行為に敵意がなかったことを知ると樊氏を娶るよう趙雲に薦めたが、劉備の名声が落ちることを理由に固辞したので、劉備は「子龍は真の男だ」と感嘆した。そして趙範を解放してそのまま太守にし、趙雲を賞した。
【三国演義 第52回】[注 67]
甘露寺

劉備は同盟国の呉の孫権から妹(孫夫人:孫尚香)との縁談を薦められ、この申し出を受けることにした。趙雲は劉備の護衛として同行することになった。諸葛亮から三つの錦袋(錦嚢の計)を授かり、困ったときに順番に開けるように命じられる。この婚姻話は周瑜・孫権による劉備暗殺の罠であったが、三つの錦袋の中の指示に従って数々の困難から趙雲は劉備を守りぬき、呉国太にも二人の婚姻を認められ、無事に荊州へ戻ることができた。
【三国演義 第54-55回】
截江救主
孫権は劉備が益州に入ったと知ると、呉国太が危篤であると偽りの書状を孫夫人に届け連れ戻そうとした。同時に阿斗も連れ出し荊州と交換させようと考えていた。趙雲は孫夫人と阿斗がいないことに気付き、慌てて船を追いかけ飛び乗った。呉兵から抵抗され孫夫人に罵られるも、隙をついて趙雲は阿斗を奪い返した。張飛も慌てて駆けつけ、阿斗だけは返してもらい、孫夫人を逃した。
【三国演義 第61回】[注 68]
一身是胆

諸葛亮は曹操軍の輜重を奪うため、黄忠を先鋒として派遣、趙雲を陣営の守備とした。約束の時刻になっても黄忠が戻ってこないので趙雲は探索に向かうと、黄忠が曹操軍に囲まれていたのでこれを次々に倒し救出した。曹操は「長坂の英雄は健在だったか。あの者を軽んじるな」と伝令する。
趙雲らの陣に向かった張郃と徐晃は、開かれた門の前にただ一人、馬に乗った趙雲が立っているという異様なありさまに警戒した。曹操自らやってきて前進するよう促すも、趙雲は動じない。逃げようとした曹操軍に趙雲が合図すると、弓弩がいっせいに放たれ曹操軍は混乱して踏みつけ押し合い、漢水に落ちて多数の死者が出た。劉備は諸葛亮に喜んで言った。「趙子龍は全身肝っ玉である!」。
【三国演義 第71回】[注 69]
五虎上将

こうして漢中を手に入れた劉備は、諸葛亮たちの意見を聞き入れ、漢中王になることを決意した。関羽、張飛、趙雲、馬超、黄忠の五人は「五虎大将軍」に封じられた。
劉備のもとに間諜が「曹操が孫権と結託して荊州を奪おうとしている」という情報を持ち帰る。諸葛亮は関羽に樊城を攻撃させ、敵の気をそらす提案をし、劉備は費詩を荊州に派遣し、関羽が五虎大将の筆頭になったことを伝える。関羽は「翼徳(張飛)は私の弟であり、孟起(馬超)は名門の出、子龍(趙雲)は兄に長く仕え、いわば私の弟も同然。しかし何故老兵の黄忠が私と同列に扱われるのか!」と激怒した。費詩はなんとか説得し、ようやく関羽を納得させて劉備の命令通り樊城を攻めることになる。
【三国演義 第73回】
諫阻東征
関羽は樊城を攻め曹操軍を追い詰めたが、味方の裏切りや呉軍に背後から攻められ、ついには捕らえられて息子の関平らとともに呂蒙らに殺されてしまった。【演義第73-77回】
怒った劉備を趙雲と諸葛亮は共に諫めて止めようとするも、劉備はこれを聴きいれず対呉戦争へと行ってしまう。その途中、張飛は苛烈な私刑でむち打ちにした部下二人に恨まれ暗殺されてしまった。さらに夷陵にて劉備軍は陸遜の火計で大敗。江州にいた趙雲が救援に来たので陸遜は追撃せず軍を撤退させた。この戦いで多くの将兵が戦死し、劉備は心労から病にかかってしまう。ある晩、夢の中に死んだ関羽と張飛が現れた。死期を悟った劉備は諸葛亮と趙雲を呼び寄せて後事を託す。趙雲は涙を流して地に拝し、生涯忠誠を誓った。
【三国演義 第81-85回】[注 70]
力斬五将

諸葛亮は北伐を進める前に、度々反乱が起きる南蛮の征伐を開始。馬謖の「心を攻める案」を採用し、南蛮王孟獲を七度捕らえ七度目も解放しようとしたところ、孟獲はようやく心服して降伏した。
【三国演義 第87-91回】
帰還した諸葛亮はついに北伐に取り掛かる。趙雲は高齢を理由に人選から漏れ、抗議の声をあげる。鄧芝が共に先鋒に行くことに名乗りをあげたので二人を出発させた。趙雲は韓徳の息子たちをつぎつぎに討ち取り、鄧芝は「まさかすでに七十歳になっているとは思えません」[注 71]とその猛将ぶりを称えた。夏侯楙の軍勢と対峙し、趙雲は韓徳を討ち取るも、深追いして程武の計略にはまってしまう。孤立した趙雲の元へ張飛の息子張苞、関羽の息子関興が軍を率いて助けに現れ、窮地を脱した。
【三国演義 第92-94回】[注 72]
失街亭

街亭での馬謖の敗北により退却命令を受け、趙雲は別動隊を率いて殿になる。無事帰還した趙雲の軍が一人一騎も失っていないことを不思議に思った諸葛亮が鄧芝に問うと、「子龍将軍が一人で殿となられ、わたしは兵を率いて先行しましたので、物資を放棄しなかったのです」と答えた。諸葛亮は金を褒美としたが、趙雲は「三軍に何ら功はなく、褒美を受け取ると丞相の賞罰が明確でなくなります」と固辞し、諸葛亮は趙雲の徳に今改めて敬服するのだった。
【三国演義 第95-96回】[注 73]
一陣大風
諸葛亮は宴会を開き諸将と打ち合わせをしていると、突然一陣の風が吹き、庭の松の樹が折れてしまう。不吉な予感がした諸葛亮の元に、趙雲の息子の趙統と趙広が「父が昨晩病没した」と告げに来る。諸葛亮は「国家は棟木と梁を失い、わたしは片腕を失ってしまった」と泣いて言った。劉禅も声をあげて泣き、趙雲に大将軍・順平侯の爵位を贈り、成都の錦屛山に埋葬し、趙雲の息子たちには墓守をするよう命じるのであった。
【三国演義 第97回】
賛詩
- 第28回:瓜分けし昔兄弟の契り深く、信絶えし今音もなし空しく。君臣の義を今再び結び、龍虎の勢い風雲に会す[403]。
- 第41回:紅光罩い
困 る龍飛び、征馬長坂の圍を破らん。四十二年の真 の命主、将軍これより神威顕す[404]。 - 第41回:血染の征袍甲紅透き、当陽の激戦誰が敵う!古来衝陣危主扶けし、唯だ常山趙子龍のみ[405]。
- 第61回:昔年主救いし当陽の地、今日身一つ大江飛び込む。船上呉兵皆胆裂けたり、子龍の勇猛世の無双なり![406]
- 第71回:昔日長坂戦場より、威風は猶や衰えなし。敵陣破り英姿顕し、包囲遭うも勇敢施す。鬼哭神號し、天驚地慘たり。常山趙子龍、一身是胆なり![407]
- 第92回:昔日の常山趙子龍憶う、古稀超え猶や奇功建つ。獨り四将誅し陣を衝く、当陽の雄風今なお健在[408]。
- 第97回:常山に虎将あり、智勇関張匹敵す。漢水に功勲あり、当陽に姓字彰り。両番幼主を扶け、一念先皇に答ゆ。清史忠烈を書き、応百世芳り流る[409]。
演義の研究
要約
視点
趙雲像の形象
→「三国志演義の成立史 § 趙雲」も参照

「趙雲見玄徳」
『演義』の基となった『三国志平話』(以下『平話』)や元雑劇において、趙雲は特筆すべき目立った活躍を見せておらず[410][411]、『演義』における趙雲像にもそれほど影響を与えていない[412][320]。『演義』の趙雲像は、『演義』から発展していったものと考えられる[413]。また、『平話』には「諸葛亮が道術を用いて豆をまいて兵士を作る」といった荒唐無稽な話が多いのに対し[414]、『演義』は「正史に忠実な記述を重視する」という両作品の姿勢の違いも影響を与えていると言える[415]。
『演義』では、『三国志』の「趙雲伝」注釈に引かれる『趙雲別伝』(以下『別伝』)に記された逸話が多く採用・引用された[416]。それにより、趙雲は才能と徳を兼ね備え、知略と勇気を併せ持ち、中華民族の多くの伝統的な美徳を体現する人物として描かれている[417]。陳香璉は、『平話』で趙雲の形象が弱められていたことで「五虎大将軍」のバランスが崩れていたのを、羅貫中と毛宗崗の二人が史料に基づいて趙雲を本来の姿に戻し、バランスが保たれる形となったとしている[418]。『演義』における趙雲像は、比較的史料を踏まえて形成されたと見做すことができるが[419][420]、作中で増大された勇猛さは史実のものをはるかに超えており、歴史上の趙雲像とは異なったものとなっている[320]。

「五虎殿」に祀られた五虎大将軍
(左から:黄・趙・関・張・馬)
上野隆三は、『演義』において、『三国志』の記述から見出される知的な印象に、勇猛さを示す描写が大幅に加筆されたことで、「文武両道の儒将」としての趙雲のイメージが作り上げられたとする[320]。また、毛宗崗本とも呼ばれる『演義』で最も普及する版本では、これまでの五虎大将の序列(関羽・張飛・馬超・黄忠・趙雲)に変更が加わり、趙雲が三番手となっている[421]。これは、先述した『演義』の操作により、趙雲は馬超や黄忠よりもめざましい活躍を見せるようになったため、毛宗崗が、史書および以前の諸版本では五番手だった趙雲を昇格させたのだという[422]。

