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中国後漢末期から三国時代の武将 ウィキペディアから
趙 雲(ちょう うん、拼音: 再生 、簡体字: 赵云、?(生年不詳) - 建興7年(229年)[1])は、中国後漢末期から三国時代にかけての蜀漢の将軍。
冀州常山国真定県(現在の河北省石家荘市正定県)の人。封号は永昌亭侯。諡号は順平侯。台湾やマレーシアなどの華僑の人々の間では信仰の対象となり、趙聖輔天帝君と呼ばれる(詳細は「趙雲#台湾」「#マレーシア」および佳里子龍廟を参照)。
蜀漢の初代皇帝・劉備の子・劉禅(幼名:阿斗)を救ったことで知られ、小説『三国志演義』では五虎大将軍の一人とされる[6]。
以下は正史『三国志』(蜀書)「趙雲伝」(
本文中の[注 ]には補足や研究者の推論・考察を、[ ]は引用文献・書籍、[W ]は引用WEBサイト、[動 ]は引用・参考動画を記述する。正史の事跡からの趙雲についての研究は「#人物」および「#官職」節を、『三国志演義』の趙雲については「#三国志演義の趙雲」の節をそれぞれ参照。
約400年続いた
中平元年(184年)に張角の主導による大規模な農民反乱である黄巾(こうきん)の乱が起こると、趙雲の故郷である冀州の常山(じょうざん)国王・劉暠(りゅうこう)は国を棄てて逃走した[11]。この反乱に乗じて少年や山賊、犯罪者などを集め、盗賊団を結成した張燕(ちょうえん)率いる黒山軍(以下、黒山賊:こくざんぞく)の襲撃により、冀州は甚大な被害を被ったが、後漢の朝廷はこれを鎮圧することが出来なかった[12]。
中平6年(189年)に後漢の皇帝・霊帝(れいてい)が崩御すると、この政治混乱に乗じて権力を掌握した董卓(とうたく)による暴政や[13]、各地で諸侯が権力争いを始め、群雄割拠の幕開けとなる[14]。
冀州では支配権をめぐって、冀州の牧(ぼく:州の長官)である韓馥(かんふく)[15]、冀州北部に隣接する幽州(ゆうしゅう)の有力豪族出身で、白馬で揃えた精鋭騎兵『白馬義従』(はくばぎじゅう)を率いて異民族(鮮卑(せんぴ)族)の討伐で功績を上げた公孫瓚(こうそんさん)[16]、朝廷に自ら降伏し、徳を見せることで官職を与えられ、常山国の支配を朝廷に容認させた黒山賊の張燕[17]、四代に渡って三公(最高位の3つの官職のこと)を輩出した名門出身の袁紹(えんしょう)[18]らが対立していた。
正史『三国志』蜀書「趙雲伝」(以下『正史』)
『趙雲別伝』(趙雲について記された伝記[19]。詳細は#趙雲別伝の節を参照。以下『別伝』)曰く、趙雲は身長八尺(約185cm)[注 3]、姿や顔つきが際立って立派だったという[22]。故郷の常山郡(国)から推挙され、官民(役人と民間人の混成)の義従兵(ぎじゅうへい:義勇兵のこと)[注 4]を率いて幽州の公孫瓚のもとに参じた[23]。
それより前、冀州を奪う野心を抱いていた公孫瓚は、反董卓連合軍の諸侯の一人として安平(あんぺい)に駐屯していた韓馥を攻撃し、これを破った[24]。『英雄記』(後漢末期の歴史書)によれば、この背後には袁紹の参謀・逢紀(ほうき)の策略があり、公孫瓚を利用して韓馥を攻撃させ、窮地に追い込むことで袁紹を頼らせて冀州を奪取する、というものであった[25]。策略通りに公孫瓚を恐れて袁紹を頼った韓馥は、弱みに付け込まれ袁紹に冀州牧を奪われてしまう[26][27]。
初平2年(191年)、『別伝』曰く、袁紹は冀州牧を称したため、公孫瓚は冀州の民が袁紹に従うことを憂いていた[注 5]。そのような状況下で趙雲が義従兵を率いてやってきたので、公孫瓚はこれを大いに喜んだが、趙雲に対し「君の州の人々はみな袁紹を支持しているそうだが、君はなぜ心変わりして、迷いながらもわたしに仕える気になったのかね?」と嘲笑した[28]。これに対し、趙雲はこう応えた。
「天下は騒がしく混乱し、誰が正しいのかも判らず、民は未だ逆さ吊りに遭うような苦難に置かれています。わたしの州の議論では、仁政を行う者に従うべきだと考えました。けっして袁紹殿を軽んじ、私情で公孫瓚将軍を尊重したわけではありません」 — 『三国志』巻36「趙雲伝」裴注『趙雲別伝』[29]
冀州での主な出来事 | ||
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西暦 | 出来事 | 内容 |
191年秋 | 袁紹冀州牧を称す | 韓馥を脅し奪う |
秋~冬? | 趙雲が挙兵する | 公孫瓚の配下に |
冬 | 青・徐州黄巾残党 と公孫瓚の戦い |
公孫瓚の勝利 |
〃 | 青洲の田楷の救援 | 劉備に随行 |
〃 | 劉備が平原相に | 公孫瓚より任命 |
192年 正月 |
界橋の戦い | 袁紹の勝利 |
不明 | 趙雲と劉備の別れ | 公孫瓚から辞去 |
193年 | 袁紹と公孫瓚が停戦 | 朝廷が介入 |
〃 | 公孫瓚と劉虞の戦い | 劉虞を殺害 |
6月 | 袁紹と黒山賊の戦い | 黒山賊が大敗 |
199年 | 易京の戦い | 公孫瓚が自害 |
205年 | 張燕が曹操に投降 | 黒山賊が帰順 |
『別伝』曰く、このとき黄巾の乱から挙兵し、名を揚げた群雄のひとりである劉備(りゅうび)が公孫瓚の元に身を寄せていた。これが劉備と趙雲、二人を結びつける機縁となる。劉備は趙雲と接するたびに受け入れ、趙雲も劉備に好感を持ち、次第に二人は仲を深めていった[37]。
『正史』曰く、青州(せいしゅう)で袁紹と戦っていた公孫瓚配下の将・田楷(でんかい)の援軍として、公孫瓚が劉備を派遣した際に趙雲も随行して劉備の主騎(しゅき:騎兵隊長)となった[38][注 8][注 9]。
『別伝』曰く、そののち趙雲の兄が亡くなり服喪(喪に服すこと)のために公孫瓚の下を辞して故郷へ帰ることになった。劉備は趙雲が自らの下にもう二度と戻って来ることはないだろうと悟り、趙雲の手を固く握って別れを惜しんだ。趙雲は別れの挨拶をして「絶対にあなたの御恩徳に背きません」と応えた[42][43][注 10]。
劉備と別れた時期や、そこから建安5年(200年)頃までの趙雲の行動は『正史』にも『別伝』にも記述がないため不明である[47]。192年から200年の間、常山国では董卓を殺害したのち、袁紹の客将(主従関係を結んでいない客分として待遇される武将)になっていた呂布(りょふ)に大敗した黒山賊は[48]、公孫瓚と手を結んで袁紹と戦ったが、建安4年(199年)3月、幽州と冀州の州境にある易京(えきけい)の戦いで敗れ、公孫瓚は自害[49]。袁紹は華北(かほく:中国北部のこと)一帯を支配下においた。黒山賊の張燕らはのちに群雄のひとりである曹操(そうそう)に帰順した[50]。
趙雲と劉備の再会までの動き | ||
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西暦 | 出来事 | 内容 |
? | 趙雲離脱とその後 | 200年頃まで不明 |
193- 194年 |
徐州の陶謙の救援 | 豫洲の小沛に駐屯 |
194年 | 劉備が徐州牧に | 陶謙死後跡を継ぐ |
195年 | 呂布が劉備を頼る | 曹操に敗北した 呂布が劉備の下へ |
196年 | 呂布の裏切り | 下邳を掌握される |
〃 | ①呂布に敗北 | 曹操を頼る |
198年 | ②曹操とともに 呂布を討ち許昌へ |
献帝の曹操暗殺 計画に賛同する |
200年 | 曹操と争う | 暗殺計画が露顕 小沛で曹操に敗北 |
〃 | ③青洲へ逃走 | 袁譚を頼る (袁紹の長男) |
〃 | ④袁紹を頼る | 袁譚と平原へ |
〃 | ⑤袁紹と合流 | 鄴から200里地点 で袁紹が出迎える |
〃 | ⑥趙雲と再会 | 鄴で劉備に目通り |
〃 | ⑦劉表の元へ | 関羽らが再集結 |
一方、劉備は初平4年(193年)、徐州(じょしゅう)牧の陶謙(とうけん)の救援での功績が認められ、のち重病になった陶謙から徐州を託される[51]。しかし曹操に敗れて劉備を頼ってきた呂布の裏切りに遭い、徐州を奪われる[52]。劉備は曹操を頼って、ともに呂布を捕らえてこれを処刑した[53]。
その後、曹操は劉備を豫州(よしゅう)にある許昌(きょしょう)に連れて厚遇したが[54]、劉備は曹操の庇護の下で傀儡となっていた後漢の皇帝・献帝(けんてい)の密詔(内密に下された命令)を受けた董承(とうしょう)の「曹操暗殺計画」に引き込まれる[55]。のち計画が露顕し、大いに怒った曹操は袁術(えんじゅつ:袁紹の従兄)の討伐を理由に赴いたまま小沛(しょうはい)に残っていた劉備を攻撃し、建安5年(200年)劉備は敗北[56]、下邳(かひ)にいた劉備の妻子と部将(一部隊の大将)の関羽(かんう)が捕らえられ、劉備の兵は散り散りとなった[57]。
