鹿島神宮
茨城県鹿嶋市にある神社 ウィキペディアから
茨城県鹿嶋市にある神社 ウィキペディアから
鹿島神宮(かしまじんぐう、鹿嶋神宮)は、茨城県鹿嶋市宮中にある神社。式内社(名神大社)、常陸国一宮。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
全国にある鹿島神社の総本社。千葉県香取市の香取神宮、茨城県神栖市の息栖神社とともに東国三社の一社[1]。また、宮中の四方拝で遥拝される一社である。
茨城県南東部、北浦と鹿島灘に挟まれた鹿島台地上に鎮座する。古くは『常陸国風土記』に鎮座が確認される東国随一の古社であり、日本神話で大国主の国譲りの際に活躍する武甕槌神(建御雷神、タケミカヅチ)を祭神とすることで知られる。古代には朝廷から蝦夷の平定神として、また藤原氏から氏神として崇敬された。その神威は中世に武家の世に移って以後も続き、歴代の武家政権からは武神として崇敬された。現在も武道では篤く信仰される神社である。
文化財のうちでは、「韴霊剣(ふつのみたまのつるぎ)」と称される長大な直刀が国宝に指定されている。また境内が国の史跡に、本殿・拝殿・楼門など社殿7棟が国の重要文化財に指定されているほか、多くの文化財を現在に伝えている。鹿を神使とすることでも知られる。
神宮は常陸国鹿島郡の地に鎮座するが、その地名「カシマ」は、『常陸国風土記』[原 1]では「香島」と記載される[2]。風土記の中で、「香島郡」の名称は「香島の天の大神」(鹿島神宮を指す)に基づくと説明されている[3]。「カシマ」を「鹿島」と記した初見は養老7年(723年)[原 2]であり[4]、8世紀初頭には「香島」から「鹿島」に改称されたと見られている[2]。この変化の理由は史書からは明らかでないが、神宮側では神使の鹿に由来すると説明する[5]。この「カシマ」の由来には諸説がある。主な説は次の通り。
なお、神宮では現在社名に「島」の字を用いているが、自治体の茨城県鹿嶋市は佐賀県鹿島市との区別のため「嶋」の字が使用される。
祭神は次の1柱[6]。
上記のように、鹿島神宮の主祭神はタケミカヅチ(武甕槌/建御雷)であるとされる。タケミカヅチの出自について、『古事記』[原 6]では、伊邪那岐命(伊弉諾尊)が火之迦具土神(軻遇突智)の首を切り落とし、剣についた血が岩に飛び散って生まれた3神のうちの1神とする[8](日本書紀[原 7]ではここでタケミカヅチ祖のミカハヤヒが生まれたとする)。また、天孫降臨に先立つ葦原中国平定においては、アメノトリフネ(天鳥船神:古事記)または経津主神(日本書紀)とともに活躍したという[9]。その後、神武東征に際してタケミカヅチは伊波礼毘古(神武天皇)に神剣(布都御魂)を授けた[7]。ただし『古事記』・『日本書紀』には鹿島神宮に関する言及はないため、タケミカヅチと鹿島との関係は明らかでない[10]。
一方、『常陸国風土記』[原 1]では鹿島神宮の祭神を「香島の天の大神(かしまのあめのおおかみ)」と記し、この神は天孫の統治以前に天から下ったとし、記紀の説話に似た伝承を記す[11]。しかしながら、風土記にもこの神がタケミカヅチであるとの言及はない[12]。
神宮の祭神がタケミカヅチであると記した文献の初見は、『古語拾遺』[原 8](807年成立)における「武甕槌神云々、今常陸国鹿島神是也」という記述である[14]。ただし、『延喜式』(927年成立)の「春日祭祝詞」[原 9]においても「鹿島坐健御賀豆智命」と見えるが、この「春日祭祝詞」は春日大社の創建といわれる神護景雲2年(768年)[注 1]までさかのぼるという説がある[15]。以上に基づき、8世紀からの蝦夷平定が進むにつれて地方神であった「香島神」に中央神話の軍神であるタケミカヅチの神格が加えられたとする説があるほか[16]、中央の国譲り神話自体も常陸に下った「香島神」が中臣氏によって割り込まれて作られたという説がある[17]。
神宮の祭神は、タケミカヅチが国土平定に活躍したという記紀の説話、武具を献じたという風土記の説話から、武神・軍神の性格を持つと見なされている[18]。特に別称「タケフツ」や「トヨフツ」に関して、「フツ」という呼称は神剣のフツノミタマ(布都御魂/韴霊)の名に見えるように「刀剣の鋭い様」を表す言葉とされることから、刀剣を象徴する神とする説もある[19]。鹿島神宮が軍神であるという認識を表すものとしては、『梁塵秘抄』(平安時代末期)の「関より東の軍神、鹿島・香取・諏訪の宮」[原 10]という歌が知られる[14]。一方、船を納めさせたという風土記の記述から航海神としての一面や[11]、祭祀集団の卜氏が井を掘ったという風土記の記述から農耕神としての一面の指摘もある[15]。以上を俯瞰して、軍神・航海神・農耕神といった複合的な性格を持っていたとする説もある[15]。一方でタケミカヅチと中臣氏の遠祖である天児屋命を繋ぐ系図が存在し、中臣氏歴代にも津速産霊命、市千魂命、伊香津臣命、雷大臣命など「雷」に関係した神名・人名が見られ、中臣氏と同祖と見られる紀国造にも雷神祭祀(鳴雷神社)や天雷命など雷に関わる神名が見られることから、雷神としてのタケミカヅチを中臣氏本来の神と見る説もある[20]。
