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東京六大学野球連盟に所属する大学野球チーム ウィキペディアから
東京大学運動会硬式野球部(とうきょうだいがくうんどうかいこうしきやきゅうぶ、英語: The University of Tokyo, Baseball Club)は、東京六大学野球連盟に所属する大学野球チーム。東京大学の学生によって構成されている。同大学には東京大学運動会準硬式野球部など別の野球部も存在するが、硬式野球部のことを指して「東京大学野球部」、「東大野球部」と略称することが多い。
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1917年。大学からの認可が1919年9月(初代部長長与又郎)。
なお、東京大学の前身の一つである旧制第一高等学校には1872年創部の野球部があり、黎明期の日本の野球史上重要な位置を占めるが、現在の東大野球部は沿革に一高野球部を含めていない。
当初は京都帝大との定期戦が唯一の目標だったが[注釈 1]、1920年に一高から名投手内村祐之が入学した頃からチーム力は徐々に向上、内村卒業後も有力選手の加入が相次いだ。
1924年6月14日には早稲田大と対戦して敗れたとはいえ7-9の好試合を演じ[1]、同年秋の第1回明治神宮競技大会では東大クラブとして出場し準優勝。これに自信を得た東京帝国大学(以下、本稿においては新制東京大学を含めて東大と略す)は同年末、五大学野球連盟側と水面下で接触[2]。これに対して明大野球部の部長内海弘蔵や早大野球部監督飛田穂洲らが東大のリーグ参加に理解を示したこともあって[注釈 2][注釈 3]、1925年4月15日の連盟会議で加盟が認められ、ここに東京六大学野球連盟が正式に発足した。1925年春は法政大以外の各校と1試合ずつ行い、立教大から勝ち星を挙げる。その年の秋から各校と総当たりで試合を行うようになった。
当時の学制の事情で、他校が予科を含め5~6年在籍可能だったのに対し、東大は本科3年間のみであり、戦力的には他大学に見劣りする状況が続いていた。そうした中で東武雄(のち終戦前後に戦病死)、清水健太郎(のち東大医学部教授、戦後は同大学野球部監督、六大学野球連盟長)のバッテリーでチーム力が向上して最終的には加入を認められることとなった。しかし、その際、「東や清水の卒業後も戦力を維持すること」という条件がつけられていた[6]。つまり入部難から戦力低下→惨敗の連続(最悪の場合廃部)になることのないよう努めよという、現在の大学野球連盟加盟条件には考えられないような項目が条件としてついていた。
東大が加盟したことにより、東京六大学野球連盟(以下、本稿では東京六大学リーグ戦と略す)のスタートと同時についに早慶戦も復活した(1925年秋季リーグ戦)。最初のリーグ戦で東大は5勝を挙げ4位と健闘を見せた。
以降、東大は東京六大学リーグ戦の中で苦戦をし続けることとなる。優勝はなく、3位以上も1946年春季の2位が1回あるのみである[注釈 4]。開幕試合は前季優勝校と最下位校 東大との対戦がほとんど定番化し、連敗・連続最下位など東京六大学リーグワースト記録の多くを東大が占めている。1997年秋季リーグ戦で5位(最下位は立大)になって以来、2023年秋季リーグ戦終了現在まで連続最下位最長記録を更新している。
戦後初のリーグ戦となった1946年春季リーグ戦で、山崎諭(旧制山形高出身)と山崎喜暉(旧制静岡高出身)の「両山崎」らの活躍で開幕から4連勝し、最終戦の慶大戦に勝てば悲願の初優勝となるチャンスがあった。1点リードされた9回表2アウトランナー3塁、最後のバッター3番山崎喜暉が大島信雄(岐阜商出身)から放った三遊間への渾身の当たりも河内卓司(広島一中出身)にダイビングキャッチされ一塁へのヘッドスライディングも及ばず万事休した。最後の5戦目で0-1で敗れ惜しくも2位となったが当時の東大の躍進は大きな話題となった[7]。また、1960年春季に早大から勝ち星を挙げ、その1敗がたたって早大がリーグ優勝を落とした。これ以外にも数多くの激戦を繰り広げてきた。
