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日本のジャーナリスト、評論家、ニュースキャスター (1934-) ウィキペディアから
田原 総一朗(たはら そういちろう、1934年〈昭和9年〉4月15日 - )は、日本のジャーナリスト、評論家、ニュースキャスター。元ドリームインキュベータ社外取締役[3]。元東京12チャンネル(現:テレビ東京)ディレクター、元映画監督。日本国際フォーラム参与[4]、政策委員[5]。公益財団法人日印協会顧問[6]、一般社団法人外国人雇用協議会顧問[7]、NPO法人万年野党会長[8]。芸能事務所のブルーミングエージェンシーと業務協力。
滋賀県彦根市出身。血液型はB型。田原節子は2番目の妻、その妹に古賀さと子がいる[9]。田原は2人の妻をいずれも癌で亡くしている。
近江商人の末裔。第二次世界大戦中は人並みな軍国少年で、「海軍兵学校を経て海軍に入り、特攻隊員として戦闘機に乗り敵の軍艦にぶつかって死ぬ」のが夢だった。敗戦当時、それまで習ってきた価値観が180度ひっくり返ったことに対して、田原は「そうか、世の中に絶対なんてないんだ。偉い人の言うことは信用できない」と感じたという。
1941年、彦根市立城東国民学校(現:彦根市立城東小学校)に入学。
1943年、学区整理により彦根市立佐和山国民学校(現:彦根市立佐和山小学校)に転校。
1947年、学制改革により新設された彦根市立東中学校に入学(1950年に卒業)。
1953年、滋賀県立彦根東高等学校を卒業。作家を志して上京し日本交通公社(現:JTB)で働きながら早稲田大学第二文学部(夜学)に在籍。文学賞に何度か応募したが箸にも棒にもかからず、さらに同人誌の先輩に才能がないと二、三度「宣告」を受けたことで意気消沈していたところで同世代の石原慎太郎・大江健三郎の作品を読み、田原も「これはダメだ、全く敵わない」と作家を目指すことを断念する。志望をジャーナリストに切り替え、3年間でほとんど通っていなかった第二文学部を辞めた。
1956年早稲田大学第一文学部史学科に再入学し、1960年に卒業。
ジャーナリスト志望だったためNHKや朝日新聞、日本教育テレビ(現:テレビ朝日)などのマスコミを手当たり次第受けたがどれにも受からず、11社目にして初めて合格した岩波映画製作所に入社。カメラマン助手を務める。
幼少期より相撲が大好きで、非常に強かった。
1964年、東京12チャンネル(現:テレビ東京)開局とともに入社。ディレクターとして、『ドキュメンタリー青春』(東京ガス1社提供の番組で、田原を含め3人が交代で演出していた)、『ドキュメンタリーナウ!』などの番組を手がける。田原がTVドキュメンタリーを撮っていた時代は、NHKの吉田直哉らの『日本の素顔』、日本テレビの牛山純一の『ノンフィクション劇場』、村木良彦、宝宮正章らのTBSのドキュメンタリー番組などが主流で、当時開局したばかりの「東京12チャンネル」はインディーズ的存在であった。田原はそれを逆手にとって「過激な題材」を元に「やらせ的な演出をして、その結果としておきる、スタッフ、出演者、関係者に生じる葛藤までを、全て撮影する」手法をとり、話題を呼んだ[注 4]。当時、田原が親交があった清水邦夫や内田栄一に「筋書き」を書いてもらい、出演者にそのとおり「行動」してもらう場合もあった。この田原の「確信犯的」な手法は映画監督の原一男に影響を与えている。
ジャズピアニストの山下洋輔が「ピアノを弾きながら死ねるといい」といったため、田原はバリケード封鎖されていた大隈講堂からピアノを持ち出して山下に弾かせることを考えた[10]。中核派から分裂した組織「反戦連合」のメンバーたちが運びだし、そのピアノを山下が演奏した。後の作家、高橋三千綱や中上健次、北方謙三、山岳ベース事件で殺された山崎順もピアノを運んだという。また、このイベントは立松和平のデビュー作『今も時だ』という短編小説も産み出している[11]。
著書『私たちの愛』によると、田原は以下のような過激なドキュメンタリーを撮影していた。
