広島市役所
広島県広島市の行政機関 ウィキペディアから
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広島市役所(ひろしましやくしょ)は、地方公共団体である広島市の執行機関としての事務を行う施設(役所)である。
1889年4月1日、市制施行し広島県の県庁所在地となる。1980年、政令指定都市に移行した。
広島市への原子爆弾投下という歴史を持ち、原爆や平和への取り組みに特徴がある。旧庁舎の一部を保存し資料展示室として使用されており、これは現存する被爆建物の一つ。敷地内には被爆樹木であるソメイヨシノが2本ある。
広島市役所旧庁舎資料展示室 | |
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施設情報 | |
専門分野 | 旧庁舎資料 |
管理運営 | 広島市 |
開館 | 1985年 |
プロジェクト:GLAM |
下記の通り元々は旧庁舎の地下室であり、爆心地から1.02kmに位置した。被爆当時は配給課の倉庫として使用されていた。1985年新庁舎建設に伴い地下室のみ保存し資料展示室となった。
旧庁舎の建物資料、被爆後救護活動に尽力した職員など関係者の資料、被爆時の状況を示す資料を展示している。
なお、見学には事前に許可をとる必要がある。
1878年(明治11年)11月1日、同年制定された郡区町村編制法により広島県第一大区が「広島区」(「区」は県の下の行政単位で概ね県庁所在地のうち人口密集の町に与えられた)と改称されると区の役所は大手筋一丁目(現・中区大手町)に置かれたが、ほどなく12月23日には新川場町(現・中区小町)の正清院に移転した。ついで1882年7月1日には中島新町(現・中区中島町)の善福寺隣の旧広島藩米倉の跡地に木造の新庁舎が落成し、ここに移転した。
1889年(明治22年)4月1日の市制施行により設置された広島市役所はそれまでの広島区役所をそのまま継承、9月21日には開庁式を挙行した。この時期、市役所が中島地区に置かれた背景には、当時この地が藩政期以来の大商業地区であった(中島町 (広島市)を参照)ことが挙げられるが、中島新町に隣接する水主町(藩政期以来の武家屋敷町)には広島県庁・県病院が置かれ、この近隣は市政・県政の中枢地区としての地位を占めていた(県庁・県病院は原爆被災により壊滅するまで同町で存続した)。
1921年制定の(旧)都市計画法による隣接7町村(三篠町、己斐町、草津町、古田村、牛田村、矢賀村、仁保村)の編入合併(1929年4月に施行)が現実化すると、中島新町の庁舎では手狭になることが予想されたため、市役所の移転が計画されるようになった。その結果、移転先の敷地として選ばれたのは、国泰寺町の市公会堂(現存せず)南隣の市立高等女学校跡地であった。
増田清により設計された新しい庁舎は、地上4F・地下1Fの鉄筋コンクリート造建築で、1928年(昭和3年)4月14日、中島新町の初代庁舎からの移転が挙行された(これにより付近の広島電鉄電停の名称は「公会堂前」から「市役所前」となった)。
1945年8月6日の原爆被災で、爆心地から南に約1kmに位置していた国泰寺町の庁舎は大きな被害を受け、窓ガラスが飛び内部は全焼、当日庁舎内にいた者のうち約30名は年内に死去した。しかし耐震建築であったため構造的な被害はなく、直後から市民の救護所となった。また市の中心部からやや離れた比治山西麓の山陽文徳殿に前もって疎開させていた戸籍原簿は難を逃れ、しばらくの間ここで戸籍業務が行われた。被爆した庁舎は第二次世界大戦後も一部の修復を経て長く使用され、1985年に新庁舎建築により一部(地下室)を除き取り壊された。
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