1974年秋の法大1回戦で江川卓(1年作新学院高出身)に初黒星をつけ、TV中継(テレビ神奈川)が予定外の放送延長を行い、1981年春季には早大を史上初の連続完封、慶大からも勝ち点を挙げ優勝争いに加わるや「赤門旋風」と話題を呼び、TBSが急遽対立大4回戦をTV中継した。
1993年秋の法大3回戦で、黒川和哉(4年津高出身)と高橋崇展(2年大阪・北野高出身)の継投、法政主戦大崎満雄(4年広島商出身)から肥田雅和(4年桐蔭学園高出身)のホームランと片山英治(3年横浜翠嵐高出身)のツーランが飛び出し、法政も稲葉篤紀(3年中京高出身)が高橋からホームランを放ち追いすがるものの、3-2で勝利し対法政戦で40年ぶりの勝ち点を上げた。
2010年秋、開幕戦初登板以来白星を献上し続けて来た早大の斎藤佑樹(4年早実高出身)に初めて黒星をつけ話題を呼んだ(早大1回戦4-2。勝利投手は2失点完投の1年生鈴木翔太・時習館高出身)。
2013年、日本最初期の野球対抗戦(1886年)[注釈 5]とされる「波羅大学」と東大工学部の前身「工部大学校」当時のユニフォームを双方着用して明治学院大との試合が神宮球場で実施され1-3で敗れた。
以降、白星を挙げることが出来ず、2014年の春季リーグ戦で、自らが1987年から1990年にかけて作ったリーグワースト記録の70連敗を更新[8]。その間、2011年春季の東大3-3早大(9回に追いつかれ延長11回引き分け)、同年秋季の東大0-1法大(先発2年鈴木と法大三上朋也 (4年県立岐阜商出身) の投手戦で9回裏サヨナラ負け)、2012年秋季の東大5-5慶大(0-4の7回に5点を奪い逆転も8回に追いつかれ9回引き分け)、2013年秋季の東大2-5立大(9回裏に2点を挙げ追いつくも延長10回に勝ち越され65連敗)など惜しい試合もいくつかあった。2014年秋季リーグ戦終了時点で86連敗となり、4年生は在学中に勝利することが1度も出来なかった[9]。2015年春季リーグ戦も開幕から連敗を重ねたが、法大1回戦で延長10回6-4で勝利し、ついに連敗を94(2分けをはさむ)で止めた[10]。
2016年8月、プロアマ交流戦の巨人3軍戦(東大球場)で、巨人先発のドラ1ルーキー桜井俊貴(立命館大出身)を東大打線が捉え6回までに11安打7得点、巨人3軍投手陣に合わせて毎回安打の計16安打8得点したものの試合には8-12で敗れた。なお、エース宮台康平(3年湘南高出身)はコンディション不良で登板しなかった[11]。
2017年の秋季リーグ戦で4年宮台康平の先発や救援などの連投、田口耕蔵(4年西大和学園高出身。2浪入学)のスリーランホームランも飛び出し、対法大1回戦に9-2、2回戦に8-7で連勝し、2002年秋の立大戦以来15年ぶり(30シーズンぶり)の勝ち点を挙げた。連勝での勝ち点は1997年春の立大戦以来20年ぶり[12]、法大からの勝ち点は1993年秋以来24年ぶり、加えて法大に連勝しての勝ち点は1928年秋以来89年ぶりとなる。
2020年、OBの井手峻(元中日)がプロ野球経験者として母校都立新宿高コーチに引き続き同部初の監督に就任。2023年、体調不良のため監督代行を立てて戦ってきたが、秋季リーグ戦終了をもって正式に監督を退任した。
各校が相次いで都心から離れていくのに対し、東京六大学野球連盟加盟大学中唯一23区内に本拠地を構える。文京区弥生の農学部内にある東大球場は1937年に建設されたもので(内田祥三設計)、終戦直後に神宮球場が占領軍に接収されていた時期には六大学野球の公式戦がこの球場で行われたこともある[13]。2010年9月に文化庁の登録有形文化財に登録された。老朽化が著しかった一誠寮は2020年3月に全面的な改修工事を完了。2022年には日本野球聖地・名所150選に選定された[14]。
一誠寮に掲げられている扁額では、『誠』の字の旁部分の「成」が一画欠けている(右下の『ノ』の部分がない)。これは揮毫した野球部長長與又郎が書き損じたものだったが、「この一画は野球部が六大学のリーグ戦で優勝したら入れる」ということになった。しかし、東大野球部は未だリーグ戦で優勝したことがないため、現在も欠落したままとなっている。このエピソードは漫画『栄光なき天才たち』でも取り上げられた。