周思源は、「趙雲は羅貫中が特別好んで力を入れて描いた人物であり、関羽・張飛のように傲慢・粗暴で不注意なところもなく、大胆でありながら慎重で勤勉、卓越した武勇・忠誠心・謙虚さといった美徳と結びつき、「ほぼ完璧な英雄像」として描かれている」と述べ、物語中特に注目するべき点として、趙雲が物語の最初から最後まで輝かしい生涯を送っていることを指摘し、「初登場では公孫瓚を助けて文醜と見事な戦いを繰り広げるという印象的なシーンから始まり、他の五虎将の結末は惨殺や暗殺など、終わりを良しとしなかったが、趙雲は生涯の最期まで敵将5人を討ち取るという武功を上げており、これは羅貫中が趙雲という人物の人生を丹念に作り上げ、趙雲を特に愛していたことを反映している」と述べている[動 4]。
井波律子は、『演義』における趙雲の文学的表現について、破滅型の武将が多い中で趙雲は破綻を見せない理想的な武将であったこと、そして謹厳実直な性質が士大夫層の理想とする倫理観と噛み合ったことを挙げて、『演義』の趙雲像を、その真面目な人間性を賛美した「士大夫の美学の結晶」だとしている[423]。
容姿の変遷

表紙の趙雲(1944年)
『演義』の古い版本である嘉靖(かせい)本では「身長八尺,濃眉大眼,闊面重顏,相貌堂堂,威風凛凛」(身長約185cm、濃い眉に大きな目、広い顔に広い額、端正で堂々とした容貌、威風があり凛々しい姿)とある[注 74]。毛宗崗本では「相貌堂堂」が消え[注 75]、「闊面重顏」が「闊面重頤」(広い顔に重なったあご)に変更されている[注 76]。このように元の『演義』においては、趙雲は英雄的な男性らしさを強調した偉丈夫として描かれていたが、後世の創作では中性的な、いわゆる「白馬に乗ったイケメンの若武者」というイメージが定着している[428]。この変化は、清代の京劇において確立された「白袍を着た若い美形の儒将」という趙雲のイメージが、後世に多大な影響を与えたことに起因する(→「#京劇」)[316]。単田芳や張国良による近現代の平話や評書作品では、「若い娘のように美しい」[429]、「白袍に身を包み銀の槍を持ち、整った顔に氷のように透けた美しい白い肌」[430]といった表現が見られる。
京劇の影響以外にも、趙雲が仕えた最初の主君である「白馬将軍」公孫瓚が、白馬で統一された精鋭騎兵隊「白馬義従」を率いていたという史実から[10]、趙雲もその一員であった可能性があることから[動 3]、「白馬」「白」というイメージが結びつき定着した一因となったと考えられ[316]、また正史の注釈『別伝』の趙雲の容貌についての記述「身長八尺、姿顔雄偉」(身長約185~190cm、姿や顔立ちが際立って立派だった)[15][2]と記されていることもキャラクター造形に影響を与えたと考えられる[13]。
作中の矛盾と相違
- 年齢の矛盾:
『演義』において、趙雲は初登場時(191年)には「少年」として描かれ[431]、孫夫人から劉禅を奪還した時(211年)には自身を「小将」と称する[432][注 77]。五虎大将に封じられた時(219年)には、58歳の関羽[注 78]が、趙雲のことを「我が弟」と呼び[434]、南蛮征伐(225年)では諸葛亮が趙雲のことを「中年」と呼ぶ[435]。その2年後の北伐前(227年)には「老将」として登場し[436]、翌年(228年)の時点では「70歳」だとされる[437]。これらの描写をもとにすると、以下の表のようにさまざまな矛盾点が現れるが、沈伯俊はこれを「羅貫中の計算ミス」として、趙雲の年齢を10歳若くすることで、他の部分の矛盾も無くなる合理的なものにした[438]。一方、『演義』の年齢描写は羅貫中の一種の「文学的表現」だと解釈するものもある[439]。
『演義』の70歳を元にした年齢 | 沈伯俊の著書(-10歳) | ||||
---|---|---|---|---|---|
西暦 | 年齢 | 実際の描写 | 西暦 | 年齢 | 実際の描写 |
228年 | 70歳 | 第一次北伐 | 228年 | 60歳 | 第一次北伐 |
225年 | 67歳 | 諸葛亮が「中年」と呼ぶ | 225年 | 57歳 | 諸葛亮が「中年」と呼ぶ |
219年 | 61歳 | 58歳の関羽が「弟」と呼ぶ | 219年 | 51歳 | 58歳の関羽が「弟」と呼ぶ |
211年 | 53歳 | 孫夫人から劉禅を奪還 | 211年 | 43歳 | 孫夫人から劉禅を奪還 |
208年 | 50歳 | 長坂坡の戦い | 208年 | 40歳 | 長坂坡の戦い |
191年 | 33歳 | 「少年」として描かれる | 191年 | 23歳 | 「少年」として描かれる |
- この『演義』の「70歳」という描写から生年を逆算し、『演義』関連物では趙雲の生年を158年とするものがある[218][W 9]。一部の民間伝承では「80歳、90歳まで生きた」とされる[440][441][注 79]。また中国の公園や施設に展示されている趙雲像の台座や展示板には「148年生まれ」とするものも存在する[442]。そのほか、光栄(現:コーエーテクモゲームス)のシミュレーションゲーム『三國志シリーズ』では、ゲームのシステム上、全武将に生没年が設定されており、趙雲はこのゲーム独自に「168年生まれ」と設定されている[443]。
- 地位:(相違点)
漢中(定軍山)の戦いにおいて、『正史』では「虎威将軍」と軍中で号されたとあるが、『演義』ではこれが趙雲の官職名となっている[444]。 - 没エピソード:
羅貫中は『別伝』から多くの逸話を採用しているが、博望坡の戦いで趙雲が命を救った幼なじみの夏侯蘭との逸話は採用せず、夏侯惇の副将として登場させ、張飛から槍のひと突きで馬から突き落とされ、以後登場しない[445]。そのほか、趙雲が兄の喪に服する逸話も採用しておらず、劉備や関羽・張飛ら他の武将に見られる家族や家業についての描写がないため、『演義』において趙雲の家族構成は完全に空白となっている[動 4]。姚品文と張峰は、公私をわきまえる趙雲が私情を挟む人物になることを嫌い、羅貫中が夏侯蘭に関する記述を捨て去ったと考えている[446]。
演義の評価
要約
視点
近現代の評価

中国では古くから、関羽は神として、張飛は豪快な武将として庶民に愛され、高い人気を誇っていた[447][448]。しかし、清代以降、時代が下るにつれて趙雲のような「冷静で誠実、謙虚な人物像」が好まれる傾向が強まった[449]。『演義』の登場人物の人気投票では絶大な人気を誇る諸葛亮に次いで2位[450]、あるいは1位になることもあり[451]、日本でも同様に常に人気の高いキャラクターとなっている[452][453]。趙春陽によれば、その人物像は幅広い層に支持されており、『演義』を初めて読んだ中国の少年たちが三国志ごっこで趙雲役をやりたがるように、趙雲は子供たちが最初に憧れる英雄だという[454]。
女性人気が高く、方北辰はこの傾向について、長坂坡の戦いでの趙雲の行動、すなわち「幼い赤ん坊を抱え、か弱い女性を保護した」という、弱者の命が軽んじられる時代での稀有な英雄的行為から、「彼が後世のファン、特に女性ファンをときめかせる偶像となるのも無理はない」と述べている[14][要ページ番号][動 10]。韓国の朴槿恵元大統領が2012年に出版した自伝で「初恋の相手」と告白したことは[455]、当時の中国でも話題となり、好意的に取り上げられた[14][要ページ番号]。北方謙三は小説『三国志』の執筆にあたって中国で取材した際、現地の中国人女性に三国志の好きな人物を尋ねたところ、赤ん坊を助けたことを理由に、みな趙雲が好きだと答えたという[456]。
沈伯俊によれば、現代中国において封建時代のような関羽への畏敬や崇拝は失われており、その傲慢で傍若無人な態度は現代人の価値観と相容れずイメージが低下した傍ら、趙雲の勇敢な戦いぶりや数々の美徳は現代人にも理解しやすく受け入れられやすいため、趙雲の評価は自然と高まったという[457]。一方、趙雲の美徳は無個性であり「欠点」だと見做されたり[417]、完璧すぎる芸術的イメージ故に「人の心を深く打つ力に欠ける」と批評される向きもある[446]。また、趙範の兄嫁を妻にすることを拒んだ趙雲について「偽善的」だと批判し、「道学者のよう」だとする論者[誰?]も存在するという[458]。
個人の評価
- 丘振声:「趙雲は勇猛果敢な英雄であると同時に、政治手腕に長けた政治家でもある」[459]
- 金良年:「趙雲は勇猛果敢であること、常に勝利を収める将軍であること、慎重で厳格であること、私心がなく欲望が少ないこと、公務に忠実で法を遵守すること、そして最後までやり遂げることなどで知られ、類まれなる優秀な武将であった」[460]
- 傅隆基:「趙雲は個性に欠けると言う人もいる。しかし、劉備が激怒し、諸葛亮でさえ何も言えなかった時に、趙雲はあえて劉備が私情で公を害していると鋭く指摘した。これは個性がないとは言えないのではないか?言うまでもなく、趙雲は『三国志演義』の中で非常に見事に描かれた典型であり、人民から最も愛されている英雄の一人である」[420]
- 正子公也:「趙雲は戦死ではなくて『演義』には「一陣の風が吹いた」と書かれています。僕にとって趙雲のイメージというのは一言で言うと「一陣の風」なんです」[461]
- 上野隆三:「『演義』『平話』『三国志』雑劇など、それぞれの顔をした趙雲がいた。しかし『演義』の趙雲が一番親しみやすい。少年として登場し、老将となるまで頑張って、そして死んでいった趙雲。まさに、『演義』の中でその一生を全うしたのである」[462]
- 周思源:「孫夫人が劉禅を連れて呉に帰ろうとした場面で、趙雲が孫夫人の侍女たちを殺すことなく押しのけることしかしなかったのは、このような状況下でも孫・劉両家の関係を損なわないよう冷静に配慮しており、その他にも田宅を分配することに反対したり、呉討伐の諫言など、劉備たちの長期的利益や民心を得ることも重視している。物語中には数多の武将が登場するが、このように根本的な大局から劉備に直言、諫言できる武将は他におらず、これは趙雲が人並み以上に識見があったことを示しており、趙雲のもっとも素晴らしい点はその高潔な品性であり、他の人物が及ばない点である」[動 4]
- 姚品文・張峰:「蜀漢の英雄たちの運命は、そのほとんどが悲劇的であるのに対し、趙雲だけは善始善終を遂げた。完璧な芸術的イメージを持つ趙雲は、悲劇的な人物が持つような人の心を深く打つ力に欠けている。完璧すぎる人物とは、概してそうである。これは、完璧な芸術的典型を創造しようとする者への戒めとなるかもしれない」[446]
- 李殿元・李紹先:「三国志人物の人気投票で、趙雲は関羽や張飛を上回り、諸葛亮に次いで第2位を獲得した。中国では諸葛亮に次いで、趙雲が最も愛され、忘れられない三国志の人物と言えるだろう」[450]
民間芸術
要約
視点
京劇
→詳細は「京劇」を参照
京劇とは、清代(1790年頃)に北京で生まれ発展した演劇・戯曲である。清代は毛宗崗本の『三国志演義』が生まれ広く普及した時代(1666年頃)でもあり、『演義』を改編した演目『三国戯』(三国劇)が数多く作られた[463]。京劇において、趙雲は「白袍を着た完美(完璧)なる儒将」というキャラクターとして演出され、外国勢力による侵略に脅かされていた当時の清において、理想の英雄像として受け入れられたという[大言壮語的][464]。

