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大宰帥の権官 ウィキペディアから
大宰権帥(だざいのごんのそち/だざいのごんのそつ)は、大宰府の長官である大宰帥(だざいのそち)の権官である。初代は弘仁元年(810年)の阿保親王、2代目は承和4年(837年)の藤原常嗣であるが、前者は薬子の変による連座、後者は遣唐大使としての功労による特殊事情による任命であるため、貞観15年(873年)に任じられた3代目の在原行平(阿保親王の子)が事実上の初代とされている。
大宰府は、朝廷の鎮西総司令部であり、九州地域の兵権を掌握した。大宰帥を長官とし、権帥を長官代理とする。
弘仁年間以降、帥には皇族が列せられる慣例となったので、権帥が実質的な長官となった。また、大宰権帥と大宰府の次官である大宰大弐を同時には任命できない慣習も生まれた。
更に、中国(宋)との交易の利権も大宰府に集中したことから、その利権を目当てに大宰権帥には中納言・大納言経験者がなることが多かった。それらの例として自らが陣頭指揮を執って刀伊の入寇を撃退した藤原隆家や、大宰府を制圧した藤原純友に対抗した橘公頼、白河法皇の院政時代に活躍した大江匡房等が挙げられよう。
だが、他方で大宰権帥は中央で失脚した大臣経験者の左遷ポストとなることも多かった。例としては阿保親王・源高明・藤原伊周・松殿基房などが挙げられる。本来こうした貴族は大宰員外帥と呼ばれ、正規の帥・権帥とは区別されていた(大宰員外帥に任じられた例としては藤原豊成・藤原浜成・藤原吉野・菅原道真など)が、前述の阿保親王左遷の際に本人に直接関わりない事件である事と上皇の皇子である事への配慮から特に「権帥」の称号を与えて従来の員外帥とは区別した。やがて、平安時代中期になると員外帥と権帥の区別は失われて、ともに「権帥」と称される事となった。そのため、正規の権帥の中には外聞を気にするものもおり、平惟仲のように懇願して大宰帥として任命されるものもあった。
その後、在庁官人に権力が移り、保安年間の源重資を最後に権帥も遙任化していった(治承年間に松殿基房が左遷によって大宰権帥となりその監視の為に藤原隆季が大宰帥に任じられた例があるが、基房が途中の備前国で出家して同地に留まる事を許されたために派遣が中止されている)。
大宰権帥を務めた人物の一覧。ただし、*印は大宰員外帥を示す。
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