同じく建安5年(200年)頃、『別伝』曰く、追われた劉備が曹操と対峙していた袁紹を頼って来ると[58]、趙雲は冀州の鄴(ぎょう)で久しぶりに劉備に目通りした[59]。再会を喜んだ劉備は、趙雲と同じ
その間、袁紹配下の顔良(がんりょう)を討ち取ったことで曹操から解放された関羽(白馬の戦い)や[64]、散り散りになっていた劉備の敗残兵たちが、劉備の下へ再集結している[65]。同年8月、袁紹と曹操の間で大規模な戦いが起こり、曹操が勝利をおさめ、袁紹は建安7年(202年)病死した[66][67](官渡(かんと)の戦い)。
荊州の劉表を頼ってやってきた劉備たちは曹操への対抗のため、豫州との州境近い荊州最前線の地である新野(しんや)を任されることになる[68]。
建安8年(203年)曹操の命を受けた夏侯惇(かこうとん)・于禁(うきん)らが新野北東に位置する博望(
『別伝』曰く、趙雲はこの博望坡の戦いで敵将の夏侯蘭(かこうらん)を生け捕る武功(軍事的手柄)を挙げたが、小さい頃からの同郷の友人だったことから劉備に助命嘆願し、法律に明るい人物として軍正(ぐんせい:軍の法律の官)[W 1]に推挙し、認められた。趙雲は以降、降将の夏侯蘭が無用の疑いをかけられぬように自分から彼に接近しないよう気遣ったという[73][注 12](博望坡の戦い)。
袁紹の息子たちと烏桓(うがん)族に勝利してついに華北を平定した曹操は[76]、建安13年(208年)荊州への侵攻を開始する[77]。このとき劉表は病死していたので次男の劉琮(りゅうそう)が跡を継いでいたが、9月に曹操軍が新野に到達すると劉琮は降伏してしまう[78][79]。樊城(はんじょう)に居た劉備達は劉琮の降伏を知ると南へ撤退しようとするが、劉備を慕う劉琮の側近の一部と、荊州の民衆10万人がともに南下を開始した[80]。
劉備軍は江陵(こうりょう)を目指すが、民衆を連れての大行軍は思うように進まず、『正史』曰く、荊州の当陽(とうよう)・長坂(ちょうはん:または長坂
『別伝』曰く、このとき「趙雲が北(曹操軍の方角)に逃げ去った」と言う者がいたが、劉備は手戟(しゅげき:刃の付いた武器)を投げつけて「子龍はわたしを棄て逃げることはない」と相手にせず、ほどなくして趙雲が到着した[88](長坂の戦い)。
劉備軍は曹操軍に江陵を制圧されたが[89]、漢水(かんすい:または
同建安13年(208年)孫権軍は赤壁に、曹操軍は江陵から進軍して赤壁の対岸にある烏林(うりん)に布陣するが、曹操軍はこの湿地帯で疫病被害に遭う[94]。そこに孫権配下の黄蓋(こうがい)が曹操に偽りの投降をして接近し、火攻めをする案を周瑜に持ち掛けた[95][96]。曹操はこれを見破れず、黄蓋の投降を信じたため、孫権軍の火攻めに遭い大敗した[97][98](赤壁の戦い)。
建安13年(208年)から建安14年(209年)にかけて、孫権軍と劉備軍はともに曹仁(そうじん:曹操の従兄)が守る江陵を攻めて陥落させ、周瑜は江陵のある南郡(なんぐん)の太守(たいしゅ:郡の長官)になった[99][100]。
劉備はその間に軍事行動を起こす理由付けとして劉琦を荊州刺史(しし:州の長官、牧)に推薦[101]、荊州南部四郡(
『別伝』曰く、趙雲は荊州南部平定戦に参加して偏将軍(へんしょうぐん)・桂陽太守になった[105][注 13]。この桂陽攻略時に降伏した前太守の趙範(ちょうはん)が、自身の兄嫁である寡婦(未亡人)の樊氏(はんし)を趙雲に嫁がせようとした[108]。趙雲は「わたしとあなたは同姓ですから、あなたの兄ならわたしの兄のようなものです」と同姓を理由に断わった[109][注 14]。しかし樊氏は国色を持つ美女だったので、なおも趙雲に娶るよう薦める者がいたが、趙雲は以下を述べ固辞した。
「趙範は追い詰められて降伏したにすぎず、その本心は測り知れない。それに天下に女性はたくさんいる」 — 『三国志』巻36「趙雲伝」裴注『趙雲別伝』[111]
建安16年(211年)、漢中(かんちゅう:
『別伝』曰く、劉備はこのとき趙雲を留営司馬(りゅうえいしば:軍営に留まって軍務を総括する役職のこと。「#官職」を参照)に任じた[117][118]。
そのころ甘夫人が病没し[119]、孫権の妹の孫夫人(そんふじん:京劇での名の
この頃から、劉備軍と孫権軍の間では荊州の領地をめぐって争いが起こるようになり、同盟関係が悪化していく[124]。
建安17年(212年)頃、『別伝』曰く、孫権は劉備が益州入りしたことを知ると、船を出し孫夫人を呉に帰らせたが、その際に孫夫人は劉禅を連れて行こうとした。趙雲は張飛と共に長江を遮って劉禅を奪還した[125]。一方、『漢晋春秋』(東晋(とうしん)時代に編纂された歴史書)では「諸葛亮の命を受けて、趙雲が奪還した」と記述されている[126]。
同212年、劉璋と不仲になった劉備は劉璋の攻撃を決定する[127]。
建安19年(214年)頃、『正史』曰く、荊州に留まっていた諸葛亮たちを援軍として召し出し、荊州の留守を関羽にまかせ、趙雲は諸葛亮・張飛・劉封(りゅうほう:劉備の養子)と共に長江を遡って入蜀(しょく:蜀郡入り)して各郡県を平定した[127]。趙雲は江州(こうしゅう:
諸葛亮・張飛・趙雲ら援軍と合流した劉備は成都を包囲した。このとき、211年に曹操に反乱を起こしたのち敗れ、張魯のもとに身を寄せていた猛将馬超(ばちょう)が劉備の誘いに乗り帰順、それを聴いた劉璋はついに降伏、益州は平定された[127][131]。この戦いで趙雲は翊軍将軍(よくぐんしょうぐん)に任ぜられた[132][131][注 16](劉備の入蜀)。
『別伝』曰く、益州平定後、劉備は益州に備蓄してあった財産や農地を諸将に分配しようとしたが、趙雲はこう反対した[134]。
劉備はこの意見に賛成して従ったという[136][137]。この趙雲の諫言は『全三国文』(
建安20年(215年)、曹操が張魯を攻撃し、漢中を手に入れる。同年、劉備が益州を手に入れたことにより、孫権から荊州の返還を求められていた劉備は、一部の領地の分割に応じることにした[124]。
建安22年(217年)、参謀の法正(ほうせい)が劉備に漢中を攻めるよう進言し、漢中をめぐって曹操と劉備の間で戦いが始まる。法正の策に従い、劉備は自ら漢中に赴き、趙雲も劉備の本隊に従軍した[139]。建安23年(218年)、劉備は陽平関(ようへいかん)に兵を置き、一進一退の攻防は1年続いた(陽平関の戦い)。
建安24年(219年)正月、劉備は定軍山(ていぐんざん)へ移ると、後を追ってきた夏侯淵(かこうえん:夏侯惇のはとこ)と対峙する。劉備は先陣に名乗りをあげた黄忠(こうちゅう)に法正を組ませ、夏侯淵を討ち取ることに成功した[140][141][142][143]。3月、激怒した曹操は自ら大軍を率いて漢中に赴き、劉備と対峙する[144][145]。
『別伝』曰く、このとき曹操軍は数千万袋もの兵糧(ひょうろう:軍隊の食料、米)を北山の下に運んだ。黄忠はこれを奪うことができると考え、趙雲の兵を借りて出陣したが、約束の時間を過ぎても黄忠が戻ってこなかったため、趙雲は少数の兵を率いて軽装で偵察へ向かったところ、曹軍の前鋒と遭遇し、交戦になる。趙雲は敵陣に突撃しては後退を繰り返して曹軍を翻弄し、見事な撤退戦で無事に自陣へ戻った。しかし部下の将軍張著(ちょうちょ)が負傷し、敵陣に取り残されていたので趙雲は再び馬に乗って張著を迎えに行った[146][147]。その後、曹軍は再び盛り返して趙雲らの陣まで追撃してきた。陣にいた
劉備は翌朝、趙雲の陣に自ら視察に向かい、
と称賛した。宴会が開かれ、夕方にまで至ったという。軍中は趙雲を
同年5月夏、曹操はわずか2か月で全軍撤退させ、ついに劉備は漢中を手に入れた[157][158][159](定軍山の戦い)。
同年7月、漢中を手に入れた劉備は、前漢の高祖・劉邦(りゅうほう:前漢の初代皇帝)にならい漢中王を称する[160][159]。
この直後、関羽は荊州から魏(ぎ:曹操の王朝。曹魏)に侵攻し、曹仁の居る樊城を包囲すると漢水を堰き止め水攻めにし、援軍に来ていた于禁の軍を壊滅させ、于禁は降伏、さらに龐徳(ほうとく)を討ち取り、関羽の勢いはまさに華夏(かか:中国全土のこと)を大いに震撼させた[161][162]。
