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幕末から明治にかけて日本政府に雇用された外国人 ウィキペディアから
お雇い外国人(おやといがいこくじん、御雇外国人)は、幕末から明治 にかけて日本政府や各府県などによって雇用された外国人の総称。
人々は欧米の技術・学問・制度を導入して「殖産興業」と「富国強兵」を推し進める目的で雇用されていった。当時の日本人の中からは得がたい知識・経験・技術を持った人材で、欧米人以外に若干の中国人やインド人も含まれていた。官庁の上級顧問だけでなく単純技能者も存在していた。 「お抱え外国人」といった名称もある。
お雇い外国人は、日本の近代化に必要な西欧の先進技術や知識を単にもたらしただけではなく、彼らの日本滞在を通して日本人に海外の生活習慣を紹介し、また反対に日本の文化を海外に紹介する役割を果たした。江戸時代初期にはヤン・ヨーステンやウィリアム・アダムスなどの例があり、幕府の外交顧問や技術顧問を務め徳川家康の評価を得て厚遇された。外国人雇用が本格化するのは幕末期で、欧米諸国から開国と通商の圧力が高まり、それに対し幕府は外交政策顧問としてオランダ人フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト、長崎海軍伝習所にオランダからヴィレム・ホイセン・ファン・カッテンディーケらの教員、さらに横須賀造兵廠にフランスからレオンス・ヴェルニーらの技術者、燈台建設のためにイギリスからリチャード・ブラントンらの技術者を雇用した。
明治政府は幕府が計画していた鉄道網の建設構想を引き継ぐとともに、殖産興業を大々的に推進するために工部省を創設し、そこに大勢の技術系外国人を雇用した。幕末期から外国人は 2から3年契約で雇われ、更新される者もいたが、順次日本人に取って代わられた。イギリス人にとってその植民地で長期間仕事をしたり、あるいは定住したりすることは普通であったが、ヘボンは日本では「雇いYatoi」とは短期雇用という位置づけであると述べている[1]。
報酬は当時の日本人の給与体系からすると高かったが、イギリスのインド植民地の官吏や技術者と同程度であり[2]、それを基準にしたと考えられる。1871年(明治3 - 4年)の時点で太政大臣三条実美の月俸が800円、右大臣岩倉具視が600円であったのに対し、外国人の最高月俸は造幣寮支配人ウィリアム・キンダーの1,045円であった。その他グイド・フルベッキやアルベール・シャルル・デュ・ブスケが600円、燈明台掛技師長のヘンリー・ブラントンが500円で雇用されており、1890年(明治23年)までの平均では、月俸180円とされている[3]。
人選は政府間協定や信用のある機関を通して行われ、ほとんど皆真摯に任務を勤めたが、仲間からの推薦や自薦で採用された者のなかには不埒な者もいた[注釈 1]。
こうしたお雇い外国人はその後、佐賀の乱から西南戦争に続く緊縮財政のために1876年(明治9年)に多くが解雇され、さらに工部大学校からの卒業生や、海外留学からの帰国者が出てくると、外国人の雇い入れは次第に少なくなった[5]。
ほとんどは任期を終えるとともに離日したが、母国に戻らずほかの国に仕事を求め定住する者もいた。さらに例外的に、ラフカディオ・ハーンやジョサイア・コンドル、エドウィン・ダンのように日本文化に惹かれて滞在し続け、日本で妻帯しあるいは生涯を終えた人物もいた。エドワード・B・クラークは、イギリス人の両親が日本に滞在していた時に横浜で生まれ、一時期、母国イギリスに留学した時以外は、死期まで日本で生活していた。
雇用先の分野と異なる分野で、功績を残した人物も多い。アーネスト・フェノロサは、政治学や哲学の教授として招かれたが、日本美術の再評価においても名が知られる。ホーレス・ウィルソンは、英語教師として招かれたが、この時、教育の一環として日本人生徒たちに野球を教えた事から「日本に野球を伝えた人物」として名を残し、野球殿堂入りしている。ウィリアム・ゴーランドは大阪造幣寮の技師として雇われ、その分野でも高い評価を持つが、他に日本の古墳研究や、日本アルプスの命名でも名が残る。
国籍や技能は多岐に亘り、1868年(慶応4年/明治元年)から1889年(明治22年)までに公的機関・私的機関・個人が雇用した外国籍の者の資料として、『資料 御雇外国人』[6]、『近代日本産業技術の西欧化』[7]があるが、これらの資料から2,690人の外国人国籍が確認できる。イギリス人1,127人、アメリカ人414人、フランス人333人、中国人250人、ドイツ人215人、オランダ人99人、その他252人である。期間を1900年までとすると、イギリス人4,353人、フランス人1,578人、ドイツ人1,223人、アメリカ人1,213人とされている[8]。
