趙雲
中国後漢末期から三国時代の武将 ウィキペディアから
趙 雲(ちょう うん、拼音: 再生 、簡体字: 赵云、?〈生年不詳〉 - 建興7年〈229年〉[1])は、中国後漢末期から三国時代にかけての蜀漢の将軍。
冀州常山国真定県(現在の河北省石家荘市正定県)の人。封号は永昌亭侯。諡号は順平侯。台湾やマレーシアなどの華人の人々の間では信仰の対象となり、趙聖輔天帝君と呼ばれる(詳細は「趙雲#台湾」「#マレーシア」および佳里子龍廟を参照)。
蜀漢の初代皇帝・劉備の子・劉禅(幼名:阿斗)を救ったことで知られ、小説『三国志演義』では五虎大将軍の一人に数えられる[6]。
正史の趙雲
要約
視点
以下は正史『三国志』(蜀書)「趙雲伝」(
本文中の[注 ]には補足や研究者の推論・考察を、[ ]は引用文献・書籍、[W ]は引用WEBサイト、[動 ]は引用・参考動画を記述する。正史の事跡からの趙雲についての研究は「#人物」および「#官職」節を、『三国志演義』の趙雲については「#三国志演義の趙雲」の節をそれぞれ参照。
群雄割拠
→詳細は「黄巾の乱」を参照

(□は異民族)
中国大陸の北に位置し、常山国真定県は現在の石家荘市正定県に位置する。緑豊かな耕作地で、後漢当時「人口が多く裕福で兵糧も十分だった」とある[7]。
約400年続いた
中平元年(184年)に張角の主導による大規模な農民反乱である黄巾(こうきん)の乱が起こると、趙雲の故郷である冀州の常山(じょうざん)国王・劉暠(りゅうこう)は国を棄てて逃走した[11]。この反乱に乗じて少年や山賊、犯罪者などを集め、盗賊団を結成した張燕(ちょうえん)率いる黒山軍(以下、黒山賊:こくざんぞく)の襲撃により、冀州は甚大な被害を被ったが、後漢の朝廷はこれを鎮圧することが出来なかった[12]。
中平6年(189年)に後漢の皇帝・霊帝(れいてい)が崩御すると、この政治混乱に乗じて権力を掌握した董卓(とうたく)による暴政や[13]、各地で諸侯が権力争いを始め、群雄割拠の幕開けとなる[14]。
冀州では支配権をめぐって、冀州の牧(ぼく:州の長官)である韓馥(かんふく)[15]、冀州北部に隣接する幽州(ゆうしゅう)の有力豪族出身で、白馬で揃えた精鋭騎兵『白馬義従』(はくばぎじゅう)を率いて異民族(鮮卑:せんぴ族)の討伐で功績を上げた公孫瓚(こうそんさん)[16]、朝廷に自ら降伏し、徳を見せることで官職を与えられ、常山国の支配を朝廷に容認させた黒山賊の張燕[17]、四代に渡って三公(最高位の3つの官職のこと)を輩出した名門出身の袁紹(えんしょう)[18]らが対立していた。
若き頃

高さ約10mの趙雲石像
正史『三国志』蜀書「趙雲伝」(以下『正史』)
『趙雲別伝』(趙雲について記された伝記[19]。詳細は#趙雲別伝の節を参照。以下『別伝』)曰く、趙雲は身長八尺(約185cm)[注 3]、姿や顔つきが際立って立派だったという[22]。故郷の常山郡(国)から推挙され、官民(役人と民間人の混成)の義従兵(ぎじゅうへい:義勇兵のこと)[注 4]を率いて幽州の公孫瓚のもとに参じた[23]。
それより前、冀州を奪う野心を抱いていた公孫瓚は、反董卓連合軍の諸侯の一人として安平(あんぺい)に駐屯していた韓馥を攻撃し、これを破った[24]。『英雄記』(後漢末期の歴史書)によれば、この背後には袁紹の参謀・逢紀(ほうき)の策略があり、公孫瓚を利用して韓馥を攻撃させ、窮地に追い込むことで袁紹を頼らせて冀州を奪取する、というものであった[25]。策略通りに公孫瓚を恐れて袁紹を頼った韓馥は、弱みに付け込まれ袁紹に冀州牧を奪われてしまう[26][27]。
初平2年(191年)、『別伝』曰く、袁紹は冀州牧を称したため、公孫瓚は冀州の民が袁紹に従うことを憂いていた[注 5]。そのような状況下で趙雲が義従兵を率いてやってきたので、公孫瓚はこれを大いに喜んだが、趙雲に対し「君の州の人々はみな袁紹を支持しているそうだが、君はなぜ心変わりして、迷いながらもわたしに仕える気になったのかね?」と嘲笑した[28]。これに対し、趙雲はこう応えた。
「天下は騒がしく混乱し、誰が正しいのかも判らず、民は未だ逆さ吊りに遭うような苦難に置かれています。わたしの州の議論では、仁政を行う者に従うべきだと考えました。けっして袁紹殿を軽んじ、私情で公孫瓚将軍を尊重したわけではありません」 — 『三国志』巻36「趙雲伝」裴注『趙雲別伝』[29]
出会いと別れ
冀州での主な出来事 | ||
---|---|---|
西暦 | 出来事 | 内容 |
191年秋 | 袁紹冀州牧を称す | 韓馥を脅し奪う |
秋~冬? | 趙雲が挙兵する | 公孫瓚の配下に |
冬 | 青・徐州黄巾残党 と公孫瓚の戦い |
公孫瓚の勝利 |
〃 | 青洲の田楷の救援 | 劉備に随行 |
〃 | 劉備が平原相に | 公孫瓚より任命 |
192年 正月 |
界橋の戦い | 袁紹の勝利 |
不明 | 趙雲と劉備の別れ | 公孫瓚から辞去 |
193年 | 袁紹と公孫瓚が停戦 | 朝廷が介入 |
〃 | 公孫瓚と劉虞の戦い | 劉虞を殺害 |
6月 | 袁紹と黒山賊の戦い | 黒山賊が大敗 |
199年 | 易京の戦い | 公孫瓚が自害 |
205年 | 張燕が曹操に投降 | 黒山賊が帰順 |

冀州はたびたび異民族の襲撃に遭うため、騎兵への対抗として精鋭弩兵『冀州強弩』が編み出された[35]。界橋の戦いでは、袁紹配下の麹義がこれを用いて公孫瓚の精鋭騎兵『白馬義従』を大いに撃ち破ることになる[36]。
(#軍略をあわせて参照)
『別伝』曰く、このとき黄巾の乱から挙兵し、名を揚げた群雄のひとりである劉備(りゅうび:のちの蜀漢(しょくかん)の初代皇帝)が公孫瓚の元に身を寄せていた。これが劉備と趙雲、二人を結びつける機縁となる。劉備は趙雲と接するたびに受け入れ、趙雲も劉備に好感を持ち、次第に二人は仲を深めていった[37]。
『正史』曰く、青州(せいしゅう)で袁紹と戦っていた公孫瓚配下の将・田楷(でんかい)の援軍として、公孫瓚が劉備を派遣した際に趙雲も随行して劉備の主騎(しゅき:騎兵隊長)となった[38][注 8][注 9]。
『別伝』曰く、そののち趙雲の兄が亡くなり服喪(喪に服すこと)のために公孫瓚の下を辞して故郷へ帰ることになった。劉備は趙雲が自らの下にもう二度と戻って来ることはないだろうと悟り、趙雲の手を固く握って別れを惜しんだ。趙雲もまた、「絶対にあなたの御恩徳に背きません」と応えた[42][43][注 10]。
劉備と別れた時期や、そこから建安5年(200年)頃までの趙雲の行動は『正史』にも『別伝』にも記述がないため不明である[47]。192年から200年の間、常山国では董卓を殺害したのち、袁紹の客将(主従関係を結んでいない客分として待遇される武将)になっていた呂布(りょふ)に大敗した黒山賊は[48]、公孫瓚と手を結んで袁紹と戦ったが、建安4年(199年)3月、幽州と冀州の州境にある易京(えきけい)の戦いで敗れ、公孫瓚は自害[49]。袁紹は華北(かほく:中国北部のこと)一帯を支配下においた。黒山賊の張燕らはのちに群雄のひとりである曹操(そうそう)に帰順した[50]。
劉備との再会
趙雲と劉備の再会までの動き | ||
---|---|---|
西暦 | 出来事 | 内容 |
? | 趙雲離脱とその後 | 200年頃まで不明 |
193- 194年 |
徐州の陶謙の救援 | 豫洲の小沛に駐屯 |
194年 | 劉備が徐州牧に | 陶謙死後跡を継ぐ |
195年 | 呂布が劉備を頼る | 曹操に敗北した 呂布が劉備の下へ |
196年 | 呂布の裏切り | 下邳を掌握される |
〃 | ①呂布に敗北 | 曹操を頼る |
198年 | ②曹操とともに 呂布を討ち許昌へ |
献帝の曹操暗殺 計画に賛同する |
200年 | 曹操と争う | 暗殺計画が露顕 小沛で曹操に敗北 |
〃 | ③青洲へ逃走 | 袁譚を頼る (袁紹の長男) |
〃 | ④袁紹を頼る | 袁譚と平原へ |
〃 | ⑤袁紹と合流 | 鄴から200里地点 で袁紹が出迎える |
〃 | ⑥趙雲と再会 | 鄴で劉備に目通り |
〃 | ⑦劉表の元へ | 関羽らが再集結 |

(丸数字の詳細は右表参照)
一方、劉備は初平4年(193年)、徐州(じょしゅう)牧の陶謙(とうけん)の救援での功績が認められ、のち重病になった陶謙から徐州を託される[51]。しかし曹操に敗れて劉備を頼ってきた呂布の裏切りに遭い、徐州を奪われる[52]。劉備は曹操を頼って、ともに呂布を捕らえてこれを処刑した[53]。
その後、曹操は劉備を豫州(よしゅう)にある許昌(きょしょう)に連れて厚遇したが[54]、劉備は曹操の庇護の下で傀儡となっていた、後漢の皇帝・献帝(けんてい)の密詔(内密に下された命令)を受けた董承(とうしょう)の「曹操暗殺計画」に引き込まれる[55]。のち計画が露顕し、大いに怒った曹操は袁術(えんじゅつ:袁紹の従兄)の討伐を理由に赴いたまま小沛(しょうはい)に残っていた劉備を攻撃し、建安5年(200年)劉備は敗北[56]、下邳(かひ)にいた劉備の妻子と部将(一部隊の大将)の関羽(かんう)が捕らえられ、劉備の兵は散り散りとなった[57]。
同じく建安5年(200年)頃、『別伝』曰く、追われた劉備が曹操と対峙していた袁紹を頼って来ると[58]、趙雲は冀州の鄴(ぎょう)で久しぶりに劉備に目通りした[59]。再会を喜んだ劉備は、趙雲と同じ
その間、袁紹配下の顔良(がんりょう)を討ち取ったことで曹操から解放された関羽(白馬の戦い)や[64]、散り散りになっていた劉備の敗残兵たちが、劉備の下へ再集結している[65]。同年8月、袁紹と曹操の間で大規模な戦いが起こり、曹操が勝利をおさめ、袁紹は建安7年(202年)病死した[66][67](官渡(かんと)の戦い)。
博望坡の戦い
→詳細は「博望坡の戦い」を参照

荊州は趙雲が長年留まったことから、さまざまな民間伝承や趙雲にまつわる古跡が残されている(#民間伝承、#古跡と施設節を参照)。
荊州の劉表を頼ってやってきた劉備たちは曹操への対抗のため、豫州との州境近い荊州最前線の地である新野(しんや)を任されることになる[68]。
建安8年(203年)曹操の命を受けた夏侯惇(かこうとん:曹操の従兄弟)・于禁(うきん)らが新野北東に位置する博望(はくぼう
『別伝』曰く、趙雲はこの博望坡の戦いで敵将の夏侯蘭(かこうらん)を生け捕る武功(軍事的手柄)を挙げたが、小さい頃からの同郷の友人だったことから劉備に助命嘆願し、法律に明るい人物として軍正(ぐんせい:軍の法律の官)[W 1]に推挙し、認められた。趙雲は以降、降将の夏侯蘭が無用の疑いをかけられぬように自分から彼に接近しないよう気遣ったという[73][注 12](博望坡の戦い)。
長坂坡の戦い

後世、長坂坡には趙雲を顕彰する『長坂坡公園』が整備され、趙雲にまつわる地名や村名がいまも存在している。

阿斗を抱えた趙雲の騎馬像
袁紹の息子たちと烏桓(うがん)族に勝利し(白狼山(はくろうざん)の戦い)、ついに華北を平定した曹操は[76]、建安13年(208年)荊州への侵攻を開始する[77]。このとき劉表は病死していたので次男の劉琮(りゅうそう)が跡を継いでいたが、9月に曹操軍が新野に到達すると劉琮は降伏してしまう[78][79]。樊城(はんじょう)に居た劉備達は劉琮の降伏を知ると南へ撤退しようとするが、劉備を慕う劉琮の側近の一部と、荊州の民衆10万人がともに南下を開始した[80]。
劉備軍は江陵(こうりょう)を目指すが、民衆を連れての大行軍は思うように進まず、『正史』曰く、荊州の当陽(とうよう)・長坂(ちょうはん:または長坂
『別伝』曰く、このとき「趙雲が北(曹操軍の方角)に逃げ去った」と言う者がいたが、劉備は手戟(しゅげき:刃の付いた武器)を投げつけて「子龍はわたしを棄て逃げることはない」と相手にせず、ほどなくして趙雲が到着した[88](長坂の戦い)。
劉備軍は曹操軍に江陵を制圧されたが[89]、漢水(かんすい:または
荊州平定戦
→詳細は「赤壁の戦い」および「赤壁の戦い § 南郡攻防戦」を参照


同建安13年(208年)孫権軍は赤壁に、曹操軍は江陵から進軍して赤壁の対岸にある烏林(うりん)に布陣するが、曹操軍はこの湿地帯で疫病被害に遭う[94]。そこに孫権配下の黄蓋(こうがい)が曹操に偽りの投降をして接近し、火攻めをする案を周瑜に持ち掛けた[95][96]。曹操はこれを見破れず、黄蓋の投降を信じたため、孫権軍の火攻めに遭い大敗した[97][98](赤壁の戦い)。
建安13年(208年)から建安14年(209年)にかけて、孫権軍と劉備軍はともに曹仁(そうじん:曹操の従兄)が守る江陵を攻めて陥落させ、周瑜は江陵のある南郡(なんぐん)の太守(たいしゅ:郡の長官)になった[99][100]。
劉備はその間に軍事行動を起こす理由付けとして劉琦を荊州刺史(しし:州の長官、牧)に推薦[101]、荊州南部四郡(
『別伝』曰く、趙雲は荊州南部平定戦に参加して偏将軍(へんしょうぐん)・桂陽太守になった[105][注 13]。この桂陽攻略時に降伏した前太守の趙範(ちょうはん)が、自身の兄嫁である寡婦(未亡人)の樊氏(はんし)を趙雲に嫁がせようとした[108]。趙雲は「わたしとあなたは同姓ですから、あなたの兄ならわたしの兄のようなものです」と同姓を理由に断わった[109][注 14]。しかし樊氏は国色を持つ美女だったので、なおも趙雲に娶るように薦める者がいたが、趙雲は以下を述べ、これを固辞してついに娶らなかった。
阿斗奪還

東の呉へ続く大江(長江)を張飛と共に遮り劉禅を奪還することが出来た。
建安16年(211年)、漢中(かんちゅう:
『別伝』曰く、劉備はこのとき趙雲を留営司馬(りゅうえいしば:軍営に留まって軍務を総括する役職のこと。「#官職」を参照)に任じた[117][118]。
そのころ甘夫人が病没し[119]、孫権の妹の孫夫人(そんふじん:京劇での名の
この頃から、劉備軍と孫権軍の間では荊州の領地をめぐって争いが起こるようになり、同盟関係が悪化していく[124]。
建安17年(212年)頃、『別伝』曰く、孫権は劉備が益州入りしたことを知ると、船を出して孫夫人を呉に帰らせた。その際に、孫夫人は劉禅を連れて行こうとしたが、これを知った趙雲は、張飛と共に長江を遮って、孫夫人から劉禅を奪還した[125]。
一方、『漢晋春秋』(東晋(とうしん)時代に編纂された歴史書)では「諸葛亮の命を受けて、趙雲が奪還した」と記述されている[126]。
益州平定戦
→詳細は「劉備の入蜀」を参照

同212年、劉璋と不仲になった劉備は劉璋の攻撃を決定する[127]。
建安19年(214年)頃、『正史』曰く、荊州に留まっていた諸葛亮たちを援軍として召し出し、荊州の留守を関羽にまかせ、趙雲は諸葛亮・張飛・劉封(りゅうほう:劉備の養子)と共に長江を遡って入蜀(しょく:蜀郡入り)して各郡県を平定した[127]。趙雲は江州(こうしゅう:
『華陽国志』(かようこくし:東晋時代に編纂された蜀・巴の地方志)では、趙雲はこのとき江陽のほか、犍為(けんい)も攻略したとある[130][131]。
諸葛亮ら援軍と合流した劉備は、劉璋のいる成都を完全に包囲した。このとき、211年に曹操に反乱を起こしたのち敗れ、張魯のもとに身を寄せていた猛将・馬超(ばちょう)が劉備の誘いに乗り帰順した。それを聴いた劉璋はついに劉備に降伏し、こうして益州は平定された[127][129]。
『正史』曰く、益州平定後、趙雲は翊軍将軍(よくぐんしょうぐん)に任ぜられた[132][129][注 16](劉備の入蜀)。
『別伝』曰く、劉備は益州に備蓄してあった財産や農地を諸将に分配しようとしたが、趙雲はこう反対した[134]。
定軍山の戦い

建安20年(215年)、曹操が張魯を攻撃し、漢中を手に入れる。同年、劉備が益州を手に入れたことにより、孫権から荊州の返還を求められていた劉備は、一部の領地の分割に応じることにした[124]。
建安22年(217年)、参謀の法正(ほうせい)が劉備に漢中を攻めるよう進言し、漢中をめぐって曹操と劉備の間で戦いが始まる。法正の策に従い、劉備は自ら漢中に赴き、趙雲も劉備の本隊に従軍した[139]。建安23年(218年)、劉備は陽平関(ようへいかん)に兵を置き、曹操軍との戦いは一進一退の攻防が1年続いた(陽平関の戦い)。
建安24年(219年)正月、劉備は定軍山(ていぐんざん)へ移ると、後を追ってきた夏侯淵(かこうえん:夏侯惇のはとこ)と対峙する。劉備は先陣に名乗りをあげた黄忠(こうちゅう)に法正を組ませ、夏侯淵を討ち取ることに成功した[140][141][142][143]。3月、激怒した曹操は自ら大軍を率いて漢中に赴き、劉備と対峙する[144][145]。
『別伝』曰く、このとき曹操軍は数千万袋もの兵糧(ひょうろう:軍隊の食料、米)を北山の下に運んだ。黄忠はこれを奪うことができると考え、趙雲の兵を借りて出陣したが、約束の時間を過ぎても黄忠が戻ってこなかったため、趙雲は少数の兵を率いて軽装で偵察へ向かったところ、曹軍の前鋒と遭遇し、交戦になる。趙雲は敵陣に突撃しては後退を繰り返して曹軍を翻弄し、見事な撤退戦で無事に自陣へ戻った。しかし部下の将軍張著(ちょうちょ)が負傷し、敵陣に取り残されていたので趙雲は再び馬に乗って張著を迎えに行った[146][147]。その後、曹軍は再び盛り返して趙雲らの陣まで追撃してきた。陣にいた
劉備は翌朝、趙雲の陣に自ら視察に向かい、
と称賛した。宴会が開かれ、夕方にまで至ったという。軍中は趙雲を
このエピソードは『資治通鑑』(しじつがん:北宋(ほくそう)時代に編纂された歴史書)[151]、『太平広記』(北宋時代に編纂された類書、百科事典)にも採用されている[152]。のちに兵法書『兵法三十六計』に記される『空城計』(くうじょうけい)と呼ばれる心理戦とされ、歴史上初めて行い、成功させたのは趙雲とされる[153][154][注 19]。また、劉備が趙雲を称えた「一身都是膽也」は故事成語「一身是胆」(いっしんしたん)になった。
対呉戦争

(青が蜀軍、赤が呉軍)
趙雲は江州で後詰となる。

同年7月、漢中を手に入れた劉備は、前漢の高祖・劉邦(りゅうほう:前漢の初代皇帝)にならい漢中王を称する[161][160]。
この直後、関羽は荊州から北の魏(ぎ:曹操の王朝。曹魏)に侵攻し、曹仁の居る樊城を包囲すると、漢水を堰き止め水攻めにし、援軍に来ていた于禁の軍を壊滅させ、于禁は降伏、さらに龐徳(ほうとく)を討ち取り、関羽の勢いはまさに華夏(かか:中国全土のこと)を大いに震撼させた[162][163]。
しかしこのとき、荊州の領有を巡って劉備との関係が悪化していた孫権は、曹操のもとに使者を送って、劉備との同盟を破棄。曹操と密かに和睦を結んでいた。配下の呂蒙(りょもう)に荊州に攻め込ませ、江陵ほか、いくつもの主要拠点が次々に陥落。これを知った関羽は退却するも、同年12月に退路を失う。関羽は孫権軍に捕らえられ、息子の関平(かんぺい)とともに処刑された[164](樊城の戦い)。荊州を手に入れた孫権は、関羽の首を曹操に送りつけ、曹操はこれを手厚く葬った[165][注 20]。
建安25年(220年)正月に曹操が病死すると、子の曹丕(そうひ)が献帝に禅譲(地位を譲ること)を迫って皇帝に即位し、ついに後漢は滅びた[166]。これを受け、建安26年(221年)4月、劉備は群臣の擁立を受け、漢の正統な継承者として「漢」の皇帝を称し、即位した[167](国の名(漢)は後世、蜀漢、または季漢(きかん:漢の末っ子の意[168])と呼ばれる)。諸葛亮は丞相(じょうしょう:君主を補佐する最高位の官吏)に任命され、元号を章武(しょうぶ)とし、魏・呉・蜀の三国鼎立(ていりつ)となった[注 21]。
同年、劉備は呉に殺された関羽の仇討ちと、荊州を奪還すべく呉への出兵を決意する。多くの臣下が不利を説き、劉備を諫止したが聴き入れられなかったという[169]。このとき秦宓(しんみつ)もまた、「天の時(天運)が味方しない」と諫言すると、劉備の怒りを買い、一時投獄された[170]。
『別伝』曰く、大いに怒った劉備に対し、趙雲はこう諫言した[171]。
しかし劉備には聴き容れられず、同年7月、劉備は呉征伐のため荊州方面へ侵攻を開始。諸葛亮は成都(蜀)に、趙雲は後詰(ごづめ:味方の後方に置き、戦機に応じて投入される部隊)として江州督(とく:諸州の軍事の監督)として巴に留まることになった[174]。戦いは約一年続いたが、章武2年(222年)6月、夷陵(いりょう)の戦いで呉の陸遜(りくそん)の火攻めにより、蜀漢は大敗を喫する。劉備に従軍した荊州出身の多くの将校が戦死し[175]、混乱の中で呉や魏に投降した者もいた[176]。この戦いで蜀漢は多くの優秀な人材を失い、国力を大きく消耗することとなった。
劉禅の即位

弧を託す劉備と群臣たち
(右奥の青い服の人物:趙雲)
夷陵の戦いの大敗後、病を発して床に伏していた劉備は、臨終の際に李厳(りげん)と諸葛亮に事後を託し、章武3年(223年)4月、永安宮にて崩御した。享年63であった[178]。
同年5月、元号を建興(けんこう)に改め、子の劉禅が即位すると、『正史』曰く、趙雲は中護軍(ちゅうごぐん)・征南将軍(せいなんしょうぐん)へ昇進、諸葛亮・魏延(ぎえん)らと同時に、
建興3年(225年)、劉備の死後から益州南部で起こっていた反乱を鎮めるため、諸葛亮は自ら南征を開始、孟獲(もうかく)らを破って平定に成功し、12月に帰還した[180]。しかし、北伐(ほくばつ:曹魏への侵攻)に備えて税の取り立てが行われたため、その後もたびたび反乱が繰り返された[181]。建興4年(226年)、魏では曹丕が逝去。長男・曹叡(そうえい)が第二代皇帝に即位した[182]。
第一次北伐
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(赤が蜀軍、青が魏軍)
右端の赤の点線は魏延が提案し、諸葛亮に退けられた進路。
隣の赤線は趙雲・鄧芝の進路。