しかしこのとき、荊州の領有を巡って劉備との関係が悪化していた孫権は、曹操のもとに使者を送って劉備との同盟を破棄。曹操と密かに和睦を結んでいた。配下の呂蒙(りょもう)に荊州に攻め込ませ、江陵ほか、いくつもの主要拠点が次々に陥落。これを知った関羽は退却するも、同年12月、退路を失った関羽は孫権軍に捕らえられ、息子の関平(かんぺい)とともに処刑された[163](樊城の戦い)。荊州を手に入れた孫権は関羽の首を曹操に送りつけ、曹操はこれを手厚く葬った[164][注 20]。
建安25年(220年)正月に曹操が病死すると、子の曹丕(そうひ)が献帝に禅譲(地位を譲ること)を迫って皇帝に即位し、ついに後漢は滅びた[165]。これを受け、建安26年(221年)4月、劉備は群臣の擁立を受け、漢の正統な継承者として漢の皇帝を称し、即位した[166](蜀漢(しょっかん:または季漢(きかん:漢の末っ子の意[167])とも呼ばれる)。諸葛亮は丞相(じょうしょう:君主を補佐する最高位の官吏)に任命され、元号を章武(しょうぶ)とし、魏・呉・蜀の三国鼎立(ていりつ)となった[注 21]。
同年、劉備は呉に殺された関羽の仇討ちと、荊州を奪還すべく呉への出兵を決意する。多くの臣下が不利を説き、劉備を諫止したが聴き入れられなかった[168]。このとき秦宓(しんみつ)もまた、「天の時(天運)が味方しない」と諫言すると、劉備の怒りを買って一時投獄された[169]。
『別伝』曰く、大いに怒った劉備に対し、趙雲はこう諫言した[170]。
しかし劉備には聴き容れられず、同年7月、劉備は呉征伐のため荊州方面へ侵攻を開始。諸葛亮は成都(蜀)に、趙雲は後詰(ごづめ:味方の後方に置き、戦機に応じて投入される部隊)として江州督(とく:諸州の軍事の監督)として巴に留まることになった[173]。戦いは約一年続いたが、章武2年(222年)6月、夷陵(いりょう)の戦いで呉の陸遜(りくそん)の火攻めにより、蜀漢は大敗を喫する。劉備に従軍した荊州出身の多くの将校が戦死し、混乱の中で呉や魏に投降した者もいた。
この戦いで蜀漢は多くの人材を失い、国力を大きく消耗することとなった。『別伝』曰く、劉備の大敗を知ると、趙雲は永安(えいあん:
夷陵の戦いの大敗後、病を発して床に伏していた劉備は、章武3年(223年)4月、白帝城にて崩御した。享年63であった[175]。
同年5月、元号を建興(けんこう)に改め、子の劉禅が即位すると、『正史』曰く、趙雲は中護軍・征南将軍(ちゅうごぐん・せいなんしょうぐん)へ昇進、諸葛亮・魏延(ぎえん)らと同時に、
建興3年(225年)、劉備の死後から益州南部で起こっていた反乱を鎮めるため、諸葛亮は自ら南征を開始、孟獲(もうかく)らを破って平定に成功し、12月に帰還した[177]。しかし、北伐(ほくばつ:曹魏への侵攻)に備えて税の取り立てが行われたため、その後もたびたび反乱が繰り返された[178]。建興4年(226年)、魏では曹丕が逝去。長男・曹叡(そうえい)が第二代皇帝に即位した[179]。
建興5年(227年)、諸葛亮は出師表(すいしのひょう:出陣前に決意や抱負を述べた上奏文)を劉禅に上奏し、『正史』曰く、趙雲は諸葛亮と共に曹魏への侵攻(北伐)に備え漢中に駐留する[180]。
建興6年(228年)春、諸葛亮が斜谷(やこく)街道を通って郿(び)を奪うと宣伝すると、曹叡は曹真(そうしん)を派遣し、曹真は箕谷(きこく)に大軍を派遣する[181][182]。趙雲と副将の鄧芝(とうし)が別動隊を率いて
『正史』曰く、趙雲と鄧芝は兵力で劣り、敵は強大であったことから、箕谷の戦いでは不利を強いられたが、兵士たちをよくまとめて陣を堅守し、大敗から免れることができた[186][注 24][注 25]。
しかし街亭(がいてい)では、諸葛亮が諸将の反対を押し切って先鋒に抜擢した馬謖(ばしょく)が命令に背き、魏の張郃(ちょうこう)に撃破され大敗[191][192](街亭の戦い)。蜀軍は敗戦により手に入れた三郡を手放し[193][194]、全軍漢中に撤退、諸葛亮は馬謖を処刑した[195]。
そののち諸葛亮は「街亭では命令を違える過ちを犯し、箕谷では警戒を怠るという過ちを犯しました。その責任は任命した私にあります」[注 26]と上奏し、諸葛亮は自身の位階を三階級下げ右将軍に降格[198]、趙雲は鎮軍将軍に降格された[199][注 27]。一方で、『華陽国志』では位階ではなく「秩(ちつ:給与された金銭や物資)を貶した」との記録がある[202]。
『水経注』(すいけいちゅう:北魏(ほくぎ)時代の地理書)によると、この撤退戦の際に趙雲は赤崖(せきがい)より北の百余里に渡る架け橋を焼き落すことで魏軍の追撃を断ち切っており、その後しばらくは鄧芝と共に赤崖の守りにつき、屯田(とんでん:辺境を防衛する兵士の農耕)を行っている[203]。
『別伝』曰く、この退却時に趙雲が自ら
「敗軍の将になぜ恩賞があるのですか。どうかその品々をそのまま赤岸(赤崖)の倉庫に納めて、10月になってから冬の褒賞として配られますよう、お頼みします」 — 『三国志』巻36「趙雲伝」裴注『趙雲別伝』[206]
『正史』曰く、建興7年(229年)卒。
趙雲の長子・趙統(ちょうとう)が跡を継ぎ、官位は虎賁中郎督(こほんちゅうろうとく)・行領軍(こうりょうぐん)に昇った[211][注 31]。
『正史』では上述の通り、「建興7年(229年)卒」となっているが、諸葛亮が建興6年(228年)11月に上奏したとされている『後出師表』(ご・すいしのひょう)では、「漢中に至ってより一年、趙雲・
『正史』曰く、32年後の
『別伝』曰く、諡を追贈される前、劉禅は詔勅で「趙雲はかつて先帝(劉備)に仕え、功績はすでに顕著である。朕は幼い頃から多くの苦難を経験してきたが、忠義に溢れる彼を頼りに、幾多の危険を乗り越えることができた。諡号というものは、英雄の大いなる功績を称えるためのものである。世間の意見でも、趙雲に諡号を贈るのがふさわしいと声が上がっている」と述べた[221]。大将軍の姜維(きょうい)たちは議を行い、以下を上奏した。
「趙雲はかつて先帝(劉備)に仕え、その功績はすでに顕著であり、天下の経営に尽力し、法と秩序を重んじ、その功績は記録に値するものでした。中でも当陽の役(長坂坡の戦い)における彼の義は金石を貫き、忠義を尽くして主君をお護りしました。主君がその功績を記憶にとどめ、彼を厚遇したのは当然であり、臣下は死を恐れず忠誠を尽くします。もし死者に知覚があるとすれば、その名は不朽の名声を得るに足るでしょう。生者もその恩義に深く感謝し、身命を捧げる覚悟です。
謹んで諡法を調べますと、柔順・賢明・慈愛・恵愛を持つ者を『順』と称し、職務を秩序正しく、けじめのあることを『平』と称し、災禍・反乱を打ち勝ち平らげることを『平』と称します。
よって、趙雲に諡して『順平侯』と称すべきです」[注 33] — 『三国志』巻36「趙雲伝」裴注『趙雲別伝』[223]
諡号の追贈から2年後の
趙雲の長子の趙統のその後については史料に明確な記述はなく、蜀に留まったのか、劉禅らのように洛陽(らくよう)に強制移住させられたのか、定かではない[227]。
中国では近年、三国志人物に関する研究が活発化し、数多くの書籍や論文が発表されている[228]。趙雲に関する研究は、他の諸葛亮や劉備といった人物に比べ、やや遅れてスタートした。その嚆矢は、1983年に陳邇冬が『光明日報』に発表した『替趙子龍抱不平』とされる。以降、正史『三国志』(以下、正史)、『三国志演義』(以下『演義』)、戯曲、評書など多様な資料を総合的に分析されながら研究されてきたが、『演義』を基にした研究が主流を占めている[229]。一方、正史(歴史上の趙雲)に関する研究は、21世紀に入ってから本格化し、論文や書籍が相次いで発表されている。以下は、中国・日本における学者・研究者による正史の趙雲についての考察を記述する(別伝については#趙雲別伝を参照)。
正史にも『別伝』にも生年についての記述はないため年齢不詳であるが、以下を基に推論されている。
劉備配下時代(『趙雲別伝』含む)は、劉備が長らく左将軍の地位だったことと[268]、開府(高官が役所を設けたり、新しい都や拠点を開くこと)[W 12]をしていなかったため、劉備が創設した官が多い(後述の雑号将軍:ざつごうしょうぐんを参照)。劉禅配下時代は諸葛亮が開府し、重号将軍(じゅうごうしょうぐん)に就いている。
魏は独自の九品官人法を用いており、後漢・魏・呉・蜀では、同じ官職名でもそれぞれの国や時代により職務・位階(地位、等級)などに違いがある場合がある。
以下は趙雲が就いた役職・官職についての概説(職掌・在任期間など)と、研究者による推論など。各該当記事も参照(官職名横の丸数字①~⑨は就任順を表す)。