1971年には、ATG映画にて『あらかじめ失われた恋人たちよ』(桃井かおり・加納典明主演・彼らのデビュー作)の制作・監督を務める(劇作家の清水邦夫との共同監督)[注 9][13]。
助監督だった尾中洋一(のち脚本家)によれば、劇映画初体験の田原は「アップ撮り」「カット割り」「右目線、左目線」も分からなかった。「よーいスタート」も田原がかけられないので、尾中が担当した。そのまま、田原を無視して「2日目から実質、尾中が監督」で撮影を続けたところ、ある夜、田原が遠くに行き、闇で「ばかにするな-」と叫んだ。だが、そのまま田原を無視して撮影は続いた。「羽咋の駅前で、売春婦と出会って抗議集会」というシーン撮影では警察の撮影許可も取らず、出演しているのは大半は単なる通行人。なお、石橋蓮司や緑魔子も「無能な監督・田原」に怒っていたという。共同監督の清水邦夫もほとんど現場にこず、東京の舞台で行われたリハーサルを演出しただけだった。当時のATG映画は、監督が資金を出して製作する方式であり、田原と清水はスポンサーであった[14]。 猫の死体が映るシーンは、出演者の加納典明が子猫を実際に水に漬けて殺したものであり、撮影で動物虐待が行われていた[15]。
1975年、田原は矢崎泰久らと日本ジャーナリストクラブ (JIC) を立ち上げる。その資金集めのため、新宿コマ劇場にて「のんすとっぷ24時間」という討論会(司会:中山千夏)を行い、撮影して自分が勤務している東京12チャンネルに「番組」として売却した。このイベントが「朝まで生テレビ」の原型となったという[16]。
テーマは「戦後30年・酷暑・おしゃべりと、うたと、けんかと」と題され、8月13日10時から14日の10時まで24時間にわたり公演された。
1976年には、原子力船むつ問題を扱った映画「原子力戦争」 をATG製作で映画化・公開した。映画は原田芳雄扮するヤクザが原子力発電所をめぐる利権争いに巻き込まれるという原作を曲げたものであった。問題作とも評され、田原は発表時脅迫されたという。著書「原子力戦争」では、底辺の人々(反対運動、賛成運動の人々、原子力潜水艦の技術者など)に取材した。だが、実際にものごとを決めているのは「社会の上部の政治家や官僚だ」と気がつき、その後、政治家や官僚について取材していく「契機」となったという[17]。『原子力戦争』の内容は、国会でも話題となり、大手広告会社の逆鱗にふれ、田原は東京12チャンネルを辞職したといわれる。なお現在の田原の原子力発電に対する姿勢は東日本大震災後においても「将来的には廃止が望ましい」としつつも「あと二十年は原発を維持すべきだ」と主張する等原発容認派に転向しており、自己のツイッターの中でも「日本の原子力発電所の技術は世界有数」と日本の原子力技術を賞賛する発言している。
田原は1977年1月に東京12チャンネルを退社してフリーランスとなり[18]ジャーナリストの道へ進む。なお、東京12チャンネル時代の後輩には小倉智昭がいた。『文藝春秋』での田中角栄インタビュー(1974年に同誌に掲載された立花隆の『田中角栄・金脈と人脈』に対する反論)や『トゥナイト』の三浦インタビューなどで徐々に知名度を上げる。
政治、ビジネス、科学技術と幅広い執筆活動を続けるが次第に政治関係に執筆活動のスタンスを移し、テレビでは1987年より「朝まで生テレビ!」、1989年4月より「サンデープロジェクト」(2010年3月終了)討論コーナーの司会・出演を務める。またラジオでは2007年10月から「田原総一朗 オフレコ!」(2011年3月以降は週1回放送から月1回放送の「田原総一朗 オフレコ!スペシャル」)のパーソナリティを務めている。「サンデープロジェクト」終了後は、2010年4月から始まったBS朝日の「激論!クロスファイア」に出演。青春出版社の月刊誌「BIG TOMORROW」で連載を持つ。1989年からは、テレビ朝日系の選挙特別番組「選挙ステーション」第2部(討論コーナー)で司会を務めている。
2002年4月より早稲田大学大隈塾塾頭、2003年6月よりドリームインキュベータの社外取締役を務めている。