武生の趙雲(俳優:周恩旭)
- 京劇の趙雲:(役柄など)
武将である趙雲は主に「武生」として登場するが、武生はさらに「短打武生」「長靠武生」の2つに分かれており、趙雲は後者に該当する[465]。
人物造形としては、髭のない端正な姿で[注 80]、性格は胆大心細(大胆であるが慎重で几帳面)に演じられる[467]。桃園の義兄弟の四番目の兄弟「四弟」と呼ばれる[468][注 81]。
主な登場演目は『磐河戦』『借趙雲』『長坂坡』『甘露寺』『截江奪斗』などで、特に『長坂坡』は『演義』の演目の中でも高い人気を誇り、趙雲の代表的演目である[470][W 10]。『借趙雲』は『演義』で「劉備が公孫瓚から趙雲を借りた」という一文から着想した脚本家が創作した演目で、「徐州の陶謙の救援のために劉備が公孫瓚から援軍として趙雲を借り、強敵の典韋に見事勝利し、当初は優男の趙雲がやってきたことに不満を抱えていた張飛も、すっかり心服する」という内容となっている[471][W 11][注 82]。


- 衣装と化粧:
趙雲は白を基調とした衣装に青と赤を用いているのが特徴で、白い靠(鎧)姿に銀槍を持ち、膝まである黒の厚底靴(または高方靴)を履く[472][473]。背中の旗は軍隊を表し、背中に4本挿す[474](右画像①)。『甘露寺』(劉備と孫尚香の婚姻話。『龍鳳呈祥』とも)では場面によっては靠を脱ぎ、「武生褶子」という前後に刺繍の入った白い衣装[475]、または白い蠎袍を着る。白は若者が着用する色で、模様の大龍は武将にあてがわれる[476](右画像②、動画[動 11]も参照)。
趙雲が着る衣装には白が多く使われているが、白色は趙雲の清廉潔白な性格、優れた容姿を象徴しているとされる[464][注 83]。趙雲役の俳優として特に有名な人物として、親子二代で趙雲を演じた京劇巨匠の一人・楊小楼がおり[477][W 12]、『長坂坡』は彼の代表作でもある[478]。




- 武生と長坂坡:
『長坂坡』は京劇初期の36本の「連台軸子戯」の一つで(後述)、最も有名な趙雲の演目かつ、武生の最も有名な演目でもあり、この『長坂坡』は「武生の試金石」とされ、「長坂坡を観ればその役者の技量が判る」と言われ[470]、また幅広い層から愛されたという[479][大言壮語的]。清朝末には宮廷内で109回演じられた『三国戯』のうち、『長坂坡』は13回に及び、庶民の間でも劇団『三慶班』が毎年年末になると36本の演目を上演し、『長坂坡』でその年を締めくくっていた[480]。また『長坂坡』は関羽が曹操軍と対峙する演目『漢津口』[481]とセットで上演されることがあり[W 10]、知名度の高い武生の役者が演じる場合は、前半の『長坂坡』では趙雲役、後半の『漢津口』では関羽役というように[注 84]、一人二役で演じられることもあった[481]。

満(髭)をつけた中年期の趙雲
- 当時の反響:
清代中頃、外国勢力の侵攻によって国家の危機に陥っていたにもかかわらず、劇場では人々が昆劇などを楽しんでいたという。この状況に強い不満を感じた京劇の祖と称される『三慶班』の程長庚は、盧勝奎に依頼して『演義』を改編し、「忠君愛国」の思想を盛んに訴えた36本の演目を連日上演する大作(連台軸子戯)を創り上げた[483]。当時、特に京劇に熱心だった人物として西太后がいた[484][485]。宮廷では『鼎峙春秋』(三国志を題材にした大規模な長編戯曲)が3度上演され、趙雲が登場する場面は40回以上もあったという[464]。『黄鶴楼』(荊州を返さない劉備に激怒した周瑜が黄鶴楼で宴を催し、劉備を招いて兵で脅そうとする計画を、趙雲が阻止するという内容)が上演された時には、西太后を喜ばせるために光緒帝自らが趙雲を演じたこともあった[464]。 - 後世への影響:
この京劇の趙雲のイメージ像(白い鎧(または銀の鎧兜)に白袍といった「白」のイメージや、銀槍を抱えた若い美形の儒将)[486]は、京劇と同時代頃に誕生したとされる『八扇屏』(はちせんびょう:2人組による掛け合い漫才のような形式で、歴史を扱った話芸のこと。→「相声」)にもその影響が見られる[487]。
- これらは『演義』には見られない表現であり、京劇の趙雲像から影響を受けて生まれた言葉である[490]。この趙雲のイメージは後に各地の民間伝承や創作作品にも多大な影響を与え、後述の『演義』関連小説、映像作品にみられる趙雲像にも反映されており、趙雲の愛馬とされる白馬(白龍、または白龍駒)の伝承にも影響を与えたと考えられる[316](→「#愛馬」白龍、「#日本の作品」)。
- 演目と内容:
演目名 | 役柄 | 演目内容 | 出典 |
---|---|---|---|
磐河戦 | 武小生 | 『演義』第7回。 趙雲が袁紹の下を去り、公孫瓚を救援する話。 |
[491] |
借趙雲 | 〃 | 『演義』第11回。『一将難求』とも。 援軍として趙雲を借りることに張飛が不満を漏らす。 |
[492] [W 11] |
長坂坡 | 武生 | 『演義』第41回。『単騎救主』とも。 単騎で阿斗を救う、趙雲の最も有名な演目。 |
[478] |
甘露寺 | 〃 | 『演義』第54-55回。『龍鳳呈祥』とも。 劉備の結婚に趙雲が護衛で従う話。 |
[493] |
截江奪斗 | 〃 | 『演義』第61回。『攔江奪斗』とも。 孫尚香から阿斗を奪還する趙雲の代表演目のひとつ。 |
[494] [495] |
子龍護忠 | 〃 | 『演義』第71回。『陽平関』とも。 漢中で黄忠を救援する話。中年期なので黒髭をつける。 |
[496] |
鳳鳴関 | 武老生 | 『演義』第92-94回。『斬五将』とも。 韓徳の息子達と戦う話。老年期なので白髭をつける。 |
[497] |
『収趙雲』『黄鶴楼』『取桂陽』『白帝城』『天水関(収姜維)』『失空斬』[注 85]ほか。 |
元雑劇
→詳細は「元雑劇」を参照
京劇が成立する清代より前の時代である宋・元時代に隆盛した戯曲の一種。『三国志平話』と同じく、『演義』成立の過程において参考にされたといわれるが、『演義』における趙雲像の形象に関しては、『平話』同様、影響を受けたようには見られない[412][499]。演目全体を通して見ると、活躍の場は少なく脇役に収まっており、「知勇を兼ね備え、大胆かつ慎重な性格」という後の趙雲像の萌芽は見られるものの、キャラクターの掘り下げとしてはまだ不十分で未完成だと言える[483]。
- 性格:
慎重さと几帳面な性格が強調されるが、演者には特にその大胆さと几帳面さを示すことが求められたという[500]。初期に広まった物語では、趙雲は諸葛亮よりも慎重な性格をしており、「城攻めの際に、いつ出発し、いつ食事をし、いつ川を渡って城を攻めるか、諸葛亮が用意した綿密な計画通りに従うよう求められ、趙雲は兵を率いて出発する。直後、諸葛亮はその計画の時刻では川が満潮の影響で増水し、渡れないという重大なミスに気づいた。しかし趙雲は川の増水の事を知っていたので、事前に筏を用意し、計画通りに問題なく完了した」となっている[501]。 - 出自:
複数の演目で、若い頃から馬の売買に携わったという設定があり[502]、荒くれ者のイメージを持つ[413]。 - 演目と内容:
『平話』の物語を改編して創り上げられているが、脚色の大きいもの、『平話』にはない民間伝承を基にしたとみられる物語も存在する。いくつもの脚本は散逸し、演目名のみが残されているものも多く、その中には趙雲主題の脚本もあったと考えられる[503]。
演目名 | 作者 | 演目内容 | 出典 |
---|---|---|---|
劉玄徳独赴襄陽会 | 高文秀 | 『平話』中巻、『演義』の第34-35回相当。 蔡瑁らに暗殺されそうになる劉備を徐庶が補佐する話。 話術に長けた趙雲が、徐庶を説得して劉備に仕官するよう促す。 |
[504] |
諸葛亮博望焼屯 | 不詳 | 『平話』中巻、『演義』の第37-39回相当。 諸葛亮を迎え入れ博望坡で夏侯惇と戦う話。臥龍崗にいる劉備に、 趙雲が甘夫人が阿斗を出産したことを告げに来る。 |
[505] [506] [29] |
両軍師隔江闘智 | 〃 | 『平話』中巻、周瑜が美人計で劉備を謀る。『甘露寺』相当。 趙雲の会話に「長坂坡で三日三晩、百万の軍勢を相手に阿斗を守り、 曹操からは「一身是胆」と称された」[注 86]という話が出てくるが、 長坂坡を題材にした脚本は現存していない。 |
[507] [508] |
劉玄徳酔走黄鶴楼 | 朱凱 | 『平話』中巻、赤壁戦後、周瑜との会合で劉備が黄鶴楼に向かう。 趙雲は会合への参加に反対し、自信過剰な劉封は劉備を焚きつけ、 趙雲と意見が対立する。深謀遠慮な老将のように描かれ、劉封から 「老趙」と呼ばれている。 |
[509] |
走鳳雛龐掠四郡 | 不詳 | 『平話』下巻。荊州南部四郡争奪戦。 関羽・張飛・趙雲が黄忠らと戦う。『平話』では趙範が長沙太守に なっているが、桂陽太守に修正されている。『演義』に描かれる 樊氏との一連の物語は脚本に見られない。 |
[510] [511] |
曹操夜走陳倉路 | 〃 | 『平話』下巻。劉備が益州を平定し、曹操が陽平関に攻め入る話。 黄忠を救出したり、空城計で敵を退けるエピソードはなく、陽平関で 待ち伏せ任務の担当、という脇役に収まっている。 |
[512] |
陽平関五馬破曹 | 〃 | 『平話』下巻。 黄忠が夏侯淵を斬るなどの陽平関、定軍山の話を基にした話。 諸葛亮が趙雲に敵将の旗を掲げさせ陽平関を騙し取ったり、五馬 (馬超・馬良・馬忠・馬謖・馬岱)をひそめて曹操軍を包囲し、蜀が 大勝利する。 |
[513] [514] |
寿亭侯怒斬関平 | 〃 | 『平話』には見られない話。民間伝承由来とみられる。 五虎将の子らが張虎と戦う話。趙雲の子・趙沖なる人物が活躍。 |
[483] |
趙子龍大閙塔泥鎮 | 〃 | 演目名のみが残り、脚本散逸のため内容不明。 趙雲が主題の演目だったとみられる。 |
[504] [503] |
伝統芸能
→詳細は「zh:戏曲」を参照