魏への北伐は秦嶺山脈(しんれいさんみゃく:海抜約3,000メートル)を越える険しい山道を進軍しなければならなかった。
建興5年(227年)、諸葛亮は出師表(すいしのひょう:出陣前に決意や抱負を述べた上奏文)を劉禅に上奏し、『正史』曰く、趙雲は諸葛亮と共に曹魏への侵攻(北伐)に備え漢中に駐留する[183]。
建興6年(228年)春、諸葛亮が斜谷(やこく)街道を通って郿(び)を奪うと宣伝すると、曹叡は曹真(そうしん)を派遣し、曹真は箕谷(きこく)に大軍を派遣する[184][185]。趙雲と副将の鄧芝(とうし)が別動隊を率いて
『正史』曰く、趙雲と鄧芝は兵力で劣り、敵は強大であったことから、箕谷の戦いでは不利を強いられたが、兵士たちをよくまとめて陣を堅守し、大敗から免れることができた[189][注 24][注 25]。
しかし街亭(がいてい)では、諸葛亮が諸将の反対を押し切って先鋒に抜擢した馬謖(ばしょく)が命令に背き、魏の張郃(ちょうこう)に撃破され大敗[194][195](街亭の戦い)。蜀軍は敗戦により手に入れた三郡を手放し[196][197]、全軍漢中に撤退、諸葛亮は馬謖を処刑した[198]。
そののち諸葛亮は「街亭では命令を違える過ちを犯し、箕谷では警戒を怠るという過ちを犯しました。その責任は任命した私にあります」[注 26]と上奏し、諸葛亮は自身の位階を三階級下げ右将軍に降格[201]、趙雲は鎮軍将軍(ちんぐんしょうぐん)に降格された[202][注 27]。一方で、『華陽国志』では位階ではなく「秩(ちつ:給与された金銭や物資)を貶した」との記録がある[205]。
『水経注』(すいけいちゅう:北魏(ほくぎ)時代の地理書)によると、この撤退戦の際に趙雲は赤崖(せきがい)より北の百余里に渡る架け橋を焼き落すことで魏軍の追撃を断ち切っており、その後しばらくは鄧芝と共に赤崖の守りにつき、屯田(とんでん:辺境を防衛する兵士の農耕)を行っている[206]。
『別伝』曰く、この退却時に趙雲が自ら
「敗軍の将になぜ恩賞があるのですか。どうかその品々をそのまま赤岸(赤崖)の倉庫に納めて、10月になってから冬の褒賞として配られますよう、お頼みします」 — 『三国志』巻36「趙雲伝」裴注『趙雲別伝』[209]
最期
→詳細は「出師表」を参照
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趙雲・趙統・趙広の塑像
『正史』曰く、建興7年(229年)卒。
趙雲の長子・趙統(ちょうとう)が跡を継ぎ、官位は虎賁中郎督(こほんちゅうろうとく)・行領軍(こうりょうぐん)に昇った[214][注 31]。
『正史』では上述の通り、「建興7年(229年)卒」となっているが、諸葛亮が建興6年(228年)11月に上奏したとされている『後出師表』(ご・すいしのひょう)では、「漢中に至ってより一年、趙雲・
死後
『正史』曰く、32年後の
『別伝』曰く、諡を追贈される前、劉禅は詔勅で「趙雲はかつて先帝(劉備)に仕え、功績はすでに顕著である。朕は幼い頃から多くの苦難を経験してきたが、忠義に溢れる彼を頼りに、幾多の危険を乗り越えることができた。諡号というものは、英雄の大いなる功績を称えるためのものである。世間の意見でも、趙雲に諡号を贈るのがふさわしいと声が上がっている」と述べた[224]。大将軍の姜維(きょうい)たちは議を行い、以下を上奏した。
「趙雲はかつて先帝(劉備)に仕え、その功績はすでに顕著であります。天下の経営に尽力し、法と秩序を重んじ、功績は記録に値するものでした。中でも当陽の役(長坂坡の戦い)における彼の義は金石を貫き、忠義を尽くして主君をお護りしました。主君がその功績を記憶にとどめ、彼を厚遇したのは当然であり、臣下は死を恐れず忠誠を尽くします。もし死者に知覚があるとすれば、その名は不朽の名声を得るに足るでしょう。生者もその恩義に深く感謝し、身命を捧げる覚悟です。
謹んで諡法を調べますと、柔順・賢明・慈愛・恵愛を持つ者を『順』と称し、職務を秩序正しく、けじめのあることを『平』と称し、災禍・反乱を鎮め、平らげることを『平』と称します。
よって、趙雲に諡して『順平侯』と称すべきです」[注 33] — 『三国志』巻36「趙雲伝」裴注『趙雲別伝』[226]
滅亡
→詳細は「蜀漢の滅亡」を参照
諡号の追贈から2年後の
趙雲の長子の趙統のその後については史料に明確な記述はなく、蜀に留まったのか、劉禅らのように洛陽(らくよう:司隷(しれい:司州)にある後漢・魏(226年-265年時代)の首都)に強制移住させられたのか、定かではない[230]。
人物
要約
視点
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正史の研究
中国では近年、三国志人物研究が活発化し、多数の書籍や論文が発表されている[231]。趙雲に関する研究は、他の諸葛亮や劉備といった人物に比べ、やや遅れてスタートした。その嚆矢は、1983年に陳邇冬が新聞『光明日報』に発表した「替趙子龍抱不平」(趙子龍のために不平を抱く)とされる。以降、正史『三国志』(以下、正史)、『三国志演義』(以下『演義』)、戯曲、評書など多様な資料を総合的に分析する研究が進められてきたが、その主流は『演義』に基づくものであった[232]。一方、正史(歴史上の趙雲)に関する研究は21世紀に入ってから本格化し、論文や書籍が相次いで発表されている。以下に、中国・日本の学者・研究者による正史の趙雲についての考察を記述する(別伝については#趙雲別伝を参照)。
出自
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(紀元前260年頃)
- 趙姓:
紀元前960年、周(しゅう)の時代に造父(ぞうふ)が封地として趙城を賜ったことから姓を造から「趙」に改めたのが趙姓の始祖とされる[233]。 - 趙国と常山:
前403年、春秋時代、趙・韓(かん)・魏(ぎ)の三家が晋(しん)から独立後にこれを滅ぼし、それぞれ領土を分け合い、趙家は戦国七雄のひとつである「趙」を建国した[234]。前229年には秦に降伏して属国となり、趙国は「趙郡」へ、さらに「恒山郡」などに分割され、「東垣県」(とうえんけん)が治所(政務を執り行う場所。政庁)[W 4]となった[234]。これはのちの「真定県」である。「恒山郡」はのちに、前漢の文帝(ぶんてい:後述の劉邦の四男)が「劉恒」(りゅうこう)と名乗ったため、避諱(ひき:君主や目上の実名の使用を避けること)して「常山」に改名される[235]。 - 真定と趙佗:
南越(なんえつ)の王・趙佗(ちょうだ)は趙雲と同じ常山真定の人で、同じ趙姓である。
趙佗は元は秦の役人であったが、秦から漢(前漢)へ代わる混乱に乗じて南越(現在の広東、広西、ベトナムの中北部)を建て王となった[W 5]。前203年頃、前漢時代になると高祖・劉邦(りゅうほう:前漢の初代皇帝)が趙国を再興させると、趙の国相・陳豨(ちんき)が反乱を起こし、劉邦がこれを鎮圧したのちに東垣県を「真定県」と改名すると、南越を支配していた趙佗はすぐに劉邦に服従した[235]。 劉邦の死後、文帝と趙佗は和睦を続け、「趙佗の親族の墓のために真定に守邑(しゅゆう:警備や世話をする人々が住む集落)[W 6]を設け、毎年祭祀を行った」こと、「趙佗の従兄弟たちを呼び寄せ、高い官位を与え厚く賜物し、寵愛した」ことが『史記』『漢書』に残されている[236][237][235]。
趙春陽は、趙姓の起源や常山真定の成り立ち、趙佗の一族(趙家)が真定に郡望(ぐんぼう:郡中の名望の族)[W 7]を有していた背景などから、趙雲もこの真定の郡望の出であったのだろうと論じている[注 34]。その根拠として、『別伝』に見られる趙雲の会話内容の語彙の多さと論理的思考から、幼少期より優れた文化教育を受けていたことが窺え[注 35]、また、劉備の主騎に抜擢されたのは、後漢末の貴族の子弟が家族と国家を守る義務を負い、幼少期から騎乗や射撃の訓練を積んでいた慣習に鑑みれば、趙雲も同様に武芸に長じていたからであろうと推論している[241][注 36]。
名前
年齢
正史にも『別伝』にも生年についての記述はないため年齢不詳であるが、以下を基に推論されている。
- 挙兵:(挙兵時期から)
「常山郡(国)から推挙されて官民の義従(義勇)兵を率いた」[23]という『別伝』の記述からさまざまな考察がされている。趙雲のように州郡と協力して兵を率いた人物の年齢は、正史ではおよそ18歳前後~20歳以上の者に多くみられ[注 37]、これにならって趙春陽と方北辰は趙雲の生年を170年前後、つまり191年の挙兵時は20歳前後の説を支持している[249][動 7]。175年~180年頃に生まれたとする学者の説[注 38]などもあるが、生年を180年と仮定すると191年時点で11、2歳となり、この年齢で義従兵を率いたとは考えづらく、趙春陽はどんなに遅い生年でも175年までとし、それ以降に生まれた可能性を否定している[249]。 - 史書:(文中の表現から)
『別伝』には趙雲と劉備の出会いについて、「時先主亦依託瓚,毎接納雲,雲得深自結託(この時、先主(劉備)も公孫瓚の元を頼っていた。(劉備は)常に趙雲を受け入れたので、趙雲は深く身を委ねることができた)」[37]と記述され、『別伝』が書かれた後の時代(北宋)に編纂された『資治通鑑』では、この趙雲と劉備の出来事を「劉備見而奇之,深加接納…(略)(劉備は趙雲を見て、その才能を奇(あや:才能を認め高く評価すること)し、深く受け入れた)」[251]と解釈(表現)しており、『別伝』と『資治通鑑』双方に見られるこれら表現は、正史では「王允と呂布」[252]、「劉備と田豫」[253]のような、10歳以上年の離れた年長者や目上の者と年少者に対しての記述で確認される。よって、劉備(161年生まれ)と趙雲においても10歳ほどの年齢差(趙雲が年下)であったと考えられ[249]、これは上述の「170年前後生まれ」説とも符合すると言える。 - 干支:(字から)
趙雲の字「子龍」から干支の辰年生まれとする説もあるが、陸遜の孫の陸雲・字「士龍」は262年生まれの午年、陸雲公・字「子龍」は511年生まれの卯年生まれで、このように「龍」の名が使われていても辰年生まれであるとは限らない[249][注 39]。 - 演義:(三国志演義から)
『演義』では趙雲が70歳の老兵として北伐で戦った描写になっているため、生年を逆算して158年生まれとし、劉備よりも年上とする考察や、中国の公園や施設に展示している趙雲像などの台座に、これら生年が反映されていることがあるが[254]、『演義』はあくまで正史を元にした創作小説であり、この70歳という記述は正史にはなく、『演義』の作者・羅貫中(らかんちゅう)の創作である。また、『演義』の趙雲の年齢描写については作中、多くの矛盾点が存在している。「#矛盾点」も併せて参照。
地位
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「五虎殿」に祀られた五虎大将軍
(左から:黄・趙・関・張・馬)
五虎大将軍 :(将軍位)
蜀漢の名将である関羽・張飛・趙雲・馬超・黄忠の5名が封じられた称号であるが、正史には見られない『演義』独自のものである。これは、正史を編纂した陳寿(ちんじゅ)が、この5人を一つの伝「関張馬黄趙伝」にまとめて記述したことが由来とされる[255][41]。しかし正史の事跡などからこの5人をまとめて呼称、または評価をする際などに『五虎大将軍』『五虎将』といった使われ方をする場合がある(#個人の評価を参照)。
正史では、劉備が漢中王になった際、関羽を筆頭に馬超・張飛・黄忠が前後左右将軍(ぜんごさゆうしょうぐん)に封じられたが、このとき趙雲は益州平定後に任じられた翊軍将軍のまま据え置かれ[注 16]、五虎将の中で将軍位が最も低位であった[注 40]。
方北辰は、この趙雲の境遇について「彼の活躍ぶりと全く釣り合っていない」と述べ、「これは関羽や張飛のように趙雲に才能がないからではなく、劉備が彼にそのような機会を与えなかった」のが原因とし、対呉戦争時には前線ではなく江州督として後詰めに任じられたこと、劉備の家族の保護、劉備の留守の際には大本営を鎮守する、敵の軍糧を奪いに行く、といった武功の立たない、しかし重要な特殊任務で起用されることが多かったことを挙げ、さらに「上司の指示に忠実に従い、他の将軍と主役を争うようなことをしなかった、彼の泰然とした性格」もその一因であったと分析している[21][動 8]。
- 正史の序列:
趙春陽は正史「関張馬黄趙伝」の五虎将の序列(関羽・張飛・馬超・黄忠・趙雲)について、この五人のうち最も早く亡くなったのが関羽であることから筆頭に、最も遅く亡くなったのが趙雲であることから最後にそれぞれの伝が置かれていると論じ、つまり五虎将の序列は功績の順ではなく、没した順(「関羽(219年没)と張飛(221年没)」、「馬超(222年没)」、「黄忠(220年没)と趙雲(229年没)」の3グループ)に並べられており、もし功績の順に並べるとすれば、『三国志』巻37の「龐法伝(龐統・法正の伝)」において、蜀漢への功績が大きい法正(220年没)が先に記述されるべきであるが、実際には龐統(214年没)が先に記述されており、これは魏の武将の伝においても同様のことから、三国志の伝の記述順は、必ずしも功績の大小によるものではない、と指摘している[W 9]。
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「趙雲故里」
阿斗を抱えた趙雲の騎馬像
- 護衛隊長:(ボディーガード論)
1986年、沈伯俊が発表した『論趙雲』は、趙雲を初めて歴史(正史)と文学(演義)から多角度に研究した論文で、沈はこの論文内で、正史に書かれる「(青州の)田楷の救援のため、劉備の「主騎」として随行した」の「主騎」を「護衛隊長」と解釈した[256]。沈は『演義』などの明・清時代の文学研究家で、三国歴史研究の権威ある専門家でもあったため、この論文の影響は大きく、後代の研究者に広く受け入れられ、以降、「主騎」は「護衛隊長」や「ボディーガード」と解釈されることが多くなった[41]。
2011年、趙雲に関する論文『趙雲形象史研究』を発表した王威は、「主騎」とは字義通りに解釈すれば「騎兵を主管する」(つまりは騎兵の隊長)のことで、これは『資治通鑑』などの史書の用例[注 8]を見ても顕かであり、「(沈の)この推論は全くの憶測である」と断定し、「一人の歴史人物を研究するにあたり、彼(趙雲)の身分・地位すら把握していないというのに、他にいったい何を議論することがあるというのか?」と、沈の学説の根拠の薄弱さ、史料解釈の誤り、研究姿勢そのものを厳しく批判した[41]。趙春陽も王の主張を支持し、趙雲は数々の戦場で兵を統率した立場にあり、沈の解釈は「多くの読者に歴史上の趙雲の身分はボディーガードだと誤解を与えている」と指摘している[W 10]。
日本においては、渡邉義浩は著書や監修物の多くで「(『別伝』を除いた)正史には長坂坡で阿斗を保護したことと、あとは北伐で曹真に敗れ、死後に順平侯と諡されたことしか書かれていない」[注 41]、「三国志を編纂した陳寿は、趙雲を夏侯嬰(かこうえい:劉邦の子を救った前漢時代の人物)になぞらえて評価している」ことを根拠として、「正史の趙雲は劉備の家族を守る「護衛隊長」である」と記しており[257][258][259][260]、それら渡邉の著作物を参考・引用した他の研究者の著書や論文においても同様の記述や[39]、「ボディーガード」と解説したものが見られる[261]。
軍略
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- 騎兵と強弩:
趙雲が最初に仕えた公孫瓚の生まれた幽州は、西北の涼州(りょうしゅう)と並び、北方騎馬民族と強い関わりを持つ。幽州北部を拠点とする烏桓族(うがん:中国北部の異民族。烏丸とも)を中核とした精鋭騎兵隊『幽州突騎』(ゆうしゅうとっき)は、後漢の初代皇帝・光武帝(こうぶてい:劉秀(りゅうしゅう))の切り札的存在であり、公孫瓚もまた『幽州突騎』の流れをくむ、烏桓族を含めた白馬で揃えた精鋭騎兵隊『白馬義従』を率いた[262]。
方北辰は、公孫瓚の『白馬義従』の一員に編入された趙雲が劉備の主騎(騎兵の隊長)となったことは[動 2]、黎明期の劉備にとって大きな意味を持っていたと指摘する。当時、劉備は千人ほどの歩兵部隊しか率いていなかったが、趙雲が率いてきたのは単なる騎兵ではなく、『三国志』巻32「先主伝」に記される『幽州烏丸雑胡(ざつこ)騎』[263]、すなわち幽州の烏桓などの草原民族の騎兵であり、「天下の名騎」と称されるほどの非常に高い戦闘力を誇る精鋭部隊であった。この騎兵団の加入は劉備軍の総合力を飛躍的に向上させ、徐州の陶謙を救援できるほどの力を得て、陶謙は徐州を劉備に譲るに至った。劉備の事業は新たな段階へと進み、したがって趙雲は重要な創業功臣の一人であったと言えるが、しかしこの点について、これまで三国志を語る者のほとんどが言及してこなかったのは不可解であるとして、方北辰は他の学者らに対し疑問を呈している[21]。
渡邉義浩は、後漢が首都・洛陽を守るため、北方騎馬民族の対騎兵兵器として強弩(きょうど:力の強い大弓)を編み出し、「天下の精兵」と称された、当時最強の強弩部隊(冀州強弩)が冀州に置かれていた事実から、趙雲はこの冀州の出身かつ幽州の公孫瓚に仕えたため、『冀州強弩』『幽州突騎』双方の戦法に通じていた、と推論している[264]。
官職
要約
視点
役職・官職の変遷
→詳細は「中国の官職」を参照
劉備配下時代(『趙雲別伝』含む)は、劉備が長らく左将軍の地位だったことと[274]、開府(高官が役所を設けたり、新しい都や拠点を開くこと)[W 11]をしていなかったため、劉備が創設した官が多い(後述の雑号将軍:ざつごうしょうぐんを参照)。劉禅配下時代は諸葛亮が開府し、重号将軍(じゅうごうしょうぐん)に就いている。
魏は独自の九品官人法を用いており、後漢・魏・呉・蜀では、同じ官職名でもそれぞれの国や時代により職務・位階(地位、等級)などに違いがある場合がある。
以下は趙雲が就いた役職・官職についての概説(職掌・在任期間など)と、研究者による推論など。各該当記事も参照(官職名横の丸数字①~⑨は就任順を表す)。
公孫瓚配下時代
主騎 :①
騎兵隊長を指す[注 8]。
当時、劉備が率いていた『幽州烏丸雑胡騎』を任されていたと考えられることから[263]、馬術に長けていたと推測され[34]、方北辰は、趙雲ら常山の義従兵は、公孫瓚の精鋭騎兵隊『白馬義従』の一員に編入され、劉備に従軍する際に『烏丸雑胡騎』を率いたと看做している[動 2](#軍略も参照)。「田楷の救援に向かうため、劉備の主騎として随行した」[38]と正史に書かれるが、正史「先主伝」によると田楷の救援は①191年(青洲)[275]と②193年(徐州)[276]の2回あり、『別伝』に記述されている公孫瓚に仕えた時期から①と考えられる[注 5]。『別伝』では一度劉備の下を去ったと記され(時期不明)[42]、活動期間は不明。
劉備配下時代
牙門将軍 :②
牙門将軍も参照。
劉備が創設した官[277][278]、定員1名。
208年「長坂の戦い」で評価され任命される[87]。
「牙門」は「将軍旗(牙旗)の立つ軍門」を意味する[279]。
『牙門将』という官名もあるが、蜀の『牙門将』とは『牙門将軍』を指すと考えられる[280][281]。『別伝』では翊軍将軍の前に偏将軍に就いているため、正しい在任期間は不明。趙雲の次子・趙広も牙門将(軍)に就いている[279]。翊軍将軍 :⑤
翊軍将軍も参照。
劉備が創設した官[282][283]、定員1名[281]。
「翊」の字は鳥が飛び立とうと両翼を広げた状態を表わし[129]、「とびこえる」「助ける」「補佐する」[W 12][W 13]などの意味があるが、「兵を統率する」[283][284]以外の詳細な職掌は不明。趙雲と霍弋の二人だけが就任している(表参照)。翊軍将軍になった時期が正史(214年)と『華陽国志』(219年)で違いがあり、在任期間は不明[注 16]。
趙雲別伝記載
偏将軍 :③
偏将軍も参照。
荊州平定戦後に就任[105]。
将軍の指揮下で副官や小隊を率いる[285]。
「かたわら」「副」の意味を持ち、将軍に昇進した場合に最初に就任することが多い[286]。桂陽太守 :③
太守も参照。
荊州・桂陽の太守(郡の長官)、定員1名[287]。
荊州平定戦後に桂陽太守の趙範と代わり就任[105]。
職務は群民の統治、県令、県長などの地方の官吏の推挙の他、犯罪取り締まりなど[287][288]。
趙春陽は趙雲が桂陽太守になったことについて、三国時代は新しく群守に任命された者はその郡を攻め落とした将軍になるのが常であったため、桂陽は趙雲が単独で軍を率いて攻め落とした可能性が高いことを指摘している[107]。留営司馬 :④
劉備が創設した官[289][118]。
荊州に留め置かれた時に任命される[117]。
「軍営に留まり、軍務を総括する」[118]、すなわちその地域に駐屯して軍事の指揮を執る役職で、非常事態が発生すれば大規模な軍隊を動かす権限を持つ『留府司馬』と類似しており、『宋書』や『南史』には留府司馬が実際に軍事行動を行った例が記されている[290][291]。当時劉備はまだ開府をしていなかったため、「留府」ではなく「留営」になったと考えられる。周思源は「衛戍(駐屯地)の司令官兼、公安局長のようなもので、本拠地(公安(県))の安定・管理と宮中(孫夫人)のことも任せられた重要な役職」と解説している[動 5]。江州督 :⑥
都督も参照。
諸州の軍事の監督、定員1名[292]。
対呉戦争(夷陵の戦い)時に任命される[174]。
劉禅配下時代
中護軍 :⑦
中護軍も参照。
禁軍(近衛兵)の執掌(指揮、支配)と武官の人事選抜を司り、諸将を統率[293][294]。定員1名[295]。