詳細はそれぞれの該当記事を参照。
正史には趙雲がどこに葬られたのか記録はないが[302]、以下に趙雲墓とされている墓が3か所ある。
清の順治帝は自身を劉備の生まれ変わりだと名乗り、「二弟の関羽が夢に現れ、三弟の張飛は遼陽に、四弟の趙雲は南陽にいると告げた」と大臣たちに言い、神勅を発して遼陽で張飛の生まれ変わりを、南陽で趙雲の生まれ変わりを探させた。南陽の知県は3か月間、趙雲らしき人物を探したが見つけられなかった。
この時、偶然にも南陽市の南三十里の村で、誤って人に怪我を負わせてしまった罪で役所に送られた趙走軍という農民がいた。 知県は趙走軍の濃い眉、大きな目、長身で整った容姿を見て趙雲に違いないと思い、名前を聴いた知県は「”走”に”軍”を足すと、”運(运)”(うん)=”雲(云)”(うん)ではないか? 彼は間違いなく趙雲の生まれ変わりだ!」 と頭の中で考え喜んだ。知県は縛られていた趙走軍を解き、明日都へ向かうことを告げた。事情を知らない趙走軍は、都行きは傷害の罪で処刑される事だと思い、恐ろしくなった彼はその夜、首を吊った。
趙走軍が自害したと聞いて、知県は急いで都に戻って皇帝に謝罪した。 順治帝は一部始終を知ると、彼を責めることなく、四弟に永遠に会えなくなったことに激しく涙を流し、趙走軍を王侯として手厚く南陽に葬り、子龍祠を建てて永遠に偲ぶようにとの詔を発し、これが南陽の趙雲墓になった。 — 「南陽趙雲墓」の伝説より[320][321]
正史『三国志』は、蜀漢と西晋(せいしん)に仕えた陳寿(ちんじゅ:233年 - 297年)が編纂した後漢~西晋までの約100年の歴史を簡潔に記述した歴史書である。『三国志』の成立から約100年後の南朝宋(宋:そう)時代に文帝(ぶんてい)からその簡素な記述を補うよう命を受けた裴松之(はいしょうし:372年 - 451年)は、当時まだ残されていた史料・文献を広く調べ、詳細な注釈を付し(裴松之注、裴注とも)、この裴松之注によって『三国志』の内容は大幅な充実をみることになった[327]。
『
既に散逸(さんいつ:まとまっていた書物がばらばらになって行方がわからなくなること)[W 20]しているため、裴松之の注以外にどのような内容が記されていたのかを知ることは困難である。なお、『正史』の「趙雲伝」と区別するために「別伝」と称されるため[331]、本来の名称は『趙雲伝』であったと推測される。
「別伝」は他の人物にも存在し、三国時代の主な人物は以下の通り[332][333]。
魏 | 呉 | 蜀 |
| ||||||
曹操の別伝名は『曹瞞伝』。作者不明だが、呉の国の人物が記したとされる[334]。内容は悪意に満ちているが、物語としては面白いため『演義』に採用されている(その他文献は三国志_(歴史書)#裴松之の注に引用された主要文献を参照)。
以下は「別伝」についての解説と研究者による信憑性について。
「別伝」とは、主に後漢時代~東晋(とうしん)時代までにおける、単独の人物に関する伝記である。その多くは名士を中心とした知識人層の名声を高める目的を持っていたが、中にはあまり重要視されなかった人物に焦点を当てるためや[335]、あるいは晋代以降に世家の子弟が多く就任していた秘書郎(ひしょろう:皇室の蔵書を管理し、校正や編纂を行う官吏)や佐著作郎(さちょさくろう:国史(国の歴史書)の編纂をする著作郎(ちょさくろう)の下に位置する官吏)の課題として書かれた[336]。後漢時代から続く人物評の流行のみならず、魏晋時代における名士層の気風の発達に伴い盛んに製作された別伝は、対象の人物に関する雑多な内容が盛り込まれており、「正統」である史書とは異なる視点や性質を有するほか[337][338][339]、表現に小説的技法が見られるのが特徴である[340]。裴媛媛(はいえんえん)によれば、別伝の作者名が往々にして無記載である理由としては、単なる佚名によるもの以外では、別伝が成立する初期段階では書面ではない逸聞の寄せ集めに過ぎなかったために、それを引用する後世の歴史家たちが便宜的に「別伝」という通称を用いたこと、またそれらの逸話が単独の人物ではなく複数人から伝わったことも挙げられる[341]。だが時には、『孫資(そんし)別伝』に対して裴松之が指摘しているように[342]、家伝由来の伝記であるために該当する人物の失点を隠して記されたものも存在した[343]。また顔師古(がんしこ)が『東方朔(とうぼうさく)別伝』について「みな実際の出来事ではない」と難じたように、怪奇現象などの確証に欠ける逸話が載せられることもあった[344]。とはいえ、全ての別伝がそれらと同様に信憑性が低いとは限らず、依然として別伝の史料的価値は高いといえる[345][346]。
史書は後漢時代まで国家が編纂するものであった(ただし、国家が編纂することにより偏向が生まれることもある)。裴松之が『三国志』に注をつけて引用した数々の書物を批判し、史実を確定しようとしたのは、不確実な内容を記す史書が増えたためであった[347]。『趙雲別伝』には趙雲が活躍する記述が多いのに対し、陳寿による本伝の記述は簡素であることから、その信憑性を疑う声も少数ある。しかし、引用した作品を厳しく批判したり矛盾を指摘する裴松之が、『趙雲別伝』には一切疑問を呈しておらず、また三国志研究者の論文や著作物でも、史書を補う資料として扱うのが通例である。
後世、中国では趙雲を目上に対して臆せず諫言する勇敢さに加え、文官的な知性、大臣の気質を持つ儒将として高く評価した(後述の個人の評価を参照)。蜀漢の名臣名将の塑像が祀られた成都武侯祠の『昭烈(劉備)殿』西側にある「武将廊」の趙雲の塑像が文官の服を着せられているのは、このためであるとされる。清代は『三国志演義』の流行により高まった趙雲の人気もあり、蜀漢の武将としては、本殿に祀られている別格扱いの関羽・張飛を除いて「武将廊」に筆頭の位置に置かれている(文官を祀った東廊「文官廊」では龐統が筆頭)[注 53][注 54]。現在の成都武侯祠の文武官の塑像は清代に作り直されたもので、塑像の増減や調整が過去数回あり、現在の配置は1953年に改修された時のものである。
成都武侯祠博物館の『武侯祠大観』によると、「塑像の外見は後代の伝承や小説・戯曲由来である」と記されており、そのため老人姿の趙雲像も京劇で登場する老年期(武老生)の姿を参考に作られたと考えられる[357][注 55]。(#古跡と施設の武侯祠も参照)
成都武侯祠以外では康熙61年(1722年)に歴代帝王廟に趙雲が従祀名臣の列に加わっている[注 56]。小林瑞恵は、趙雲が従祀名臣に列したことについて、趙雲を不忠者と評しなかった毛宗崗本版『演義』の流行による影響の可能性を指摘している[359][注 57]。
『三国志演義』(以下『演義』)は、中国の元末から明初にかけて成立した、『三国志』を基にした長編白話小説である。
北宋末~南宋初を舞台とする『水滸伝』、唐代の僧侶・玄奘三蔵の天竺への旅を描いた『西遊記』、『水滸伝』のスピンオフ作品である『金瓶梅』と並び、「四大奇書」と称される。『金瓶梅』を除き『紅楼夢』を加えたものは「四大名著」と呼ばれ、中国で古くから広く親しまれ、数多くの関連作品や演劇の演目を生み出してきた。
『演義は』以下を基にして羅貫中の手により創作されたと伝わっている。
正史『三国志』(以下『正史』)は、裴松之注からも多数引用されている。『三国志平話』(以下『平話』)と元雑劇は三国時代の物語と当時の民間伝承などを基にして作られ、『平話』は上・中・下巻からなる長編小説で、張飛が最も活き活きと描かれている点が特徴である[405]。元雑劇は戯曲の一種である。
『演義』は後にさまざまな版本が生まれたが、現在広く知られている『演義』の内容は、清代に成立した毛宗崗による版本である。以下は『演義』における趙雲についての概説。
『演義』の基となった『平話』や元雑劇(#元雑劇も併せて参照)は、当時民間に広まっていた三国志に関する物語や民間伝承などを基に作られた。これらの作品において、趙雲は特筆すべき目立った活躍を見せておらず[406]、『演義』における趙雲像の創造においても、羅貫中はそれらの影響をほとんど受けていないと言える[407]。羅貫中は『正史』の「趙雲伝」注釈に引かれる『趙雲別伝』(以下『別伝』)に記された逸話を多く採用・引用しており[408]、それを踏まえて才能と徳を兼ね備え、知略と勇気を併せ持ち、中華民族の多くの伝統的な美徳を体現する人物として描いている[注 59]。しかし、諸葛亮や関羽に比べると、趙雲の神秘性は強調されておらず、虚構のエピソードも少ない。そのため『演義』における趙雲像は、史料に基づいて形成されたと言える[410][411]。