中国各省には2~3種類以上の地方劇が存在し、国家に認定されたもので317種ほどがあり、『演義』を題材にした演目が多数存在するほか[515]、パレードなどの伝統芸でも『三国志(演義)』を題材にしたものが存在する。化粧や衣装は京劇と変わらないものや、地方独自のものが存在する[516]。
戯曲

京劇と似た衣装を纏うが、髪を前に二束流し、後ろ髪を下ろすなどの違いがある。

- 川劇:
(→「中国語版川剧」)
川劇では、魏延が何度も趙雲を「老将軍」と呼んだり、趙雲が「老将」を強調したセリフや歌を唄うなど、老将としての演出がかなり強い[517]。そのため、四川地方では趙雲に対して老将のイメージが強く根付いているとされ、これは成都武侯祠の趙雲の塑像が老人の姿で制作された要因の一つとも考えられており、川劇の趙雲像が四川の庶民に与えた影響は非常に大きいと言える[317]。演目のひとつである『三聖宮』(別名:審阿斗)では、蜀漢滅亡後に幽閉された劉禅のもとに趙雲の魂がやってきて、彼に導かれて劉備ら桃園の三兄弟が待つ「三聖宮」に連れられ、蜀漢を滅ぼしたことについて劉禅が三兄弟から尋問・説教される、という川劇独自の演目がある[518]。 - 河北梆子:
(→「中国語版河北梆子」)
河北省北部の戯曲の一種。『青鋼(釭)剣』の演目では、趙雲の妻として李翠蓮が登場し、長坂坡の戦いで劉備達とはぐれた趙雲が、迷い込んだ村で出会い結婚するといった内容になっている[要出典]。 - 湘劇:(しょうげき)
湖南省の戯曲の一種。『長沙湘劇』とも。2016年に公演された「趙子龍計取桂陽」(趙範との戦いの演目)では、京劇の衣装とは違った湘劇独自の姿で演じられている[動 12]。

伝統芸
- 浮石飄色:(ふせきひょうしょく)
抬閣(たいかく)のひとつ(→「抬閣」)。
抬閣とは、中国の伝統的な祭りの際に行われる民俗パレードの一種。古代の中原地域で神様を迎え入れる儀式が流行したことが始まりと考えられている。広東省台山市浮石村では「飄色」と呼ばれる。唐宋時代、演劇や話芸が流行するとともに大人や子供が演劇の登場人物に扮して街を練り歩く風習が生まれ、このうち表演者(8歳から10歳ほどの子供)が細い棒で支えられ、台の上で空中に浮いているように見えるものを飄色と呼ぶようになった。毎年旧暦3月3日の北帝(道教の神様の一柱)の誕生日に行われる。
2008年、国の重要無形文化財に登録。主に伝統的な物語をテーマにし、三国志からは造型人物として趙雲(趙子龍救阿斗)が縁起が良いとの理由でよく好まれ使用されている[W 13]。 - その他に、伝統劇や『演義』などの通俗小説を扱った、北京を中心に東北地方に伝わった語りもの芸・子弟書(していしょ)など[519]。
小説と評書
→詳細は「zh:评书」を参照
京劇の『三国戯』が誕生して以降の作品では、京劇・民間伝承(後節参照)双方の影響を反映し、「白馬にまたがり白袍姿に銀槍を持つ若武者」という共通点が見られ[520]、1980年代前後の作品からは白馬の名前に「白龍」「白龍駒」が確認できる。

- 三国志後伝:
酉陽野史(著)。作者の詳細は不明。明代に書かれた小説で、蜀漢滅亡後、劉備、関羽、張飛、趙雲ら子孫の活躍を描いた作品。 - 反三国志演義:
周大荒(1886年 - 1951年)(著)。新聞『民徳報』にて連載された作品。趙雲と馬超の二人が主人公。「蜀漢が三国を統一する」という物語になっており、この作品のオリジナルキャラクターとして、馬超の妹の女武将・馬雲騄が登場し、趙雲と結ばれ夫婦となる。 - 評書三国演義:
正式名称は『三国演義』。略称は『袁三国』(以下『袁三国』)。
評書(語って聞かせる話芸)表演芸術家・袁闊成(1929年 - 2015年)の評書作品。趙雲の描写は、張飛らから「四弟」と呼ばれ、「白馬(白龍駒)にまたがり、銀の鎧かぶとをつけて亮銀槍を持つ少年将軍」というものになっている[521][522]。
1984年から中央人民広播電台で放送された『袁三国』は国内外で支持を集め、海外では中国語や文化教材にも採用された[523][注 87]。 - 長編平話三国:
張国良(1929年 - 2013年)による説話(平話)作品。1983年から全20巻を予定されていたが、作者の体調不良により14巻で終了となった。袁闊成の作品と同様に京劇の影響を多く受けており[独自研究?]、白馬(鶴頂白龍駒)と銀槍(鼠白爛銀槍)を持つ槍の名手。劉備の結婚話(甘露寺)で護衛の趙雲を見た呉国太が「もう一人娘を生んでいたらこの若くて美しい将軍にも娶らせたのに」と、娘を二人産まなかった自分に腹を立てる、といったように、趙雲の若さと容姿についての描写が強調されている[430]。民間伝承や作者による独自展開、解釈・設定が盛り込まれ、趙雲が張任・張繡と武術(槍)の師・童淵(どうえん:元曲の架空人物)の下で学んだ兄弟弟子の関係になっており[525]、この設定は中国の他作品(映画、TVドラマ他)でも度々使用されている[独自研究?]。そのほかに、『反三国志演義』の馬雲騄が「馬雲禄」の名で登場し、『反三国志演義』と同様に趙雲の妻となる[526]。
日本の作品
→詳細は「三国志 § 白話小説『三国志演義』・大衆文化の受容」を参照
イメージの変遷

趙雲と阿斗(歌川国芳・作)
(東京都立図書館所蔵)
- 髭の豪傑:(江戸~70年代)
日本には前述の京劇、および民間伝承などの中国の趙雲のイメージ像が伝わる機会がなかったため[要出典]、江戸時代当時の浮世絵などでは張飛のように髭の濃い豪傑然とした見た目で描かれており(右画像参照)、1939年の吉川英治の小説『三国志(吉川英治)』の描写でも、「体躯堂堂とした偉丈夫」として描かれる[W 14]。
1971年~1987年にかけて連載された横山光輝の漫画『三国志』においても、髭こそないが、吉川英治の『三国志』同様、体躯堂堂とした偉丈夫の描写となっている[注 88]。一方、1969年の柴田錬三郎の小説『三国志英雄ここにあり』では「白馬に乗った紅顔の美少年」として描かれる[527] 。 - 転換期と日・中双方への影響:(80年代~)
1982年~1984年にかけて放送されたTVドラマ『人形劇 三国志』では、趙雲は髭のない美青年として造形された[W 15]。翌1985年には光栄のシミュレーションゲーム『三國志シリーズ』が販売され、「白馬にまたがり長槍を手に、銀の鎧兜を身に着けた若武者」という、中国の趙雲のイメージ像に忠実なこのキャラクターデザインは、日本の趙雲像への影響のみならず、中国の三国志を扱ったサイトやTV番組などの映像作品の多くで『三國志シリーズ』の画像・映像が引用されており、これは京劇を観る機会の減った[528][W 16]、現代の中国の若い世代へも大きな影響を与えたと考えられる[315][529][W 17]。
伝統芸術など

趙雲とみられる人物と関羽
民間伝承
要約
視点
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「截江救阿斗」(2008年)
趙雲に関する民間伝承は、関羽が生前の活動範囲をはるかに超え、中国各地で見られるのとは異なり、趙雲は生前に関わりのあった地域に留まっているのが特徴である[530]。具体的には、出身地である河北省正定県およびその周辺地域、荊州、益州に多く残されている。古跡にまつわる伝承は南宋以前からのものがあるが(→「#古跡と施設」)、その他の伝承は主に清代以降のものであり、その内容は『三国志演義』と京劇の影響を強く受けている[要出典]。
記録上、趙雲を主人公とした最古の伝承は、長坂坡の戦いに関連する後述の「当陽草」である(→「#刀剣」青釭剣)。荊州には長坂坡の戦いや桂陽攻略に関する伝承が多く、益州では地域特有の独自性の強い伝承が多く見られる[531]。一方、正定では地元の伝承に加え、各地に伝わる伝承を広く収集し発展させているという特徴がある[532]。
人物

