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広島市中区にある町 ウィキペディアから
中島町(なかじまちょう)は、広島市中区の中心部に位置する町であり、広島平和記念公園の所在地として知られる。中国地方や九州で中島は清音のなかしまと読む人名・地名が多いが、こちらはなかじまと濁音である。
この項目では主として、かつて繁華街であった中島町(旧町名は中島本町(なかじまほんまち)・材木町(ざいもくちょう)・天神町(てんじんまち / てんじんちょう)・元柳町(もとやなぎちょう)・木挽町(こびきちょう)・中島新町(なかじましんまち)の6町)の歴史について述べる。
中島町は元安川と旧太田川(本川、ほんかわ)の分岐点に位置し、現在町域の大半(平和大通り以北)は広島平和記念公園(平和公園)となっているが、原爆投下まで広島でも有数の繁華街の一つであった。
この地区の北端に架かる相生橋は全国でも珍しいT字橋として知られている。また南は加古町、東は元安川を挟んで大手町、西は本川を挟んで本川町・猫屋町・堺町・土橋町・河原町に接する(以上、すべて中区内)。
中島地区は、毛利輝元による広島築城以来の町人町で、2つの川の分岐点に位置することから、藩政期には太田川上流の芸北地域と広島湾とを結ぶ水運による物産集散地となり、また西国街道(山陽道)がこの地区の中ほどを横断していた(現在の中島本通)。明治期に移行してもこの界隈は広島随一の盛り場の地位を譲らず、加えて1889年の市制施行により中島新町に市役所が置かれていたため、1878年以降県庁が設置されていた隣の水主町(現・中区加古町)と併せこの近辺の地区は県政・市政の中心部としての位置を占めていた。また明治後期になると元柳町の(旧)広島銀行本店や中島本町の住友銀行広島支店など、多くの金融機関がこの地区に立地しており、元安川対岸の大手町通りと並ぶ金融街を形成していた。
中島町界隈の繁栄にいくぶんか翳りが生じるようになるのは、大正期以降である。これより先、1894年の山陽鉄道(現・JR西日本山陽本線)開通で、市域全体から見ると東のはずれの位置にある松原町に広島駅が開業、ついで1912年、旧広島城外壕を埋め立てて広島駅と相生橋東詰(現在の「原爆ドーム前」電停。当時は「櫓下」と呼ばれた)を結ぶ市内電車線(現・広島電鉄)が開通すると、市内のメインストリートは電車通りに沿って次第に東に移るようになり、本通(電車通り以東)、紙屋町、八丁堀などが新たな繁華街として台頭した。さらに1921年八丁堀の南に新天地歓楽街(現・中区新天地)が開発された結果、市街地の中で中島町界隈が商業・娯楽地区として占める地位は次第に低下していくこととなった。そのため、この地区に置かれていた主要金融機関の本店・支店は昭和初期までに紙屋町・八丁堀方面の新店舗へと次第に移転していった。また中島新町の市役所も昭和初期の市域拡大にともない手狭になることが予想されたため、1928年現在地の国泰寺町の新庁舎に移転した。しかし中島地区は映画や洋食などモダンな文化を発信する街としてはなお健在であり、古い歴史を持つ広島有数の盛り場として栄えた。戦前期広島の繁華街を象徴する「すずらん灯」は中島本通にも設置され、夜の街並みを彩った。
しかし第二次世界大戦期に入り経済統制によって市内の盛り場全般が寂れるようになると、この地区でもほとんどの喫茶店・映画館が営業困難になり閉店をよぎなくされた。さらに戦争末期には空襲が予想されたため住民の疎開が相次ぎ、また地区の南端(天神町南組および木挽町・中島新町の南半)では防災のための強制建物疎開が実施され、おおかたの建造物が取り壊されていた(この実施区域が第二次世界大戦後の戦災復興計画により平和大通りとなった)。
1945年8月6日の原爆投下によって広島は甚大な被害を受けたが、当時約1300世帯・約4400人が暮らしていた中島地区はほぼ全域が爆心半径500メートルの同心円内に入っており、街も住民も一瞬のうちに消滅した。また当日はこの地区で建物疎開作業が行われていたため、勤労奉仕で動員され中島本町・材木町の集合場所(爆心地からおおむね500 - 600メートル)に集まっていた学徒(県立二中・市立高女・市立造船工業学校)や近郊地区(安佐郡川内村など)からの義勇隊員もほとんどが全滅した。
戦後の焼け跡には、被爆当日たまたま自宅を離れていたために生き残ったわずかな住民を含む人々が、400戸にのぼるバラックを建て居住していた。しかしほどなくしてこの地区に「中島公園」として市民公園の建設が計画され、最終的には1950年広島平和記念公園および平和大通りが作られた(この際、被爆時の地面に盛り土がなされた)ため、旧住民のほとんどは立ち退きをよぎなくされた。しかし1960年代になると、彼らのなかから、瞬時のうちに消滅した町と住民を追悼するとともに、古くからの盛り場として、またモダン文化の拠点として中島地区が栄えていたことを懐かしみ、被爆前の街並みのありようや被爆の実相を記録に止めておきたいという動きが出てきた。この運動の成果は「爆心地復元調査」としてまとめられた(その後現在に至るまで復元調査は対象地区を拡大しつつ進行しており、中国新聞などの協力でより精密な復元地図が作製されている)。