1983年、国内の大学野球部でははじめてグラウンドに人工芝が敷かれた。ただしこれは6,500㎡ほどの面積の長方形のものでレフトにあたる部分は土のままであった。他所で使っていた中古品を譲り受けて張り替えをしつつ、経年劣化が激しく野球専用のスパイクシューズが使えないほどとなっていた時期もあったが、2012年には新しい人工芝が敷設され現在では全力でプレーできる環境が整っている。
他の5大学の野球部と比較して、ユニフォームのデザインの変更が多い。
東京帝国大学時代のロゴマークは、胸に「TIU」(Tokyo Imperial Universityの略)を円形にあしらったものだった。その後「LB」(Light Blue)「TOKYO UNIV.」などを経て、現在の「TOKYO」となる。TOKYOのロゴタイプも読売ジャイアンツのロゴに倣ったものが多かったが、1991年に2018年までの形となった。また帽子には、「T」の一文字が取り付けられている[15]。
チームカラーはライトブルー(淡青)。ユニフォームも長く白地にロゴを淡青色で表していたが、1991年ににグレー地に変えた。ロサンゼルス・ドジャースのビジター用をイメージしたものである。東京大学運動会のチームカラーと違うのだが、こちらは弱いイメージがあり、それを払拭したかったものといわれる。199勝目から70連敗していたチームが、初お披露目となる東京六大学リーグ戦の試合で200勝目を挙げ、以来マイナーチェンジはあるものの、そのユニフォームのまま2018年まで使われた。
2019年にロゴも含めたフルモデルチェンジが行われ、白地を基調に黄色とライトブルーの2色をラインとロゴに取り入れたデザインとなった[16]。
プロ野球 (NPB) 選手となった人物は後述。その他はCategory:東京大学野球部の選手を参照。東大野球部公式HP 東京六大学野球リーグ戦:東大選手個人記録 も参照 [17]。
日本全国の高等学校から大学受験成績で優秀な生徒が集まることから、他の大学では聞かれないような高等学校卒業の選手たちが選手名鑑を飾っている。
以上25名。山崎は監督としても出場を果たす。
指名年 | 順位 | 氏名 | 出身高校 | ポジション | 現役年 | 球団 | 通算成績 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1965年 | なし | 新治伸治 | 東京都立小石川高等学校 | 投手 | 1965 - 1969 | 大洋 | 登板88試合、投球回156 1/3、9勝6敗、奪三振82、防御率3.29 |
1966年 | 2次3位 | 井手峻 | 東京都立新宿高等学校 | 投手→外野手 | 1967 - 1976 | 中日 | 登板17試合、投球回33 1/3、1勝4敗、奪三振21、防御率5.13 出場359試合、12安打、1本塁打、2打点、4盗塁、打率.188 |
1991年 | 8位 | 小林至 | 神奈川県立多摩高等学校 | 投手 | 1992 - 1993 | ロッテ | (一軍出場なし) |
1999年 | 7位 | 遠藤良平 | 筑波大学附属高等学校 | 投手 | 2000 - 2001 | 日本ハム | 登板1試合、投球回0、0勝0敗、奪三振0、防御率- |
2004年 | 9巡 | 松家卓弘 | 香川県立高松高等学校 | 投手 | 2005 - 2012 | 横浜→日本ハム | 登板14試合、投球回23 2/3、0勝1敗、奪三振14、防御率4.01 |
2017年 | 7位 | 宮台康平 | 神奈川県立湘南高等学校 | 投手 | 2018 - 2022 | 日本ハム→東京ヤクルト | 登板3試合、投球回7、0勝0敗、奪三振7、防御率9.00 |
新治はドラフト制度施行前入団のため、ドラフト順位はない。指名年は入団年とする。井手は後に東大野球部監督に就任した。小林は野球部引退の翌年に指名され卒業、入団した。
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