また、『平話』には「諸葛亮が道術を用いて、豆をまいて兵士を作る」[412]といった、荒唐無稽な話が多いのに対し、『演義』は「正史に忠実な記述を重視する」という両作品の姿勢の違いも影響を与えていると言え[413]、陳香璉は『平話』で趙雲の形象が弱められていたことで「五虎大将軍」(蜀漢の五人の将軍)のバランスが崩れていたのを、羅貫中と毛宗崗の二人が史料に基づいて趙雲を本来の姿に戻した、と分析している[414]。
以下は毛宗崗本版『演義』における趙雲の主な事跡(あらすじ)。
【回 】後ろの[注 ]は毛宗崗の趙雲に関する点評(コメント)。
少年・趙雲は袁紹に仕えていたが、国や民を救済する心がない人物だと判り、公孫瓚の元へ向かうと袁紹配下の文醜に襲われているところに遭遇し、文醜と五、六十合渡り合ったが決着はつかず、文醜は退却。公孫瓚は趙雲に感謝し、臣下に迎えた。そののち劉備・関羽・張飛たちが援軍にやって来る。公孫瓚は劉備に趙雲を引き合わせると、劉備と趙雲はお互い惹かれあい離れがたく思った。別れの日、二人は互いの手をとり、涙を流しながらいつか再会できるようにと挨拶を交わす。その後、公孫瓚は袁紹に敗れ、趙雲は各地を放浪の末、ついに劉備と再会、配下となった。
【三国演義 第7・11・28回】[注 61][注 62]
劉備一行は荊州で劉表に手厚く遇される。ある日、劉表は後継ぎについて相談する。「後妻の蔡氏との子・次男劉琮を立てたいが、長男を廃するは礼法に反する。しかし長男劉琦を立てると、蔡氏一族は軍の要職に就いており、必ず災いが起こるだろう」劉備は「長男を廃することは昔から乱を起こす道です」と答え、盗み聞きした蔡氏は弟の蔡瑁と劉備の暗殺を計画する。
劉備の元に襄陽から使者がやってきて、劉表は病気が悪化し動けないので代わりに慰労会に出て客を迎えてほしいという。劉備は趙雲を護衛にして300の兵と襄陽へ向かう。蔡瑁は蒯越と相談し、別室を用意して趙雲を引き離すことにした。宴もたけなわになった頃、伊籍が劉備に耳打ちして蔡瑁の計画を告げ、劉備は逃走。大きな川が行く手を阻んだが、馬の的盧が三丈も跳躍したおかげで追手から逃れた。劉備がいないことに気づいた趙雲は蔡瑁に劉備の行方を尋ねる。シラを切る蔡瑁に疑心暗鬼になるが、証拠がない今は軽はずみな行動は控えた。趙雲は一晩中探し回ってついに草堂で劉備と再会した。劉備は司馬徽(水鏡先生)の草堂にたどり着き、今後について教えを乞うていたのだった。
【三国演義 第34-35回】[注 63]
劉備は三顧の礼をもって諸葛亮を軍師として迎えることになった。しかし劉表が病死し、後を継いだ劉琮は劉備に何も伝えず曹操に降伏した。突然曹操の大軍に攻め寄せられた劉備軍は長坂坡で追いつかれる。劉備の妻子を捜索していた趙雲は敵将の夏侯恩を討ち取ると、宝剣『青釭剣(せいこうけん)』を手に入れた[注 64]。その頃、糜芳は趙雲が曹操軍の方角へ逃走するのを見たと劉備に告げ、張飛は「やつを見つけたら俺が刺し殺してやる!」と息巻いた。劉備は「子龍は私が逆境にある時から従ってくれた。子龍は私を裏切らない」と信じなかった。
趙雲はついに阿斗(劉禅)と
【三国演義 第41-42回】[注 65][注 66][注 67][注 68]
趙雲は桂陽攻略を志願するが、張飛も名乗りを上げたので二人は喧嘩になる。くじ引きの結果、趙雲が出撃することになる。桂陽太守の趙範は臣下の陳応があっさり撃退されたので降伏を願いでた。
趙範と趙雲は同郷と分かり、喜んだ二人は4か月生まれが早い趙雲を兄として義兄弟の契りを結ぶ。趙範は亡くなった兄の嫁の樊氏を趙雲に引き合わせ、美人の樊氏を娶るよう勧める。趙雲は「おまえの兄嫁ならわたしの兄嫁でもある。何故道理に背くことができるのか!」と大いに怒り、趙範を殴り倒して城を出て行った。怒った趙範は陳応と鮑隆に趙雲を捕らえるよう命じるが、趙雲に斬り捨てられ趙範は捕縛される。劉備は趙範の行為に敵意がなかったことを知ると樊氏を娶るよう趙雲に薦めたが、劉備の名声が落ちることを理由に固辞したので、劉備は「子龍は真の男だ」と感嘆した。そして趙範を解放してそのまま太守にし、趙雲を賞した。
【三国演義 第52回】[注 69]
劉備は同盟国の呉の孫権から妹(孫夫人:孫尚香)との縁談を薦められ、この申し出を受けることにした。趙雲は劉備の護衛として同行することになった。諸葛亮から三つの錦袋(錦嚢の計)を授かり、困ったときに順番に開けるように命じられる。この婚姻話は周瑜・孫権による劉備暗殺の罠であったが、三つの錦袋の中の指示に従って数々の困難から趙雲は劉備を守りぬき、呉国太にも二人の婚姻を認められ、無事に荊州へ戻ることができた。
【三国演義 第54-55回】
孫権は劉備が益州に入ったと知ると、呉国太が危篤であると偽りの書状を孫夫人に届け連れ戻そうとした。同時に阿斗も連れ出し荊州と交換させようと考えていた。趙雲は孫夫人と阿斗がいないことに気付き、慌てて船を追いかけ飛び乗った。呉兵から抵抗され孫夫人に罵られるも、隙をついて趙雲は阿斗を奪い返した。張飛も慌てて駆けつけ、阿斗だけは返してもらい、孫夫人を逃した。
【三国演義 第61回】[注 70]
諸葛亮は曹操軍の輜重を奪うため、黄忠を先鋒として派遣、趙雲を陣営の守備とした。約束の時刻になっても黄忠が戻ってこないので趙雲は探索に向かうと、黄忠が曹操軍に囲まれていたのでこれを次々に倒し救出した。曹操は「長坂の英雄は健在だったか。あの者を軽んじるな」と伝令する。
趙雲らの陣に向かった張郃と徐晃は、開かれた門の前にただ一人、馬に乗った趙雲が立っているという異様なありさまに警戒した。曹操自らやってきて前進するよう促すも、趙雲は動じない。逃げようとした曹操軍に趙雲が合図すると、弓弩がいっせいに放たれ曹操軍は混乱して踏みつけ押し合い、漢水に落ちて多数の死者が出た。劉備は諸葛亮に喜んで言った。「趙子龍は全身肝っ玉である!」
【三国演義 第71回】[注 71]
こうして漢中を手に入れた劉備は、諸葛亮たちの意見を聞き入れ、漢中王になることを決意した。関羽、張飛、趙雲、馬超、黄忠の五人は「五虎大将軍」に封じられた。
劉備のもとに間諜が「曹操が孫権と結託して荊州を奪おうとしている」という情報を持ち帰る。諸葛亮は関羽に樊城を攻撃させ、敵の気をそらす提案をし、劉備は費詩を荊州に派遣し、関羽が五虎大将の筆頭になったことを伝える。関羽は「翼徳(張飛)は私の弟であり、孟起(馬超)は名門の出、子龍(趙雲)は兄に長く仕え、いわば私の弟も同然。しかし何故老兵の黄忠が私と同列に扱われるのか!」と激怒した。費詩はなんとか説得し、ようやく関羽を納得させて劉備の命令通り樊城を攻めることになる。
【三国演義 第73回】
関羽は樊城を攻め曹操軍を追い詰めたが、味方の裏切りや呉軍に背後から攻められ、ついには捕らえられて息子の関平らとともに呂蒙らに殺されてしまった。【演義第73-77回】
怒った劉備を趙雲と諸葛亮は共に諫めて止めようとするも、劉備はこれを聴きいれず対呉戦争へと行ってしまう。その途中、張飛は苛烈な私刑でむち打ちにした部下二人に恨まれ暗殺されてしまった。さらに夷陵にて劉備軍は陸遜の火計で大敗。江州にいた趙雲が救援に来たので陸遜は追撃せず軍を撤退させた。この戦いで多くの将兵が戦死し、劉備は心労から病にかかってしまう。ある晩、夢の中に死んだ関羽と張飛が現れた。死期を悟った劉備は諸葛亮と趙雲を呼び寄せて後事を託す。趙雲は涙を流して地に拝し、生涯忠誠を誓った。
【三国演義 第81-85回】[注 72]
諸葛亮は北伐を進める前に、度々反乱が起きる南蛮の征伐を開始。馬謖の「心を攻める案」を採用し、南蛮王孟獲を七度捕らえ七度目も解放しようとしたところ、孟獲はようやく心服して降伏した。
【三国演義 第87-91回】
帰還した諸葛亮はついに北伐に取り掛かる。趙雲は高齢を理由に人選から漏れ、抗議の声をあげる。鄧芝が共に先鋒に行くことに名乗りをあげたので二人を出発させた。趙雲は韓徳の息子たちをつぎつぎに討ち取り、鄧芝は「まさかすでに七十歳になっているとは思えません」[注 73]とその猛将ぶりを称えた。夏侯楙の軍勢と対峙し、趙雲は韓徳を討ち取るも、深追いして程武の計略にはまってしまう。孤立した趙雲の元へ張飛の息子張苞、関羽の息子関興が軍を率いて助けに現れ、窮地を脱した。
【三国演義 第92-94回】[注 74]
