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オーストリアの音楽家 ウィキペディアから
ルドルフ・ディットリヒ(Rudolf Dittrich, 1861年4月25日 - 1919年1月16日)は、オーストリア帝国のガリツィア出身のオルガニスト、ヴァイオリニスト、音楽教育者、作曲家。
ウィーン楽友協会音楽院(現在のウィーン国立音楽大学)でアントン・ブルックナーらに学び、1888年から1894年までお雇い外国人として日本の東京音楽学校(東京芸術大学音楽学部の前身)で音楽教師を、1906年から母校のウィーン楽友協会音楽院でオルガン教師を務めた。
ビアラ(現在のポーランド領ビェルスコ=ビャワ)に生まれたディットリヒは、カペルマイスターで音楽教師の父ヨハン・アントン・ユリウス・ディットリヒ[7]にピアノ、ヴァイオリン、オルガン、音楽理論といった音楽の手ほどきを受けた。ウィーン楽友協会音楽院でヨーゼフ・ヘルメスベルガー2世にヴァイオリンを、アントン・ブルックナーに対位法とオルガンを、ヴィルヘルム・シェンナーにピアノを、ヨーゼフ・ヘルメスベルガー1世に管弦楽演習を師事し、1882年に音楽院を卒業した[8]。1883年から1888年までナタニエル・マイヤー・フォン・ロートシルト家礼拝堂のハルモニウム奏者を、1884年から1886年までウィーンのシナゴーグでオルガニストを務めた[2]。1886年にオーストリア人ソプラノ歌手のペトロネラ・ヨゼフィーネ・レオポルディーネ・ランマー(愛称 ペリーネ)[9]と最初の結婚をしている[10]。
東京音楽学校による外国人教師招請を受けた音楽院長ヨーゼフ・ヘルメスベルガー1世の推挙で1888年に妻ペトロネラとともに来日し、同年11月から1894年7月まで同校(1893年から1899年まで東京高等師範学校附属音楽学校と改称)の教師となった。担当はヴァイオリン、オルガン、ピアノ、唱歌、和声学、作曲法[11]。日本での教え子に山田源一郎、幸田延[12]、吉田信太[13]、北村季晴、橘糸重、田村虎蔵、島崎赤太郎[14]、頼母木駒子、永井幸次、鈴木鼓村[15]、安藤幸らがいる[16]。1894年に勲四等瑞宝章を受章[17]。
日本音楽に興味を持ったディットリヒは、1888年に出版された楽譜『箏曲集[18]』に収録された『姫松』(ひめまつ、第1曲)、『桜』(さくら、第2曲、旧題『咲いた桜』)、『花競』(はなくらべ、第3曲、旧題『梅と桜』)、『落梅』(らくばい、第6曲、旧題『江戸紫』)などの日本の旋律をピアノ独奏用に編曲し、のちに『日本楽譜』、『落梅』として出版した。日本でしばしば共演した演奏家に、1890年に来日したフルート奏者で作曲家のアドルフ・テルシャックがいるが[19]、同年8月1日の皇居明治宮殿千草の間での御前演奏会(ヴァイオリンのディットリヒとピアノのルイーザ・シュラーとの共演)でテルシャックが披露した自作の『桜と花競、フルートとピアノのための2つの日本民謡』作品188[20]には、『箏曲集』の『桜』と『花競』の旋律が用いられている[21][22]。
1891年1月4日に妻ペトロネラが亡くなる[23]。1893年9月28日に三味線師匠の森菊との間に後にヴァイオリニストとなる森乙[24]が生まれたが、森菊と乙はディットリヒ帰国後も日本に残った[25]。森乙の長男は俳優の根上淳。三男がピアニストの良達で、その息子(森乙の孫)がロックボーカリストの森雅裕。
1894年9月に帰国したウィーンでオルガニスト、ヴィオリスト[6]、ウィーン男声歌唱協会やウィーン商業者歌唱協会 (Wiener Kaufmännischer Gesangverein) の合唱指揮者[26]として活動。1900年にカタリーナ・クリーグル[27]と結婚し、2人の息子(1901年にオスヴァルト・フランツ・ディットリヒ[28]、1903年にルドルフ・ペーター・フェルディナント・ディットリヒ[29])が生まれる。1901年にオーストリア宮廷オルガニスト(ルドルフ・ビーブルの後任[30])、1907年に宮廷少年合唱団のピアノ教師(フランツ・ヴェーバーの後任[31])に就任。1906年にウィーン楽友協会音楽院のオルガン教師、1909年に同音楽院の教授(ヨーゼフ・フォクナーの後任[32])となり、ヴィンツェンツ・ゴラー、ルイ・ディーテ、フランツ・シュッツ、フランツ・クリーク[33]、カール・メッツル[34]、ハンス・ハインツ・ショルティス[35]らを指導した[2][36]。1911年にオーストリア音楽教育学帝国連盟 (Österreichischen Musikpädagogischen Reichs-Verband) の発足に携わって幹部役員となり、同1911年にウィーン音楽芸術家協会 (Wiener Tonkünstler-Verein[37]) の理事に、1914年には同協会の副会長となった[38]。1916年10月18日に卒中で倒れ、1919年1月16日にウィーン5区シュトラウセンガッセで亡くなった。墓所はウィーン中央墓地66区11番6号[39]。
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