いずみたく
日本の作曲家 ウィキペディアから
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いずみ たく(1930年〈昭和5年〉1月20日 - 1992年〈平成4年〉5月11日)は、日本の作曲家・政治家。元参議院議員(第二院クラブ)。中黒を付けていずみ・たくと表記される場合もある。[1]本名は今泉 隆雄(いまいずみ たかお)。
仙台陸軍幼年学校に在学中、敗戦を迎える。
東京府立第五中学校を経て、1946年(昭和21年)、一期生として鎌倉アカデミア演劇科に入学する(同窓生として前田武彦や高松英郎らがいた)。1950年(昭和25年)に舞台芸術学院演劇学科を卒業後、ダンプの運転手などをしながら芥川也寸志に師事し、作曲活動を始める。後に三木鶏郎が率いる冗談工房に参加し、トリローグループの一員ともなった。1955年(昭和30年)には、朝日放送ホームソングコンクール[2]・グランプリを受賞。
歌謡曲(演歌調からシャンソン風、ブルース、ポップスまで曲調はさまざま)から、フォークソング、CMソング、アニメソング、ミュージカル、童謡、校歌、交響曲(笙や能管などと管弦楽の組み合わせという作品も含めて数曲が残されている)と幅広いジャンルの曲を作曲。多作で知られ、総作数は15,000曲に上るという。
1960年には永六輔とともにミュージカル「見上げてごらん夜の星を」を制作。その制作現場で、舞台美術を担当するやなせたかしを永六輔から紹介される。
1963年には、芸能プロダクション「オールスタッフプロダクション」を設立。いしだあゆみ、ピンキーとキラーズ、佐良直美らが所属していた[3]。
1965〜69年にかけて永六輔作詞で47都道府県の”ご当地ソング”をデューク・エイセスが歌う「にほんのうた」シリーズを作った。このシリーズからは「いい湯だな」(群馬県)、「女ひとり」(京都府)、「フェニックス・ハネムーン」(宮崎県)などのヒット曲がある。
1969年(昭和44年)には佐良直美の『いいじゃないの幸せならば』が第11回日本レコード大賞を受賞した。「にほんのうた」シリーズで、1966年第8回日本レコード大賞 企画賞、1969年第11回日本レコード大賞 特別賞を受賞。
1972年(昭和47年)テイチク・レコード傘下にBLACKレーベルを開設。1973年には新たな発想に、「オールスタッフプロダクション」所属者、楽曲を提供していたNHK総合テレビの音楽番組「ステージ101」のレギュラー出演者グループであるヤング101の卒業生[注 1]にグループ・サウンズのフィフィ・ザ・フリー元メンバーなどをスカウト等から集め、自身がプロデュースと監督を務める「いずみたくシンガーズ」を結成した。全国放送テレビ番組出演に、地方各地をステージ公演する活動を行った。「いずみたくシンガーズ」は舞台では、歌手兼ダンサー・チームと演奏者・バンドの二部体制をとったがレギュラー出演した「カリキュラマシーン」では、演奏者もダンスやコントに参加、1974年発表「帰らざる日のために」、「徹子の部屋」テーマ曲(「徹子の部屋のテーマ」、ただし演奏者クレジットは非公開)などは編曲アレンジの都合から歌手チームのみ起用されている。結成当初メンバーには 「いずみたくシンガーズ」を米国の「マイク・カーブ・コングリゲイション」同様の集団組織中核、または増員を図る計画を伝えていた。メンバー交代やいずみたくの構想変更から1976年には「オールスタッフプロダクション」斡旋のソロ活動やセッション演奏活動に移行し発展解消、事実上自然消滅解散する。
「歌はドラマである」のモットーに基づき、「見上げてごらん夜の星を」「洪水の前」「おれたちは天使じゃない」「歌麿」「船長」「死神」「聖スブやん」(エロ事師たちの舞台化)、など多数のミュージカルを手がけた。ミュージカルの制作とともに、ミュージカル俳優の育成にも情熱を注ぎ、日本のミュージカル界で活躍する多くの俳優を育てた。その俳優養成が基となり、ミュージカルを専門に上演する劇団フォーリーズ(現:ミュージカルカンパニー イッツフォーリーズ)を旗揚げ。客席数100席の劇場・アトリエフォンテーヌを作り、そこを拠点に数々の実験的な公演を行った。
1986年(昭和61年)、第二院クラブから参議院比例区に立候補するも落選。1989年(平成元年)、青島幸男辞職により繰上当選となった。第二院クラブから立候補した理由は、友人である青島幸男に強く請われたためだとする説も有力である。議員としての活動では、「日本は世界第2位の経済大国であるのに、国の文化・芸術関連への予算配分が少なすぎる」として、文教関係予算の増額のために尽力したが、任期途中の1992年(平成4年)5月11日、肝不全のため東京都港区の済生会中央病院で死去した。62歳没。哀悼演説は同年5月20日、参議院本会議で大木浩により行われた[4]。墓所は雑司ヶ谷霊園。
晩年は以前からミュージカルをプロデュースしていた「アンパンマン」のアニメ化作品「それいけ!アンパンマン」の音楽を担当しており、「すすめ!アンパンマン号」(ミュージカル『アンパンマンと勇気の花』挿入歌)が遺作となった。作詞を担当したやなせたかしによると、いずみの病状が悪化したため、他の作曲家に依頼するプランもあったものの、いずみが引き受け病床で妻に口述筆記させて完成させた[5]。編曲を担当した弟子の近藤浩章によると、いずみが亡くなったのは編曲作業が終了し録音に入る直後だったという[6]。
孫はシンガーソングライターのラブリーサマーちゃん[7]。姪はミュージカルカンパニー イッツフォーリーズ代表者の土屋友紀子。
社歌
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