街亭での馬謖の敗北により退却命令を受け、趙雲は別動隊を率いて殿になる。無事帰還した趙雲の軍が一人一騎も失っていないことを不思議に思った諸葛亮が鄧芝に問うと、「子龍将軍が一人で殿となられ、わたしは兵を率いて先行しましたので、物資を放棄しなかったのです」と答えた。諸葛亮は金を褒美としたが、趙雲は「三軍に何ら功はなく、褒美を受け取ると丞相の賞罰が明確でなくなります」と固辞し、諸葛亮は趙雲の徳に今改めて敬服するのだった。
【三国演義 第95-96回】[注 75]
諸葛亮は宴会を開き諸将と打ち合わせをしていると、突然一陣の風が吹き、庭の松の樹が折れてしまう。不吉な予感がした諸葛亮の元に、趙雲の息子の趙統と趙広が「父が昨晩病没した」と告げに来る。諸葛亮は「国家は棟木と梁を失い、わたしは片腕を失ってしまった」と泣いて言った。劉禅も声をあげて泣き、趙雲に大将軍・順平侯の爵位を贈り、成都の錦屛山に埋葬し、趙雲の息子たちには墓守をするよう命じるのであった。
【三国演義 第97回】
以下は『演義』の研究者、および作家による『演義』の趙雲についての推論や考察など。
作中の矛盾点についての考察。
『演義』の70歳を元にした年齢 | 沈伯俊の著書(-10歳) | ||||
---|---|---|---|---|---|
西暦 | 年齢 | 実際の描写 | 西暦 | 年齢 | 実際の描写 |
228年 | 70歳 | 第一次北伐 | 228年 | 60歳 | 第一次北伐 |
225年 | 67歳 | 諸葛亮が「中年」と呼ぶ | 225年 | 57歳 | 諸葛亮が「中年」と呼ぶ |
219年 | 61歳 | 58歳の関羽が「弟」と呼ぶ | 219年 | 51歳 | 58歳の関羽が「弟」と呼ぶ |
211年 | 53歳 | 孫夫人から劉禅を奪還 | 211年 | 43歳 | 孫夫人から劉禅を奪還 |
208年 | 50歳 | 長坂坡の戦い | 208年 | 40歳 | 長坂坡の戦い |
191年 | 33歳 | 「少年」として描かれる | 191年 | 23歳 | 「少年」として描かれる |
以下は正史との違いについて。
作品内における羅貫中についてや、作中の表現の考察。
作品内における毛宗崗についての考察。
以下は『演義』における趙雲と事跡などについての評価。
以下は主な『演義』の関連作品についての概説。
京劇とは、清代(1790年頃)に北京で生まれ発展した演劇・戯曲である。清代は毛宗崗版本の『三国志演義』が生まれ広く普及した時代(1666年頃)でもあり、『演義』を改編した演目『三国戯』(三国劇)が数多く作られた[488]。
名優たちによる高度な演技と演出によって形作られた京劇における「白袍を着た完美(完璧)なる儒将・趙雲」のキャラクターは、外国勢力による侵略に脅かされていた当時の清において、あらゆる階層の人々に理想の英雄像として受け入れられた[489]。この趙雲像は、現代においてもなお「趙雲」というキャラクターの根底をなす重要な要素としてその影響力を維持している。以下は京劇における趙雲についての概説。
演目名 | 役柄 | 演目内容 | 出典 |
---|---|---|---|
磐河戦 | 武小生 | 『演義』第7回。 趙雲が袁紹の下を去り、公孫瓚を助ける話 |
[523] |
借趙雲 | 〃 | 『演義』第11回。『一将難求』とも 援軍として趙雲を借りることに張飛が不満を漏らす |
[524] [W 25] |
長坂坡 | 武生 | 『演義』第41回。『単騎救主』とも 単騎で阿斗を救う、趙雲の最も有名な演目 |
[508] |
甘露寺 | 〃 | 『演義』第54-55回。『龍鳳呈祥』とも 劉備の結婚に趙雲が護衛で従う話 |
[525] |
截江奪斗 | 〃 | 『演義』第61回。『攔江奪斗』とも 孫尚香から阿斗を奪還する趙雲の代表演目のひとつ |
[526] [527] |
子龍護忠 | 〃 | 『演義』第71回。『陽平関』とも 漢中で黄忠を助ける話。中年期なので黒髭をつける |
[528] |
鳳鳴関 | 武老生 | 『演義』第92-94回。『斬五将』とも 韓徳の息子達を倒す話。老年期なので白髭をつける |
[529] |
『収趙雲』『黄鶴楼』『取桂陽』『白帝城』『天水関(収姜維)』『失空斬』[注 85]ほか |
京劇が成立する清代より前の時代である宋・元時代に隆盛した戯曲の一種。
『三国志平話』と同じく、羅貫中が『演義』を創り上げる際に参考にしたとされるが、『演義』における趙雲像の形象に関しては、『平話』同様、影響を受けたようには見られない[407]。演目全体を通して見ると、活躍の場は少なく脇役に収まっており、「知勇を兼ね備え、大胆かつ慎重な性格」という後の趙雲像の萌芽は見られるものの、キャラクターの掘り下げとしてはまだ不十分で未完成と言える[515](「#趙雲像の形象」も参照)。以下は元雑劇における趙雲の概説。
演目名 | 作者 | 演目内容 | 出典 |
---|---|---|---|
劉玄徳独赴襄陽会 | 高文秀 | 『平話』中巻、『演義』の第34-35回に相当。 蔡瑁らに暗殺されそうになる劉備を徐庶が補佐する話。 話術に長けた趙雲が、徐庶を説得して劉備に仕官するよう促す。 |
[535] |
諸葛亮博望焼屯 | 不詳 | 『平話』中巻、『演義』の第37-39回に相当。 諸葛亮を迎え入れて博望坡で夏侯惇と戦う話。 臥龍崗にいる劉備に、趙雲が甘夫人が阿斗を出産したことを告げに来る。 |
[536] [537] [39] |
両軍師隔江闘智 | 〃 | 『平話』中巻、周瑜が美人計で劉備を陥れようとする話。『甘露寺』に相当。 趙雲の会話に「長坂坡で三日三晩、百万の軍勢を相手に阿斗を守り、 曹操からは「一身是胆」と称された」[注 86]という話が出てくるが、 長坂坡を題材にした脚本は現存していない。 |
[538] [539] |
劉玄徳酔走黄鶴楼 | 朱凱 | 『平話』中巻、赤壁の戦い後、周瑜との会合で劉備が黄鶴楼に向かう話。 趙雲は会合への参加に反対し、自信過剰な劉封は劉備を焚きつけ、 趙雲と意見が対立する。 深謀遠慮な老将のように描かれ、劉封が「老趙」と呼んでいる。 |
[540] |
走鳳雛龐掠四郡 | 不詳 | 『平話』下巻。荊州南部四郡を奪う話。関羽・張飛・趙雲が黄忠らと交戦する。 『平話』では趙範が長沙太守になっているが、桂陽太守に修正されている。 『演義』に描かれる樊氏との一連の物語は脚本に見られない。 |
[541] [542] |
曹操夜走陳倉路 | 〃 | 『平話』下巻。劉備が益州を平定し、曹操が陽平関に攻め入る話。 黄忠を救出したり、空城計で敵を退けるエピソードはなく、陽平関での 待ち伏せ任務の担当、という脇役に収まっている。 |
[543] |
陽平関五馬破曹 | 〃 | 『平話』下巻。黄忠が夏侯淵を斬るなどの陽平関、定軍山の話を基にした話。 諸葛亮が趙雲に敵将の旗を掲げさせ陽平関を騙し取ったり、五馬(馬超・良 ・忠・謖・岱)をひそめて曹操軍を包囲するなどして、蜀が大勝利する。 |
[544] [545] |
寿亭侯怒斬関平 | 〃 | 『平話』には見られない話。民間伝承由来とみられる。 五虎将の子らが張虎と戦う話。趙雲の子・趙沖なる人物が活躍する。 |
[515] |
趙子龍大閙塔泥鎮 | 〃 | 演目名のみが残り、脚本散逸のためどのような内容だったのかは不明。 趙雲が主題の演目だったとみられる。 |
[535] [534] |
京劇の『三国戯』が誕生して以降の作品では、京劇・民間伝承(後節参照)双方の影響を反映し、「白馬にまたがり白袍姿に銀槍を持つ」という共通点が見られ[546]、1980年代前後の作品からは白馬の名前に「白龍」「白龍駒」が確認できる。(詳細は該当記事を参照)
古跡にまつわる物は南宋以前からのものがあるが、その他の民間伝承は主に清代以降の物が多く、内容も『演義』と京劇の影響が色濃く見受けられる。(古跡にまつわるものは#古跡と施設を参照)
南宋時代、蒙古の襲撃を受けて成都は大きな被害に遭い、蒙古の皇太子・闊端はこれを誇らしげに眺めていた。そこへ白袍姿に銀槍を抱え、白馬に乗った将軍が現れた。英気あふれる彼は、常勝将軍・趙雲にとても良く似ていた。彼は「兵よ集え、賊に抗え! 我と国を守れ!」と大喝して兵を鼓舞し、蒙古兵に突撃した。蒙古兵は次々に槍で突かれ、死体は山のように築かれた。白袍の将軍に従った兵たちは、ついに蒙古兵を成都から追い出すことができた。
後日、成都の人々はみな、「あれは趙子龍が顕聖して蒙古を倒してくれたのだ」と言った。その日、趙雲は「子龍池」という池で馬を洗っていたのだという。のちに人々はその池の横に楼閣と塔を建て、馬に乗り跳躍した趙雲の塑像を祀った。毎日絶え間なく香が焚かれ賑やかだったという。 — 「趙子龍的洗馬池」より[562]
