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広島市西区の地名 ウィキペディアから
町名では己斐上(こいうえ)、己斐大迫(こいおおさこ)、己斐中(こいなか)、己斐西町(こいにしまち)、己斐東(こいひがし)、己斐本町(こいほんまち)に該当する。現行行政地名は己斐上一丁目から己斐上六丁目、己斐大迫一丁目から己斐大迫三丁目、己斐中一丁目から己斐中三丁目、己斐西町、己斐東一丁目および己斐東二丁目、己斐本町一丁目から己斐本町三丁目。
旧・佐伯郡己斐町を前身とする地域であり、さまざまな史跡が存在するが、地域西部には戦後になって造成されたニュータウンもある。
己斐は広島市中心部(紙屋町)から西へ約3から5km、同市西区に位置する地域。主に己斐上・己斐大迫・己斐中・己斐西町・己斐東・己斐本町からなる。東側の福島町とは太田川放水路で隔てられている。西で高須台、南で庚午と接する。庚午との境界には西広島バイパスが走っている[1]。
地域内をJR西日本山陽本線および広島電鉄本線・宮島線が走り、己斐本町に西広島駅および広電西広島駅がある。また、己斐本町に宮島街道が走っており、西広島駅前交差点付近には前述の2駅のほかひろでん会館が在った跡地に「KOI PLACE」が在る。己斐バスストップが広島電鉄本線および宮島線の広電西広島駅のすぐそばにあり、西広島駅バスストップがJR西日本山陽本線西広島駅のすぐそばにある。地域東部には茶臼山(通称「小茶臼」北緯34度24分27.55秒 東経132度25分29.67秒)があり、昔己斐城(平原城)があったことで知られる。また、地域南部には旭山(北緯34度23分50.8秒 東経132度25分14.1秒)もあり、己斐古城(岩原城)があったという[2][3]。
太田川放水路が地域の東端を流れており、北から己斐橋(北緯34度23分55.99秒 東経132度25分57.48秒)、新己斐橋(北緯34度23分46.61秒 東経132度25分51.37秒)、旭橋(北緯34度23分22.71秒 東経132度25分35.65秒)がかかっている。地域内には八幡川が西から東に流れ、太田川放水路に流れ込んでいる。八幡川には東から順に観光橋(北緯34度23分45.4秒 東経132度25分37.8秒)、源左衛門橋(北緯34度23分46.51秒 東経132度25分34.79秒)がかかっている[2]。
源左衛門橋は、歴史のある橋である。昔、時の広島藩主は広島入府の後に親友である紫竹源左衛門を呼び寄せて、現在の己斐西町のあたりに領地を与えた。大雨で八幡川が氾濫した時、源左衛門が仮設の橋を渡して大名行列を助けた。このことからその後この場所にできた橋を源左衛門橋と呼ぶようになったのだという[3]。
「己斐」は鎌倉時代以来の歴史ある地名で、その由来についてはいくつかの説がある。一つは神功皇后が長門の熊襲族征討に際してこの地に立ち寄ったとき、県主が大きな鯉を献上したので「鯉村」と称したというもの(国郡志下調書出帳)、「山間の村」を意味する「峡村」(かひむら)が変化したというもの(秋長夜話)、古くは「許斐」とも書いたことから筑前宗像の「許斐神社」と何らかの関係を有するというもの(芸藩通志)、などである。
以下の通り[3]。
1980年(昭和55年)12月末[4] | 9,325世帯 26,118人 |
1990年(平成2年)12月末[4] | 11,296世帯 30,364人 |
2000年(平成12年)12月末[4] | 11,743世帯 28,215人 |
2010年(平成22年)12月末[4] | 12,573世帯 27,119人 |
2013年(平成25年)10月末[5] | 12,698世帯 26,773人 |
大迫団地は己斐地域の北東部のニュータウンであり、己斐大迫という町丁に対応している。広電己斐団地は己斐地域の北西部のニュータウンであり、己斐上の一部である。フジハイツやイトーピアは茶臼山の南、己斐地域の東側のニュータウンであり、それぞれ己斐中、己斐東という町丁の一部である。もみじが丘は己斐地域の西側のニュータウンであり、己斐上という町丁の一部である。
地域内を運行するのは広電バス、広島バス、エイチ・ディー西広島の三社である。前2者は己斐本町を通過する便が主だが、己斐を拠点とするエイチ・ディー西広島は西広島駅バスストップや八丁堀バスストップと地域東部の住宅地を結んでおり、己斐上・己斐大迫・己斐中・己斐東にも停車する[2][6][7][8]。
己斐本町にJR西日本山陽本線西広島駅(北緯34度23分52.2秒 東経132度25分40.72秒)および広島電鉄本線宮島線広電西広島駅(北緯34度23分48.68秒 東経132度25分40.62秒)がある。地域北東部、己斐大迫のあたりはJR西日本山陽本線および広島電鉄横川線の横川駅(北緯34度24分35.65秒 東経132度27分0.52秒)が最寄りである。
地域内に宮島街道が走っており、南の他地区との間には西広島バイパスが走っている。広島県道265号伴広島線が地域内を通っており、己斐峠を経由して五月が丘へ行くことができる。
ズッコケ三人組に登場する花山町のモデルが己斐であることは作者の那須正幹自身が明かしており、広島市の広報紙でも紹介されている[9]。那須によると、ミドリ市のモデルは「もう完全に1960年代の後半の広島、人口もちょうど60万人ぐらいになるかな、あのころの広島」であるという[10]。
『日本紳士録』によると、商人・事業家は金なべ、料理の石橋[11]、敷島食堂の影広[11]、米穀商の竹本[11]、広島家畜社長の田中[11]、植木商の田中[11]、東洋機械取締、東洋製罐広島工場長和田[11]、日本麻紡織支配の渡邊[11]などがいた。
歴史ある宗教施設が多数ある[3]。また、以下に示すように、小中学校の名前と存在地域は必ずしも一致していない。
『日本紳士録』によると、かつて存在した歯科医師は勝田、医師は天野、松本などがいた[12]。
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