- 貂蝉:
『演義』に登場する架空の女性。民間伝承『貂蝉改嫁』という物語で趙雲の妻となる。「呂布の死後、貂蝉は郭嘉の援助を受けて曹操から逃亡するが、曹操の親衛隊に捕まりそうになったところを、偶然偵察に来ていた趙雲に救助され、彼に惹かれることになる。郭嘉は二人の縁を結びつけようとするが、趙雲が劉備軍に属しているため話が進まない。郭嘉の死後、張遼が後を継ぎ、長坂坡の戦いの混乱に乗じて趙雲に接近し、貂蝉との縁談を持ちかける。別れた後も貂蝉の事を気に掛けていた趙雲はこれを受け入れ、張遼が曹操に趙雲の生け捕りを献策したことにより、曹操軍は矢を射掛けるのを止めたので、趙雲は包囲から無事脱出することが出来た。その後、張遼と郭嘉の妻は貂蝉を趙雲のもとへ送り、二人は結婚。貂蝉は郭嘉の妹「郭蕙」と偽り、周囲に正体が知られることなく幸せに暮らした」という顛末になっている[533]。 - 孫軟児:
民間伝承に登場する趙雲の妻。戦場で一度も怪我をしたことがない趙雲を戯れで針を刺したところ、趙雲は血が止まらず死んでしまった。映画『三国志(2008年)』で軟児の名前が採用されており、塚本靑史の小説『趙雲伝』では正妻の名に採用されている[534]。 - 関銀屏:
関羽の娘がモデルの人物。趙雲に師事して武術を習う。
愛馬

- 白龍:(はくりゅう)
もしくは白龍駒という名の白い駿馬を愛馬にしていたという。民間伝承では、この馬は昼は千里を、夜は八百里を走ることができ、人の心も理解したので趙雲と意思疎通ができ、馬上でどんな技を使おうとも、すぐに理解して手足のように動き、趙雲はこの馬を特別に可愛がったという[535](後述の子龍池も参照)。
『白龍(駒)』の名は1980年代前後の創作で、『三国志平話』『演義』では白馬に乗る趙雲像もまだ確立されていなかった。京劇で確立された趙雲の『白』のイメージが民間伝承や創作作品に影響を与え、趙雲の愛馬=白馬となり、『白龍(駒)』の名が作られ広まったと考えられる[注 89](→「#京劇」)。白龍の話は映画レッドクリフで採用されている。 - 子龍池:(洗馬池、子龍洗馬池)
四川省成都にかつて存在した、趙雲が住んだと伝わる官邸裏にあった池。以下の民間伝承が存在する。
南宋時代、蒙古の襲撃を受けて成都は大きな被害に遭い、蒙古の皇太子・闊端はこれを誇らしげに眺めていた。そこへ白袍姿に銀槍を抱え、白馬に乗った将軍が現れた。英気あふれる彼は、常勝将軍・趙雲にとても良く似ていた。彼は「兵よ集え、賊に抗え! 我と国を守れ!」と大喝して兵を鼓舞し、蒙古兵に突撃した。蒙古兵は次々に槍で突かれ、死体は山のように築かれた。白袍の将軍に従った兵たちは、ついに蒙古兵を成都から追い出すことができた。
後日、成都の人々はみな、「あれは趙子龍が顕聖して蒙古を倒してくれたのだ」と言った。その日、趙雲は「子龍池」という池で馬を洗っていたのだという。のちに人々はその池の横に楼閣と塔を建て、馬に乗り跳躍した趙雲の塑像を祀った。毎日絶え間なく香が焚かれ賑やかだったという。 — 「趙子龍的洗馬池」より[537]
- 1950年頃には池は埋め立てられ、『子龍塘街』から現在の『和平街』に改名された。跡地にある和平街小学校には『漢順平侯洗馬池』の碑が存在する[538]。以下は子龍池と、旧名称の『子龍塘街』にまつわる伝承。
「この池は府河(長江左岸の支流)と繋がった生きた池で、日照りが続いても池の水が干上がることはなく、大雨が降っても水が溢れることはなく、夏の池の水は清涼、冬は湯気が立ち上った。
趙雲はこの池をこよなく愛し、戦や演習場での訓練を終えると、必ず愛馬をこの池のほとりに連れてきて、池の水を飲ませ、体を洗ってやった。すると白龍の体は丸々と太り、全身が白い絹のように輝き、戦場で傷を負った時には、水を丁寧に傷口に注ぎ込むと、どんな薬よりも治りが早かった。この池の効能の評判はすぐに広まり、他の武将や部下たちもこの池の水を馬に飲ませ、体を洗って癒した。
その後、邸宅は崩壊し、新しい家が建てられ所有者が何度も変わったが、『子龍池』の評判を知った歴代の将軍たちは、「趙子龍の池はどこにあるのか?」と尋ね、皆この地に来ると、必ず子龍池で馬を洗い水を飲ませた。そのため、この通りは『子龍塘街』と呼ばれるようになった。 — 「子龍塘街」より[535]
長槍

- 涯角槍:
『三国志平話』に書かれる。「海角天涯に敵う者なし」という意味で名付けられており、張飛の槍に次ぐ名槍とされる[539]。同説話ではこの槍で、張飛と互角に一騎討ちをしている[540]。『演義』では採用されていない。元雑劇では『牙角槍』または『牙角長槍』、『鴉脚長槍』と記され、『牙角』は陳寿が趙雲を評した「強摯壮猛、併作爪牙」[323]が由来と考えられ、「鴉脚」は槍の形状を指しており[483]、「涯角」「牙角」「鴉脚」は全て発音が似ているため、「涯角槍」という呼称は当時の民間の口承で広まったものが、説話者や雑劇作家それぞれが表記や解釈を加えた可能性が高いと考えられる[541]。 - 亮銀槍:
涯角槍以外に近代の民間伝承で一般的になった槍の名称。京劇の銀槍の影響を受けて創作されたと考えられ、民間伝承と芸術分野で相互に影響を与えあい、趙雲の標準武器として銀槍のイメージが定着した。評書や小説などでも『鼠白爛銀槍』といった名称が確認できる。趙雲の武術の師匠の話に関連しており、正定県・臨城県・その他民間伝承を扱った書籍にさまざまな物語が語られている[542]。
- 正定版:
語り部が異なる2つの物語①「趙子龍学芸」[543]②「趙雲学芸」[544]が存在し、内容に若干の違いはあるが、「趙雲が両親に別れを告げ、太行山で武術の師匠(老人)を数日掛けて見つけだすが、老人は大木の上でいびきをかいて眠っており、趙雲は辛抱強く跪いて待ち続ける。目覚めた老人はその誠意に感動して弟子入りを認め、趙雲は3年武芸を学ぶ。師匠は趙雲に銀の槍(亮銀槍)を与え、世の苦しんでいる人々を救うために旅立つように、と告げる」といった内容。
共通点は、趙雲が二種類の武術を習得して曹軍と戦う時にそれぞれの武術を駆使し、ひとつは師匠から与えられた『亮銀槍』を使って長坂坡の戦いにおいて活躍し、「山のように積みあがった曹軍の死体の血が、川のように流れた」と書かれ、もうひとつは『破堅拳』という拳法で、「漢中の戦いで曹軍を散々に打ちのめした」と書かれる。
①②の特徴として、師匠が『亮銀槍』を贈る過程が詳しく書かれ、師匠が趙雲に得物に大刀を選ばせなかった理由として「赤ら顔(関羽)がすでに大刀を習得しているためだ」と説明され、関羽と趙雲が兄弟弟子であることが示唆されている[545]。
刀剣

趙雲と阿斗の彫刻
(ウォルターズ美術館所蔵)
- 青釭剣:(せいこうけん)
『演義』に登場。元は曹操が所有する対の宝剣(倚天剣と青釭剣)の一本。敵将の夏侯恩が曹操から預かっていたのを趙雲が奪い取った[553]。物語中では阿斗の危機の際にのみ使用される[注 61]。
当陽には趙雲の剣にまつわる伝承が残されている。
清代(康熙)の『当陽県志』には「趙雲が長坂坡の戦いで曹洪の剣を手に入れ、それは鉄を切ること泥の如く、曹兵数百人を斬って血が草に飛び散り、今も草には血の点が残っている。里謡(りよう:民謡のこと)に曰く、『当陽草、点々班班として血を掃う如し。問う、明公は何の故ぞ?子龍の一戦、旌旗倒る』」[554]とあり、「当陽草」と呼ばれた草に血が点々とあることの理由の説明と、里謡を引用して当時地元で語り継がれ広く流布していた証拠として記されている[555]。
これは明代の嘉靖本『三国志通俗演義』の第82回の長坂坡の戦いで引用されている司馬温公(司馬光:しばこう。北宋時代の歴史書『資治通鑑』の編者)の作とする以下の『長坂詞』にも見られる。
又司馬溫公有長阪詞:
當陽草,當陽草,點點斑斑如血掃。借問當時何事因?子龍一戰征旗倒。
曹公軍將魂魄飛,殺入重圍保家小。至今此血尚猶存,不見英雄空懊惱。
(当陽草、当陽草、点々斑斑として血を掃う如し。問う、当時の何事ぞ?子龍の一戦、旌旗倒る。曹公の軍将魂魄飛び、重囲を殺し入りて家小を保つ。今に至るも此の血尚お存す、英雄を見ずして空しく懊悩す) — 嘉靖本『三國志通俗演義』第八十二回「長坂坡趙雲救主」
軍需品

