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日本の広島県佐伯郡にあった町 ウィキペディアから
草津町(くさつちょう)はかつて広島県佐伯郡に存在した町である。1889年(明治22年)の町村制発足時には「草津村」として設置されたが、1909年(明治42年)町制を施行して草津町となり、1929年(昭和4年)4月1日、広島市に編入合併して消滅した。
南北朝時代からの歴史ある地名で、古代、神功皇后が三韓出兵のさいこの地に布陣したという伝承から「軍津」(いくさつ)と呼ばれ、これが訛ったという説がある。古くは「久曾津」とも書いた。
中世の草津村は古江村(のちの古田村)を村域に含んでおり(慶長年間頃まで)、近隣の己斐村・山田村・井口村と同様、厳島神社の社領(荘園)であった。戦国時代には、当初、厳島社神主家配下の羽仁氏が草津城を拠点にこの地を支配しその後大内氏・陶氏の勢力圏に入った。1554年(天文23年)以後は毛利氏支配下となり、水軍の将である児玉氏が毛利の防長移封まで3代にわたって草津を統治した(詳細は草津城参照)。入江や干潟に富んだ地形は早くからこの地に港を発達させることになり、城の南にある草津湊(くさつみなと / 草津漁港の前身だが埋め立てにより現在は沖合に移転)は毛利水軍の基地になるとともに米・塩などの荷揚げ、厳島社への参拝や瀬戸内の島々への渡船場として賑わい、村には町屋が形成された。
藩政期、草津は広島城下の外港としての役割を果たし、浜田藩(松平氏)の船屋敷が一時設置されていたこともある。また街道筋に位置する草津城址には城下町の西端を示す大門が設けられた。広島およびその近辺の水産物の集散地でもあり、延宝年間以降はカキの養殖が盛んになり、仁保島・江波などと並ぶ特産地となった。さらに沖合に広がる遠浅の干潟では早い時期から新開地の造成が行われた。
1870年(明治3年)、沖合に造成された広大な庚午新開は、1889年の町村制発足により佐伯郡草津村が設置されると、その全体が村域に編入された。1909年(明治42年)には町制が施行され草津町と改称した。新開地である庚午がサツマイモ・大根などの栽培が盛んな野菜の産地であったのと対照的に、草津では住民の多くが水産物の漁獲・加工・販売などに従事していた。1922年(大正11年)には広島瓦斯電軌(現・広島電鉄)宮島線が己斐から草津まで延長され駅が設置された。そして1929年(昭和4年)の広島市編入に至る。
町村制発足による草津村設置に際して統合された草津村および庚午新開は、草津村(のち草津町)の大字として編成された。
1870年(明治3年)、前年の凶作による困窮者の救済を目的に広島藩により干潟干拓がなされ、翌年の完成で「庚午新開」と命名され、全域が佐伯郡に編入(1878年)された。地名は着手された年(1870年)の干支に由来する。現在の庚午(庚午北・中・南)にほぼ相当する。
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