あるとき董卓が真定を訪れたので、真定太守が一番有名な料理店で歓待するも、董卓は提供された料理をどれも気に入らない。料理人が途方に暮れていると、店の窓際に座っていた若い男がシュッ!と立ち上がって長袍を脱ぎ、「私がお伺いしましょう」と董卓に言った。
料理人はその若い男の動作に見入り、新しい料理が閃いた。鰻の頭に切り込みを入れ、若者が長袍を脱いだようにシュッ!と皮を剥して調理した。味も見た目も素晴らしく、董卓は大いに褒め称えたので料理人は命拾いした。若い男は趙雲、字は子龍ということが分かり、料理人はこの料理に「子龍脱袍」と名付けた。
彼の弟子が西城区に支店を開き、現在も湖南の料理店「曲園酒楼」の人気メニューである。 — 「子龍脱袍」より[588]
少年趙雲は祖母の家から自宅へ帰る途中、酸棗嶺という峠道で大男の強盗に遭遇した。趙雲は怖がるふりをして荷物を落とし、気を取られた強盗の隙を見て、懐に隠していた秤鉈(はかりの重りを吊るす道具)で強盗を殴りつけ、その場から逃げ出した。逃げ延びた趙雲はある一軒家で一晩泊めてもらうことになり、女主人は趙雲と息子を一緒に寝かせることにした。
夜中に激しい戸叩きの音が聞こえて趙雲が目を覚ますと、それは先ほど襲った強盗が帰ってきたのであった。包丁を研ぐ音が聞こえ、趙雲は急いでその家の息子を担いで場所を入れ替わった。女は外側にいるのが趙雲だと指差し、強盗は外側にいた息子の首を斬り落とした。二人が死体を玄関から運び出している隙に、趙雲は逃走したのだった。 — 「夜走酸棗嶺」より[591]
『三国志演義』には、趙雲は老衰で死んだと書いてある。私たちは年配の人たちから「趙雲は笑い死にした」という違う話を聞いたことがある。 「周公瑾(周瑜)は怒って死んだが、趙子龍は笑って死んだ」という古い話。
趙雲の72歳の誕生日を祝いに来た親戚友人らは、老将軍の生涯の功績を称える歌を詠んだ。
「20歳、先帝(劉備)に従い、30歳、後主(劉禅)を救って名を揚げ、40歳、長江で後主を連れ戻し、50歳、南蛮征伐で軍の柱となり、60歳、祁山に出で曹軍の五将軍を斬った。70歳、あなたは元気そのもので、優れた馬と槍を持ち、将軍は全身が肝っ玉、百戦百勝、世の無双!」
趙雲は手を振って言った。「いやいや、今日の常山の趙子龍があるのは皆様の支えがあったからこそです!」
宴会が終わり招待客がみな帰ると、趙雲は突然筋肉と骨が腫れているのを感じた。「長い間戦場にいなかったから、違和感があるのだろうか?」そこで風呂に入ろうと思い、服を脱いで裸になった。この身体は何百回の戦いを経ても一度も怪我をしたことがなく、傷一つない。皆が詠った言葉を思い出す。
「将軍は全身が肝っ玉、百戦百勝、世の無双!」
「はははは…」思わず大声で笑うと、息が切れた。こうして彼は名誉の死を遂げた。 — 「趙雲はどのように死んだのか?」[592]
河北省の河北梆子(かほくほうし)、湖南省の湘劇(動画[動 14]も参照)など、中国各省に2~3種類以上の地方劇が存在し、国家に認定されたもので317種ほどがあり、三国志を題材にした演目も多数存在している[593]。メイクや衣装は京劇と変わらないものもあるが、地方独自のものも存在する[594]。河北梆子『青釭剣』の演目では趙雲の妻として李翠蓮が登場し、長坂坡の戦いで劉備達とはぐれた趙雲が、迷い込んだ村で出会い結婚するといった内容になっている。
(歇後語:けつごご。前半の言葉から後半の言葉(意味)を予測する言葉遊び)
中国では、「単騎駆け」や「一対多数」、「七進七出」を行った人物、勇猛な軍人・部隊などに対して「趙雲」「趙子龍」と称されることがある。
主な趙雲にまつわる古跡、遺跡、公園、テーマパークなどの施設、地名など。
名称 | 場所 | 説明 |
趙雲廟 |
河北省 正定県 |
趙雲を祀った廟。明代頃には史料で存在が確認され、何度も改修や移転が繰り返されており、現在の廟は趙雲の末裔が建てたもの[600]。1997年、県級重点文物保護単位に指定されている。 廟門・四義殿・五虎殿・君臣殿・順平侯殿(正殿)があり、趙雲の二人の息子の趙統、趙広の他、劉備や諸葛亮、五虎将などの像も祀られている。清代の『漢順平侯趙雲故里』碑、大邑趙雲墓と長坂坡の土、壁画や正定県の民間伝承に登場する『趙子龍飲馬槽』の展示などもある。 (詳細は趙雲廟を参照) |
子龍広場 |
〃 | 庁舎前にある広場。2007年9月に一般開放。総投資額2,711万元、広場全体の面積は2.01ヘクタールあり、集会中心広場・文化展示廊・緑化休憩区の三要素からなる。歴史を感じられる公園であり、市民の憩いの場にもなっている。子龍広場の中心には巨大な趙雲像があり、正定の歴史的、文化的イメージを表しており、台座の背面に趙雲を賛辞する言葉が刻まれている[W 46]。 |
常山公園 | 〃 | 『常山東路』に整備された公園。趙雲の騎馬像が設置されている。 |
子龍桟橋 | 〃 | 趙雲の字に因んだ桟橋。一角に趙雲が故郷の人々と別れを告げる場面の彫像が設置されている。 その他『子龍大橋』など、趙雲に因んだ構築物や地名があり、『正定城』『常山陵園』など街の至る所に趙雲像が設置されている。 |
臨城趙雲墓 | 同省 邢台市 |
臨城の趙雲の墓。(詳細は#臨城趙雲墓を参照) |
中国馬鎮 | 同省 承徳市 |
豊寧満族自治県にある馬文化をテーマにした観光リゾートパーク。アトラクションや乗馬を楽しめる。『戦神趙子龍』では、長坂坡の戦いを再現した馬上パフォーマンスを観覧することができる[W 47]。 |
後趙雲堡村 | 同省 邯鄲市 |
辛安鎮鎮にある趙雲の名が由来の村。創建年代不明。趙雲が軍を率いてこの村に駐屯したと伝えられている[W 48]。 |
頤和園 |
北京市 | 1750年(清の乾隆15年)、乾隆帝が母である孝聖憲皇后のために造営した清漪園の一部として建設。1860年のアロー戦争で焼失したが、1888年に西太后が再建。その後も何度かの修繕を繰り返している。 「長廊」は全長728メートル、273室からなり、14,000枚以上の絵画で装飾されている。1998年ユネスコの世界遺産に登録。「世界最長の木造廊」としてギネス世界記録に認定されている。山水画、花鳥画などの他、中国の古典的な文化や民話、歴史上の人物や伝説の人物が描かれ、『三国志演義』のひとつに長坂坡の戦い「趙子龍大戦長坂坡」がある。 (詳細は該当記事及び頤和園長廊を参照) |
長坂坡公園 | 当陽市 | 「長坂坡古戦場」に整備され、趙雲を顕彰するために造られた公園。趙雲を称えた『長阪雄風』の石碑や『演義』の名場面を再現した壁画や像が展示されている。『長坂路』ロータリーには、阿斗を抱えて槍を構えた趙雲の大きな騎馬像がある。近くには『子龍路』『子龍村』[W 49]など、趙雲にちなんだ地名や村名がある。 その他、『子龍畈』と呼ばれる丘の近くに、糜夫人が阿斗を抱えて避難したという『太子橋』や、糜夫人が身投げした『娘娘井』(井戸)と、『演義』にまつわる遺跡が存在する。 |
荊州古城 歴史文化旅遊区 |
湖北省 荊州市 |
関羽関係の展示が多いが、『荊州古城』『関帝廟』に劉備、趙雲らの像が展示されている。 |
子龍灘 |
同省 咸寧市 赤壁市 |
赤壁近くの砂州の名。 民間伝承『子龍射帆』によると、『演義』で東南の風を起こした諸葛亮を恐れた周瑜が兵を差し向け、追ってきた呉船から逃れるため、趙雲が船上から神業で呉船の帆を止める縄を射抜いたところ、落ちた帆が大きな砂州へと変貌し、堤のように進路を遮って行く手を阻んだことから、人々はのちにその場所を『子龍灘』と呼ぶようになったという[601]。 |
南陽趙雲墓 | 湖南省 南陽市 |
南陽にあった趙雲の墓。(詳細は#南陽趙雲墓を参照) |
芙蓉峰 趙侯祠 |
同省 長沙市 寧郷市 |
芙蓉峰は芙蓉山ともいい、桂陽の南西に位置し、劉長卿の五言絶句「逢雪宿芙蓉山主人」に登場する芙蓉山と同じ山。趙雲がここに駐屯したとあり、唐代に摩崖石刻が存在し、「趙雲屯兵處」と刻まれていた。唐宋時代には趙雲の功績を記念する『趙侯祠』(別名:漢順平候趙将軍廟。後述の関口趙侯祠とは別物。『護英祠』とも呼ばれた)が建てられ、南北に200平方メートル以上の敷地を占め、煉瓦と木材で造られた青瓦黒瓦の二棟三間の建物だったとある[107]。 祠の前には、葉元棋が書いた『漢順平候趙将軍廟碑記』が刻まれた石碑が建てられていた。『康熙桂陽州志』に詳細な記録が残っており、清代には呉鯨が詩[602]を詠んでいる。 1931年8月に最後の再建が行われ、歴史上の趙侯祠と区別するため、新しく建てられた廟は『子龍廟』と呼ばれた。約600平方メートルの敷地内に、上下のホールや楼閣、南北の耳房などが配置され、上ホールには、剣を構えて胸を張った高さ2メートル以上の趙雲の塑像が安置されていたが、1960年代の文化大革命で何度も破壊され、芙蓉峰には石灰窯や砂利場が開設され、「趙雲屯兵處」の摩崖石刻は爆破、廟の基礎石も石灰の材料にされてしまった[603]。 現在は『漢順平侯趙将軍廟碑記』のみ子龍廟近くの蒙泉亭に保存されている[107]。 |