装飾品

爵(しゃく:酒器)を持った趙雲像
- 戒指:(指輪)
趙雲が指輪を身につける文化を広めたとの伝承がある。『益州』と『荊州』で幾つかの違った話がある他、趙雲の故郷・河北省正定出身の語り部・周四成の『趙子龍与戒指』の話に見られる内容では、『益州』の話に京劇や他の語り部に見られる「徐庶が趙雲を救う」エピソードが加えられ、詳細が語られている。
- 荊州版:
荊州版は2種類あり、共通点として「趙雲の死後、彼の生前着飾った姿の像が作られ、その指には金の輪をはめていた。人々はそれを真似て身に着け、その習慣が今日、指輪として民間に広まった」[560]とされている。 相違点は、像の由来が『戴戒指的来歴』では「後主・劉禅は趙雲が命を救ってくれたことに感謝し、趙子龍の像を作った」と書かれている点と、『荊州人戴戒指的来歴』では「荊州の関帝廟にある趙雲の像」[561]に基づいている。
- 正定版:
食べ物
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- 肉丸子:肉団子。
「再会」を意味する桂陽名物の肉団子料理。桂陽旧正月三大料理のひとつ。伝承によると、趙雲が桂陽を占領した時、率いた兵は統率が取れ、民衆を慈しんだことから桂陽の人々は趙雲を称賛して迎えた。駆け付けた劉備たちと趙雲は再会を喜び、祝宴が開かれると、桂陽の人々から黄金色の丸い揚肉団子が献上された。これを食べた趙雲らは手を打って絶賛し、それ以来、桂陽の人々のお祭りを祝う名物料理になった[563]。この他、『肉丸子』とよく似た伝承を持つ『子龍郡壇子肉』[W 20](桂陽壇子肉)[W 21]という桂陽名物の肉料理があり、桂陽の人々からこの料理を献上され、気に入った趙雲が劉備にも献上し、劉備が『子龍郡壇子肉』と名付けたという[W 20]。 - 子龍片:薄切りの乾燥タケノコ。
桂陽の関口・営盤嶺地区でこう呼ばれている[564]。この関口は、趙雲が兵を置いたという伝承があり、趙雲を称える碑が残されている(→「#古跡と施設」関口趙侯祠)。伝承によると、軍隊を率いての出征で、冬から春の食料が乏しい時期にタケノコを掘って食べる習慣が身についた趙雲が、保存が効くよう天日干しにし、人々はそれに倣った。趙雲がこの地を去ったあと、乾燥させたタケノコを『子龍タケノコ』、『子龍片』と呼ぶようになったという[565]。 - 子龍脱袍:鰻料理。
湖南省を代表する鰻(うなぎ)を使った伝統的郷土料理。湘菜(シャンツァイ:中国八大料理の一つ。四川料理と並んで辛い中国料理の代表格)の一種。別名「紫龍脱袍」「溜炒鱔絲」。皮を剥いて骨と頭を取り除いた鰻を卵白、片栗粉で絡め、ユリの花の根、干し椎茸、青唐辛子、香菜、紫蘇と一緒に炒める[W 22][W 23]。香ばしく滑らかな食感が特徴。
名前の由来は諸説あり、「鰻が小さい龍(子龍)に見えることと、皮を剥くことを「袍を脱ぐ」ことに例えた」、或いは「鰻の皮をきれいに剥ぎ取った様子を「紫龍」に例えて名付けた」という説[566]、「湘楚地方の料理人が趙雲への敬意を表し、趙雲が戦袍を解いて阿斗を懐に抱いたことからこの料理を考案し、鰻を趙雲に見立て名付けた」という説[566]がある[注 90]。
その他、正定県ではこの料理にまつわる以下の民間伝承が存在する[注 91]。
あるとき董卓が真定を訪れたので、真定太守が一番有名な料理店で歓待するも、董卓は提供された料理をどれも気に入らない。料理人が途方に暮れていると、店の窓際に座っていた若い男がシュッ!と立ち上がって長袍を脱ぎ、「私がお伺いしましょう」と董卓に言った。
料理人はその若い男の動作に見入り、新しい料理が閃いた。鰻の頭に切り込みを入れ、若者が長袍を脱いだようにシュッ!と皮を剥して調理した。味も見た目も素晴らしく、董卓は大いに褒め称えたので料理人は命拾いした。若い男は趙雲、字は子龍ということが分かり、料理人はこの料理に「子龍脱袍」と名付けた。
彼の弟子が西城区に支店を開き、現在も湖南の料理店「曲園酒楼」の人気メニューである。 — 「子龍脱袍」より[569]
他の伝承
- 少年期の伝承:少年時代の逸話。
正定県と臨城県でさまざまな伝承が語られている。
臨城県では趙雲が天から降りてきた龍や星とするなど、運命、神秘面が強調された伝承が[570]、正定県では幼少の頃から力が強かったことを示す話や、悪い和尚をこらしめる、狼を退治して仲間を助けるなど、智略で窮地を脱するといった知勇にまつわる伝承があり[571]、以下はそのひとつ。
少年趙雲は祖母の家から自宅へ帰る途中、酸棗嶺という峠道で大男の強盗に遭遇した。趙雲は怖がるふりをして荷物を落とし、気を取られた強盗の隙を見て、懐に隠していた秤鉈(はかりの重りを吊るす道具)で強盗を殴りつけ、その場から逃げ出した。逃げ延びた趙雲はある一軒家で一晩泊めてもらうことになり、女主人は趙雲と息子を一緒に寝かせることにした。
夜中に激しい戸叩きの音が聞こえて趙雲が目を覚ますと、それは先ほど襲った強盗が帰ってきたのであった。包丁を研ぐ音が聞こえ、趙雲は急いでその家の息子を担いで場所を入れ替わった。女は外側にいるのが趙雲だと指差し、強盗は外側にいた息子の首を斬り落とした。二人が死体を玄関から運び出している隙に、趙雲は逃走したのだった。 — 「夜走酸棗嶺」より[572]
- 墓にまつわる話:(→「#墓地」)
- 最期にまつわる話:(→「孫軟児#趙雲の死と刺繍針」)
四川省大邑県と河北省正定県ほか、似通った複数の伝承がある。湖北省咸寧地方の『趙雲得意笑死』という話は、それらとは違う内容になっている。以下概要。
『三国志演義』には、趙雲は老衰で死んだと書いてある。私たちは年配の人たちから「趙雲は笑い死にした」という違う話を聞いたことがある。 「周公瑾(周瑜)は怒って死んだが、趙子龍は笑って死んだ」という古い話。
趙雲の72歳の誕生日を祝いに来た親戚友人らは、老将軍の生涯の功績を称える歌を詠んだ。
「20歳、先帝(劉備)に従い、30歳、後主(劉禅)を救って名を揚げ、40歳、長江で後主を連れ戻し、50歳、南蛮征伐で軍の柱となり、60歳、祁山に出で曹軍の五将軍を斬った。70歳、あなたは元気そのもので、優れた馬と槍を持ち、将軍は全身が肝っ玉、百戦百勝、世の無双!」
趙雲は手を振って言った。「いやいや、今日の常山の趙子龍があるのは皆様の支えがあったからこそです!」
宴会が終わり招待客がみな帰ると、趙雲は突然筋肉と骨が腫れているのを感じた。「長い間戦場にいなかったから、違和感があるのだろうか?」そこで風呂に入ろうと思い、服を脱いで裸になった。この身体は何百回の戦いを経ても一度も怪我をしたことがなく、傷一つない。皆が詠った言葉を思い出す。
「将軍は全身が肝っ玉、百戦百勝、世の無双!」
「はははは…」思わず大声で笑うと、息が切れた。こうして彼は名誉の死を遂げた。 — 「趙雲はどのように死んだのか?」[573]
故事と言葉
要約
視点
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故事成語

「五将軍見立五人男 趙雲」
ことば
- 七進七出:(しちしんしちしゅつ)
京劇などの演劇作品が起源の言葉[574]。
『三国志演義』にて、長坂坡で趙雲が阿斗(劉禅)たちを救うため、曹操の陣営に何度も進入して退出したこと(七度進入・七度退出)に由来。「何度も出入りする行動」の例えで使用される。2021年、中国の猫カフェで火事が起こり、消防隊員が七進七出で十数匹の猫を救出したとニュースで報じられ(動画)[動 14]、微博で「趙雲のようだ」と話題になった[W 30]。 - 子龍任務:スラングの一種。
2015年初頭より、台湾のメーカーであるASUSのスマートフォン「Zenfone」を購入後、しばしば修理に見舞われるユーザーが多発し、ASUSの修理店に何度も出入りすることになったことから、上述の「七進七出」に例えられ、「子龍任務」と呼ばれ始めたという(「Zen」と劉「禅」が同音異義語になっている)[W 31]。
歇後語
(歇後語:けつごご。前半の言葉から後半の言葉(意味)を予測する言葉遊び)
三国名将
三国時代の武将たちの強さを順位付けしたもの。韻が踏まれており、覚えやすいフレーズのため中国で広く知られているが、いつ頃生まれたのかははっきりと分かっていない。1986年に出版された以下の『中国民間文学三套集成・遼寧巻』が最初の記録とされる。
一呂二趙三典韋、四関五馬六張飛、七黄八魏九姜維、曹操排在第十位。
(1位呂布、2位趙雲、3位典韋、4位関羽、5位馬超、6位張飛、7位黄忠、8位魏延、9位姜維、曹操第10位) — 王可心:口述、劉静:収集・整理「一呂二趙三典韋」[575]
趙春陽によると、自身の大叔父や地元の作家に聴いたところ、1960年代にはすでに存在していたという[W 32]。後半の順位が違う複数のパターンや、24名を挙げた「三国二十四名将」があり、元々は「2位馬超」「5位趙雲」だったのが、毛沢東が談話の中で「正定は良い場所だ。あそこは趙子龍の出身地だからな!」「みなは「二馬」と言うが、私は「二趙」であるべきだと思う。馬超は文武両道だが、三国演義では趙子龍には及ばない」と述べたと、紀連海が自著に出典を示さず記述し[576]、現在知られる順に入れ替わったという噂話が中国のインターネット上で広まった。しかし趙春陽が当時の関係者などに取材をしたところ、後半の順位についての発言は確認されず、当時の談話の記事[577]にも見当たらないため、事実ではなかったことが判明している[W 33]。
関連人事物