建安12年(207年)に曹操が「護軍」を「中護軍」と改め、呉や蜀でも設けた[295]。禁軍の執掌と武官の人事選抜という権限を持つため、就任者に対して強い忠誠心を抱く軍事勢力を形成しやすいという特徴があり、そのため中護軍が権力者の家族の手に渡った場合、その勢力が皇権に対する脅威となりかねないため、多くの場合は君主から絶対的な信頼を得た重臣が任じられた[296][注 43]。 『華陽国志』では建興元年(223年)以前に中護軍(と征南将軍)に就任していたとある[注 23]。征南将軍 :⑦
四征将軍も参照。
四征将軍のひとつ[284]。方面軍司令官、定員1名[297]。
「南を征する」の意味を持つ[298]。在任期間不明。
『三国志演義』では趙雲は南蛮征伐で武功を挙げているが、正史や『別伝』にはこの戦いに参じた記述はなく、後任の姜維は北伐で武功を挙げた人物で、官名と実際の武功のあった地域が一致するとは限らない[296][注 44]。鎮東将軍 :⑧
鎮東将軍も参照。
四鎮将軍のひとつ[284]。方面軍司令官、定員1名[297]。
「東を鎮める」の意味を持つ[299]。就任時期不明。
蜀と呉の同盟関係により、蜀漢においては征東将軍の官職は設置されず、鎮東将軍のみが置かれていた[300][注 45]。
劉備は曹操より鎮東将軍の地位を譲り受けたことがあり[301]、その地位を劉禅が趙雲に継承させたことは趙雲を高く評価していたことの証左とも言える[300]。趙雲の後任については明確な史料が確認できず、蜀漢の史料の欠落あるいは官職の廃止といった可能性が考えられる[302]。鎮軍将軍 :⑨
鎮軍将軍も参照。
劉備が創設した官[303][304]、定員1名[305]。
第一次北伐後、鎮東将軍の地位から降格して就いた[202]。
「四鎮将軍の下に位置付けられる」[306]とするが、魏と蜀では位階に違いがあるため、鎮東将軍から鎮軍将軍に移ったことが蜀においては昇格を意味するのか、降格を意味するのか、鎮軍将軍は重号将軍か、雑号将軍か、学者・研究者の間で議論がされている[注 27]。
家族
詳細はそれぞれの該当記事を参照。
墓地
要約
視点
正史には趙雲がどこに葬られたのか記録はないが[307]、以下に趙雲墓とされている墓が3か所ある。
大邑
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大邑は成都の西側に位置する。
大邑 趙雲墓:中国学会で広く認められている墓。
四川省成都市の大邑県にある銀屛山(ぎんへい、またはぎんぺいざん。『三国志演義』では錦屛山(きんへい、またはきんぺいざん)[308]。山の名前については後述)の南麓に位置[309][310]。
趙雲が晩年、羌族(きょうぞく:チベット系の異民族。四川にいた羌族は、服飾に青色を好んで用いたことから青羌(せいきょう)と呼ばれる)の反乱を鎮圧するため、この地に駐屯したという逸話が大邑に伝わっている[注 46]。静恵山には趙雲が土城や羌族を監視する台(望羌台)を築いて、羌族の侵入を防いだとされる遺跡が複数残されていた[311][312][注 47]。のち趙雲が亡くなると、この地に葬られたとされる(後述)。墓の前に建てられた子龍廟は明末の戦争で破壊された[307]。
1665年、大邑知県の李徳耀が趙雲墓のために祠堂と碑を建て[314]、その後も何度かの改修、拡張工事が行われ、1891年5月には文荘公が奏請して趙雲が祀典に列せられ、以降、該当の地方官が春秋に祭祀を執り行った[315]。
1930年には大邑県長・解汝襄が県民と一緒に子龍廟を拡張し、前殿、本殿、拝殿などからなる壮観な建造物になった。清代の頃から毎年春になると、子龍廟の近くで盛大な廟会が開かれ、趙雲に対する敬意を表し、近くの町村から商人や住民が集い、茶屋や酒場には多くの人々が集まり、廟の外には屋台が立ち並んで歌や踊りが披露されるなど、大変賑やかだったという[316]。
1949年以降も庶民の憩いの場であったが[307]、その後は文化大革命で破壊されてしまう。2011年に墓の修復が始まり、その際に誤って墓道を掘り当ててしまったが、最終的に採掘を中止し、現状のまま保存する決定が下されている[317]。その後は四川地震で工事が中断されていたが、現在政府により修復作業が進められ、2025年に一般公開が予定されている[W 15]。
1961年、県級文物保護単位指定、1985年、市級文物保護単位指定、1996年、省級文物保護単位指定、2005年には「大邑趙子龍文化研究会」が成立[317]、趙雲の故郷・正定県「河北省趙子龍文化研究会」や台湾「佳里子龍廟永昌宮」(「#台湾」を参照)と積極的な交流が行われている[318]。
以下は明清時代の地方志にわずかに記録されているという「趙雲が大邑に葬られた理由」とされる。
- 墓の発見:
大邑の趙雲墓についての最古の記録は、明末の曹学佺が記した『蜀中広記』108巻中の巻13で、「本志に曰く、静恵山、一名東山…(略)」[312]と書かれている。この『本志』について、大邑地元学者の衛復華の説では、明版の『大邑県志』を指すと考えられており、また、楊慎が編纂した『邛州志』にも、当時大邑県が邛州に属していたことから、大邑県に関する記述、ひいては趙雲墓に関する当時の状況についての詳細が含まれていたと推測できるが、これらの貴重な史料は戦乱や流賊(諸地方を渡り歩く盗賊)[W 16]による破壊によって失われ、清代には現存していない。他の現存する史料では『大明一統志』に南陽の趙雲墓(後述)が記されているが[319]、大邑の名はなく、葉威伸は明代中期以降に初めて大邑の趙雲墓と廟が発見された、あるいはこの時期に造り出されたのではないかと推測している[320]。
- 山の名前:
清代に入ってからの文献・史料では「大邑に趙雲墓がある」ことと、墓のある場所(山の名前)として、そこで初めて『銀屛山』の名が確認されるため、葉威伸は銀屛山の名は清代に名付けられた可能性を指摘し、さらに元末から明初頃に成立した『三国志演義』には趙雲の墓の場所として『錦屛山』の名が出てくるが、大邑のいかなる志書にも錦屛山の名は見当たらないことから、清代の銀屛山の名称は『演義』の錦屛山と結びつけて名付けられたのだろうと推測している[321][注 48]。
錦屛山の名は『演義』の作者である羅貫中(らかんちゅう)が何らかの史料を元に名付けた可能性もあるが[注 49]、『演義』内において錦屛山は「趙雲の墓」の場所以外にも物語中2度登場し、1つは劉璋(りゅうしょう)の配下である張任(ちょうじん)らが錦屛山を通って紫虚上人(しきょしょうにん)に吉凶を尋ねる場面[323]、もう1つは劉禅が錦屛山が崩れる夢を見た直後に諸葛亮の死の知らせを聞くという場面[324]で、これら錦屛山は蜀の人物や政権などの死と滅亡に結びつけて使われており、羅貫中の創作か、或いは当時の民間伝承に基づいて作り出した可能性も考えられる[325]。
明代以前の地理書では、南宋の『方輿勝覧』(ほうよしょうらん)にのみ、淮西路の無為軍(現在の安徽省無為市)に「山の形によって名付けられた」という『銀瓶山』という名の山があったことが記されている[326]。葉威伸は、これらの情報から考察すると、清代に至ってから、「明代以来、趙雲の墓と廟がこの地にあるという言い伝えがある」、「民間伝承や『三國志演義』の説と合致する」、「東山・静恵山一帯の山の形が銀色の屏風に似ている」ことから、人々が『銀屛山』と呼ぶようになったと推測し、史料への記載については、南宋以降この地域は『静恵山』と呼ばれ、明代には趙雲の墓と廟が「静恵山の下」に位置づけられていたが、清代初期に至って、『銀屛山』が『静恵山』や『東山』などの山々から独立した名称を持つようになり、趙雲の墓と廟もこの時に『銀屛山』に位置づけられるようになった、と結論付けている[327]。 - その他の墓の伝承:
大邑の東門紅光地区にある兔児墩は「趙雲夫婦の合葬墓」という伝承があり、左右二つの小さな土盛りは趙雲の目と言い伝えられていた[328]。2007年9月~11月にかけて発掘調査が行われ、前漢の土坑墓2基と後漢のレンガ積みの墓4基が出土したが、出土品から趙雲夫婦の合葬墓ではないことが確認された[329]。葉威伸は、こういった伝承が大邑には複数存在するといい、これらは現存する趙雲墓の真偽を疑うことから生まれたもので、趙雲は大邑の他の場所に葬られたと主張する者もいるが、議論の余地がある証拠を提示することはできておらず、その根拠はほとんどが地元の口伝によるものである、と述べている[330]。
南陽
南陽 趙雲墓:南陽市南三十里に存在した墓。
趙雲の墓についてもっとも古い記録である明(みん)の天順5年(1461年)『大明一統志』に記述がある[319]。盗掘に遭い、現在は碑文の拓本が残っている。以下は墓にまつわる伝説である。
清の順治帝は自身を劉備の生まれ変わりだと名乗り、「二弟の関羽が夢に現れ、三弟の張飛は遼陽に、四弟の趙雲は南陽にいると告げた」と大臣たちに言い、神勅を発して遼陽で張飛の生まれ変わりを、南陽で趙雲の生まれ変わりを探させた。南陽の知県は3か月間、趙雲らしき人物を探したが見つけられなかった。
この時、偶然にも南陽市の南三十里の村で、誤って人に怪我を負わせてしまった罪で役所に送られた趙走軍という農民がいた。 知県は趙走軍の濃い眉、大きな目、長身で整った容姿を見て趙雲に違いないと思い、名前を聴いた知県は「”走”に”軍”を足すと、”運(运)”(うん)=”雲(云)”(うん)ではないか? 彼は間違いなく趙雲の生まれ変わりだ!」 と頭の中で考え喜んだ。知県は縛られていた趙走軍を解き、明日都へ向かうことを告げた。事情を知らない趙走軍は、都行きは傷害の罪で処刑される事だと思い、恐ろしくなった彼はその夜、首を吊った。
趙走軍が自害したと聞いて、知県は急いで都に戻って皇帝に謝罪した。 順治帝は一部始終を知ると、彼を責めることなく、四弟に永遠に会えなくなったことに激しく涙を流し、趙走軍を王侯として手厚く南陽に葬り、子龍祠を建てて永遠に偲ぶようにとの詔を発し、これが南陽の趙雲墓になった。 — 「南陽趙雲墓」の伝説より[331][332]
臨城
臨城 趙雲墓:発見がもっとも新しい墓。
2005年5月19日、河北省邢台市の臨城県麒麟崗から光緒・戊戌(24年(1898年))の『漢順平侯趙雲故里』の碑が発見され、2009年に河北省政府によって無形文化遺産リストに含まれた[333]。 この臨城県の動きは正定県との趙雲の故郷をめぐる論争を引き起こし、学界でも議論を巻き起こした[W 17][W 18]。地元の伝説によれば、臨城県には3つの趙雲故里の碑があったとされている[334]。臨城の趙雲墓については、1982年に臨城県文化管理局が行った文化財調査の際に臨城県澄底村の西1.3キロで発見された[335]が、大邑趙雲墓や南陽趙雲墓が、明代に遡る『大明一統志』や現地の年代記に記録されているのに対し、臨城趙雲墓は年代記や歴史書には見つかっていないため、研究者は趙雲の墓である可能性は低いとみている。 民間伝承によると、趙姓の人々がこの墓前で千年以上にわたって春と秋に祭祀を行ったというが、墓石や記念碑はなく、廟も建っていない[336]。 以下はその理由とされる。
趙雲別伝
要約
視点
「趙雲別伝」とは
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正史『三国志』は、蜀漢と西晋(せいしん)に仕えた陳寿(ちんじゅ:233年 - 297年)が編纂した後漢~西晋までの約100年の歴史を簡潔に記述した歴史書である。『三国志』の成立から約100年後の南朝宋(宋:そう)時代に文帝(ぶんてい)からその簡素な記述を補うよう命を受けた裴松之(はいしょうし:372年 - 451年)は、当時まだ残されていた史料・文献を広く調べ、詳細な注釈を付し(裴松之注、裴注とも)、この裴松之注によって『三国志』の内容は大幅な充実をみることになった[338]。
『
既に散逸(さんいつ:まとまっていた書物がばらばらになって行方がわからなくなること)[W 19]しているため、裴松之の注以外にどのような内容が記されていたのかを知ることは困難である。なお、『正史』の「趙雲伝」と区別するために「別伝」と称されるため[342]、本来の名称は『趙雲伝』であったと推測される。
「別伝」は他の人物にも存在し、三国時代の主な人物は以下の通り[343][344]。
魏 | 呉 | 蜀 |
| ||||||
曹操の別伝名は『曹瞞伝』。作者不明だが、呉の国の人物が記したとされる[345]。曹操に対する悪意に満ちた内容だが、物語としては面白いため『演義』に採用されており、『趙雲別伝』のエピソードもまた、『演義』に多数採用されている(その他文献は三国志_(歴史書)#裴松之の注に引用された主要文献を参照)。以下は「別伝」についての解説と研究者による信憑性について。
「別伝」とは
「別伝」とは、主に後漢時代~東晋(とうしん)時代までにおける、単独の人物に関する伝記である。その多くは名士を中心とした知識人層の名声を高める目的を持っていたが、中にはあまり重要視されなかった人物に焦点を当てるためや[346]、あるいは晋代以降に世家の子弟が多く就任していた秘書郎(ひしょろう:皇室の蔵書を管理し、校正や編纂を行う官吏)や佐著作郎(さちょさくろう:国史(国の歴史書)の編纂をする著作郎(ちょさくろう)の下に位置する官吏)の課題として書かれた[347]。後漢時代から続く人物評の流行のみならず、魏晋時代における名士層の気風の発達に伴い盛んに製作された別伝は、対象の人物に関する雑多な内容が盛り込まれており、「正統」である史書とは異なる視点や性質を有するほか[348][349][350]、表現に小説的技法が見られるのが特徴である[351]。裴媛媛(はいえんえん)によれば、別伝の作者名が往々にして無記載である理由としては、単なる佚名によるもの以外では、別伝が成立する初期段階では書面ではない逸聞の寄せ集めに過ぎなかったために、それを引用する後世の歴史家たちが便宜的に「別伝」という通称を用いたこと、またそれらの逸話が単独の人物ではなく複数人から伝わったことも挙げられる[352]。だが時には、『孫資(そんし)別伝』に対して裴松之が指摘しているように[353]、家伝由来の伝記であるために該当する人物の失点を隠して記されたものも存在した[354]。また顔師古(がんしこ)が『東方朔(とうぼうさく)別伝』について「みな実際の出来事ではない」と難じたように、怪奇現象などの確証に欠ける逸話が載せられることもあった[355]。とはいえ、全ての別伝がそれらと同様に信憑性が低いとは限らず、依然として別伝の史料的価値は高いといえる[356][357]。
史書は後漢時代まで国家が編纂するものであった(ただし、国家が編纂することにより偏向が生まれることもある)。裴松之が『三国志』に注をつけて引用した数々の書物を批判し、史実を確定しようとしたのは、不確実な内容を記す史書が増えたためであった[358]。『趙雲別伝』には趙雲が活躍する記述が多いのに対し、陳寿による本伝の記述は簡素であることから、その信憑性を疑う声も少数ある。しかし、引用した作品を厳しく批判したり矛盾を指摘する裴松之が、『趙雲別伝』には一切疑問を呈しておらず、また三国志研究者の論文や著作物でも、史書を補う資料として扱うのが通例である。
採用・肯定派
- 裴松之:『三国志』の注釈として引用し、内容について批判・指摘をしていない。
- 司馬光:『資治通鑑』を編纂するにあたって、『趙雲別伝』の記述を採用している。
- 方北辰:周思源同様に、歴史人物(趙雲)の解説をTV番組で行った際、正史と共に『趙雲別伝』を採用している[動 9][動 5]。
- 渡邉義浩:「裴松之は、『趙雲別伝』については、内容的な誤りなどを指摘することはない。裴松之は、『三国志』を補うことができる史料と認定していたと考えてよい」と述べている[359]。
- 矢野主税:対象の人物の功績を残すのみならず、その人物周辺の政治的動向が反映されていることから、別伝は「一般史書の欠を補う貴重な史料」だと論じ、その一例として、『趙雲別伝』内に「蜀の後主が〔趙〕雲の死後賜った詔をのせているが如きにも見られる」ことを挙げている[360]。また、家伝に依拠した可能性も踏まえつつ、「当時、世上に流布していた人物評を基として書かれた」という作品的性質から、別伝とは「ある個人の作というよりも、当時の社会の作というべきもの(中略)換言すれば、門閥社会の、その人物に対する評価」ではないかとも述べている[361]。
否定派
- 何焯:趙雲が劉備に仕えた時期が本伝と異なることを指摘し、また第一次北伐で降格された趙雲が褒賞を受けたことには「諸葛亮は賞罰が厳粛であるのに、趙雲を降格する一方で、どうして妄りに報奨を与えられるものだろうか。そうでないことは明らかだ。別伝の類はみな子孫が美辞で飾り立てたものであるため、承祚(陳寿)は採用しなかったのだ」と述べており、『趙雲別伝』の記述を批判する傾向にある[362]。劉備の呉討伐に対する諫言については、国家経営は諸葛亮の担当であり、彼が諫めるのは当を得ているが、趙雲のような武臣が口を挟むのは分不相応であるとして、「〔趙雲の〕家伝は〔他人の〕美談を奪い取っているのだ」と主張する。また劉備の大敗を受けて諸葛亮が想起したのが法正だったことに触れながら「雑号将軍〔である趙雲〕の及ぶところではない」とし、さらには、『趙雲別伝』は諸葛瑾の書状や孫権が帝位を称した際の諸葛亮の言葉を模倣したのだろうとも述べている[363]。
その他
- 李光地:「趙雲の美徳はみな『別伝』に見られるが、本伝では全く触れられていないのは、なぜなのだろうか?」と疑問を呈している[364]。
正史の評価
要約
視点
歴史的評価
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趙雲の塑像(左は孫乾)
後世、中国では趙雲を目上に対して臆せず諫言する勇敢さに加え、文官的な知性、大臣の気質を持つ儒将として高く評価した(後述の個人の評価を参照)。蜀漢の名臣名将の塑像が祀られた成都武侯祠の『昭烈(劉備)殿』西側にある「武将廊」の趙雲の塑像が文官の服を着せられているのは、このためであるとされる。清代は『三国志演義』の流行により高まった趙雲の人気もあり、蜀漢の武将としては、本殿に祀られている別格扱いの関羽・張飛を除いて「武将廊」に筆頭の位置に置かれている(文官を祀った東廊「文官廊」では龐統が筆頭)[注 54][注 55]。現在の成都武侯祠の文武官の塑像は清代に作り直されたもので、塑像の増減や調整が過去数回あり、現在の配置は1953年に改修された時のものである。
成都武侯祠博物館の『武侯祠大観』によると、「塑像の外見は後代の伝承や小説・戯曲由来である」と記されており、そのため老人姿の趙雲像も京劇で登場する老年期(武老生)の姿を参考に作られたと考えられる[368][注 56]。(#古跡と施設の武侯祠も参照)
成都武侯祠以外では康熙61年(1722年)に歴代帝王廟に趙雲が従祀名臣の列に加わっている[注 57]。小林瑞恵は、趙雲が従祀名臣に列したことについて、趙雲を不忠者と評しなかった毛宗崗本版『演義』の流行による影響の可能性を指摘している[370][注 58]。
個人の評価
- 劉備:「子龍の一身はすべてこれ肝である」[371]
- 陳寿:「①黄忠・趙雲は共に彊摯壮猛、揃って軍の爪牙となった。灌嬰・滕公の輩であろうか?」[372][注 59]「②陳到は名声・官位ともに常に趙雲の次にあり、どちらも忠節勇武な人物として称えられた」[374]
- 楊戯:「征南(趙雲)は厚重、征西(陳到)は忠克。精鋭を指揮し、勲功をあげた猛将であった」[375]
- 朱黼:「(対呉戦争の諫言について)この意見は深い洞察に基づいており、天下の情勢を的確に捉えている」[376]
- 盧弼:「絶世の美女の樊氏を子龍が受け入れなかったのは、関羽が秦宜禄の妻との結婚を懇願したのに対して賢明な行いだ」[377]
- 郝経:「趙雲は忠誠を尽くして、その身をもって君主を守り抜いた。その志は初志貫徹であり、漢の忠義の士であった。功績と志は曹樊(曹参と樊噲)の輩のようである。趙雲は特に博識で先見の明がある。勇ましいが注意深い。たびたび忠言を献じ、その度に時勢を的中させた」[378]
- 薛登:「武芸に関しては、趙雲は勇気があるが、諸葛亮の指揮を必要とした。周勃は偉大な人物だが、彼には陳平の策略はない。もし樊噲が蕭何の役目を担ったならば、必ず状況を見極めて適切な指示を出すという機会を逃してしまっただろう。逆に、蕭何が前線に赴いたとしても、君主を危機から救うような効果はなかったであろう。武勇に優れた武将は敵の攻撃を打ち砕くことに長け、謀略に優れた武将は事態を的確に予測することに長けている」[379]
- 楊時偉:「子龍の心は金石を貫き、雲天を凌駕し、関張にも劣らない」[380]
- 李景星:「関羽・張飛・馬超・黄忠・趙雲はいずれも蜀の名将である。故に合伝されている」[381]
- 趙作羹:「(益州農地分配の諫言について)趙雲の提案を見るに、これは統治の基礎と言える」[382]
- 林暢園:「孫夫人の横暴は趙雲と法正によって制御できた。このように賢者は国にとって非常に有益である」[383]
- 范光宙:「趙雲の生涯にわたる行動は、まさに大臣としての器量を備えており、単なる名将の域を超えている」[384]
- 黄彭年:「趙雲は数十騎で敵に遭遇し、門を開け旗を伏せ、戦鼓を止め敵を油断させるという大胆な戦略で勇気を示した」[385]
- 陳允錫:「(東征に対する趙雲の諫言について)これは素晴らしい戦略だ。劉備はそれに従わず敗れた。天は漢に味方しなかった」[386]
- 計大受:「(東征に対する趙雲の諫言について)この時点で彼は諸葛亮の大節に値する人物だ。そこには古代の大臣たちの遺風がある」[387]