蒙泉(八角井) | 〃 | 趙雲が掘ったとされる井戸にまつわる泉の名前。 伝承では桂陽攻略時、趙雲が出征前に諸葛亮から錦囊(きんのう:錦で作った袋)を渡され、危急の際に開けるよう言われる。桂陽到着後、芙蓉峰に兵を駐屯させたが、真夏で水が不足し、兵士たちの士気が低下。焦った趙雲は錦囊を開けると八卦図が入っており、指示通りそれを置いたが数日経っても水は出ない。ついカッとなり長槍で八卦図を突き刺すと、そこから勢いよく水が噴き出し、兵士たちは大喜びして八卦図の形に沿って井戸を掘り、『萬軍泉』と名付け、のちに『蒙泉』(蒙恩の泉)に改名したという[604][605]。 2006年には蒙泉が湖南省人民政府により省級文物保護単位指定されている。 この泉のそばに1952年「趙子龍酒」という中国酒を製造するメーカーが設立され、現在も製造販売されている。 (詳細は#食べ物の「趙子龍(酒)」を参照) |
関口趙侯祠 | 桂陽県 北橋市 |
郷関口村。趙雲が営盤嶺に兵を置いたという伝承があり、塑像が祀られている。2018年、第四批市級文物保護単位指定[W 50]。趙雲に因んだ食べ物も存在する。 (詳細は「#子龍片」および「#その他の食べ物」を参照) |
白帝城 |
重慶市 奉節県 |
長江三峡。夷陵の戦い後、劉備が没した場所。現在はダムが作られた影響で四方を水に囲まれた島になっている。白帝城に弧を託す場面を再現した塑像が展示されており、劉備とその子供たち、諸葛亮、趙雲の他、陳到、張翼、陳震など、珍しい人物の塑像も展示されている。 (詳細は白帝城を参照) |
大邑趙雲墓 | 四川省 大邑県 |
大邑の趙雲の墓。(詳細は#大邑趙雲墓を参照) |
静恵山公園 | 〃 | 山上に『子龍祠』があり、羌族を監視するために趙雲が築いたという『望羌台』の他、石碑や像が設置されている。そのほか『子龍街路』『白馬溝』など、趙雲にまつわる地名が複数存在する。 (詳細は静恵山公園を参照) |
成都武侯祠 |
同省 成都市 |
諸葛亮、主君劉備とその臣下を祀る霊廟。漢昭烈廟、武侯祠、惠陵、三義廟の四要素からなる。成都武侯祠博物館の文化遺産保護区に属している。元は章武元年(221年)に惠陵(漢昭烈廟)が建てられ、後に武侯祠(孔明廟)が建ち、そして君臣を共に祀る祠廟に統合された。「文臣武将廊」に蜀漢の文臣武将28体の塑像が祀られ、西廊の武将廊には趙雲が筆頭で祀られている(詳細は成都武侯祠、#歴史的評価の武侯祠を参照)。 武侯祠の趙雲、龐統の塑像姿については以下の民間伝承が存在する。
|
和平街 | 〃 | 旧称『子龍塘街』。趙雲の居宅があったと伝わる。(詳細は#民間伝承の子龍池を参照) |
石経寺 |
〃 | 竜泉駅区山泉鎮にある中国仏教とチベット仏教が融合した、四川省西部の五大仏教密林のひとつ。後漢末期に建てられ、 当初は官僚の私邸であったが、蜀漢の時代に趙雲が封地として受け継ぎ、家廟(先祖を祀る場所。祖先が皇帝や王侯などの高官だった家のみ建てられるという)にして『霊音寺』と名付けたと伝わっている[W 51][609]。石経寺大雄宝殿の左側には、道光四年に建てられた石碑があり、「霊音とは、漢の将軍・趙侯の香火である」と刻まれている[609]。 (詳細は石経寺を参照) |
万年鎮子龍村 | 同省 南充市 |
趙雲の字が由来の村。伝承によると、趙雲が領内の峠道で一夜を過ごしたことに由来する[W 52]。 |
富楽山公園 |
同省 綿陽市 |
国家AA級観光地。1987年から建設が始まり、三国志をテーマにした庭園建築が数多く点在する大規模な公園。山頂には高さ46メートルの5階建ての富楽閣が建てられ、綿州碑林には三国志の歴史を描いた巨大な浮彫が飾られている。『三国志演義』の内容に基づいて、「桃園の誓い」「二劉涪城会」「五虎上将」「蜀漢四英」「魚水君臣」「龐統献策」などの小模型が富楽閣内に展示され、公園に五虎大将軍(五虎上将)の像が設置されている。 (詳細は富楽山を参照) |
姜太公釣魚台 | 陝西省 宝鶏市 |
五丈原西に存在する地名。 崖に赤い文字で「趙雲、鄧芝屯兵處」と刻まれており、この地に趙雲と鄧芝が第一次北伐で駐屯したとされている[610]。 |
名称 | 場所 | 説明 |
佳里子龍廟 永昌宮 |
台南市 佳里区 |
趙雲(趙聖輔天帝君)を主祀として祀った廟。 鄭成功に従って台湾に渡ってきた福建省出身の林六叔が、佳里興堡東勢寮に開墾地として割り当てられたことに起源。 1691年、村人の林廷龍が川で魚を捕っていたところ、流木がぐるぐる回っているのを見つけ、拾い上げると白蟻によって文字が食い込まれており、「常山趙子龍」と書かれていた。村人たちはこれが神の意志であると考え、この木を草小屋に祀った。その後、大陸から来たという彫刻師が訪れ、「趙雲将軍が夢に出てきて、この流木を神像に彫るようにと頼まれた」と語り、小さな趙雲の像が彫られた。この事から東勢寮は『子龍廟』と呼ばれるようになり、趙雲の封号『永昌亭侯』から『永昌宮』とも呼ばれる。 落成式(建物が完成したことを祝う式典)の日が2月16日であったため、この日を子龍神の誕辰日(偉人や神様の誕生日を指す言葉)と定めている。台湾にはこの子龍廟の他にもほぼ全国の県市に1箇所は趙雲を祀った廟が存在し、特に島の西海岸側に複数存在する[611]。 (詳細は佳里子龍廟を参照) |
名称 | 場所 | 説明 |
八坂神社(益子) | 栃木県 益子町 |
劉備の「檀渓を的盧で跳ぶ」趙雲の「長坂坡の戦い」をモチーフにした彫刻がある。 |
宝登山神社 |
埼玉県 長瀞町 |
本殿に三国志をモチーフにした極彩色の彫刻があり、関羽や趙雲(長坂坡の戦い)が描かれている。 日本ではこの他にも三国志をモチーフにした彫刻や絵画が全国の神社や寺院に点在している。 |
KOBE 鉄人三国志 ギャラリー |
神戸市 長田区 |
『鉄人28号』『三国志』で知られる漫画家・横山光輝の故郷、神戸市長田区にある展示施設。横山作品の他にもさまざまな三国志(演義)関連作品の展示や中国輸入雑貨、グッズ販売、正子公也デザインの趙雲フィギュアや、巨大な趙雲の銅像が展示されている。定期的に三国志イベントも開催されている。施設内で撮影した写真はネット掲載禁止のため注意。 (詳細は該当記事を参照) 同商店街には三国志をテーマにしたカフェ『Cha-ngokushi(ちゃんごくし)』のほか、長田区には街の至る所に三国志の人物たちの像が設置されている。 |
名称 | 場所 | 説明 |
北海船仔頭 天福宮 |
Bagan Ajam |
1871年以前から存在するマレーシアの檳城州北海にある子龍廟[W 53]。北海最大の神廟の一つ。宮内には閻魔大王と福徳正神(土地神)も祀られている。マレーシアの子龍廟の多くは中国大陸から渡ってきた人々によって建立され[W 54]、天福宮の神像は広東から持ち込まれたという[612]。聖誕日(聖誕千秋)は旧暦8月16日。 清潔海濱路(Jalan Pantai Bersih)は元々『子龍街』(Dragon Temple Lane)と呼ばれていたが、後に名前が変わってしまい、再び『子龍街』と改名してくれるよう国会議員、州議会議員に強く求めているという[W 55]。 |
柔佛麻坡鳳威宮 | Muar Johor |
麻坡に存在する子龍廟。 2010年3月、創設者二人が「互いに尊敬する趙子龍の忠義の精神を広めたい」という共通の志を持ち、さらに二人の友人を加え『鳳威宮』の建設を計画。同年旧暦5月15日、多くの善信の協力のもと『鳳威宮』の看板が正式に掲げられ、趙雲の忠・孝・義・仁・謙の精神を目標とし、より良い社会づくりを目指し活動しているという[W 56]。 そのほか、趙雲が宮主に乩身(神との媒介。神霊が憑依した状態)して神像の場所を指示したという創建譚を持つ『順平宮』[612][W 57]、神像が海南島から持ち込まれた『風雲廟』[612]などの子龍廟が存在する。 |
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