中国では「単騎駆け」や「一対多数」、「七進七出」を行った人物、勇猛な軍人・部隊などを「趙雲」「趙子龍」と称している[要出典](詳細は各該当記事参照)。
- 文鴦:(ぶんおう)
三国時代から西晋の軍人。「七進七出」を実際に行い戦った人物として『資治通鑑』に記述がある[578]。『三国志演義』第110回では、たった一人で魏軍の包囲を蹴散らす勇猛な戦いぶりから「趙雲の再来」と称えられている[579][注 92]。 - 馬祥麟:(ばしょうりん)
明末の女性軍人・秦良玉の子。勇猛な性格で知られ、白馬に乗り銀の鎧を身に着け、単騎で敵将の首を討ち取ったことから、軍中で「趙子龍」「小馬超」と呼ばれた[581]。 - 劉粋剛:(りゅうすいこう)
中華民国空軍の軍人、エース・パイロット。その勇猛ぶりから空軍五虎将の一人とされ、多数の日本機を相手に戦ったことから「空の趙子龍」と称された。 - 国民革命軍第95師団:
中華民国時代の河南省の国民党地方部隊。攻防に秀で、『趙子龍師団』と呼ばれた。
古跡と施設
要約
視点
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主な趙雲にまつわる古跡、遺跡、公園、テーマパークなどの施設、地名など。
中国
名称 | 場所 | 説明 |
![]() 趙雲廟 |
河北省 正定県 |
趙雲を祀った廟。明代頃には史料で存在が確認され、何度も改修や移転が繰り返されており、現在の廟は趙雲の末裔が建てたもの[242]。1997年、県級重点文物保護単位に指定されている。 廟門・四義殿・五虎殿・君臣殿・順平侯殿(正殿)があり、趙雲の二人の息子の趙統、趙広の他、劉備や諸葛亮、五虎将などの像も祀られている。清代の『漢順平侯趙雲故里』碑、大邑趙雲墓と長坂坡の土、壁画や正定県の民間伝承に登場する『趙子龍飲馬槽』の展示などもある。 (→「趙雲廟」) |
![]() 子龍広場 |
〃 | 庁舎前にある広場。2007年9月に一般開放。総投資額2,711万元、広場全体の面積は2.01ヘクタールあり、集会中心広場・文化展示廊・緑化休憩区の三要素からなる。歴史を感じられる公園であり、市民の憩いの場にもなっている。子龍広場の中心には巨大な趙雲像があり、正定の歴史的、文化的イメージを表しており、台座の背面に趙雲を賛辞する言葉が刻まれている[W 34]。 |
常山公園 | 〃 | 『常山東路』に整備された公園。趙雲の騎馬像が設置されている。 |
子龍桟橋 | 〃 | 趙雲の字に因んだ桟橋。一角に趙雲が故郷の人々と別れを告げる場面の彫像が設置されている。 その他『子龍大橋』など、趙雲に因んだ構築物や地名があり、『正定城』『常山陵園』など街の至る所に趙雲像が設置されている。 |
![]() 傾井村 |
同省 霊寿県 |
正定県のある石家荘市に隣接する霊寿県にある村。村の名前の由来が趙雲にまつわり、公孫瓚配下時代の趙雲が、袁紹配下の将・周昂との戦いに敗れた際に立ち寄ったという伝承がある[582]。以下概要。
|
臨城趙雲墓 | 同省 邢台市 |
臨城の趙雲の墓。(→「#臨城」趙雲墓) |
後趙雲堡村 | 同省 邯鄲市 |
辛安鎮鎮にある趙雲の名が由来の村。創建年代不明。趙雲が軍を率いてこの村に駐屯したと伝えられている[W 35]。 |
長坂坡公園 | 当陽市 | 「長坂坡古戦場」に整備され、趙雲を顕彰するために造られた公園。趙雲を称えた『長阪雄風』の石碑や『演義』の名場面を再現した壁画や像が展示されている。『長坂路』ロータリーには、阿斗を抱えて槍を構えた趙雲の大きな騎馬像がある。近くには『子龍路』『子龍村』[W 36]など、趙雲にちなんだ地名や村名がある。 その他、『子龍畈』と呼ばれる丘の近くに、糜夫人が阿斗を抱えて避難したという『太子橋』や、糜夫人が身投げした『娘娘井』(井戸)と、『演義』にまつわる遺跡が存在する。 |
![]() 子龍灘 |
同省 咸寧市 赤壁市 |
赤壁近くの砂州の名。 民間伝承『子龍射帆』によると、『演義』で東南の風を起こした諸葛亮を恐れた周瑜が兵を差し向け、追ってきた呉船から逃れるため、趙雲が船上から神業で呉船の帆を止める縄を射抜いたところ、落ちた帆が大きな砂州へと変貌し、堤のように進路を遮って行く手を阻んだことから、人々はのちにその場所を『子龍灘』と呼ぶようになったという[584]。 |
南陽趙雲墓 | 湖南省 南陽市 |
南陽にあった趙雲の墓。(→「#南陽」趙雲墓) |
芙蓉峰![]() 趙侯祠 |
同省 長沙市 寧郷市 |
芙蓉峰は芙蓉山ともいい、桂陽の南西に位置し、劉長卿の五言絶句「逢雪宿芙蓉山主人」に登場する芙蓉山と同じ山。趙雲がここに駐屯したとあり、唐代に摩崖石刻が存在し、「趙雲屯兵處」と刻まれていた。唐宋時代には趙雲の功績を記念する『趙侯祠』(別名:漢順平候趙将軍廟。後述の関口趙侯祠とは別物。『護英祠』とも呼ばれた)が建てられ、南北に200平方メートル以上の敷地を占め、煉瓦と木材で造られた青瓦黒瓦の二棟三間の建物だったとある[585]。 祠の前には、葉元棋が書いた『漢順平候趙将軍廟碑記』が刻まれた石碑が建てられていた。『康熙桂陽州志』に詳細な記録が残っており、清代には呉鯨が詩[586]を詠んでいる。 1931年8月に最後の再建が行われ、歴史上の趙侯祠と区別するため、新しく建てられた廟は『子龍廟』と呼ばれた。約600平方メートルの敷地内に、上下のホールや楼閣、南北の耳房などが配置され、上ホールには、剣を構えて胸を張った高さ2メートル以上の趙雲の塑像が安置されていたが、1960年代の文化大革命で何度も破壊され、芙蓉峰には石灰窯や砂利場が開設され、「趙雲屯兵處」の摩崖石刻は爆破、廟の基礎石も石灰の材料にされてしまった[587]。 現在は『漢順平侯趙将軍廟碑記』のみ子龍廟近くの蒙泉亭に保存されている[585]。 |
蒙泉(八角井) | 〃 | 趙雲が掘ったとされる井戸にまつわる泉の名前。 伝承では桂陽攻略時、趙雲が出征前に諸葛亮から錦囊(きんのう:錦で作った袋)を渡され、危急の際に開けるよう言われる。桂陽到着後、芙蓉峰に兵を駐屯させたが、真夏で水が不足し、兵士たちの士気が低下。焦った趙雲は錦囊を開けると八卦図が入っており、指示通りそれを置いたが数日経っても水は出ない。ついカッとなり長槍で八卦図を突き刺すと、そこから勢いよく水が噴き出し、兵士たちは大喜びして八卦図の形に沿って井戸を掘り、『萬軍泉』と名付け、のちに『蒙泉』(蒙恩の泉)に改名したという[588][589]。 2006年には蒙泉が湖南省人民政府により省級文物保護単位指定されている。 この泉のそばに1952年「趙子龍酒」という中国酒を製造するメーカーが設立され、現在も製造販売されている。 (→「#食べ物」趙子龍(酒)) |
関口趙侯祠 | 桂陽県 橋市郷 |
関口村。趙雲が営盤嶺に兵を置いたという伝承があり、塑像が祀られている。 この関口趙侯祠に残されている『趙公香火碑』の碑文と、桂陽・芙蓉峰の『趙侯祠』に立っていた『漢順平候趙将軍廟碑記』の内容には類似性があり、二つの碑文はともに、趙雲の功績を関羽や関平と同等に評価し、「祠を建てて祀るべきである」と書かれている点で一致している。また、いずれも伝承にある趙雲の駐屯地を祠の建立地としており、建立と碑文の年代から、関口趙侯祠は芙蓉峰の『趙侯祠』から受け継がれた、あるいはその影響を受けて建てられた可能性が非常に高いことが指摘されている[590]。 2018年、第四批市級文物保護単位指定[W 37]。趙雲に因んだ食べ物も存在する。 (→「#子龍片」、「#その他の食べ物」) |
大邑趙雲墓 | 四川省 成都市 |
大邑の趙雲の墓。(→「#大邑」趙雲墓) |
静恵山公園 | 〃 | 山上に『子龍祠』があり、羌族を監視するために趙雲が築いたという『望羌台』の他、石碑や像が設置されている。そのほか『子龍街路』『白馬溝』など、趙雲にまつわる地名が複数存在する。 (→「静恵山公園」) |
![]() 成都武侯祠 |
〃 | 諸葛亮、主君劉備とその臣下を祀る霊廟。漢昭烈廟、武侯祠、惠陵、三義廟の四要素からなる。成都武侯祠博物館の文化遺産保護区に属している。元は章武元年(221年)に惠陵(漢昭烈廟)が建てられ、後に武侯祠(孔明廟)が建ち、そして君臣を共に祀る祠廟に統合された。「文臣武将廊」に蜀漢の文臣武将28体の塑像が祀られ、西廊の武将廊には趙雲が筆頭で祀られている(→「成都武侯祠」、「#歴史的評価」成都武侯祠)。 趙雲の塑像が一般的な若武者像ではなく、老将である理由として、成都武侯祠博物館の研究員である符麗平は以下の3点を挙げている。①羅貫中が『演義』の中で、老将になっても敵将5人を討ち取る趙雲を力強く印象的に、丹念に描き出し、毛宗崗が注釈(点評)を通してさらにその老将イメージを強化したこと、②四川の地方劇・川劇の『演義』を基にした演目では、①の影響を色濃く受け、セリフや歌で何度も趙雲を「老将」であることを強調して描き出したことから、成都の庶民に老将のイメージが広く浸透したこと、③静恵山にある大邑趙雲祠の趙雲像が趙雲の遺像、すなわち老将の趙雲像として造形したこと、以上のことから、成都武侯祠はこれらのイメージの影響を受け、老将像として造形したと推論している[317]。 武侯祠の趙雲、龐統の塑像姿については以下の民間伝承が存在する。
|
和平街 | 〃 | 旧称『子龍塘街』。趙雲の居宅があったと伝わる。(→「#民間伝承」子龍池) |
![]() 石経寺 |
〃 | 竜泉駅区山泉鎮にある中国仏教とチベット仏教が融合した、四川省西部の五大仏教密林のひとつ。後漢末期に建てられ、 当初は官僚の私邸であったが、蜀漢の時代に趙雲が封地として受け継ぎ、家廟(先祖を祀る場所。祖先が皇帝や王侯などの高官だった家のみ建てられるという)にして『霊音寺』と名付けたと伝わっている[W 38][592]。石経寺大雄宝殿の左側には、道光四年に建てられた石碑があり、「霊音とは、漢の将軍・趙侯の香火である」と刻まれている[592]。 |
万年鎮子龍村 | 同省 南充市 |
趙雲の字が由来の村。伝承によると、趙雲が領内の峠道で一夜を過ごしたことに由来する[W 39]。 |
黎州![]() 趙雲祠 |
同省 雅安市 |
大邑の南西に位置する、雅安市漢源県に存在した歴史上最古の趙雲祠。 南宋時代から存在したとされるが、葉威伸の研究では、それよりも古い北宋以前にはすでに存在していた可能性が高いことが指摘されている。同時期には馬忠、姜維の祠も存在していたとするが、この地が漢人の文化、言語とは全く異なる少数民族の村落になってからは信仰が廃れ、清代の史料には存在が確認できず、明代に消失したと考えられる。 現在は地名と「趙雲の墓と廟があった」という地元の伝説だけが残り、趙雲が生前、この地域と何らかの繋がりがあった可能性を示唆しているものの、他の文献資料が不足しており、詳細な検討は現状困難なため、今後の現地調査や史料・文献の発見が期待される[593]。 |
