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第二次フランス軍事顧問団(1872–1880年)は、幕末に派遣され第一次顧問団に続き、日本に派遣された軍事顧問団である。
明治政府がフランスに軍事顧問団の派遣を要請したことはやや意外であった。フランスは1867年には幕府陸軍(明治新政府にとっては敵側にあたる)の訓練のために軍事顧問団を派遣しており、さらに1871年の普仏戦争の敗北によりその名声にやや陰りがでていたためである。
とは言うものの、フランスからの指導を受けることは、日本にとって依然として魅力があった。1873年にフランスを訪れた岩倉使節団の長である岩倉具視は次のように述べている:
顧問団は1872年5月に日本に到着した。団長はシャルル・アントワーヌ・マルクリー中佐(Charles Antoine Marquerie、1824年 – 1894年)であり、後にシャルル・クロード・ムニエール大佐 (Charles Claude Munier) に交代した。
顧問団は士官9人、下士官14人、軍楽隊責任者(ギュスターブ・シャルル・ダグロン、Gustave Charles Desire Dagron)、獣医師1名、および職人2名で構成されていた。著名な団員の一人に、工兵大尉であったルイ・クレットマン(Louis Kreitmann、1851年 – 1914年)がいた。クレットマンは後にエコール・ポリテクニークの学長になるが、日本で約500枚の写真を撮影しており、パリのコレージュ・ド・フランス「日本学高等研究所」 (Institut des Hautes Études Japonaises) に保管されている[3]。
団員は3年契約で、月俸150円から400円で雇用された(なお、当時の太政大臣三条実美の月俸が800円、新卒の教員の月俸は5円であった)。
顧問団の目的は、大日本帝国陸軍の再編と、1873年1月の徴兵令の施行を支援することであった。徴兵令では、満20歳の男子から抽選で3年の兵役(常備軍)とすることを定め、常備軍終了後は4年の後備軍とするものであった。
顧問団は、主として下士官を養成する陸軍教導学校で活動した。1872年から1880年にかけて、顧問団の指導のもとに、各種の学校等が設立された:
1874年から残りの期間にかけては、沿岸防御の充実に重点がおかれた。
顧問団の滞在当時、日本国内では反政府の機運が高まっており、1877年には西郷隆盛による西南戦争が勃発した。顧問団は陸軍の近代化に多大な貢献をし、徴兵制に基づく陸軍がこれら士族反乱に対応できるまでになった。
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