戦後久しくこの一帯において戦前の界隈の名残を伝えていたのは、原爆に耐え焼け残ったレストハウス(旧「大正屋呉服店」)以外には、公園内の街路として残された中島本通、古刹・慈仙寺の跡地に残された墓石の残骸、および旧町民が跡地に建てたいくつかの慰霊碑だけであった。しかし2008年8月、平和公園内に旧中島本町・天神町・材木町・元柳町それぞれの戦前の街並み(当時撮影された写真画像も含まれる)を紹介する説明板が新たに設置されている。
中島町界隈を構成する旧6町(旧町名で中島本町・材木町・天神町・元柳町・木挽町・中島新町)の成立はいずれも藩政期(一部はそれ以前の毛利氏支配時代)まで遡るが、当時は「中島組」にまとめられ広島城下の町分「五組」の一つに数えられていた(『知新集』)。なお「中島」の名は本川と元安川に挟まれた三角州の島の名に由来する。
1965年4月の町名改正によって旧町名は消滅し、旧水主町の一部と併せて現町名「中島町(なかじまちょう)」に統合された。また先述の通り旧中島本町・旧材木町・旧元柳町は全域が平和記念公園として整備されたが、旧天神町・旧木挽町の南半分および旧中島新町の大部分は平和大通りとなるか、それ以南の市街地(現・中島町内)として残っている。
元安川と本川に挟まれたデルタの北端地区で、特にその先端部分を「慈仙寺鼻」と称した。毛利氏による広島築城当時からの町で、町名は中島の本通りであることに由来する。この町の北端には、T字型の橋として有名な(原爆の投下目標ともなった)相生橋が架けられた。町域のほぼ中ほどを中島本通商店街(旧西国街道)が横断し、映画館・カフェー・ビリヤード場などの娯楽施設や、銀行支店などの商業・金融施設が集中する中島地区の中核であった。原爆の犠牲になった町民は458人。原爆供養塔、原爆の子の像、平和の灯はこの旧町域に建設されている。また1956年には中島本町会により、跡地に「平和乃観音像(中島本町町民慰霊碑)」が「中島本町被爆復元地図」とともに建立されている。
中島本町の南に隣接し、東側の天神町と西側の元柳町に挟まれた地区で、「職人の町」として知られた。町名はかつてこの町に多くの材木商が住み、太田川上流から筏・荷船などで運ばれた木材の集散地となっていたことにちなむ。大正以後、陸上交通が急速に開けたため集散地としてさびれたが、誓願寺を始めとして寺院の多く立ち並ぶ下町の住宅街として知られていた。被爆当日にはこの町内で建物疎開作業が行われていたため、焼け跡には犠牲となった多くの動員学徒の遺体が散乱していたと伝えられている。旧町域全体が平和記念公園として整備され、平和記念資料館西館、広島国際会議場、芝生広場、原爆慰霊碑など平和公園の主要施設の大半はこの旧町域に建設されている。1957年には旧住民たちが自然石で「材木町跡」とのみ刻んだ碑を建立(位置は旧天神町北組内)した。
中島本町の南に隣接する元安川沿岸の地区で、古くは「舟町」(船町)と称されていたが、広島築城のさい毛利氏が吉田からこの地に天神社を勧請したことから天神町と呼ばれるようになり、元安川に架かる新橋(後出)を境に「北組」「南組」に分けられていた。病院・旅館などが軒を連ねる町で、2005年放送のTBS制作ドラマ「広島 昭和20年8月6日」はこの町に存在していたという架空の軍用旅館を舞台として設定している。被爆直前の強制建物疎開により「南組」の大部分は建造物が撤去されていた。現在、旧町域のうち北組は平和記念公園として整備され、平和記念資料館東館、原爆死没者追悼平和記念館が建設されているが、南組は大部分が平和大通りとなり、それ以外が市街地(現・中島町内)となっている。1973年には旧住民・町内会により「旧天神町北組慰霊碑」および同「南組慰霊碑」が建立された(北組慰霊碑は平和公園内、南組慰霊碑は平和大通り南側の緑地に所在)。
中島本町の南に隣接する本川沿岸の地区で、広島築城当時からの町である。町名は川の土手に柳の大木があったことに由来し、元来「柳町」を称していたがその後、東柳町(現在の南区稲荷町)が開かれたことで元柳町と称するようになった。問屋街として知られ、川岸にはかき船が係留されていた。旧町域全体が平和記念公園として整備された。
材木町の南に隣接する地区で、広島築城当時は木挽小屋がある畑地であったことから、のちの中島新町と併せ「中島地方」(なかじまじがた)と称され、天和年間(17世紀末)頃に「木挽町」として独立した。材木町と同じくかつての材木の集散地であり、のちに住宅街となった。建物疎開により被爆時には街並みの大半が撤去されていたが、戦後この撤去区域の一部が平和大通りとなり、旧町域のごく一部が市街地(現・中島町内)として残っている。
元柳町の南に隣接する本川沿岸の地区。築城当時は木挽町と併せて中島地方と称され、天和年間頃に中島新町として独立した。町名は新たに開発された町であることに由来する。1882年、町内の旧広島藩米倉の跡地に広島区役所が建てられ、1889年の市制施行により市役所に昇格、市会議事堂が併設された。これらが1928年国泰寺町に移転するまで町は市政の中心地となっていた。木挽町と同様建物疎開により被爆時には街並みの大半が撤去されており、戦後この撤去区域の一部が平和大通りとなったが、旧町域のほとんどは市街地(現・中島町内)として残っている。
藩政時代以来の歴史を持つ名刹が多く所在するこの界隈は「中寺町」とも呼ばれていた。
2018年6月末の人口は664人、世帯数は347世帯[1]。
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