姜太公釣魚台 | 陝西省 宝鶏市 |
五丈原西に存在する地名。 崖に赤い文字で「趙雲、鄧芝屯兵處」と刻まれており、この地に趙雲と鄧芝が第一次北伐で駐屯したとされている[594]。 |
台湾
名称 | 場所 | 説明 |
佳里子龍廟![]() 永昌宮 |
台南市 佳里区 |
趙雲(趙聖輔天帝君)を主祀として祀った廟。詳細は該当記事を参照。 |
マレーシア
名称 | 場所 | 説明 |
北海船仔頭![]() 天福宮 |
Bagan Ajam |
1871年以前から存在するマレーシアの檳城州北海にある子龍廟で、北海最大の神廟の一つ[W 40]。詳細は該当記事を参照。 |
日本
名称 | 場所 | 説明 |
八坂神社(益子) | 栃木県 益子町 |
劉備の「檀渓を的盧で跳ぶ」趙雲の「長坂坡の戦い」をモチーフにした彫刻がある。 |
![]() 宝登山神社 |
埼玉県 長瀞町 |
本殿に三国志をモチーフにした極彩色の彫刻があり、関羽や趙雲(長坂坡の戦い)が描かれている。 日本ではこの他にも三国志をモチーフにした彫刻や絵画が全国の神社や寺院に点在している。 |
![]() KOBE 鉄人三国志 ギャラリー |
神戸市 長田区 |
『鉄人28号』『三国志』で知られる漫画家・横山光輝の故郷、神戸市長田区にある展示施設。横山作品の他にもさまざまな三国志(演義)関連作品の展示や中国輸入雑貨、グッズ販売、正子公也デザインの趙雲フィギュアや、巨大な趙雲の銅像が展示されている。 |
趙雲主題の作品
- 映画
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- 『三国志(2008年)』 (原題:三国志之見龍卸甲)中国・韓国、2008年。
主演:劉徳華(アンディ・ラウ)、声:東地宏樹。 - 『真・三国志 蜀への道』 (原題:趙子龍)中国、2020年。
主演:賀軍翔(マイク・ハー)、声:小松史法。 - 『三国志 趙雲 無双伝』 (原題:趙雲伝之龍鳴長坂坡)中国、2020年。
主演:梅洋(メイ・ヤン)、声:小松史法。 - 『趙雲伝之莫問少年狂』中国、2021年。
主演:王正宣。※日本未公開。
張繡とともに槍の名手の師匠のもとで学び、黄巾賊と戦う物語[動 15]。 - 『槍神趙子龍』中国、2022年。
主演:張子文。※日本未公開。
長坂坡の戦いを元にした作品。同門の兄・張繡と戦いを繰り広げる[W 41]。 - 『戦神趙雲』中国、※2028年公開予定[W 42]。
主演:張子文。
- 『三国志(2008年)』 (原題:三国志之見龍卸甲)中国・韓国、2008年。
- 映画(WEB配信)
- テレビドラマ
- 小説
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- 大場惑『三国志武将列伝』 表紙&本文イラスト:小島文美、 光栄、全四巻。
「放浪の子龍♦趙雲」1992年。ISBN 4906300731。
「天翔の騎士♦趙雲」1993年。ISBN 4877190309。
「江東の策謀♦趙雲」1994年。ISBN 4877191666。
「覇望の入蜀♦趙雲」1996年。ISBN 4877193332。
- 文庫版『三国志武将列伝 趙雲伝』(歴史ポケットシリーズ)、全四巻。
「放浪の子龍(1)」1998年。ISBN 487719620X。
「天翔の騎士(2)」1998年。ISBN 4877196455。
「江東の策謀(3)」1998年。ISBN 4877196463。
「覇望の入蜀(4)」1998年。ISBN 4877196471。
- 加野厚志『趙雲子竜 中原を駆けぬけた三国志最強の戦士』 幻冬舎文庫、2001年。
ISBN 9784344400818。 - 塚本靑史『趙雲伝』 河出書房新社、2022年。
ISBN 9784309030258。
- 大場惑『三国志武将列伝』 表紙&本文イラスト:小島文美、 光栄、全四巻。
- 小説(未完)
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- 奈々愁仁子『精恋三国志I』 アスキー・メディアワークス、電撃文庫、2010年。
ISBN 4048684582。
- 奈々愁仁子『精恋三国志I』 アスキー・メディアワークス、電撃文庫、2010年。
- 小説(短編)
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- 伴野朗「火龍の槍(趙雲編)」『三国志英傑列伝』 実業之日本社、1997年。
ISBN 4408590924。 - 万城目学「趙雲西航」『悟浄出立』 新潮社、新潮文庫、2016年。
ISBN 9784101206615。 - 宮城谷昌光「趙雲」『三国志名臣列伝 蜀篇』 文藝春秋、文藝春秋BOOKS、2023年。
ISBN 9784163916613。
- 伴野朗「火龍の槍(趙雲編)」『三国志英傑列伝』 実業之日本社、1997年。
- 朗読CD
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- 『三国志 Three Kingdoms 公式朗読CDシリーズ "夷陵に燃ゆ" 趙雲篇』
「三国志TK朗読CD」製作委員会、株式会社エスピーオー、2012年。
【~眠れぬ貴女に捧ぐ~特装版】CD+DVD
(インタビュー映像、ドラマ「三国志Three Kingdoms」ダイジェスト映像)
【通常版】CDのみ。
主演:KENN。
- 『三国志 Three Kingdoms 公式朗読CDシリーズ "夷陵に燃ゆ" 趙雲篇』
- 漫画(連載)
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- 陳某『火鳳燎原』
東立出版社、メディアファクトリー、2001年-連載中。
趙雲(燎原火)と司馬懿が主人公。 - 黄十浪『雲漢遥かに-趙雲伝』 メディアファクトリー、全三巻、2008-2009年。
①巻、2008年。ISBN 9784840122542。
②巻、2009年。ISBN 9784840125277。
③巻、2009年。ISBN 9784840129534。 - 緒里たばさ 『王者の遊戯』新潮社、コミックバンチ、全六巻、2012-2015年。
軍師と武将のバディもの。主人公・郭嘉の相棒として活躍する。
- 陳某『火鳳燎原』
- 漫画(短編)
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- 山口陽史「趙雲子龍という男(前・後編)」『三国志武将列伝2~蜀の章~』
秋田書店、2019年。ISBN 9784253253123。
- 山口陽史「趙雲子龍という男(前・後編)」『三国志武将列伝2~蜀の章~』
- 漫画(読切)
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- 『コミック三国志マガジン』(Vol.1-Vol.15)2005年-2007年、メディアファクトリー。
(Vol.1)原作:夏秋のぞみ、作画:SHINYA『子龍奮迅』
(Vol.3)志水アキ『巌のごとく』 (趙雲&黄忠)
(Vol.8)立花未来雄&ダイナミックプロ『忠義問答』 (趙雲&許褚)
(Vol.12)こしじまかずとも『子竜と飛燕』 (趙雲&張燕)
- 『コミック三国志マガジン』(Vol.1-Vol.15)2005年-2007年、メディアファクトリー。
- ゲーム
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- 『三国趙雲伝』 中国、2001年。
第三波珠海工作室、北京白勺音楽工作室。
※リンク先(Steam)は新版。 - 『Three Kingdoms Zhao Yun』 (原題・趙雲伝:雲漢騰龍)中国、2024年。
ZUIJIANGYUE Game、ETime Studio、Merlion Games。
※『三国趙雲伝』のリメイク作品[W 44]。
- 『三国趙雲伝』 中国、2001年。
その他関連作品
- 映画
- テレビドラマ
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- 『人形劇 三国志』 日本、1982年-1984年。
趙雲(声):松橋登。 - 『三国志演義 (テレビドラマ)』 中国、 1994年。
趙雲役:(青・壮年期)張山/楊凡、(老年期)侯永生。
(声):(青・壮年期)速水奨、(老年期)谷口節/加瀬康之。 - 『三国志 Three Kingdoms』 中国、2010年。
趙雲役:聶遠(ニエ・ユエン)、声:遊佐浩二。
- 『人形劇 三国志』 日本、1982年-1984年。
- アニメ
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- 『三国志 (日本テレビ)』 日本、1985年。
趙雲(声):佐々木功(ささきいさお)。 - 『横山光輝 三国志』 日本、1991年-1992年。
趙雲(声):小杉十郎太。 - 『三国志_(アニメ映画)』 日本、1992年-1994年。
趙雲(声):堀秀行。 - 『蒼天航路』 日本、2009年。
趙雲(声):森川智之。 - 『最強武将伝 三国演義』 日本・中国、2010年-2011年。
趙雲(声):載寧龍二(さいねい龍二)。 - 『SDガンダムワールド 三国創傑伝』 日本、2019年-展開中。
趙雲ダブルオーガンダム(声):池田恭祐。
- 『三国志 (日本テレビ)』 日本、1985年。
- ゲーム
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- 『三國志シリーズ』 コーエーテクモゲームス、1985年-展開中。
趙雲(声):遠藤航(14)、水中雅章(8 REMAKE)。 - 『真・三國無双シリーズ』 コーエーテクモゲームス、2000年-展開中。
趙雲(声):小野坂昌也。 - 『真・三國無双Origins』 コーエーテクモゲームス、2025年[W 45]。
趙雲(声):田邊幸輔。 - 『十三支演義 〜偃月三国伝〜』 アイディアファクトリー(オトメイト)、2012年-展開中。
趙雲(声):鈴村健一。 - 『Wo Long: Fallen Dynasty』 コーエーテクモゲームス、2023年。
趙雲(声):日野聡。 - 『Fate/Samurai Remnant』 コーエーテクモゲームス、2023年-展開中。
※DLCコンテンツ(第三弾:断章 白龍紅鬼演義)
趙雲(声):阿座上洋平。
- 『三國志シリーズ』 コーエーテクモゲームス、1985年-展開中。
- 漫画
脚注
参考文献と関連書籍
外部リンク
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