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日本の平安時代の僧兵 ウィキペディアから
武蔵坊 弁慶(むさしぼう べんけい、武藏坊 辨慶[注釈 1]、生年不詳 - 文治5年閏4月30日〈1189年6月15日〉?)は、平安時代末期の僧衆(僧兵)。源義経の郎党。
鎌倉幕府が記録した「吾妻鏡」に義経の部下として名前が登場する。同じく鎌倉時代に書かれた軍記物語「平家物語」「源平盛衰記」においても名前が記録されている。しかしながら、出身地、容姿、性格、活動内容、最期と言った詳細な情報については、当時の資料には一切記録がないことから、弁慶の功績や伝説とされるものは後世の創作である(後述)。
元は比叡山の僧で武術を好み、五条の大橋で義経と出会って以来、郎党として彼に最後まで仕えたとされる。
義経に忠義を尽くした怪力無双の荒法師として名高く、怪力や豪傑の代名詞として用いられている。
後述のような広く知られる弁慶の逸話は、『義経記』をはじめとした、室町時代以降の後世に成立した創作を基にしたものである。
鎌倉時代当時の文献においては、『吾妻鏡』文治元年(1185年)11月3日条に、
前中將時實。侍從良成〔義經同母弟。一條大藏卿長成男〕伊豆右衛門尉有綱。堀弥太郎景光。佐藤四郎兵衛尉忠信。伊勢三郎能盛。片岡八郎弘經。弁慶法師已下相從。彼此之勢二百騎歟云々。
11月6日条に、
相從豫州之輩纔四人。所謂伊豆右衛門尉。堀弥太郎。武藏房弁慶并妾女〔字靜〕一人也。
と、義経郎党の一人として名が記されているのみである。これは『平家物語』においても同様で、いずれも出自や業績、最期等については全く触れられていない。『源平盛衰記』では、弁慶をトビのような痩せ法師と形容しているが、こちらでも業績や最期については全く触れられていない。肖像や外見の記録もほとんど後世に伝わっていないことから、弁慶とされる絵画や彫像も全て、その時の芸術家による想像図である。
『吾妻鏡』ほか『玉葉』によると、都落ちの後、周辺に潜伏する義経を比叡山の悪僧(僧兵)らが庇護しており、その中の俊章(しゅんしょう)という僧は、義経を奥州まで案内したとされる。また文治5年(1189年)1月13日には、義経が京に還る意志を書いた手紙を持った比叡山の悪僧、千光房七郎(せんこうぼう しちろう)が、北条時定(時政の甥)に捕縛されている。この七郎は、『吾妻鏡』文治四年(1188年)8月17日条によれば、悪徒浪人を集めて悪行を働いた咎でお尋ね者になっていた僧侶とされている。
これら義経を庇護した複数の比叡山悪僧の所業が集められ、誇張されて後述の武蔵坊弁慶の伝説が構成されたとする説がある。
熊野別当(『義経記』では「弁しょう」、『弁慶物語』では弁心)が、二位大納言の姫を強奪して生ませたとされる。母の胎内に18ヶ月(『弁慶物語』では3年)いて、生まれたときには2、3歳児の体つきで、髪は肩を隠すほど伸び、奥歯も前歯も生えそろっていたという。父はこれは鬼子だとして殺そうとしたが、叔母に引き取られて鬼若[注釈 2]と命名され、京で育てられた。
鬼若は比叡山に入れられるが勉学をせず、乱暴が過ぎて追い出されてしまう。鬼若は自ら剃髪して武蔵坊弁慶と名乗る。その後、四国から播磨国へ行くが、そこでも狼藉を繰り返して、播磨の圓教寺の堂塔を炎上させてしまう。
やがて、弁慶は京で千本の太刀を奪おうと心に誓う。弁慶は道行く人を襲い、通りかかった帯刀の武者と決闘して999本まで集めたが、あと一本というところで、五条大橋で笛を吹きつつ通りすがる義経と出会う。弁慶は義経が腰に佩びた見事な太刀に目を止め、太刀をかけて挑みかかるが、欄干を飛び交う身軽な義経にかなわず、返り討ちに遭った。弁慶は降参してそれ以来義経の家来となった。この決闘は後世の創作で当時五条大橋はまだなく、決闘の場所も『義経記』では五条の大橋ではなく堀川小路から清水観音での出来事とされている。また現在の松原通が当時の「五条通り」であり、また旧五条通西洞院に五条天神社が存在し、そこに架かる橋であったともいわれている。決闘の場所を五条大橋とするのは、明治の伽噺作家、巖谷小波の書いた『日本昔噺』によるもので、『尋常小学唱歌』の「牛若丸」もこれにしたがっている[1]。千本の太刀をあと一本で奪いそこねる話は仏教寓話に同様の話が存在する(アングリマーラを参照)。