- 易中天:「建安二十四年、劉備は漢中王を称し四将を封じた。前将軍関羽、右将軍張飛、左将軍馬超、後将軍黄忠。趙雲は含まれていなかった。 歴史上、五虎大将軍はなく四虎大将軍だけで、趙雲はいつも雑号将軍だった。 趙雲はとても悔しいですね。それは間違いなく悔しいことですね」[388]
- 李澄宇:「長坂の戦いで趙雲が後主を抱いて保護し、甘夫人もみな難を逃れた。孫夫人が呉に戻ると、趙雲と張飛は河を遮って後主を奪還した。この二つの出来事は今でも私たちの心に鮮明に残っている。彼の逝去後、関羽・張飛・馬超・龐統・黄忠と同じく美諡を与えたのは良い行いだ」[389]
- 梅公毅:「将軍になるためには、大胆にして細心であること。大胆であれば勇気があり、細心であれば賢明さを養うことができる。そのため、敵を打ち破って勝利を収めることができるだけでなく、不利な状況に陥っても致命的な敗北を喫することはない。三国時代の将軍の中でこれができるのは、魏の張遼と漢の趙雲だけだ」[390]
- 陳淡野:「人はみな器であり、各々にはそれぞれの器量を持っている。 天地のごとき器量は聖人や皇帝がそれに倣うのと同じである。 山川大海の器量は貴人の定めである。 古夷齊には他人を許容する器量あり、孟夫子には剛健の器量あり、范文正には世を救う徳の器量あり、郭子儀には福の器量あり、諸葛亮には智の器量あり、歐陽永には才の器量あり、呂蒙正には寛容の器量あり、趙子龍には勇の器量あり、李德裕には力の器量あり。これらはすべて偉大な器である」[391]
- 王復禮:「①順平(趙雲)はまさに儒将であった。自己を律するは厳しく、人との接し方は慎重であった。道理を見る目は明晰で、私心を捨てる力は強かった。当陽(長坂)で後主を救い、奮って身を顧みず、漢水(漢中・定軍山)で功績を立て、その威勢は虎のようであった。ことわざにあるように、「胆欲大而心欲小。志欲圓而行欲方。(胆は大きく、心は小さくあれ。志は円く、行いは方正であれ)」。まさに順平のことである」[392]「②当陽の戦いと孫夫人の帰郷。もし趙雲がいなければ、後主は命を落としていたかもしれない。したがって、功績や才能に関わらず、彼は三国の他の誰よりも優れている」[393]
- 王夫之:「猇亭で敗れ、先主(劉備)が亡くなり、国の精鋭は夷陵で尽きた。趙雲のように公(諸葛亮)の志に共感する老将もいなくなった。公は疲弊した残りの民を率い、愚かな君主を支えながら北伐を志したが、為す術がなかった。そのため公はこう言った。「鞠躬尽瘁,死而後已。唯忘身以遂志,而成敗固不能自必也。(深く謹み、全身全霊で事業にあたり、最後まで力を尽くして志を遂げるのみで、成否は必ずしも自分で決めることはできない)」。もし先主が、関羽を信頼したように公を信頼し、趙雲の言葉を聞き入れて東征をやめ、曹丕が天下を簒奪したばかりで人心も定まっていないときに、孫権と手を結んで中原を問いただしていたならば、国力もまだ十分で、士気もまだ盛んだった。漢の運が衰えていたとしても、なぜ英雄の血が許昌と洛陽に流されず猇亭にのみ流される必要があったのか?」[394]
- 李紀:「昭烈(劉備)は趙雲を使って漢中を奪い、関羽を遣わし樊城を攻めた」[395]
- 呉雲:「天性の勇猛さを持ち、将軍でありながら自ら矢石を浴び兵士を率いて最前線に立つ。これは趙順平(雲)、常開平(遇春)の遺風だ」[396]
- 張溥:「(対呉戦争の諫言について)(趙雲は)大義を理解し政策を決定するという点で魯粛と同じだったが、劉備は彼の諫言を聞き入れなかった」[397]
- 陳造:「趙子龍が魏軍を退けた時、劉備は彼を「全身が度胸の塊」と称賛し、後世に語り継がれるべき武勇だと述べた。まさに死地から生還し、敗北を勝利へと転換させたのだ」[398]
- 蕭常:「趙雲は勇猛の臣でありながら、田畑や家屋を返還して民心を大切にしたり、軍資を冬の下賜にしたり、呉を赦免して魏を重視したり、国家に対する明確な理論を築き上げたが、これは諸葛亮でも考えに至らないことだ。同姓を理由に趙範の兄嫁を受け入れないなど、己への厳しさは当時の武将の中でも随一ではないか?」[399]
- 李榘:「蜀の猛将といえば、世の中では必ず関羽と張飛を最初に挙げるだろう。彼らの勇猛果敢な気概と、忠義を貫く節操は、古今を通じて傑出した人物と言える。しかし、彼らが欠けていたのは智謀であり、それが原因で敗れてしまった。私が思うに、趙雲は武将として、一万の敵にも恐れられる勇気を心に宿し、その胆力は君主に称賛され、関羽や張飛にも引けを取らない。さらに、賞の辞退や呉への出征を諫めるなど、謙虚で深く考え、時勢を見極める能力は、関羽や張飛には及ばない。まさに真の良将である。劉備、諸葛亮、関羽、張飛、そして趙雲は力を合わせて漢の復興を目指した。しかし、関羽と張飛が亡くなり、その後劉備も世を去り、趙雲が亡くなり、諸葛亮もまもなく世を去る。蜀には君臣ともに優れた人物がいなくなり、滅亡を免れることはできなかった」[400]
- 朱軾:「趙雲・関羽・張飛・馬超・黃忠、強者を併称して五虎将。陳寿は、趙雲の剛強で勇猛なところを灌嬰と滕公にたとえたが、これは趙雲のすべてを言い尽くしたものではない。趙雲は知略が深く、度量が広く、公孫瓚の反乱の際、使者とのやり取りでその才を見せた。劉備との関係は、鄧禹が光武帝に仕えたように、先見の明があった。当陽での護衛は、麦飯豆粥を煮るような手間を惜しまないほど徹底していたし、漢中の戦では、戦況を転換させるような巧みな戦略を立てた。夏侯蘭を推薦し、自分と親しくなることを避け、岑彭のように韓歆を有用な人物と見抜き、馬武のように旧部下を率いようとしなかった。趙範からの結婚の申し出や田園の贈与などを固く拒み、憂国の念を抱き公務に励む様子は、呉漢が妻が多くの田地を買ったことを怒ったという故事に似ている。要するに、趙雲の計略や戦略は、特に出兵を諫める言論に際立っていた。その見解は、諸葛亮の平生の用兵と大筋において似ており、もし趙雲が生きていれば、大将軍の地位は姜維ではなく趙雲に与えられただろう」[401]
- 易佩紳:「趙雲は武臣であったが、儒臣としての性格も併せ持っていた」[402]
- 鄭元佑:「趙雲が蜀で民を安んじたように、無限の需要を限られた資源で共有するのは得策ではない」[403]
- 李光地:「趙雲と張嶷は偉大な将軍であるだけではなく、明決で思慮深く、成熟した人物であり、古の重臣に選ばれるだろう」[404]
- 厳如熤:「褒斜道の桟道、桟閣は趙雲と王平のような忠実で謹慎な良将を配置し、その指揮を任せたのは当然のことであった」[405]
- 牛運震:「『趙雲別伝』には、劉備との係わり、田宅贈与の辞退、東征に関する助言などの経緯が記されているが、いずれも全体的な情勢把握という点で注目に値する」[406]
- 宋徵璧:「張遼と趙雲は敵陣を我が物顔で動き回り、その勇猛果敢な振る舞いで敵を圧倒し、恐れさせた。しかし自分の勇猛さを頼りにするようなやり方は、大将としての真の力量とは言えない」[407]
- 沈国元:「趙雲が田宅を拒否し、魏を滅ぼそうとしたのは、単なる武将としての勇気ではなく、古代の賢臣のような深い政治的見識に基づいた行動である。このような志気を、単なる武将としての能力だけで判断すべきではない」[408]
- 王士騏:「趙雲の言動を注視すると、彼は単なる名将ではなく優れた洞察力を持つ大臣としての器量を備えていることが分かる。これは趙雲のような優れた人物を武勇だけで評価するのは、彼の深い識見や政治的な能力を見落としてしまうという短見を戒めるものである」[409]
- 朱可亭:「①趙雲は関羽、張飛と共に、馬超・黄忠を加え五虎将と呼ばれた。陳寿は彼らの強靭・勇猛な姿を見て、灌嬰や滕公に匹敵すると評した」[410]「②孫臏は竈の数を減らして敵を欺き、虞詡は竈の数を増やして敵を威嚇した。趙奢は陣を築いて守りを固め、趙雲は陣を開いて敵を惑わせた。このように虚実と強弱は戦況に応じて変化し、軍事は常に予測不能なものである」[411]
- 魏裔介:「昭烈(劉備)は涿鹿の地で起ち上がり、一旅の兵を率いて、曹孟徳(曹操)、袁本初(袁紹)、劉景升(劉表)、呂奉先(呂布)の間で苦難を乗り越え、ついに天下を三分する基業を築いた。西南の文武の佐命は、諸葛亮、関羽、張飛を以て先とするが、しかしながら、私は順平(趙雲)を見るに大節が磊々として、ただの名将というだけでなく誠に古の大臣と呼ぶにふさわしい。長坂の戦いにおいて、順平がいなければ、劉禅(阿斗)母子は危うかったであろう。北山の戦において、順平がいなければ勝利を得られなかったであろう。漢中において、昭烈は順平を称えて、「子龍の一身はすべて胆である」と言った。私が思うに、胆とは忠義が集まったものである。忠義が性から発せなければ、どうしてこのような胆を持つことができようか。また、成都に田宅を構えようとしなかったのは、霍去病の言葉を引いて、「匈奴を滅ぼさぬうちに、どうして家を構えることができましょう。今の国賊は匈奴ばかりではない。天下が定まるまで安んじることはできない。天下が定まれば、それぞれ故郷に戻って耕すべきです」と言ったことは、まさにその通りである。また、先主(劉備)が東征しようとしたときに諫め、「国賊は曹操であって孫権ではない。関中を図り、河渭の上流から凶賊を討つべきである」と言った。その識見は特に素晴らしい。惜しいことに、先主は諫言を聞き入れず、独断で進んだために敗れ、王業が中絶してしまったことは、まことに嘆かわしい。順平の言葉を採用して、孫権を捨てて関中、秦隴(長安と涼州)を奪取していれば、漢室は興隆したであろう。先主は人を見る目はあったが、用兵の識見は時勢や権謀術数に暗かったため、自ら軍を率いるとしばしば敗れた。しかし順平のような優れた武将を、微賤の身から見出して終生信頼し合ったことは、先主の大きな功績である。史書に記された順平の功績は古今に輝き、陳寿は趙雲を灌嬰や滕公に匹敵する人物と評した」[412]
- 大唐平百済国碑銘:『趙雲は一身全て胆、勇敢三軍。関羽は万人の敵、名声は百代に渡る』[413]
- 同治桂陽直隷州記:『順平(趙雲)は勇猛な虎将、土地を平定し城塞を鎮めた。婚姻を拒み田宅を辞退、その毅然とした意志は一層勇気で奮い立つ』[414]
- 愛新覚羅·弘暦(乾隆帝):「趙雲が言ったように渭水の上流から逆賊を討てば、漢王朝は再興できたかもしれない」[415]
三国志演義の趙雲
要約
視点
三国志演義とは
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『三国志演義』(以下『演義』)は、中国の元末から明初にかけて成立した、『三国志』を基にした長編白話小説である。
北宋末~南宋初を舞台とする『水滸伝』、唐代の僧侶・玄奘三蔵の天竺への旅を描いた『西遊記』、『水滸伝』のスピンオフ作品である『金瓶梅』と並び、「四大奇書」と称される。『金瓶梅』を除き『紅楼夢』を加えたものは「四大名著」と呼ばれ、中国で古くから広く親しまれ、数多くの関連作品や演劇の演目を生み出してきた。
『演義は』以下を基にして羅貫中の手により創作されたと伝わっている。
正史『三国志』(以下『正史』)は、裴松之注からも多数引用されている。『三国志平話』(以下『平話』)と元雑劇は三国時代の物語と当時の民間伝承などを基にして作られ、『平話』は上・中・下巻からなる長編小説で、張飛が最も活き活きと描かれている点が特徴である[416]。元雑劇は戯曲の一種である。
『演義』は後にさまざまな版本が生まれたが、現在広く知られている『演義』の内容は、清代に成立した毛宗崗による版本である。以下は『演義』における趙雲についての概説。
趙雲像の形象
→詳細は「三国志平話」および「三国志演義の成立史 § 趙雲」を参照
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「趙雲見玄徳」
『演義』の基となった『平話』や元雑劇(#元雑劇も併せて参照)は、当時民間に広まっていた三国志に関する物語や民間伝承などを基に作られた。これらの作品において、趙雲は特筆すべき目立った活躍を見せておらず[417]、『演義』における趙雲像の創造においても、羅貫中はそれらの影響をほとんど受けていないと言える[418]。羅貫中は『正史』の「趙雲伝」注釈に引かれる『趙雲別伝』(以下『別伝』)に記された逸話を多く採用・引用しており[419]、それを踏まえて才能と徳を兼ね備え、知略と勇気を併せ持ち、中華民族の多くの伝統的な美徳を体現する人物として描いている[注 60]。しかし、諸葛亮や関羽に比べると、趙雲の神秘性は強調されておらず、虚構のエピソードも少ない。そのため『演義』における趙雲像は、史料に基づいて形成されたと言える[421][422]。
また、『平話』には「諸葛亮が道術を用いて、豆をまいて兵士を作る」[423]といった、荒唐無稽な話が多いのに対し、『演義』は「正史に忠実な記述を重視する」という両作品の姿勢の違いも影響を与えていると言え[424]、陳香璉は『平話』で趙雲の形象が弱められていたことで「五虎大将軍」(蜀漢の五人の将軍)のバランスが崩れていたのを、羅貫中と毛宗崗の二人が史料に基づいて趙雲を本来の姿に戻した、と分析している[425]。
人物設定
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「趙子龍磐河大戦」
麹義と戦う少年・趙雲(左)
- キャラクター:(性格など)
正史に基づいた武勇と忠義に優れた武将像をベースに、民衆の心に響く物語を通じて、知勇兼備の槍の名手(後世では常勝将軍と呼ばれる)として再構築され、「常山の趙子龍」[426]の名乗りで広く知られている。『演義』屈指の名場面として、趙雲が単騎で劉備の子・阿斗を救出する「長坂坡の戦い」は、趙雲の武勇と忠義を象徴し、その英姿は読者に強烈な印象を与え、その人気を決定づけたと言える[427]。関羽・張飛・馬超・黄忠ら蜀の名将と並んで「五虎大将軍」(五虎上将・五虎将とも)の一人となっている。
性格面においては「義に厚くプライドの高い関羽」や「乱暴者の張飛」といった個性的で破天荒な登場人物たちが多い中で、「冷静沈着な趙雲」は諸葛亮から与えられる任務を着実にこなすため、作中、劉備・諸葛亮の双方から特に重要な任務で重用される場面が多い[動 5]。中国では古くから、神として信仰の対象となっている関羽と派手に暴れ回る張飛は庶民から愛され、非常に高い人気を誇っていたが[428][429]、清代頃から時代が下るにつれて、趙雲のような「冷静かつ真面目・謙虚な人物像」が好まれる傾向になり[430]、中国の少年が初めて『演義』を読むと「一番最初に好きになる人物」と言われている[431]。『演義』の登場人物の人気投票では絶大な人気を誇る諸葛亮に次いで2位[432]、あるいは1位になることもあり[433]、日本でも同様に常に人気の高いキャラクターとなっている[434][435]。 - 容姿:(外見とイメージカラー)
元の『演義』においては、趙雲は英雄的な男性らしさを強調した偉丈夫として描かれていた[436][注 61]。しかし、後世の創作作品では、いわゆる「白馬に乗ったイケメンの若武者」というイメージが定着している[437]。この変化は、清代の京劇において確立された「白袍を着た若い美形の儒将」という趙雲のイメージが、後世に多大な影響を与えたことに起因する(後節「#京劇」を参照)[438]。近現代においても、単田芳や張国良の平話や評書作品に見られる「若い娘のように美しい」[439]、「白袍に身を包み銀の槍を持ち、整った顔に氷のように透けた美しい白い肌」[440]といった表現や、映像作品における趙雲役への美形俳優の起用と「白袍姿で白馬に乗り、銀の槍を持つ」という、特徴的なビジュアルは京劇のイメージを継承しており、現代まで続く中国における趙雲の外見を固定化する上で、決定的な役割を果たしたと言える。
京劇の影響以外にも、趙雲が仕えた最初の主君である「白馬将軍」公孫瓚が、白馬で統一された精鋭騎兵隊「白馬義従」を率いていたという史実から[16]、趙雲もその一員であった可能性があり[動 2]、このことから「白馬」や「白」というイメージが趙雲に結びつき、定着した一因となったと考えられ[438]、また、正史の注釈『別伝』の趙雲の容貌についての記述「身長八尺、姿顔雄偉」(身長約185~190cm、姿や顔立ちが際立って立派だった)[22][3]と記されていることも、キャラクター造形に影響を与えたと考えられる[20](「#日本の作品」も参照)。
演義の事跡
要約
視点
以下は毛宗崗本版『演義』における趙雲の主な事跡(あらすじ)。
【回 】後ろの[注 ]は毛宗崗の趙雲に関する点評(コメント)。
為求仁君
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Hem Vejakorn
少年・趙雲は袁紹に仕えていたが、国や民を救済する心がない人物だと判り、公孫瓚の元へ向かうと袁紹配下の文醜に襲われているところに遭遇し、文醜と五、六十合渡り合ったが決着はつかず、文醜は退却。公孫瓚は趙雲に感謝し、臣下に迎えた。そののち劉備・関羽・張飛たちが援軍にやって来る。公孫瓚は劉備に趙雲を引き合わせると、劉備と趙雲はお互い惹かれあい離れがたく思った。別れの日、二人は互いの手をとり、涙を流しながらいつか再会できるようにと挨拶を交わす。その後、公孫瓚は袁紹に敗れ、趙雲は各地を放浪の末、ついに劉備と再会、配下となった。
【三国演義 第7・11・28回】[注 62][注 63]
襄陽赴会
劉備一行は荊州で劉表に手厚く遇される。ある日、劉表は後継ぎについて相談する。「後妻の蔡氏との子・次男劉琮を立てたいが、長男を廃するは礼法に反する。しかし長男劉琦を立てると、蔡氏一族は軍の要職に就いており、必ず災いが起こるだろう」劉備は「長男を廃することは昔から乱を起こす道です」と答え、盗み聞きした蔡氏は弟の蔡瑁と劉備の暗殺を計画する。
劉備の元に襄陽から使者がやってきて、劉表は病気が悪化し動けないので代わりに慰労会に出て客を迎えてほしいという。劉備は趙雲を護衛にして300の兵と襄陽へ向かう。蔡瑁は蒯越と相談し、別室を用意して趙雲を引き離すことにした。宴もたけなわになった頃、伊籍が劉備に耳打ちして蔡瑁の計画を告げ、劉備は逃走。大きな川が行く手を阻んだが、馬の的盧が三丈も跳躍したおかげで追手から逃れた。劉備がいないことに気づいた趙雲は蔡瑁に劉備の行方を尋ねる。シラを切る蔡瑁に疑心暗鬼になるが、証拠がない今は軽はずみな行動は控えた。趙雲は一晩中探し回ってついに草堂で劉備と再会した。劉備は司馬徽(水鏡先生)の草堂にたどり着き、今後について教えを乞うていたのだった。
【三国演義 第34-35回】[注 64]
単騎救主
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劉備は三顧の礼をもって諸葛亮を軍師として迎えることになった。しかし劉表が病死し、後を継いだ劉琮は劉備に何も伝えず曹操に降伏した。突然曹操の大軍に攻め寄せられた劉備軍は長坂坡で追いつかれる。劉備の妻子を捜索していた趙雲は敵将の夏侯恩を討ち取ると、宝剣『青釭剣(せいこうけん)』を手に入れた[注 65]。その頃、糜芳は趙雲が曹操軍の方角へ逃走するのを見たと劉備に告げ、張飛は「やつを見つけたら俺が刺し殺してやる!」と息巻いた。劉備は「子龍は私が逆境にある時から従ってくれた。子龍は私を裏切らない」と信じなかった。
趙雲はついに阿斗(劉禅)と
【三国演義 第41-42回】[注 66][注 67][注 68][注 69]
取桂陽
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趙雲は桂陽攻略を志願するが、張飛も名乗りを上げたので二人は喧嘩になる。くじ引きの結果、趙雲が出撃することになる。桂陽太守の趙範は臣下の陳応があっさり撃退されたので降伏を願いでた。
趙範と趙雲は同郷と分かり、喜んだ二人は4か月生まれが早い趙雲を兄として義兄弟の契りを結ぶ。趙範は亡くなった兄の嫁の樊氏を趙雲に引き合わせ、美人の樊氏を娶るよう勧める。趙雲は「おまえの兄嫁ならわたしの兄嫁でもある。何故道理に背くことができるのか!」と大いに怒り、趙範を殴り倒して城を出て行った。怒った趙範は陳応と鮑隆に趙雲を捕らえるよう命じるが、趙雲に斬り捨てられ趙範は捕縛される。劉備は趙範の行為に敵意がなかったことを知ると樊氏を娶るよう趙雲に薦めたが、劉備の名声が落ちることを理由に固辞したので、劉備は「子龍は真の男だ」と感嘆した。そして趙範を解放してそのまま太守にし、趙雲を賞した。
【三国演義 第52回】[注 70]
甘露寺
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劉備は同盟国の呉の孫権から妹(孫夫人:孫尚香)との縁談を薦められ、この申し出を受けることにした。趙雲は劉備の護衛として同行することになった。諸葛亮から三つの錦袋(錦嚢の計)を授かり、困ったときに順番に開けるように命じられる。この婚姻話は周瑜・孫権による劉備暗殺の罠であったが、三つの錦袋の中の指示に従って数々の困難から趙雲は劉備を守りぬき、呉国太にも二人の婚姻を認められ、無事に荊州へ戻ることができた。
【三国演義 第54-55回】
截江救主
孫権は劉備が益州に入ったと知ると、呉国太が危篤であると偽りの書状を孫夫人に届け連れ戻そうとした。同時に阿斗も連れ出し荊州と交換させようと考えていた。趙雲は孫夫人と阿斗がいないことに気付き、慌てて船を追いかけ飛び乗った。呉兵から抵抗され孫夫人に罵られるも、隙をついて趙雲は阿斗を奪い返した。張飛も慌てて駆けつけ、阿斗だけは返してもらい、孫夫人を逃した。
【三国演義 第61回】[注 71]
一身是胆
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諸葛亮は曹操軍の輜重を奪うため、黄忠を先鋒として派遣、趙雲を陣営の守備とした。約束の時刻になっても黄忠が戻ってこないので趙雲は探索に向かうと、黄忠が曹操軍に囲まれていたのでこれを次々に倒し救出した。曹操は「長坂の英雄は健在だったか。あの者を軽んじるな」と伝令する。
