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日本の広島県安佐郡にあった町 ウィキペディアから
三篠町(みささちょう)は、かつて広島県安佐郡に存在した町である。1889年(明治22年)の町村制発足時には「三篠村」として設置されたが、1907年(明治40年)に町制を施行して三篠町となり、1929年(昭和4年)4月1日、広島市に編入合併して消滅した。
町名となっている「三篠」は太田川の別名「御篠川」(みささがわ)に由来する。「御篠川」は太田川とその支流・分流が笹の葉を重ねた形に似ていることから名付けられた。
江戸時代、のちに「安佐郡三篠町」となる地域は新庄・楠木・打越の3村に分かれており、いずれも沼田郡に属した。これらの村は藩政時代の太田川治水工事により新田として開発された地域であり、蔬菜の他には藍の産地として知られていた。楠木村に属する横川は雲石街道(国道54号の旧道)から広島城下への入り口という交通の要所であり早くから市街地が形成されていた。
明治時代に入っても上記3村はしばらく持続したが、1889年(明治22年)の町村制施行により統合され、「沼田郡三篠村」が新たに発足、村役場は大字楠木に設置された(のち沼田郡と高宮郡の統合にともない安佐郡三篠村に変更した)。1897年(明治30年)、山陽鉄道(現JR山陽本線)が徳山まで開通すると、村内には広島駅の西隣の駅として横川駅が開業し、旧雲石街道には商店街が形成された(1903年には日本最初の乗合バスが横川 - 可部間に開業したが同年中に廃止された)。そして1907年(明治40年)には町制が施行されて「安佐郡三篠町」と改称、さらに1910年(明治43年)には大日本軌道の横川 - 祇園間の路線(現在のJR可部線)が開通した。このころから川舟による太田川水運に代わって、鉄道が海運に接続する物資運搬を担うようになっていった。
町の主要産業であった藍作は第一次世界大戦頃から次第に衰退に向かい、楠木では製針・製材・家具・ゴム工業が発達して工業地帯を形成、新庄・打越は稲作・蔬菜栽培を中心とする農村地帯となった。また1917年(大正6年)には、市電(現在の広島電鉄横川線)が左官町(現在の中区本川町)から横川まで開通、横川は同年浜田方面への郊外バスの発着場となるなど県内陸交通の一大拠点となり広島の北の玄関口としての地位を固めた。そして1929年(昭和4年)、三篠町の広島市への編入合併に至る。
町村制発足による三篠村設置に際して統合された新庄・打越・楠木3村は、三篠村の大字として編成された。
戦国時代以来の村名で、地名は昔楠木の大樹があったことに由来する(旧『広島県史』)。「別府楠木村」とも称した。町役場が設置されたこともあって旧三篠町の中心地域であり、現在の大芝・楠木町・三篠町・横川町などにほぼ相当する。
江戸期以来の村名であり、地名の由来はかつてこの地が定期的な洪水の被災地であり、冠水の際には横川の堤防の一部を破壊して内部の水を排水したため「内越」と呼ばれたことによる。現在の打越町・山手町・中広町などにほぼ相当する。
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