その後、弁慶は義経の忠実な家来として活躍し、平家討伐に功名を立てる。兄の源頼朝と対立した義経が都落ちするのに同行。山伏に姿を変えた苦難の逃避行で、弁慶は智謀と怪力で義経一行を助けた。
一行は加賀国安宅の関で、富樫介(能の『安宅』では富樫の何某(なにがし)、歌舞伎の『勧進帳』では富樫左衛門。富樫泰家に比定される)に見咎められる。弁慶は偽の勧進帳を読み上げ、疑われた義経を自らの金剛杖で打ち据える。富樫は弁慶の嘘を見破りつつも、その心情を慮りあえて騙された振りをして通し、義経一行は無事に関を越える。
義経一行は、奥州平泉にたどり着き、藤原秀衡のもとへ身を寄せる。だが秀衡が死ぬと、子の藤原泰衡は頼朝による再三の圧力に屈し父の遺言を破り、義経主従を衣川館に襲った(衣川の戦い)。多数の敵勢を相手に弁慶は、義経を守って堂の入口に立って薙刀を振るって孤軍奮闘するも、雨の様な敵の矢を身体に受けて立ったまま絶命し、その最期は「弁慶の立往生」と後世に語り継がれた。
なお、義経主従は衣川館では死なず、平泉を脱して蝦夷地へ、あるいは西国に逃れたとする、いわゆる「義経北行伝説」にも、弁慶に関するエピソードは数多く登場する。
弁慶は猿楽・能の『安宅』やそれを歌舞伎化した『勧進帳』でも主役を張っている。
義経が頼朝と不仲になり、都落ちして奥州藤原氏のもとに身をよせることになった。途上、義経一行は山伏に扮して安宅の関を越えようとした。
ところが一行は関守の富樫に見咎められる。これを弁慶は「奈良の東大寺再建のため諸国をまわり勧進(寄付)を募る山伏である。」と答え、富樫は「勧進帳を出せ」と詰め寄る。もとより一行はそのようなものを持っていなかった。しかし、弁慶は機転を利かせ、もともと寺で修行経験があったことが幸いして、持ち合わせの巻物を広げ、朗朗と読み上げていく。この機転によって無事関を越えられそうであった。
しかし「一行の中に常に傘で顔を覆っていて不自然な行動をする者が義経に非常に似ている」と富樫の部下が言い出したため、なおいっそう疑われてしまう。更に弁慶は機転を利かせ、今度は手に持っていた杖で「お前が義経に似ているために、あらぬ疑いをかけられてしまったではないか!」とののしりながら主君である義経を何度も何度も殴った。「いくらなんでも杖で主君をぶつ者はこの世にいるはずがない」と関の者たちにそう思わせることに成功し、一行は無事に関を越えることができた。
そして、弁慶は無事関を越えられた後、主を殴ったことについて義経に泣きながら詫びたという筋である。
以上の内容は、歌舞伎演目案内[2]を参照。
五条の橋での義経との戦いを扱った『橋弁慶』という能や、義経の西国落ちの道程を扱った『船弁慶』という猿楽・能になっている。また、義経を主人公とした『義経千本桜』などの歌舞伎にも、主要人物の一人として登場する。
弁慶は古くから豪傑や怪力の代名詞として用いられており、それにちなんださまざまな言葉がある。
和歌山県田辺市は、弁慶の生誕地であると観光資料などに記しており、毎年10月第1金曜・土曜日に弁慶誕生の地にちなんだ「弁慶まつり」を開催している。死没地である岩手県平泉町と1982年(昭和57年)に姉妹都市提携を締結。近年では世界遺産(紀伊山地の霊場と参詣道(田辺市)・平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群―(平泉町))を抱える自治体としての交流も盛んになっている。
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