趙雲らの陣に向かった張郃と徐晃は、開かれた門の前にただ一人、馬に乗った趙雲が立っているという異様なありさまに警戒した。曹操自らやってきて前進するよう促すも、趙雲は動じない。逃げようとした曹操軍に趙雲が合図すると、弓弩がいっせいに放たれ曹操軍は混乱して踏みつけ押し合い、漢水に落ちて多数の死者が出た。劉備は諸葛亮に喜んで言った。「趙子龍は全身肝っ玉である!」
【三国演義 第71回】[注 72]
五虎上将
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こうして漢中を手に入れた劉備は、諸葛亮たちの意見を聞き入れ、漢中王になることを決意した。関羽、張飛、趙雲、馬超、黄忠の五人は「五虎大将軍」に封じられた。
劉備のもとに間諜が「曹操が孫権と結託して荊州を奪おうとしている」という情報を持ち帰る。諸葛亮は関羽に樊城を攻撃させ、敵の気をそらす提案をし、劉備は費詩を荊州に派遣し、関羽が五虎大将の筆頭になったことを伝える。関羽は「翼徳(張飛)は私の弟であり、孟起(馬超)は名門の出、子龍(趙雲)は兄に長く仕え、いわば私の弟も同然。しかし何故老兵の黄忠が私と同列に扱われるのか!」と激怒した。費詩はなんとか説得し、ようやく関羽を納得させて劉備の命令通り樊城を攻めることになる。
【三国演義 第73回】
諫阻東征
関羽は樊城を攻め曹操軍を追い詰めたが、味方の裏切りや呉軍に背後から攻められ、ついには捕らえられて息子の関平らとともに呂蒙らに殺されてしまった。【演義第73-77回】
怒った劉備を趙雲と諸葛亮は共に諫めて止めようとするも、劉備はこれを聴きいれず対呉戦争へと行ってしまう。その途中、張飛は苛烈な私刑でむち打ちにした部下二人に恨まれ暗殺されてしまった。さらに夷陵にて劉備軍は陸遜の火計で大敗。江州にいた趙雲が救援に来たので陸遜は追撃せず軍を撤退させた。この戦いで多くの将兵が戦死し、劉備は心労から病にかかってしまう。ある晩、夢の中に死んだ関羽と張飛が現れた。死期を悟った劉備は諸葛亮と趙雲を呼び寄せて後事を託す。趙雲は涙を流して地に拝し、生涯忠誠を誓った。
【三国演義 第81-85回】[注 73]
力斬五将
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諸葛亮は北伐を進める前に、度々反乱が起きる南蛮の征伐を開始。馬謖の「心を攻める案」を採用し、南蛮王孟獲を七度捕らえ七度目も解放しようとしたところ、孟獲はようやく心服して降伏した。
【三国演義 第87-91回】
帰還した諸葛亮はついに北伐に取り掛かる。趙雲は高齢を理由に人選から漏れ、抗議の声をあげる。鄧芝が共に先鋒に行くことに名乗りをあげたので二人を出発させた。趙雲は韓徳の息子たちをつぎつぎに討ち取り、鄧芝は「まさかすでに七十歳になっているとは思えません」[注 74]とその猛将ぶりを称えた。夏侯楙の軍勢と対峙し、趙雲は韓徳を討ち取るも、深追いして程武の計略にはまってしまう。孤立した趙雲の元へ張飛の息子張苞、関羽の息子関興が軍を率いて助けに現れ、窮地を脱した。
【三国演義 第92-94回】[注 75]
失街亭
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街亭での馬謖の敗北により退却命令を受け、趙雲は別動隊を率いて殿になる。無事帰還した趙雲の軍が一人一騎も失っていないことを不思議に思った諸葛亮が鄧芝に問うと、「子龍将軍が一人で殿となられ、わたしは兵を率いて先行しましたので、物資を放棄しなかったのです」と答えた。諸葛亮は金を褒美としたが、趙雲は「三軍に何ら功はなく、褒美を受け取ると丞相の賞罰が明確でなくなります」と固辞し、諸葛亮は趙雲の徳に今改めて敬服するのだった。
【三国演義 第95-96回】[注 76]
一陣大風
諸葛亮は宴会を開き諸将と打ち合わせをしていると、突然一陣の風が吹き、庭の松の樹が折れてしまう。不吉な予感がした諸葛亮の元に、趙雲の息子の趙統と趙広が「父が昨晩病没した」と告げに来る。諸葛亮は「国家は棟木と梁を失い、わたしは片腕を失ってしまった」と泣いて言った。劉禅も声をあげて泣き、趙雲に大将軍・順平侯の爵位を贈り、成都の錦屛山に埋葬し、趙雲の息子たちには墓守をするよう命じるのであった。
【三国演義 第97回】
「賛詩」
- 第28回:瓜分けし昔兄弟の契り深く、信絶えし今音もなし空しく。君臣の義を今再び結び、龍虎の勢い風雲に会す[460]。
- 第41回:紅光罩い
困 る龍飛び、征馬長坂の圍を破らん。四十二年の真 の命主、将軍これより神威顕す[461]。 - 第41回:血染の征袍甲紅透き、当陽の激戦誰が敵う!古来衝陣危主扶けし、唯だ常山趙子龍のみ[462]。
- 第61回:昔年主救いし当陽の地、今日身一つ大江飛び込む。船上呉兵皆胆裂けたり、子龍の勇猛世の無双なり![463]
- 第71回:昔日長坂戦場より、威風は猶や衰えなし。敵陣破り英姿顕し、包囲遭うも勇敢施す。鬼哭神號し、天驚地慘たり。常山趙子龍、一身是胆なり![464]
- 第92回:昔日の常山趙子龍憶う、古稀超え猶や奇功建つ。獨り四将誅し陣を衝く、当陽の雄風今なお健在[465]。
- 第97回:常山に虎将あり、智勇関張匹敵す。漢水に功勲あり、当陽に姓字彰り。両番幼主を扶け、一念先皇に答ゆ。清史忠烈を書き、応百世芳り流る[466]。
演義の研究
要約
視点
以下は『演義』の研究者、および作家による『演義』の趙雲についての推論や考察など。
矛盾点
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作中の矛盾点についての考察。
- 年齢の矛盾:(少年と70歳)
正史では趙雲の年齢は生年不詳のため不明であるが、『演義』において趙雲は初登場時(191年)には「少年」として描かれ[467]、孫夫人から劉禅を奪還した時(211年)には自身を「小将」と言い[468][注 77]、五虎大将に封じられた時(219年)には、58歳の関羽(これは『演義』での設定の年齢であり、史実の関羽の正しい年齢は生年不詳のため不明である)が、趙雲のことを「我が弟」と呼び[470]、南蛮征伐(225年)では諸葛亮が趙雲のことを「中年」と呼ぶ[471]。しかし2年後の北伐前(227年)に突然「老将」と呼ばれ[472]、翌年(228年)には「70歳」になっている[473]。
- 228年の「70歳」が正しいと仮定すると、以下の『左表』のように「58歳の関羽が61歳の趙雲を弟と呼ぶ」、「33歳の趙雲を少年として描く」などのさまざまな矛盾点が現れる。これについて沈伯俊は、著書『沈伯俊評点三国演義』にて『右表』のように趙雲の年齢を10歳若くした。「少年」を「青春年少」と解釈すると23歳でも問題はなく、一見すると他の部分の矛盾も無くなり合理的と言え、つまり70歳というのは「羅貫中の計算ミス」という考察である[474]。
『演義』の70歳を元にした年齢 | 沈伯俊の著書(-10歳) | ||||
---|---|---|---|---|---|
西暦 | 年齢 | 実際の描写 | 西暦 | 年齢 | 実際の描写 |
228年 | 70歳 | 第一次北伐 | 228年 | 60歳 | 第一次北伐 |
225年 | 67歳 | 諸葛亮が「中年」と呼ぶ | 225年 | 57歳 | 諸葛亮が「中年」と呼ぶ |
219年 | 61歳 | 58歳の関羽が「弟」と呼ぶ | 219年 | 51歳 | 58歳の関羽が「弟」と呼ぶ |
211年 | 53歳 | 孫夫人から劉禅を奪還 | 211年 | 43歳 | 孫夫人から劉禅を奪還 |
208年 | 50歳 | 長坂坡の戦い | 208年 | 40歳 | 長坂坡の戦い |
191年 | 33歳 | 「少年」として描かれる | 191年 | 23歳 | 「少年」として描かれる |
- しかし趙春陽はこの考察について、『演義』には年齢の矛盾が生じている人物が趙雲以外にもいることを指摘し、例えば諸葛亮は初登場から老練で深謀遠慮のある人物として描かれるが、実際には181年生まれの27歳で、陸遜は183年生まれで夷陵の戦い時は42歳だが、「白面の若者」と表現されている[475]。
したがって、これら『演義』の年齢は羅貫中の一種の「文学的表現」であり、諸葛亮や陸遜のように歴史に明確な年齢が記録されている人物であっても、人物像を際立たせるためにわざと年をとらせたり若く見せたりしていると考えられ、趙雲に関しては「彼の年齢は歴史に明確な記載がないため、より創作の自由が与えられた羅貫中が巧みな筆で趙雲の若さを長く保ち、読者の心の中で趙雲は永遠に「白馬銀槍の若武者」[注 78]として生き続ける。歴史は真実を求めるが、文学は美を追求するのだ」と結論付けている[476]。
- 年齢の影響:
この『演義』の「70歳」という描写から生年を逆算し、『演義』関連物では趙雲の生年を「158年生まれ」とするものや[217][W 20][注 79]、『演義』、或いは「80歳、90歳まで生きた」という民間伝承[477][478][注 80]などを史実(正史)と混同したのか、中国の公園や施設に展示されている趙雲像の台座や展示板には「158年生まれ」のほかに「148年生まれ」とするものが存在する[254]。そのほか、光栄(現:コーエーテクモゲームス)のシミュレーションゲーム『三國志シリーズ』では、ゲームのシステム上、全武将に生没年が設定されており、趙雲はこのゲーム独自に「168年生まれ」と設定されているが[479]、この影響を受けたとみられる中国や海外のサイトにおいて、趙雲の生年を「168年生まれ」とするものがある[480]。
相違点
以下は正史との違いについて。
- 正史との相違:(活躍に応じての変更)
最初に仕えた主君が公孫瓚ではなく袁紹になっているほか[481]、漢中(定軍山)の戦いにおいて、『正史』では「虎威将軍」と軍中で号されたとあるが、『演義』ではこれが趙雲の官職名となっており[482]、『正史』での「翊軍将軍」「鎮東将軍」は、『演義』ではそれぞれ「鎮遠将軍」「鎮南将軍」に変更され[483]、最期は劉禅から「大将軍」の称号と「順平侯」の爵位(正史では諡号)が贈られるなど[484]、物語の活躍に応じたものに変更されている。有名な「劉備が阿斗を放り投げる」シーンは正史にはないが、中国には「劉備が阿斗を投げつける(劉備摔阿斗、対着趙雲摔阿斗)」という故事成語や歇後語(けつごご:中国の言葉遊び。#歇後語も参照)[W 21]があり、物語中、趙雲から受け取った阿斗を地面に放り投げた劉備が言い放った「おまえのような子供のために危うく大事な将軍を失うところであったわ!」の言葉に趙雲が感動したことから、「人気取り」「人心を買う」という意味で使われる[485]。
羅貫中考察
作品内における羅貫中についてや、作中の表現の考察。
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- 二重あご:(闊面重頤の解釈)
登場人物の初登場時にはどのような容貌をしているのかが描かれるが、趙雲は「生得身長八尺(身長約185~190cm)、濃眉大眼(濃い眉に大きな眼)、闊面重頤(広い顔に重なったあご)、威風凜凜(威風があり凛々しい姿)」[436]と表現されている。
「重頤」は「重なったあご」、つまり「二重あご(肥満)」と解釈されることが多いが[486][注 81]、趙新月は漢代に肥満が美とされる風習がないこと、そして『別伝』に記述されている「姿顔雄偉(姿や顔立ちが際立って立派の意)」[22][3]の記述とも矛盾していることについて触れ、「重」には「重なる」以外に「重い」という意味があり、「軽くなく小さくなく、尖っていなく細く痩せていない」、つまり「あごがしっかりしている国字形の顔(四角い顔のこと。男性らしく堂々とした印象を与える顔型)」という解釈の方が正しく、中国の古代民間には「重頤豊頷,北方之人貴且強」[488]という考え(人相学)があり、「重頤」は頬が広く、「豊頷」はあごがふっくらしていることを指し、これは上述の「闊面重頤」の解釈(重なる、ではなく重い)とも一致し、北方の民族においてこの特徴は社会的地位が高く、力強い人物の相として考えられており、趙雲は実際北方人であり、つまり羅貫中の表現は「高い身長」「端麗で美しい国字形の顔」「堂々とした威厳ある優れた容姿」のことであろう、と結論付けている[W 22]。 - 一騎打ち:
『演義』では武将が一騎打ちを行うシーンが頻繁に描かれるが、趙雲は一騎打ちでの勝利数が最も多い25勝となっており、次いで関羽16勝、張飛14勝、呂布7勝となっている。『演義』は蜀勢力を善玉とし、物語の主人公として描いているため、蜀の武将で長生きだった趙雲が最多勝利者となったと推測されるが、「長坂坡の戦い」では曹操軍の将軍50人を討ち取っており、趙雲の武勇を際立たせるための羅貫中の意図的な描写と言える[489]。 - 完璧な英雄:
周思源は、「趙雲は羅貫中が特別好んで力を入れて描いた人物であり、関羽・張飛のように傲慢・粗暴で不注意なところもなく、趙雲は常に大胆でありながら慎重で、勤勉に任務を遂行し、卓越した武勇・忠誠心・謙虚さといった美徳と結びつき、「ほぼ完璧な英雄像」として描かれている」と述べ、物語中特に注目するべき点として、趙雲が物語の最初から最後まで輝かしい生涯を送っていることを指摘し、「初登場では公孫瓚を助けて文醜と見事な戦いを繰り広げるという印象的なシーンから始まり、他の五虎将の結末は、関羽は惨殺、張飛は暗殺、馬超は病死、黄忠は戦死するが、趙雲は生涯の最期まで敵将5人を討ち取るという武功を上げており、これは羅貫中が趙雲という人物の人生を丹念に作り上げ、趙雲を特に愛していたことを反映している」と述べている[動 5]。 - 「同郷の誼」説:
小出文彦は、羅貫中が趙雲の出身地である常山真定に近い太原出身であることから、『演義』において趙雲を贔屓し、活躍が際立って描かれる一因になった、と述べている[490]。しかし、羅貫中の出身地は太原(現在の山西省太原市)、東原(現在の山東省東平県)、銭塘(現在の浙江省杭州市)など諸説紛々であり、正確な出身地は特定されていない[491]。そのため、この説を裏付ける確固たる証拠は見つかっていない。そのほか、趙雲の二人の息子の趙統・趙広を墓守にして、正史で趙広が沓中で戦死したことを『演義』では描かれなかったことについて、「趙雲贔屓の作者、羅貫中にしては謎である」とも述べている[492]。
毛宗崗考察
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作品内における毛宗崗についての考察。
演義の評価
以下は『演義』における趙雲と事跡などについての評価。
- 丘振声:「趙雲は勇猛果敢な英雄であると同時に、政治手腕に長けた政治家でもある」[495]
- 金良年:「趙雲は勇猛果敢であること、常に勝利を収める将軍(常勝将軍)であること、慎重で厳格であること、私心がなく欲望が少ないこと、公務に忠実で法を遵守すること、そして最後までやり遂げることなどで知られ、類まれなる優秀な武将であった」[496]
- 傅隆基:「趙雲は個性に欠けると言う人もいる。しかし、劉備が激怒し、諸葛亮でさえ何も言えなかった時に、趙雲はあえて劉備が私情で公を害していると鋭く指摘した。これは個性がないとは言えないのではないか?言うまでもなく、趙雲は『三国志演義』の中で非常に見事に描かれた典型であり、人民から最も愛されている英雄の一人である」[422]
- 朴槿恵:「小学生時代、私は戦争の話が出てくる歴史小説が好きだった。そんな私の読書の好みが面白かったのか、父が『三国志(演義)』を勧め、新しい世界に出会った。特に趙子龍が好きだった。私の初恋相手は趙子龍ではなかったかと思うほど、登場するたび胸がときめいた。「槿恵は『三国志』の誰が好きなんだ?」父に訊かれ即答した。「趙子龍です」」[497]
- 正子公也:「趙雲は戦死ではなくて『演義』には「一陣の風が吹いた」と書かれています。僕にとって趙雲のイメージというのは一言で言うと「一陣の風」なんです」[498]
- 周思源:「孫夫人が劉禅を連れて呉に帰ろうとした場面で、趙雲が孫夫人の侍女たちを殺すことなく押しのけることしかしなかったのは、このような状況下でも孫・劉両家の関係を損なわないよう冷静に配慮しており、その他にも田宅を分配することに反対したり、呉討伐の諫言など、劉備たちの長期的利益や民心を得ることも重視している。物語中には数多の武将が登場するが、このように根本的な大局から劉備に直言、諫言できる武将は他におらず、これは趙雲が人並み以上に識見があったことを示しており、趙雲のもっとも素晴らしい点はその高潔な品性であり、他の人物が及ばない点である」[動 5]
- 李殿元・李紹先:「三国志人物の人気投票で、趙雲は関羽や張飛を上回り、諸葛亮に次いで第2位を獲得した。中国では諸葛亮に次いで、趙雲が最も愛され、忘れられない三国志の人物と言えるだろう」[432]
演義の関連作品
要約
視点
以下は主な『演義』の関連作品についての概説。
京劇
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中央:徐小香(小生)、右端:楊月楼(老生)
→詳細は「京劇」を参照
京劇とは、清代(1790年頃)に北京で生まれ発展した演劇・戯曲である。清代は毛宗崗版本の『三国志演義』が生まれ広く普及した時代(1666年頃)でもあり、『演義』を改編した演目『三国戯』(三国劇)が数多く作られた[499]。
名優たちによる高度な演技と演出によって形作られた京劇における「白袍を着た完美(完璧)なる儒将・趙雲」のキャラクターは、外国勢力による侵略に脅かされていた当時の清において、あらゆる階層の人々に理想の英雄像として受け入れられた[500]。この趙雲像は、現代においてもなお「趙雲」というキャラクターの根底をなす重要な要素としてその影響力を維持している。以下は京劇における趙雲についての概説。
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武生の趙雲(俳優:周恩旭)
- 京劇の趙雲:(役柄など)
趙雲は「武小生」「武生」「武老生」(武生:ウーションは立ち回りを得意とする勇猛果敢な武将やヒーロー役)[501]として登場する。「武小生」は小生(シャオション:美形の未婚の若者や英雄の役柄)[502]と同じ歌い方、話し方をする若い小将の役柄を指し、「武老生」は武を行う老生(ラオション:中老年の役柄)[501]を指す。武生はさらに「短打(ドゥアンダー:軽装)武生」「長靠(チャンカオ:鎧と丈の長い服を着る)武生」の2つに分かれ、趙雲は後者に該当する[502]。
髭のない端正な容姿、性格は胆大心細(大胆であるが慎重で几帳面)、演者は力強く安定した姿と大きな声で演じる[503][注 82]。桃園の義兄弟の四番目の兄弟「四弟」と呼ばれる[505][注 83]。
主な登場演目は『磐河戦』『借趙雲』『長坂坡』『甘露寺』『截江奪斗』などで、特に『長坂坡』は『演義』の演目の中でも高い人気を誇り、趙雲の代表的演目である(後述)[507][W 23]。『借趙雲』は『演義』で「劉備が公孫瓚から趙雲を借りた」という一文から着想した脚本家が創作した演目で、「徐州の陶謙の救援のために劉備が公孫瓚から援軍として趙雲を借り、強敵の典韋に見事勝利し、当初は優男の趙雲がやってきたことに不満を抱えていた張飛も、すっかり心服する」という内容[508][W 24][注 84]となっており、派手な立ち回りや演出以外にも、このように『演義』にはない物語の展開や、趙範の妻の銭氏(『取桂陽』)といったオリジナルの登場人物の登場なども京劇の見どころとなっている。
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- 衣装と化粧:
趙雲は白を基調とした衣装に青と赤を用いているのが特徴で、白い靠(カオ:鎧)姿に銀槍を持ち、膝まである黒の厚底靴(または高方靴:高さは10cm前後)を履く[509][510]。背中の旗(靠旗:カオチー)は古代に後部から矢を避けるのに用いられたものを京劇では誇張して表現しており[511]、軍隊を表し、背中に4本挿す[512](右画像①)。『甘露寺』(劉備と孫尚香の婚姻話。『龍鳳呈祥』とも)では場面によっては靠を脱ぎ、「武生褶子」(ウーションヂャズ)という前後に刺繍の入った白い衣装[513]、または白い「蠎袍」(マンパオ)を着る。白は若者が着用する色で、模様の大龍は武将にあてがわれる[514](右画像②、動画[動 10]も参照)。
趙雲が着る衣装には白が多く使われているが、白色は趙雲の清廉潔白な性格、優れた容姿を象徴しているとされる[500][注 85]。京劇の衣装は唐から清にかけての服装を参考に動きやすさ、舞台効果を考えて作られており、実際の三国時代の服装とはかけ離れたもので、厳密な時代設定に基づいたものではない[515]。
化粧は俊扮(ジュンバン)といい、肌色に白粉を叩いて眉間から髪の生え際に向かって矢じり型に紅を描き、口紅を塗り、端正さ・美を強調する[516]。(稽古、メイクの様子[動 11])
小道具に馬鞭(マービャル)があり、武将は5つの房がついたものを、文官は3つの房が付いたものを持ち、これを持つ際は馬の騎乗の状態を表わす[517]。
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- 主な俳優:
趙雲役の俳優として特に有名なのは、親子二代で趙雲を演じた京劇巨匠の一人・楊小楼で、銀槍を持ち『長坂坡』での華麗な立ち回り姿から「活趙雲」「活子龍」と呼ばれ絶賛された[518]。『長坂坡』は楊小楼の代表作である[519]。
以下は主な趙雲役の俳優(中文版該当記事も参照)。
-
- 徐小香:(じょ しょうこう)
(1821年 - ?)