1890年(明治23年)までの雇用先を見ると、イギリス人の場合は、政府雇用が54.8 %で、特に43.4 %が工部省に雇用されていた。明治政府が雇用したお雇い外国人の50.5 %がイギリス人であった[9]。工部省の明治3年から明治20年までのお雇い外国人総数256人中238人がイギリス人である[10]。大口雇用として、エドモンド・モレルをはじめとする鉄道建設技術者、リチャード・ブラントン他の灯台建設技術者、ヘンリー・ダイアー他の工部大学校教師団、コリン・マクヴェインの測量技術者があげられる。
アメリカ人は54.6 %が民間で、教師が多かった。政府雇用は39.0 %で文部省が15.5 %、開拓使が11.4 %であるが、開拓使の外国人の61.6 %がアメリカ人であった(ホーレス・ケプロンやウィリアム・スミス・クラークなど)[3]。
フランス人は48.8 %が軍の雇用で、陸軍雇用の87.2 %はフランス人であった[3]。幕府はフランス軍事顧問団を招いて陸軍の近代化を図ったが、明治政府もフランス式の軍制を引き継ぎ、2回の軍事顧問団を招聘している。のちに軍制をドイツ式に転換したのは1885年(明治18年)にドイツ帝国陸軍のクレメンス・ヴィルヘルム・ヤーコプ・メッケル参謀少佐を陸軍大学校教官に任じてからである。数は少ないが司法省に雇用され、不平等条約撤廃に功績のあったギュスターヴ・エミール・ボアソナードや、左院でフランス法の翻訳に携わったアルベール・シャルル・デュ・ブスケなど法律分野で活躍した人物もいる。
ドイツ人の場合は政府雇用が62.0 %であり、特に文部省(31.0 %)、工部省(9.5 %)、内務省(9.2 %)が目立つ[3]。エルヴィン・フォン・ベルツをはじめとする医師や、地質学のハインリッヒ・エドムント・ナウマンなどが活躍した。
オランダ人の場合、民間での雇用が48.5 %であるが、海運が盛んな国であったことから船員として働くものが多かった[3]。幕府は1855年(安政2年)、長崎海軍伝習所を開設し、オランダからヴィレム・ホイセン・ファン・カッテンディーケらを招いたため海軍の黎明期にはオランダ人が指導の中心となったが、幕末にイギリスからトレーシー顧問団が招聘され(明治維新の混乱で教育は実施されず)、さらに明治新政府に代わってからは1873年(明治6年)にダグラス顧問団による教育が実施され、帝国海軍はイギリス式に変わっている。他に土木の河川技術方面でヨハニス・デ・レーケら多くの人材が雇用された(オランダの治水技術が関係者に高く評価された背景があるとされているが、ボードウィン博士兄弟との縁故による斡旋という説もある)。
イタリア人はその人数こそ多くなかったものの、工部美術学校にアントニオ・フォンタネージらが雇用された。またエドアルド・キヨッソーネが様々な分野で貢献した。
「御雇」と御の字が付いたのは、御上(おかみ)すなわち政府が雇ったという意味である。明治政府が雇用した官雇外国人にならって、民間でも学校や会社に私雇外国人を多く採用した[19]。在外公館で雇用されていた者や外国人居留地の警備に当たった者なども含まれるが、一般的には、欧米から技術や知識を学ぶために招いた人物を指す。本項では、便宜的に、私雇外国人を含めて記述する。
なお「御雇」の原義は、(特に外国人に限らず)武家でない身分の者をその専門技芸において幕府の「御用」に徴用することを指した。江戸期後半になって諸外国の動向が伝わってくるにつけ、武士である幕臣だけでは様々な専門分野に対応できず、一般民の中から専門に特に秀でた人材を募り、この需要に充てたものである。しかし幕府の側からすると身分としてはあくまでも「御雇い」であり、臨時雇用の色合いの濃い立場の低い扱いではあったが、それなりの処遇(給与・住居など)は与えられ、なかには能力と功績が認められると正規の幕臣として取り立てられ、武家として称氏(氏姓、苗字を名乗ること)・帯刀・世襲が許される場合もあった。
お雇い外国人の中には日本に墓所が残されている者もいる。ハーンの墓所は島根県松江市の重要な観光資源にも位置付けられている。アーネスト・フェノロサはロンドン滞在中に亡くなったが、園城寺(三井寺)に埋葬された。
東京都にある青山霊園の青山外国人墓地では、関係者の所在が不明となり、管理料(2005年現在、年590円)が長年にわたって未納のままのものがある。通例であれば無縁仏として集合墳墓に改葬されるところだが、青山霊園の場合、2006(平成18)年度に東京都側が78基にのぼる管理費滞納お雇い外国人墓所を文化史的に再評価し史跡として保護する方針であることが2005年(平成17年)2月18日の読売新聞で報じられた。
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