2009年1月、「フォーラム神保町」主催禰による「田原総一朗ノンフィクション賞」の創設が発表された。また「田原総一朗のタブーに挑戦![19]」というポッドキャストの番組を持つ。
田原はテレビ朝日系の番組に出演することが多いが、所属事務所は日本テレビ系のニチエンプロダクションである。
2015年12月9日には、憲政記念館において辻元清美議員の「政治活動20年へ、感謝と飛躍の集い in 東京」という政治資金規正法に基づく政治資金パーティーに参加している[20]。
テレビ
期間 | 番組名 | 役職 | |
---|---|---|---|
1987年6月 | 現在 | 朝まで生テレビ!(テレビ朝日→BS朝日) | 討論司会 ※番組開始当初はパネリストとして出演、2024年9月までは地上波テレビ朝日系列で放送し、同年10月以降はBS朝日にて月1回放送 |
1989年4月 | 2010年3月 | サンデープロジェクト(テレビ朝日・朝日放送) | 討論ホスト担当 |
1989年7月23日 | 2012年12月16日 | 選挙ステーション(テレビ朝日) | 第2部での討論コーナー司会 |
2017年10月22日 | |||
2010年4月 | 現在 | 激論!クロスファイア(BS朝日) | 進行役 |
ラジオ
この節に雑多な内容が羅列されています。 |
2009年4月25日放送の「朝まで生テレビ」において、田原は北朝鮮による日本人拉致問題の被害者の有本恵子、横田めぐみの安否をめぐり、「外務省も生きていないことは分かっている」と発言した。5月11日、北朝鮮による拉致被害者の家族会と支援団体救う会から、テレビ番組で根拠のない発言をしたとして、テレビ朝日の君和田正夫社長と田原に抗議文書が送付された。田原はこれに対して「家族のお気持ちは分かる。しかし、私は事実を言ったまでだ。情報源は言えないが情報を得ている」とし、両名が既に死亡しているとの見解を崩さなかった[29]。
5月19日、中曽根弘文外相が一連の田原の発言に対して、「大変遺憾で非常に誤解を与える発言だ」「外務省は安否不明の拉致被害者はすべて生存しているとの立場、前提に立っている。田原氏の発言はまったくの誤りで残念に思う。一日も早い拉致被害者の帰国に努力している人たちに失礼な話だ」と発言した[30]。同日、田原は「人の生死に関する問題を、具体的な情報源を示すことなく発言したことは深く反省している。横田さんたちが生きていることを心から望んでいる。言葉が足りず、大変申し訳ない」と謝罪した[31] が、情報源については公表しなかった。
7月16日、有本の両親が田原を相手取り、精神的苦痛を受けたとして1000万円の慰謝料を求める訴えを神戸地裁に起こした。これに対して田原は、「表現は乱暴だったが、外務省高官への取材に基づく発言であり、今後、法廷で主張していく」とコメントした[32]。
2010年3月10日、BPO(放送倫理・番組向上機構の放送人権委員会)はこの発言について、根拠を示すことなく断定した点は不適切な発言であるとし、同時にテレビ朝日が行った1ヶ月後の謝罪放送についても、「謝罪の意思が的確に伝わるものではなかった」として放送倫理上の問題があったとした[33]。
10月18日、神戸地裁は田原に対し外務省幹部に取材した録音テープの提出を命令した[34][35][36]。田原はこれを不服として大阪高裁へ即時抗告を行った[37]。翌2011年1月21日、大阪高裁は「テープの内容は書面などで代替が可能で、取材源秘匿の社会的価値を考慮してもなお提出が不可欠とはいえない」として地裁の決定を取り消し[38]、有本の両親が最高裁への抗告を断念したため、確定した[39]。
2011年11月4日、神戸地裁は慰謝料請求訴訟についての原告側主張を認め、田原の発言に合理的根拠があったとは認められないとして、田原に対し100万円の賠償支払いを命じた[40]。田原は判決を不服として控訴する方針を表明した[40] が、最終的には断念し、地裁判決が確定した[41]。
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