『三慶班』所属。小生役で知られ、同光十三絶(京劇初期の名優13人)の一人。声色が美しく、『借趙雲』の年若い趙雲役(武小生)での「豪快で侠客のような雰囲気が都中で評判だった」と当時の反響が残されている[518]。 - 楊月楼:(よう げつろう)
(1844年 - 1890年)
楊小楼の父。同光十三絶の一人。
老生役で知られたが、武生も兼ねた文武両道の名優。武劇(戦いが中心の演目のこと)は『長坂坡』が得意演目。「終始落ち着き汗一つかかず、見事な立ち回りだった」と記される[518]。「活趙雲」(生きている趙雲)と称賛された[518]。 - 楊小楼:(よう しょうろう)
(1878年 - 1938年)
楊月楼の子。楊派の創始者。
梅蘭芳、余叔岩と共に「三賢」と称され、「武生の分野に置いて、いまだ楊小楼に達するレベルの者はいない」と阿甲が評した、武生の宗師。趙雲役を得意とし、楊小楼の『長坂坡』は京劇を新たなレベルに高め、大きな影響を与えた(後述)。美しい声音と男性らしい容貌を持ち、父同様「活趙雲」「活子龍」と称賛された[W 25][518]。 - 張桂軒:(ちょう けいけん)
(1873年 - 1963年)
武生の分野で「江南四傑」の一人。
光緒19年(1893年)に日本で京劇の海外公演を初めて行った人物。84歳の高齢になっても声は澄み、鮮やかな立ち回りで『鳳鳴関』(韓徳と息子たちとの戦い)などで趙雲を演じた[518]。 - 王金璐:(おう きんろ)
(1919年 - 2016年)
楊派を継承しつつ武の中に文を込め融合する独自のスタイルを確立し、趙雲役では容姿の美しさと洗練された動きに、目・表情を通して内面表現に長けた演技で評価された[518]。 - 厲慧良:(れい けいりょう)
(1923年 - 1995年)
楊小楼の芸風を学びながら、表現力を高める武生の高度な技巧を幾つも開発。独自のスタイルを確立した。還暦を過ぎてもそれら高度な動作を行うことが出来た名優[518]。『長坂坡』で趙雲役を数十年に渡って演じた。『長坂坡』の貢献者の一人とされる[520]。
- 徐小香:(じょ しょうこう)
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- 武生と長坂坡:
『長坂坡』は京劇初期の36本の「連台軸子戯」(れんたいじくしぎ)の一つで(後述)、最も有名な趙雲の演目且つ、武生の最も有名な演目でもあり、この『長坂坡』は「武生の試金石」とされ、「長坂坡を観ればその役者の技量が判る」と言われている[507]。
『長坂坡』は楊小楼と厲慧良の二人による貢献が最も大きいとされる。
楊小楼は他の役者が趙雲を演じる際に、みな緊迫感のある曲調で登場したのを落ち着いた曲調へと変更し、登場後は立ち位置を舞台中央から舞台横へ変更した。これは、それぞれ「趙雲の冷静沈着、謙虚でおとなしい性格に合わない」との判断からであった[521]。戦闘では八卦掌や通臂拳を取り入れ、安定した動作と正確な攻撃で観客を魅了し、「楊小楼の趙雲を見るたびに目が釘付けになり、まるで目の前に順平侯(趙雲)が現れ、魏の武将たちとの激戦を直接見ているかのようだった」と当時の反響が残されている[522]。
厲慧良は数々の難易度の高い技巧を編み出し、『長坂坡』では「大槍釣魚」という、右手に槍を持ち上げて空中に投げ上げ、槍が空中で一回転して落ちてくるのを背後で左手を伸ばして受け止めるという大技をいくつも用いて観客を大いに盛り上げた[523]。
このように『長坂坡』は様々な高度な技巧を歌い戦いながら演じる形式のため、役者には文武両道の高い技芸が求められる。そのため京劇の専門家・素人どちらでも楽しめ、幅広い層から愛されたという[524]。清朝末には宮廷内で109回演じられた『三国戯』のうち、『長坂坡』は13回に及んだ。庶民の間でも劇団『三慶班』が毎年年末になると36本の演目を上演し、『長坂坡』でその年を締めくくっていた[523]。
『長坂坡』は関羽が曹操軍と対峙する演目『漢津口』[525]とセットで上演されることがあり[W 23]、知名度の高い武生の役者が演じる場合は、「前趙雲、後関羽」と言われ、前半の『長坂坡』で趙雲役を、後半の『漢津口』で関羽役を(関羽は紅生(ホンション)の役柄で[501]、浄(ジン:剛直・粗暴な役)と武生の両方を演じることが出来る)一人二役演じることで役者のファンの楽しみが増えるという[525](趙雲から関羽へと早変わりする動画[動 12]も参照)。上演時間は1時間40分ほどあるが、海外公演の場合は40分ほどに短縮されている[519]。
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満(髭)をつけた中年期の趙雲
- 当時の反響:
清代中頃、外国勢力の侵攻によって国家の危機に陥っていたにもかかわらず、劇場では人々が昆劇などを楽しんでいたという。この状況に強い不満を感じた京劇の祖と称される『三慶班』の程長庚は、盧勝奎に依頼して『演義』を改編し、「忠君愛国」の思想を盛んに訴えた36本の演目を連日上演する大作(連台軸子戯:れんたいじくしぎ)を創り上げ、すぐに都中で大評判となり、「人々がこぞって三国志を見る」という文化現象が生まれた[526]。
京劇の趙雲は「美貌と仁義礼智信の全てを備えた完璧な武将」として、都中で演じられる度に人々から熱狂的に歓迎され、その人気は庶民に留まらず宮廷でも大いに受け入れられ、特に京劇に熱心だった人物として西太后が有名である[527][528]。宮廷に役者を招き入れて『鼎峙春秋』(三国志を題材にした大規模な長編戯曲)が3度上演され、趙雲が登場する場面は40回以上もあったという[500]。『黄鶴楼』(荊州を返さない劉備に激怒した周瑜が黄鶴楼で宴を催し、劉備を招いて兵で脅そうとする計画を、趙雲が阻止するという内容)が上演された時には、西太后を喜ばせるために光緒帝自らが趙雲を演じたこともあった[500]。 - 後世への影響:
この京劇の趙雲のイメージ像(白い鎧(または銀の鎧兜)に白袍といった「白」のイメージや、銀槍を抱えた若い美形の儒将)[529]は京劇と同時代頃に誕生したとされる『八扇屏』(はちせんびょう:2人組による掛け合い漫才のような形式で、歴史を扱った話芸のこと。相声を参照)にもその影響が見られる[530]。
- これらは『演義』には見られない表現であり、京劇の趙雲像から影響を受けて生まれた言葉である[533]。この趙雲のイメージは後に各地の民間伝承や創作作品にも多大な影響を与え、後述の『演義』関連小説、映像作品にみられる趙雲像にも反映されており、趙雲の愛馬とされる白馬(白龍、または白龍駒)の伝承にも影響を与えたと考えられる[438](#愛馬の白龍、および#日本の作品も参照)。
- 演目と内容:
以下は趙雲の主な登場演目とその内容。
演目名 | 役柄 | 演目内容 | 出典 |
---|---|---|---|
磐河戦 | 武小生 | 『演義』第7回。 趙雲が袁紹の下を去り、公孫瓚を救援する話。 |
[534] |
借趙雲 | 〃 | 『演義』第11回。『一将難求』とも。 援軍として趙雲を借りることに張飛が不満を漏らす。 |
[535] [W 24] |
長坂坡 | 武生 | 『演義』第41回。『単騎救主』とも。 単騎で阿斗を救う、趙雲の最も有名な演目。 |
[519] |
甘露寺 | 〃 | 『演義』第54-55回。『龍鳳呈祥』とも。 劉備の結婚に趙雲が護衛で従う話。 |
[536] |
截江奪斗 | 〃 | 『演義』第61回。『攔江奪斗』とも。 孫尚香から阿斗を奪還する趙雲の代表演目のひとつ。 |
[537] [538] |
子龍護忠 | 〃 | 『演義』第71回。『陽平関』とも。 漢中で黄忠を救援する話。中年期なので黒髭をつける。 |
[539] |
鳳鳴関 | 武老生 | 『演義』第92-94回。『斬五将』とも。 韓徳の息子達と戦う話。老年期なので白髭をつける。 |
[540] |
『収趙雲』『黄鶴楼』『取桂陽』『白帝城』『天水関(収姜維)』『失空斬』[注 86]ほか。 |
元雑劇
→詳細は「元雑劇」を参照
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当時の元雑劇の様子を描いた
壁画(復元画像)
泰定元年(1324年)
京劇が成立する清代より前の時代である宋・元時代に隆盛した戯曲の一種。
『三国志平話』と同じく、羅貫中が『演義』を創り上げる際に参考にしたとされるが、『演義』における趙雲像の形象に関しては、『平話』同様、影響を受けたようには見られない[418]。演目全体を通して見ると、活躍の場は少なく脇役に収まっており、「知勇を兼ね備え、大胆かつ慎重な性格」という後の趙雲像の萌芽は見られるものの、戦場で颯爽と戦う若武者感はなく、諸葛亮のような深謀遠慮な面が強い老将的イメージで(下記の演目と内容を参照)、キャラクターの掘り下げとしてはまだ不十分で未完成と言える[526](「#趙雲像の形象」も参照)。以下は元雑劇における趙雲の概説。
- 性格:
慎重さと几帳面な性格が強調されており、趙雲の演者には特にその大胆さと几帳面さを示すことが求められたという[542]。初期に広まった物語では趙雲は諸葛亮よりも慎重な性格をしており、「城攻めの際に、いつ出発し、いつ食事をし、いつ川を渡って城を攻めるか、諸葛亮が用意した綿密な計画通りに従うよう求められ、趙雲は兵を率いて出発する。直後、諸葛亮はその計画の時刻では川が満潮の影響で増水し、渡れないという重大なミスに気づいた。しかし趙雲は川の増水の事を知っていたので、事前に筏を用意し、計画通りに問題なく完了した」となっている[543]。 - 出自:
趙雲が登場する際に「幼い頃から馬を売り、西方の戎の地を転々とした」[544]という台詞が複数の演目で見られるが、この設定は『演義』には採用されていない。 - 演目と内容:
『平話』の物語を改編して創り上げられているが、脚色の大きいもの、『平話』にはない民間伝承を基にしたとみられる物語も存在する。いくつもの脚本は散逸し、演目名のみが残されているものも多く、その中には趙雲主題の脚本もあったとされる[545]。
以下は現存する趙雲が登場する演目と内容。
演目名 | 作者 | 演目内容 | 出典 |
---|---|---|---|
劉玄徳独赴襄陽会 | 高文秀 | 『平話』中巻、『演義』の第34-35回相当。 蔡瑁らに暗殺されそうになる劉備を徐庶が補佐する話。 話術に長けた趙雲が、徐庶を説得して劉備に仕官するよう促す。 |
[546] |
諸葛亮博望焼屯 | 不詳 | 『平話』中巻、『演義』の第37-39回相当。 諸葛亮を迎え入れ博望坡で夏侯惇と戦う話。臥龍崗にいる劉備に、 趙雲が甘夫人が阿斗を出産したことを告げに来る。 |
[547] [548] [39] |
両軍師隔江闘智 | 〃 | 『平話』中巻、周瑜が美人計で劉備を謀る。『甘露寺』相当。 趙雲の会話に「長坂坡で三日三晩、百万の軍勢を相手に阿斗を守り、 曹操からは「一身是胆」と称された」[注 87]という話が出てくるが、 長坂坡を題材にした脚本は現存していない。 |
[549] [550] |
劉玄徳酔走黄鶴楼 | 朱凱 | 『平話』中巻、赤壁戦後、周瑜との会合で劉備が黄鶴楼に向かう。 趙雲は会合への参加に反対し、自信過剰な劉封は劉備を焚きつけ、 趙雲と意見が対立する。深謀遠慮な老将のように描かれ、劉封から 「老趙」と呼ばれている。 |
[551] |
走鳳雛龐掠四郡 | 不詳 | 『平話』下巻。荊州南部四郡争奪戦。 関羽・張飛・趙雲が黄忠らと戦う。『平話』では趙範が長沙太守に なっているが、桂陽太守に修正されている。『演義』に描かれる 樊氏との一連の物語は脚本に見られない。 |
[552] [553] |
曹操夜走陳倉路 | 〃 | 『平話』下巻。劉備が益州を平定し、曹操が陽平関に攻め入る話。 黄忠を救出したり、空城計で敵を退けるエピソードはなく、陽平関で 待ち伏せ任務の担当、という脇役に収まっている。 |
[554] |
陽平関五馬破曹 | 〃 | 『平話』下巻。 黄忠が夏侯淵を斬るなどの陽平関、定軍山の話を基にした話。 諸葛亮が趙雲に敵将の旗を掲げさせ陽平関を騙し取ったり、五馬 (馬超・馬良・馬忠・馬謖・馬岱)をひそめて曹操軍を包囲し、蜀が 大勝利する。 |
[555] [556] |
寿亭侯怒斬関平 | 〃 | 『平話』には見られない話。民間伝承由来とみられる。 五虎将の子らが張虎と戦う話。趙雲の子・趙沖なる人物が活躍。 |
[526] |
趙子龍大閙塔泥鎮 | 〃 | 演目名のみが残り、脚本散逸のため内容不明。 趙雲が主題の演目だったとみられる。 |
[546] [545] |
小説と評書
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京劇の『三国戯』が誕生して以降の作品では、京劇・民間伝承(後節参照)双方の影響を反映し、「白馬にまたがり白袍姿に銀槍を持つ」という共通点が見られ[557]、1980年代前後の作品からは白馬の名前に「白龍」「白龍駒」が確認できる。(詳細は該当記事を参照)
- 三国志後伝:
酉陽野史(著)。作者の詳細は不明。明代に書かれた小説で、蜀漢滅亡後、劉備、関羽、張飛、趙雲ら子孫の活躍を描いた作品。 - 反三国志演義:
周大荒(1886年 - 1951年)(著)。新聞『民徳報』にて連載された作品。趙雲と馬超の二人が主人公。「蜀漢が三国を統一する」という物語になっており、この作品のオリジナルキャラクターとして、馬超の妹の女武将・馬雲騄が登場し、趙雲と結ばれ夫婦となる。 - 評書三国演義:
正式名称は『三国演義』。略称は『袁三国』(以下『袁三国』)。
評書(語って聞かせる話芸)表演芸術家・袁闊成(1929年 - 2015年)の評書作品。評書の大家「評書界の袁氏三傑」で知られる袁氏一族の出身で、従来の評書で使う卓案(机)を排除し、全身を使った表現力豊かな芸術へと昇華させ、中でも『袁三国』は評書における最高峰の芸術作品として「経典」と称される[558](詳細は該当記事を参照)。正史『三国志』、『演義』の他、全国の三国故事、民間伝承、遺跡や古戦場の地形などを実際に訪れ研究し、およそ5年半をかけて文字数にして150万字を超える全365集(回)の重厚な作品となった[559]。趙雲の描写は、張飛らから「四弟」と呼ばれ、「白馬(白龍駒)にまたがり白袍姿に亮銀槍を持つ白面の美丈夫」といった京劇の趙雲像に基づいたものになっている[560][561]。
1984年から中央人民広播電台で放送され、国内外で熱狂的な支持を集めた『袁三国』は、海外では中国語や文化教材に採用され、アメリカや日本の大学から多くの漢学者が袁闊成のもとを訪れている[562]。『袁三国』完結後、1988年には趙雲を主題とした『長坂雄風』が全27回で放送され、この作品では樊氏が趙雲と結ばれる展開になっている[563]。
袁闊成のその他の評書に『趙子龍』があり、こちらも趙雲が主題の作品で、趙雲が鉅鹿郡で馬を売っているところから物語がはじまり[注 88]、公孫瓚への仕官~死後、劉禅に大将軍に追封されるまでの一生を描いている(全40回)。この作品では白馬の名前として『玉蘭白龍駒』が登場する。 - 長編平話三国:
張国良(1929年 - 2013年)による説話(平話)作品。1983年から全20巻を予定されていたが、作者の体調不良により14巻で終了となった。袁闊成の作品と同様に京劇の影響を多く受けており、白馬(鶴頂白龍駒)と銀槍(鼠白爛銀槍)を持つ槍の名手。劉備の結婚話(甘露寺)で護衛の趙雲を見た呉国太が「もう一人娘を生んでいたらこの若くて美しい将軍にも娶らせたのに」と、娘を二人産まなかった自分に腹を立てる、といったように、趙雲の若さと容姿についての描写が強調されている[440]。民間伝承や作者による独自展開、解釈・設定が盛り込まれ、趙雲が張任・張繡と武術(槍)の師・童淵(どうえん:元曲の架空人物)の下で学んだ兄弟弟子の関係になっており[564]、この設定は中国の他作品(映画、TVドラマ他)でも度々使用されている。そのほかに、『反三国志演義』の馬雲騄が「馬雲禄」の名で登場し、『反三国志演義』と同様に趙雲の妻となる[565]。
日本の作品
→詳細は「三国志 § 白話小説『三国志演義』・大衆文化の受容」を参照
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張飛と趙雲(歌川国芳)
- 髭の豪傑:(江戸~70年代)
日本には前述の京劇、および民間伝承などの中国の趙雲のイメージ像が伝わる機会がなかったため、江戸時代当時の浮世絵などでは張飛のように髭の濃い豪傑然とした見た目で描かれており(右画像参照)、1939年の吉川英治の小説『三国志(吉川英治)』の描写でも、「体躯堂堂とした偉丈夫」として描かれる[W 26]。
1971年~1987年にかけて連載された横山光輝の漫画『三国志』においても、髭こそないが、吉川英治の『三国志』同様、体躯堂堂とした偉丈夫の描写となっている[注 89]。例外として1969年の柴田錬三郎の小説『三国志英雄ここにあり』では「白馬に乗った紅顔の美少年」として描かれるが[566]、これは京劇などの中国の事情を柴田が知った上での描写だったのかは不明である。 - 転換期と日・中双方への影響:(80年代~)
これら日本における趙雲のイメージ像に変化が訪れたのが、1982年~1984年にかけて放送されたTVドラマ『人形劇 三国志』で、この作品において趙雲は髭のない美青年として造形された[W 27]。翌1985年には光栄のシミュレーションゲーム『三國志シリーズ』が販売され、「白馬にまたがり長槍を手に、銀の鎧兜を身に着けた若武者」という、中国の趙雲のイメージ像に忠実なこのキャラクターデザインは、日本の趙雲像への影響のみならず、中国の三国志を扱ったサイトやTV番組などの映像作品の多くで『三國志シリーズ』の画像・映像が引用されており、これは京劇を観る機会の減った[567][W 28]、現代の中国の若い世代へも大きな影響を与えたと考えられる[568][569][W 29]。
民間伝承
要約
視点
古跡にまつわる物は南宋以前からのものがあるが、その他の民間伝承は主に清代以降の物が多く、内容も『演義』と京劇の影響が色濃く見受けられる。(古跡にまつわるものは#古跡と施設を参照)
人物
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「五将軍見立五人男 趙雲」
- 貂蝉:(ちょうせん)
『演義』に登場する架空の女性。民間伝承『貂蝉改嫁』という物語で趙雲の妻となる。「呂布の死後、貂蝉は郭嘉の援助を受けて曹操から逃亡するが、曹操の親衛隊に捕まりそうになったところを、偶然偵察に来ていた趙雲に救助され、彼に惹かれることになる。郭嘉は二人の縁を結びつけようとするが、趙雲が劉備軍に属しているため話が進まない。郭嘉の死後、張遼が後を継ぎ、長坂坡の戦いの混乱に乗じて趙雲に接近し、貂蝉との縁談を持ちかける。別れた後も貂蝉の事を気に掛けていた趙雲はこれを受け入れ、張遼が曹操に趙雲の生け捕りを献策したことにより、曹操軍は矢を射掛けるのを止めたので、趙雲は包囲から無事脱出することが出来た。その後、張遼と郭嘉の妻は貂蝉を趙雲のもとへ送り、二人は結婚。貂蝉は郭嘉の妹「郭蕙」と偽り、周囲に正体が知られることなく幸せに暮らした」という顛末になっている[570]。 - 孫軟児:(そんなんじ)
民間伝承に登場する趙雲の妻。戦場で一度も怪我をしたことがない趙雲を戯れで針を刺したところ、趙雲は血が止まらず死んでしまった(詳細は該当記事を参照)。映画『三国志(2008年)』で軟児の名前が採用されており、塚本靑史の小説『趙雲伝』では正妻の名に採用されている[571]。 - 関銀屏:(かんぎんぺい)
関羽の娘がモデルの人物。趙雲に師事して武術を習う(詳細は該当記事を参照)。
愛馬
- 白龍:(はくりゅう)
もしくは白龍駒(はくりゅうく)という名の白い駿馬を愛馬にしていたという。『子龍池』という民間伝承では、この馬は昼は千里を、夜は八百里を走ることができ、人の心も理解したので趙雲と意思疎通ができ、馬上でどんな技を使おうとも、すぐに理解して手足のように動き、趙雲はこの馬を特別に可愛がったという[572](後述の子龍池も参照)。
『白龍(駒)』の名は1980年代前後の創作で、『三国志平話』『演義』では白馬に乗る趙雲像もまだ確立されていなかった。京劇で確立された趙雲の『白』のイメージが民間伝承や創作作品に影響を与え、趙雲の愛馬=白馬となり、『白龍(駒)』の名が作られ広まったと考えられる[注 90](詳細は#京劇を参照)。白龍の話は映画レッドクリフで採用されている。 - 子龍池:(洗馬池、子龍洗馬池)
四川省成都にかつて存在した、趙雲が住んだと伝わる官邸裏にあった池。以下の民間伝承が存在する。
「この池は府河(長江左岸の支流)と繋がった生きた池で、日照りが続いても池の水が干上がることはなく、大雨が降っても水が溢れることはなく、夏の池の水は清涼、冬は湯気が立ち上った。趙雲はこの池をこよなく愛し、大きな青石(庭石などに使う青または緑色の岩石)を積み上げ、船着場や池の縁を整備した。戦や演習場での訓練を終えると、必ず愛馬をこの池のほとりに連れてきて、池の水を飲ませ、体を洗ってやった。すると白龍の体は丸々と太り、全身が白い絹のように輝き、脚力と体力はさらに増強され、戦場で傷を負った時には、水を丁寧に傷口に注ぎ込むと、どんな薬よりも治りが早かった。この池の効能の評判はすぐに広まり、趙雲の同朝の武将や部下たちもこの池の水を馬に飲ませ、体を洗って癒した。
その後、邸宅は崩壊し、新しい家が建てられ、所有者が何度も変わったが、『子龍池』の評判を知った、歴代の成都に駐屯した将軍たちは、「趙子龍の池はどこにあるのか?」と尋ね、皆この地に来ると、必ず子龍池で馬を洗い水を飲ませた。そのため、この通りは『子龍塘街』と呼ばれるようになった。 — 「子龍塘街」より[572]
- 1950年頃には池は埋め立てられ、『子龍塘街』から現在の『和平街』に改名された。跡地にある和平街小学校に『漢順平侯洗馬池』の碑がある[574]。以下は子龍池にまつわる伝承。
南宋時代、蒙古の襲撃を受けて成都は大きな被害に遭い、蒙古の皇太子・闊端はこれを誇らしげに眺めていた。そこへ白袍姿に銀槍を抱え、白馬に乗った将軍が現れた。英気あふれる彼は、常勝将軍・趙雲にとても良く似ていた。彼は「兵よ集え、賊に抗え! 我と国を守れ!」と大喝して兵を鼓舞し、蒙古兵に突撃した。蒙古兵は次々に槍で突かれ、死体は山のように築かれた。白袍の将軍に従った兵たちは、ついに蒙古兵を成都から追い出すことができた。
後日、成都の人々はみな、「あれは趙子龍が顕聖して蒙古を倒してくれたのだ」と言った。その日、趙雲は「子龍池」という池で馬を洗っていたのだという。のちに人々はその池の横に楼閣と塔を建て、馬に乗り跳躍した趙雲の塑像を祀った。毎日絶え間なく香が焚かれ賑やかだったという。 — 「趙子龍的洗馬池」より[575]
長槍
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趙雲と阿斗の彫刻
(ウォルターズ美術館所蔵)
- 涯角槍:(がいかくそう)
『三国志平話』に書かれる。「海角天涯に敵う者なし」という意味で名付けられており、張飛の槍に次ぐ名槍とされる[576]。同説話ではこの槍で、張飛と互角に一騎討ちをしている[577]。『演義』では採用されていない。元雑劇では『牙角槍』または『牙角長槍』、『鴉脚長槍』と記され、『牙角』は陳寿が趙雲を評した「強摯壮猛、併作爪牙」[372]が由来と考えられ、「鴉脚」は槍の形状を指しており[526]、「涯角」「牙角」「鴉脚」は全て発音が似ているため、『涯角槍』という呼称は当時の民間の口承で広まったものが、説話者や雑劇作家それぞれが表記や解釈を加えた可能性が高いと考えられる[578]。 - 亮銀槍:(りょうぎんそう)
涯角槍以外に近代の民間伝承で一般的になった槍の名称。京劇の銀槍の影響を受けて創作されたと考えられ、民間伝承と芸術分野で相互に影響を与えあい、趙雲の標準武器として銀槍のイメージが定着した。評書や小説などでも『鼠白爛銀槍』といった名称が確認できる。趙雲の武術の師匠の話に関連しており、正定県・臨城県・その他民間伝承を扱った書籍にさまざまな物語が語られている[579]。
- 正定版:
語り部が異なる2つの物語①「趙子龍学芸」[580]②「趙雲学芸」[581]が存在し、内容に若干の違いはあるが、「趙雲が両親に別れを告げ、太行山で武術の師匠(老人)を数日掛けて見つけだすが、老人は大木の上でいびきをかいて眠っており、趙雲は辛抱強く跪いて待ち続ける。目覚めた老人はその誠意に感動して弟子入りを認め、趙雲は3年武芸を学ぶ。師匠は趙雲に銀の槍(亮銀槍)を与え、世の苦しんでいる人々を救うために旅立つように、と告げる」といった内容。
共通点は、趙雲が二種類の武術を習得して曹軍と戦う時にそれぞれの武術を駆使し、ひとつは師匠から与えられた『亮銀槍』を使って長坂坡の戦いにおいて活躍し、「山のように積みあがった曹軍の死体の血が、川のように流れた」と書かれ、もうひとつは『破堅拳』という拳法で、「漢中の戦いで曹軍を散々に打ちのめした」と書かれる。
①②の特徴として、師匠が『亮銀槍』を贈る過程が詳しく書かれ、師匠が趙雲に得物に大刀を選ばせなかった理由として「赤ら顔(関羽)がすでに大刀を習得しているためだ」と説明され、関羽と趙雲が兄弟弟子であることが示唆されている[582]。
刀剣
軍需品
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装飾品
- 戒指:(指輪)
趙雲が指輪を身につける文化を広めたとの伝承がある。『益州』と『荊州』で幾つかの違った話がある他、趙雲の故郷・河北省正定出身の語り部・周四成の『趙子龍与戒指』の話に見られる内容では、『益州』の話に京劇や他の語り部に見られる「徐庶が趙雲を救う」エピソードが加えられ、詳細が語られている。
- 益州版:
趙雲が長板坂で阿斗を救出して包囲を突破したとき、張郃と曹洪から薬指に深い傷を負った。傷痕はかなり目立ち、醜く感じたので、趙雲は職人に傷を隠すための金の輪(蓋指)を作らせた。
- 荊州版:
荊州版は2種類あり、共通点として「趙雲の死後、彼の生前着飾った姿の像が作られ、その指には金の輪をはめていた。人々はそれを真似て身に着け、その習慣が今日、指輪として民間に広まった」[592]とされている。 相違点は、像の由来が『戴戒指的来歴』では「後主・劉禅は趙雲が命を救ってくれたことに感謝し、趙子龍の像を作った」と書かれている点と、『荊州人戴戒指的来歴』では「荊州の関帝廟にある趙雲の像」[593]に基づいている。
- 正定版:
食べ物
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- 肉丸子:肉団子。
「再会」を意味する桂陽名物の肉団子料理。桂陽旧正月三大料理のひとつ。伝承によると、趙雲が桂陽を占領した時、率いた兵は統率が取れ、民衆を慈しんだことから桂陽の人々は趙雲を称賛して迎えた。駆け付けた劉備たちと趙雲は再会を喜び、祝宴が開かれると、桂陽の人々から黄金色の丸い揚肉団子が献上された。これを食べた趙雲らは手を打って絶賛し、それ以来、桂陽の人々のお祭りを祝う名物料理になった[595]。この他、『肉丸子』とよく似た伝承を持つ『子龍郡壇子肉』[W 30](桂陽壇子肉)[W 31]という桂陽名物の肉料理があり、桂陽の人々からこの料理を献上され、気に入った趙雲が劉備にも献上し、劉備が『子龍郡壇子肉』と名付けたという[W 30]。 - 子龍片:薄切りの乾燥タケノコ。
桂陽の関口・営盤嶺地区でこう呼ばれている[596]。この関口は、趙雲が兵を置いたという伝承があり、趙雲を称える碑が残されている(「#古跡と施設」節を参照)。伝承によると、軍隊を率いての出征で、冬から春の食料が乏しい時期にタケノコを掘って食べる習慣が身についた趙雲が、保存が効くよう天日干しにし、人々はそれに倣った。趙雲がこの地を去ったあと、乾燥させたタケノコを『子龍タケノコ』、『子龍片』と呼ぶようになったという[597]。 - 子龍脱袍:鰻料理。
湖南省を代表する鰻(うなぎ)を使った伝統的郷土料理。湘菜(シャンツァイ:中国八大料理の一つ。四川料理と並んで辛い中国料理の代表格)の一種。別名「紫龍脱袍」「溜炒鱔絲」。皮を剥いて骨と頭を取り除いた鰻を卵白、片栗粉で絡め、ユリの花の根、干し椎茸、青唐辛子、香菜、紫蘇と一緒に炒める[W 32][W 33]。香ばしく滑らかな食感が特徴。
名前の由来は諸説あり、「鰻が小さい龍(子龍)に見えることと、皮を剥くことを「袍を脱ぐ」ことに例えた」、或いは「鰻の皮をきれいに剥ぎ取った様子を「紫龍」に例えて名付けた」という説[598]、「湘楚地方の料理人が趙雲への敬意を表し、趙雲が戦袍を解いて阿斗を懐に抱いたことからこの料理を考案し、鰻を趙雲に見立て名付けた」という説[598]がある[注 91]。
その他、正定県ではこの料理にまつわる以下の民間伝承が存在する[注 92]。
あるとき董卓が真定を訪れたので、真定太守が一番有名な料理店で歓待するも、董卓は提供された料理をどれも気に入らない。料理人が途方に暮れていると、店の窓際に座っていた若い男がシュッ!と立ち上がって長袍を脱ぎ、「私がお伺いしましょう」と董卓に言った。
料理人はその若い男の動作に見入り、新しい料理が閃いた。鰻の頭に切り込みを入れ、若者が長袍を脱いだようにシュッ!と皮を剥して調理した。味も見た目も素晴らしく、董卓は大いに褒め称えたので料理人は命拾いした。若い男は趙雲、字は子龍ということが分かり、料理人はこの料理に「子龍脱袍」と名付けた。
彼の弟子が西城区に支店を開き、現在も湖南の料理店「曲園酒楼」の人気メニューである。 — 「子龍脱袍」より[601]
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酒造メーカー
「河北子龍酔酒業有限公司」の
爵(しゃく:酒器)を持った趙雲像
他の伝承
- 少年期の伝承:少年時代の逸話。
正定県と臨城県でさまざまな伝承が語られている。
臨城県では趙雲が天から降りてきた龍や星とするなど、運命、神秘面が強調された伝承が[602]、正定県では幼少の頃から力が強かったことを示す話や、悪い和尚をこらしめる、狼を退治して仲間を助けるなど、智略で窮地を脱するといった知勇にまつわる伝承があり[603]、以下はそのひとつ。
少年趙雲は祖母の家から自宅へ帰る途中、酸棗嶺という峠道で大男の強盗に遭遇した。趙雲は怖がるふりをして荷物を落とし、気を取られた強盗の隙を見て、懐に隠していた秤鉈(はかりの重りを吊るす道具)で強盗を殴りつけ、その場から逃げ出した。逃げ延びた趙雲はある一軒家で一晩泊めてもらうことになり、女主人は趙雲と息子を一緒に寝かせることにした。
夜中に激しい戸叩きの音が聞こえて趙雲が目を覚ますと、それは先ほど襲った強盗が帰ってきたのであった。包丁を研ぐ音が聞こえ、趙雲は急いでその家の息子を担いで場所を入れ替わった。女は外側にいるのが趙雲だと指差し、強盗は外側にいた息子の首を斬り落とした。二人が死体を玄関から運び出している隙に、趙雲は逃走したのだった。 — 「夜走酸棗嶺」より[604]
- 墓にまつわる話:(詳細は#墓地を参照)
- 最期にまつわる話:(孫軟児#趙雲の死と刺繍針を参照)
四川省大邑県と河北省正定県ほか、似通った複数の伝承がある。湖北省咸寧地方の『趙雲得意笑死』という話は、それらとは違う内容になっている。以下概要。
『三国志演義』には、趙雲は老衰で死んだと書いてある。私たちは年配の人たちから「趙雲は笑い死にした」という違う話を聞いたことがある。 「周公瑾(周瑜)は怒って死んだが、趙子龍は笑って死んだ」という古い話。
趙雲の72歳の誕生日を祝いに来た親戚友人らは、老将軍の生涯の功績を称える歌を詠んだ。
「20歳、先帝(劉備)に従い、30歳、後主(劉禅)を救って名を揚げ、40歳、長江で後主を連れ戻し、50歳、南蛮征伐で軍の柱となり、60歳、祁山に出で曹軍の五将軍を斬った。70歳、あなたは元気そのもので、優れた馬と槍を持ち、将軍は全身が肝っ玉、百戦百勝、世の無双!」
趙雲は手を振って言った。「いやいや、今日の常山の趙子龍があるのは皆様の支えがあったからこそです!」
宴会が終わり招待客がみな帰ると、趙雲は突然筋肉と骨が腫れているのを感じた。「長い間戦場にいなかったから、違和感があるのだろうか?」そこで風呂に入ろうと思い、服を脱いで裸になった。この身体は何百回の戦いを経ても一度も怪我をしたことがなく、傷一つない。皆が詠った言葉を思い出す。
「将軍は全身が肝っ玉、百戦百勝、世の無双!」
「はははは…」思わず大声で笑うと、息が切れた。こうして彼は名誉の死を遂げた。 — 「趙雲はどのように死んだのか?」[605]
伝統芸能
要約
視点
地方劇
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河北省の河北梆子(かほくほうし)、湖南省の湘劇(しょうげき:動画[動 14]も参照)など、中国各省に2~3種類以上の地方劇が存在し、国家に認定されたもので317種ほどがあり、三国志を題材にした演目も多数存在している[606]。メイクや衣装は京劇と変わらないものもあるが、地方独自のものも存在する[607]。
- 河北梆子『青釭剣』の演目では趙雲の妻として李翠蓮が登場し、長坂坡の戦いで劉備達とはぐれた趙雲が、迷い込んだ村で出会い結婚するといった内容になっている。
その他に、伝統劇や『演義』などの通俗小説を扱った、北京を中心に東北地方に伝わった語りもの芸・子弟書(していしょ)など[608]。
民族芸能
- 浮石飄色:(ふせきひょうしょく)
抬閣(たいかく)のひとつ。(詳細は抬閣を参照)
抬閣とは、中国の伝統的な祭りの際に行われる民俗パレードの一種。古代の中原地域で神様を迎え入れる儀式が流行したことが始まりと考えられている。広東省台山市浮石村では「飄色」と呼ばれる。唐宋時代、演劇や話芸が流行するとともに大人や子供が演劇の登場人物に扮して街を練り歩く風習が生まれ、このうち表演者(8歳から10歳ほどの子供)が細い棒で支えられ、台の上で空中に浮いているように見えるものを飄色と呼ぶようになった。毎年旧暦3月3日の北帝(道教の神様の一柱)の誕生日に行われる。2008年、国の重要無形文化財に登録。主に伝統的な物語をテーマにし、三国志からは造型人物として趙雲(趙子龍救主)がよく好まれ使用されている[W 37]。
日本の芸能
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趙雲とみられる人物と関羽
故事と言葉
故事成語
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ことば
- 七進七出:(しちしんしちしゅつ)
京劇などの演劇作品が起源の言葉[609]。
『三国志演義』にて、長坂坡で趙雲が阿斗(劉禅)たちを救うため、曹操の陣営に何度も進入して退出したこと(七度進入・七度退出)に由来。「何度も出入りする行動」の例えで使用される。2021年、中国の猫カフェで火事が起こり、消防隊員が七進七出で十数匹の猫を救出したとニュースで報じられ(動画)[動 15]、微博(ウェイボー:中国のSNS)で「趙雲のようだ」と話題になった[W 43]。 - 子龍任務:スラングの一種。
2015年頃から台湾で使用されはじめる。当時、ASUSのスマートフォン「Zenfone」を購入後、しばしば修理に見舞われるユーザーが多発し、ASUSの修理店に何度も出入りすることになったことから、上述の「七進七出」に例えられ、「子龍任務」と呼ばれ始めた(「Zen」と劉「禅」が同音異義語になっている)[W 44]。現在でもASUS製品を修理に出すことになると、「子龍任務開始」「子龍任務(3/7)達成」(3回修理に出した、の意味)といった使用例がXなどのSNSやブログで確認される。ASUS製品に限らず、家電製品の修理全般に対しての使用例も見られる。
歇後語
(歇後語:けつごご。前半の言葉から後半の言葉(意味)を予測する言葉遊び)
関連人事物
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中国では、「単騎駆け」や「一対多数」、「七進七出」を行った人物、勇猛な軍人・部隊などに対して「趙雲」「趙子龍」と称されることがある。
- 文鴦:(ぶんおう)
三国時代から西晋の軍人。「七進七出」を実際に行い戦った人物として『資治通鑑』に記述がある[610]。『三国志演義』第110回では、たった一人で魏軍の包囲を蹴散らす勇猛な戦いぶりから「趙雲の再来」と称えられている[611][注 93](詳細は該当記事参照)。 - 馬祥麟:(ばしょうりん)
明末の女性軍人・秦良玉の子。勇猛な性格で知られ、白馬に乗り銀の鎧を身に着け、単騎で敵将の首を討ち取ったことから、軍中で「趙子龍」「小馬超」と呼ばれた[613]。 - 劉粋剛:(りゅうすいこう)
中華民国空軍の軍人、エース・パイロット。その勇猛ぶりから空軍五虎将の一人とされ、多数の日本機を相手に戦ったことから「空の趙子龍」と称された(詳細は該当記事参照)。 - 国民革命軍第95師団:
中華民国時代の河南省の国民党地方部隊。攻防に秀で、『趙子龍師団』と呼ばれた(詳細は該当記事参照)。
古跡と施設
要約
視点
主な趙雲にまつわる古跡、遺跡、公園、テーマパークなどの施設、地名など。
中国
名称 | 場所 | 説明 |
![]() 趙雲廟 |
河北省 正定県 |
趙雲を祀った廟。明代頃には史料で存在が確認され、何度も改修や移転が繰り返されており、現在の廟は趙雲の末裔が建てたもの[614]。1997年、県級重点文物保護単位に指定されている。 廟門・四義殿・五虎殿・君臣殿・順平侯殿(正殿)があり、趙雲の二人の息子の趙統、趙広の他、劉備や諸葛亮、五虎将などの像も祀られている。清代の『漢順平侯趙雲故里』碑、大邑趙雲墓と長坂坡の土、壁画や正定県の民間伝承に登場する『趙子龍飲馬槽』の展示などもある。 (詳細は趙雲廟を参照) |
![]() 子龍広場 |
〃 | 庁舎前にある広場。2007年9月に一般開放。総投資額2,711万元、広場全体の面積は2.01ヘクタールあり、集会中心広場・文化展示廊・緑化休憩区の三要素からなる。歴史を感じられる公園であり、市民の憩いの場にもなっている。子龍広場の中心には巨大な趙雲像があり、正定の歴史的、文化的イメージを表しており、台座の背面に趙雲を賛辞する言葉が刻まれている[W 45]。 |
常山公園 | 〃 | 『常山東路』に整備された公園。趙雲の騎馬像が設置されている。 |
子龍桟橋 | 〃 | 趙雲の字に因んだ桟橋。一角に趙雲が故郷の人々と別れを告げる場面の彫像が設置されている。 その他『子龍大橋』など、趙雲に因んだ構築物や地名があり、『正定城』『常山陵園』など街の至る所に趙雲像が設置されている。 |
![]() 傾井村 |
同省 霊寿県 |
正定県のある石家荘市に隣接する霊寿県にある村。村の名前の由来が趙雲にまつわり、公孫瓚配下時代の趙雲が、袁紹配下の将・周昂との戦いに敗れた際に立ち寄ったという伝承がある[615]。以下概要。
|
臨城趙雲墓 | 同省 邢台市 |
臨城の趙雲の墓。(詳細は#臨城趙雲墓を参照) |
中国馬鎮 | 同省 承徳市 |
豊寧満族自治県にある馬文化をテーマにした観光リゾートパーク。アトラクションや乗馬を楽しめる。『戦神趙子龍』では、長坂坡の戦いを再現した馬上パフォーマンスを観覧することができる[W 46]。 |
後趙雲堡村 | 同省 邯鄲市 |
辛安鎮鎮にある趙雲の名が由来の村。創建年代不明。趙雲が軍を率いてこの村に駐屯したと伝えられている[W 47]。 |
長坂坡公園 | 当陽市 | 「長坂坡古戦場」に整備され、趙雲を顕彰するために造られた公園。趙雲を称えた『長阪雄風』の石碑や『演義』の名場面を再現した壁画や像が展示されている。『長坂路』ロータリーには、阿斗を抱えて槍を構えた趙雲の大きな騎馬像がある。近くには『子龍路』『子龍村』[W 48]など、趙雲にちなんだ地名や村名がある。 その他、『子龍畈』と呼ばれる丘の近くに、糜夫人が阿斗を抱えて避難したという『太子橋』や、糜夫人が身投げした『娘娘井』(井戸)と、『演義』にまつわる遺跡が存在する。 |
![]() 子龍灘 |
同省 咸寧市 赤壁市 |
赤壁近くの砂州の名。 民間伝承『子龍射帆』によると、『演義』で東南の風を起こした諸葛亮を恐れた周瑜が兵を差し向け、追ってきた呉船から逃れるため、趙雲が船上から神業で呉船の帆を止める縄を射抜いたところ、落ちた帆が大きな砂州へと変貌し、堤のように進路を遮って行く手を阻んだことから、人々はのちにその場所を『子龍灘』と呼ぶようになったという[617]。 |
南陽趙雲墓 | 湖南省 南陽市 |
南陽にあった趙雲の墓。(詳細は#南陽趙雲墓を参照) |
芙蓉峰![]() 趙侯祠 |
同省 長沙市 寧郷市 |
芙蓉峰は芙蓉山ともいい、桂陽の南西に位置し、劉長卿の五言絶句「逢雪宿芙蓉山主人」に登場する芙蓉山と同じ山。趙雲がここに駐屯したとあり、唐代に摩崖石刻が存在し、「趙雲屯兵處」と刻まれていた。唐宋時代には趙雲の功績を記念する『趙侯祠』(別名:漢順平候趙将軍廟。後述の関口趙侯祠とは別物。『護英祠』とも呼ばれた)が建てられ、南北に200平方メートル以上の敷地を占め、煉瓦と木材で造られた青瓦黒瓦の二棟三間の建物だったとある[107]。 祠の前には、葉元棋が書いた『漢順平候趙将軍廟碑記』が刻まれた石碑が建てられていた。『康熙桂陽州志』に詳細な記録が残っており、清代には呉鯨が詩[618]を詠んでいる。 1931年8月に最後の再建が行われ、歴史上の趙侯祠と区別するため、新しく建てられた廟は『子龍廟』と呼ばれた。約600平方メートルの敷地内に、上下のホールや楼閣、南北の耳房などが配置され、上ホールには、剣を構えて胸を張った高さ2メートル以上の趙雲の塑像が安置されていたが、1960年代の文化大革命で何度も破壊され、芙蓉峰には石灰窯や砂利場が開設され、「趙雲屯兵處」の摩崖石刻は爆破、廟の基礎石も石灰の材料にされてしまった[619]。 現在は『漢順平侯趙将軍廟碑記』のみ子龍廟近くの蒙泉亭に保存されている[107]。 |
蒙泉(八角井) | 〃 | 趙雲が掘ったとされる井戸にまつわる泉の名前。 伝承では桂陽攻略時、趙雲が出征前に諸葛亮から錦囊(きんのう:錦で作った袋)を渡され、危急の際に開けるよう言われる。桂陽到着後、芙蓉峰に兵を駐屯させたが、真夏で水が不足し、兵士たちの士気が低下。焦った趙雲は錦囊を開けると八卦図が入っており、指示通りそれを置いたが数日経っても水は出ない。ついカッとなり長槍で八卦図を突き刺すと、そこから勢いよく水が噴き出し、兵士たちは大喜びして八卦図の形に沿って井戸を掘り、『萬軍泉』と名付け、のちに『蒙泉』(蒙恩の泉)に改名したという[620][621]。 2006年には蒙泉が湖南省人民政府により省級文物保護単位指定されている。 この泉のそばに1952年「趙子龍酒」という中国酒を製造するメーカーが設立され、現在も製造販売されている。 (詳細は#食べ物の「趙子龍(酒)」を参照) |
関口趙侯祠 | 桂陽県 橋市郷 |
関口村。趙雲が営盤嶺に兵を置いたという伝承があり、塑像が祀られている。 この関口趙侯祠に残されている「趙公香火碑」の碑文と、桂陽・芙蓉峰の「趙侯祠」に立っていた『漢順平候趙将軍廟碑記』の内容には類似性があり、二つの碑文はともに、趙雲の功績を関羽や関平と同等に評価し、「祠を建てて祀るべきである」という点で一致している。また、いずれも伝承にある趙雲の駐屯地を祠の建立地としており、建立と碑文の年代から、関口趙侯祠は芙蓉山下の「趙侯祠」から受け継がれた、あるいはその影響を受けて建てられた可能性が非常に高いことが指摘されている[622]。 2018年、第四批市級文物保護単位指定[W 49]。趙雲に因んだ食べ物も存在する。 (詳細は「#子龍片」および「#その他の食べ物」を参照) |
大邑趙雲墓 | 四川省 大邑県 |
大邑の趙雲の墓。(詳細は#大邑趙雲墓を参照) |
静恵山公園 | 〃 | 山上に『子龍祠』があり、羌族を監視するために趙雲が築いたという『望羌台』の他、石碑や像が設置されている。そのほか『子龍街路』『白馬溝』など、趙雲にまつわる地名が複数存在する。 (詳細は静恵山公園を参照) |
![]() 成都武侯祠 |
同省 成都市 |
諸葛亮、主君劉備とその臣下を祀る霊廟。漢昭烈廟、武侯祠、惠陵、三義廟の四要素からなる。成都武侯祠博物館の文化遺産保護区に属している。元は章武元年(221年)に惠陵(漢昭烈廟)が建てられ、後に武侯祠(孔明廟)が建ち、そして君臣を共に祀る祠廟に統合された。「文臣武将廊」に蜀漢の文臣武将28体の塑像が祀られ、西廊の武将廊には趙雲が筆頭で祀られている(詳細は成都武侯祠、#歴史的評価の武侯祠を参照)。 武侯祠の趙雲、龐統の塑像姿については以下の民間伝承が存在する。
|
和平街 | 〃 | 旧称『子龍塘街』。趙雲の居宅があったと伝わる。(詳細は#民間伝承の子龍池を参照) |
![]() 石経寺 |
〃 | 竜泉駅区山泉鎮にある中国仏教とチベット仏教が融合した、四川省西部の五大仏教密林のひとつ。後漢末期に建てられ、 当初は官僚の私邸であったが、蜀漢の時代に趙雲が封地として受け継ぎ、家廟(先祖を祀る場所。祖先が皇帝や王侯などの高官だった家のみ建てられるという)にして『霊音寺』と名付けたと伝わっている[W 50][626]。石経寺大雄宝殿の左側には、道光四年に建てられた石碑があり、「霊音とは、漢の将軍・趙侯の香火である」と刻まれている[626]。 (詳細は石経寺を参照) |
万年鎮子龍村 | 同省 南充市 |
趙雲の字が由来の村。伝承によると、趙雲が領内の峠道で一夜を過ごしたことに由来する[W 51]。 |
![]() 富楽山公園 |
同省 綿陽市 |
国家AA級観光地。1987年から建設が始まり、三国志をテーマにした庭園建築が数多く点在する大規模な公園。山頂には高さ46メートルの5階建ての富楽閣が建てられ、綿州碑林には三国志の歴史を描いた巨大な浮彫が飾られている。『三国志演義』の内容に基づいて、「桃園の誓い」「二劉涪城会」「五虎上将」「蜀漢四英」「魚水君臣」「龐統献策」などの小模型が富楽閣内に展示され、公園に五虎大将軍(五虎上将)の像が設置されている。 (詳細は富楽山を参照) |
姜太公釣魚台 | 陝西省 宝鶏市 |
五丈原西に存在する地名。 崖に赤い文字で「趙雲、鄧芝屯兵處」と刻まれており、この地に趙雲と鄧芝が第一次北伐で駐屯したとされている[627]。 |
台湾
名称 | 場所 | 説明 |
佳里子龍廟![]() 永昌宮 |
台南市 佳里区 |
趙雲(趙聖輔天帝君)を主祀として祀った廟。 鄭成功に従って台湾に渡ってきた福建省出身の林六叔が、佳里興堡東勢寮に開墾地として割り当てられたことに起源。 1691年、村人の林廷龍が川で魚を捕っていたところ、流木がぐるぐる回っているのを見つけ、拾い上げると白蟻によって文字が食い込まれており、「常山趙子龍」と書かれていた。村人たちはこれが神の意志であると考え、この木を草小屋に祀った。その後、大陸から来たという彫刻師が訪れ、「趙雲将軍が夢に出てきて、この流木を神像に彫るようにと頼まれた」と語り、小さな趙雲の像が彫られた。この事から東勢寮は『子龍廟』と呼ばれるようになり、趙雲の封号『永昌亭侯』から『永昌宮』とも呼ばれる。 落成式(建物が完成したことを祝う式典)の日が2月16日であったため、この日を子龍神の誕辰日(偉人や神様の誕生日を指す言葉)と定めている。台湾にはこの子龍廟の他にもほぼ全国の県市に1箇所は趙雲を祀った廟が存在し、特に島の西海岸側に複数存在する[628]。 (詳細は該当記事を参照) |
日本
名称 | 場所 | 説明 |
八坂神社(益子) | 栃木県 益子町 |
劉備の「檀渓を的盧で跳ぶ」趙雲の「長坂坡の戦い」をモチーフにした彫刻がある。 |
![]() 宝登山神社 |
埼玉県 長瀞町 |
本殿に三国志をモチーフにした極彩色の彫刻があり、関羽や趙雲(長坂坡の戦い)が描かれている。 日本ではこの他にも三国志をモチーフにした彫刻や絵画が全国の神社や寺院に点在している。 |
![]() KOBE 鉄人三国志 ギャラリー |
神戸市 長田区 |
『鉄人28号』『三国志』で知られる漫画家・横山光輝の故郷、神戸市長田区にある展示施設。横山作品の他にもさまざまな三国志(演義)関連作品の展示や中国輸入雑貨、グッズ販売、正子公也デザインの趙雲フィギュアや、巨大な趙雲の銅像が展示されている。定期的に三国志イベントも開催されている。施設内で撮影した写真はネット掲載禁止のため注意。 (詳細は該当記事を参照) 同商店街には三国志をテーマにしたカフェ『Cha-ngokushi(ちゃんごくし)』のほか、長田区には街の至る所に三国志の人物たちの像が設置されている。 |
マレーシア
名称 | 場所 | 説明 |
北海船仔頭![]() 天福宮 |
Bagan Ajam |
1871年以前から存在するマレーシアの檳城州北海にある子龍廟[W 52]。北海最大の神廟の一つ。宮内には閻魔大王と福徳正神(土地神)も祀られている。マレーシアの子龍廟の多くは中国大陸から渡ってきた人々によって建立された[W 53][629]。 そのほか、創設者二人が「互いに尊敬する趙子龍の忠義の精神を広めたい」という共通の志を持ち、建立された『鳳威宮』[W 54]、『順平宮』[629][W 55]、『風雲廟』[629]など、マレーシアには6か所の子龍廟が存在している。 (詳細は佳里子龍廟#マレーシアを参照) |
趙雲主題の作品
- 映画
-
- 『三国志(2008年)』 (原題:三国志之見龍卸甲)中国・韓国、2008年。
主演: 劉徳華(アンディ・ラウ)、声:東地宏樹。 - 『真・三国志 蜀への道』 (原題:趙子龍)中国、2020年。
主演:賀軍翔(マイク・ハー)、声:小松史法。 - 『三国志 趙雲 無双伝』 (原題:趙雲伝之龍鳴長坂坡)中国、2020年。
主演:梅洋(メイ・ヤン)、声:小松史法。 - 『趙雲伝之莫問少年狂』中国、2021年。
主演:王正宣。※日本未公開。
張繡とともに槍の名手の師匠のもとで学び、黄巾賊と戦う物語[動 16]。 - 『槍神趙子龍』中国、2022年。
主演:張子文。※日本未公開。
長坂坡の戦いを元にした作品。同門の兄・張繡と戦いを繰り広げる[W 56]。 - 『戦神趙雲』中国、※2028年公開予定[W 57]。
主演:張子文。
- 『三国志(2008年)』 (原題:三国志之見龍卸甲)中国・韓国、2008年。
- 映画(WEB配信)
-
- 『三国志 武神・趙雲伝』 (原題:武神趙子龍)中国、2023年[W 58]。
主演:杜宇航(デニス・トー)。
- 『三国志 武神・趙雲伝』 (原題:武神趙子龍)中国、2023年[W 58]。
- テレビドラマ
- 小説
-
- 大場惑『三国志武将列伝』 表紙&本文イラスト:小島文美、 光栄、全四巻。
「放浪の子龍♦趙雲」1992年。ISBN 4906300731。
「天翔の騎士♦趙雲」1993年。ISBN 4877190309。
「江東の策謀♦趙雲」1994年。ISBN 4877191666。
「覇望の入蜀♦趙雲」1996年。ISBN 4877193332。
- 文庫版『三国志武将列伝 趙雲伝』(歴史ポケットシリーズ)、全四巻。
「放浪の子龍(1)」1998年。ISBN 487719620X。
「天翔の騎士(2)」1998年。ISBN 4877196455。
「江東の策謀(3)」1998年。ISBN 4877196463。
「覇望の入蜀(4)」1998年。ISBN 4877196471。
- 加野厚志『趙雲子竜 中原を駆けぬけた三国志最強の戦士』 幻冬舎文庫、2001年。
ISBN 9784344400818。 - 塚本靑史『趙雲伝』 河出書房新社、2022年。
ISBN 9784309030258。
- 大場惑『三国志武将列伝』 表紙&本文イラスト:小島文美、 光栄、全四巻。
- 小説(未完)
-
- 奈々愁仁子『精恋三国志I』 アスキー・メディアワークス、電撃文庫、2010年。
ISBN 4048684582。
- 奈々愁仁子『精恋三国志I』 アスキー・メディアワークス、電撃文庫、2010年。
- 小説(短編)
-
- 伴野朗「火龍の槍(趙雲編)」『三国志英傑列伝』 実業之日本社、1997年。
ISBN 4408590924。 - 万城目学「趙雲西航」『悟浄出立』 新潮社、新潮文庫、2016年。
ISBN 9784101206615。 - 宮城谷昌光「趙雲」『三国志名臣列伝 蜀篇』 文藝春秋、文藝春秋BOOKS、2023年。
ISBN 9784163916613。
- 伴野朗「火龍の槍(趙雲編)」『三国志英傑列伝』 実業之日本社、1997年。
- 朗読CD
-
- 『三国志 Three Kingdoms 公式朗読CDシリーズ "夷陵に燃ゆ" 趙雲篇』
「三国志TK朗読CD」製作委員会、株式会社エスピーオー、2012年。
【~眠れぬ貴女に捧ぐ~特装版】
CD+DVD(インタビュー映像、ドラマ「三国志Three Kingdoms」ダイジェスト映像)
【通常版】CDのみ。
主演:KENN。
- 『三国志 Three Kingdoms 公式朗読CDシリーズ "夷陵に燃ゆ" 趙雲篇』
- 漫画(連載)
-
- 陳某『火鳳燎原』
東立出版社、メディアファクトリー、2001年-連載中。
趙雲(燎原火)と司馬懿が主人公。 - 黄十浪『雲漢遥かに-趙雲伝』 メディアファクトリー、全三巻、2008-2009年。
①巻、2008年。ISBN 9784840122542。
②巻、2009年。ISBN 9784840125277。
③巻、2009年。ISBN 9784840129534。 - 緒里たばさ 『王者の遊戯』新潮社、コミックバンチ、全六巻、2012-2015年。
軍師と武将のバディもの。主人公・郭嘉の相棒として活躍する。
- 陳某『火鳳燎原』
- 漫画(短編)
-
- 山口陽史「趙雲子龍という男(前・後編)」『三国志武将列伝2~蜀の章~』
秋田書店、2019年。ISBN 9784253253123。
- 山口陽史「趙雲子龍という男(前・後編)」『三国志武将列伝2~蜀の章~』
- 漫画(読切)
-
- 『コミック三国志マガジン』(Vol.1-Vol.15)2005年-2007年、メディアファクトリー。
(Vol.1)原作:夏秋のぞみ、作画:SHINYA『子龍奮迅』
(Vol.3)志水アキ『巌のごとく』 (趙雲&黄忠)
(Vol.8)立花未来雄&ダイナミックプロ『忠義問答』 (趙雲&許褚)
(Vol.12)こしじまかずとも『子竜と飛燕』 (趙雲&張燕)
- 『コミック三国志マガジン』(Vol.1-Vol.15)2005年-2007年、メディアファクトリー。
- ゲーム
-
- 『三国趙雲伝』 中国、2001年。
第三波珠海工作室、北京白勺音楽工作室。
※リンク先(Steam)は新版。 - 『Three Kingdoms Zhao Yun』 (原題・趙雲伝:雲漢騰龍)中国、2024年。
ZUIJIANGYUE Game、ETime Studio、Merlion Games。
※『三国趙雲伝』のリメイク作品[W 59]。
- 『三国趙雲伝』 中国、2001年。
その他関連作品
- 映画
- テレビドラマ
-
- 『人形劇 三国志』 日本、1982年-1984年。
趙雲(声):松橋登。 - 『三国志演義 (テレビドラマ)』 中国、 1994年。
趙雲役:(青・壮年期)張山/楊凡、(老年期)侯永生。
(声):(青・壮年期)速水奨、(老年期)谷口節/加瀬康之。 - 『三国志 Three Kingdoms』 中国、2010年。
趙雲役:聶遠(ニエ・ユエン)、声:遊佐浩二。
- 『人形劇 三国志』 日本、1982年-1984年。
- アニメ
-
- 『三国志 (日本テレビ)』 日本、1985年。
趙雲(声):佐々木功(ささきいさお)。 - 『横山光輝 三国志』 日本、1991年-1992年。
趙雲(声):小杉十郎太。 - 『三国志_(アニメ映画)』 日本、1992年-1994年。
趙雲(声):堀秀行。 - 『蒼天航路』 日本、2009年。
趙雲(声):森川智之。 - 『最強武将伝 三国演義』 日本・中国、2010年-2011年。
趙雲(声):載寧龍二(さいねい龍二)。 - 『SDガンダムワールド 三国創傑伝』 日本、2019年-展開中。
趙雲ダブルオーガンダム(声):池田恭祐。
- 『三国志 (日本テレビ)』 日本、1985年。
- ゲーム
-
- 『三國志シリーズ』 コーエーテクモゲームス、1985年-展開中。
趙雲(声):遠藤航(14)、水中雅章(8 REMAKE)。 - 『真・三國無双シリーズ』 コーエーテクモゲームス、2000年-展開中。
趙雲(声):小野坂昌也。 - 『真・三國無双Origins』 コーエーテクモゲームス、2025年予定[W 60]。
趙雲(声):田邊幸輔。 - 『十三支演義 〜偃月三国伝〜』 アイディアファクトリー(オトメイト)、2012年-展開中。
趙雲(声):鈴村健一。 - 『Wo Long: Fallen Dynasty』 コーエーテクモゲームス、2023年。
趙雲(声):日野聡。 - 『Fate/Samurai Remnant』 コーエーテクモゲームス、2023年-展開中。
※DLCコンテンツ(第三弾:断章 白龍紅鬼演義)
趙雲(声):阿座上洋平。
- 『三國志シリーズ』 コーエーテクモゲームス、1985年-展開中。
- 漫画
脚注
参考文献と関連書籍
外部リンク
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