鹿島神宮は、下総国一宮の香取神宮(千葉県香取市、北緯35度53分10.03秒 東経140度31分43.27秒)と古来深い関係にあり、「鹿島・香取」と並び称される一対の存在にある[21]。
鹿島・香取の両神宮とも、古くより朝廷からの崇敬の深い神社である。その神威は、両神宮が軍神として信仰されたことが背景にある[22]。古代の関東東部には、現在の霞ヶ浦(西浦・北浦)・印旛沼・手賀沼を含む一帯に香取海という内海が広がっており、両神宮はその入り口を扼する地勢学的重要地に鎮座する。この香取海はヤマト政権による蝦夷進出の輸送基地として機能したと見られており[22]、両神宮はその拠点とされ、両神宮の分霊は朝廷の威を示す神として東北沿岸部の各地で祀られた(後述)。鹿島神宮の社殿が北を向くことも、蝦夷を意識しての配置といわれる[23]。
朝廷からの重要視を示すものとしては、次に示すような事例が挙げられる。
また、藤原氏からの崇敬も特徴の1つである。鹿島には藤原氏前身の中臣氏に関する伝承が多く残るが、藤原氏祖の藤原鎌足もまた常陸との関係が深く、『常陸国風土記』[原 13]によると常陸国内には鎌足(藤原内大臣)の封戸が設けられていた。また『大鏡』(平安時代後期)[原 14]を初見として鎌足の常陸国出生説もあり[24]、神宮境外末社の津東西社跡近くに鎮座する鎌足神社(鹿嶋市指定史跡、北緯35度57分58.92秒 東経140度37分5.41秒)はその出生地と伝えられる[25]。藤原氏の氏社として創建された奈良の春日大社では、鹿島神が第一殿、香取神が第二殿に勧請されて祀られ[26]、藤原氏の祖神たる天児屋根命(第三殿)よりも上位に位置づけられたが、天児屋根命の父を建御雷神とする説があり[27]、それに従えば建御雷神は中臣氏の上祖となる。
その後、中世に武家の世に入ってからも両神宮は武神を祀る神社として武家から信仰された。現代でも武術方面から信仰は強く、道場には「鹿島大明神」・「香取大明神」と書かれた2軸の掛軸が対で掲げられることが多い。
創建について、鹿島神宮の由緒『鹿島宮社例伝記』(鎌倉時代)や古文書(応永32年(1425年)の目安)では神武天皇元年に初めて宮柱を建てたといい[28]、神宮側ではこの神武天皇元年を創建年としている[29]。
一方『常陸国風土記』[原 1]にも神宮の由緒が記載されており、「香島の天の大神」が高天原より香島の宮に降臨したとしている[14]。また、この「香島の天の大神」は天の大神の社(現・鹿島神宮)、坂戸の社(現・摂社坂戸神社)、沼尾の社(現・摂社沼尾神社)の3社の総称であるともする[14]。その後第10代崇神天皇の代には、大中臣神聞勝命(おおなかとみかむききかつ)が大坂山で鹿島神から神託を受け、天皇は武器・馬具等を献じたという[14]。さらに第12代景行天皇の代には、中臣臣狭山命が天の大神の神託により舟3隻を奉献したといい、これが御船祭(式年大祭)の起源であるとされる[14]。 臣狭山命は倭建命の東征活動に参加しており、陸奥地方に多く見える鹿島神、鹿島御子神の分布は中臣氏の先祖や部民関係者が東征活動に随行、従事したことによるものと見られる。なお、風土記に見える舟の奉献は実際には倭建命の東征にあたって献上したものと見る説もある[30]。
『常陸国風土記』[原 1]には鹿島社に多くの神戸、すなわち祭祀維持のための付属の民戸が設置されたことが見える[14]。また風土記では、大化5年(649年)に神郡として香島郡(鹿島郡)が成立し、天智天皇年間(668年-672年)には初めて使いが遣わされて造営のことがあったと記す[14]。以上の背景としては大化の改新後の新政による朝廷の東国経営強化が考えられ、改新を契機として朝廷は鹿島社とつながりを深め、天智朝の社殿造営を大きな画期としたと見られている[14]。
このような朝廷との結びつきには、中臣氏の存在が背景にあったと指摘される[14]。中臣氏は6世紀後半から7世紀初頭に祭祀制度の再編を行なっており、これに伴って東国に中臣部や卜部といった部民を定め、一地方神であった鹿島社の祭祀を掌握したと見られている[14]。実際、史料には鹿島郡司や社の神職に中臣姓の人物が多く存在する[14]。そして、大化の改新後に中臣氏は政治的に躍進し、鹿島社も朝廷との関係を深めたという[14]。中臣氏進出以前の祭祀氏族については諸説あるが、明らかではない(「考証」節参照)。
鹿島神が朝廷の東国経営で大きな役割を果たした様子を表すものとしては、後世の『日本三代実録』[原 15]や『延喜式』神名帳[原 16]に記される、陸奥国内の多くの鹿島神の苗裔神(御子神)の存在が指摘される[14](「鹿島苗裔神」節参照)。その記載から、鹿島神は国土平定の武神・水神として太平洋沿岸部を北上し、その過程で各開拓地で祀られ、最終的に今の宮城県石巻市付近まで影響力を及ぼしたとされる[31]。
奈良時代には、史書に多数の神戸の記事が載る(「社領」節参照)。またこの時代、鹿島社は藤原氏から氏神として特に崇敬された。神護景雲2年(768年)には奈良御蓋山の地に藤原氏の氏社として春日社(現・春日大社)が創建されたといい[注 1]、鹿島から武甕槌神(第一殿)、香取から経津主命(第二殿)、枚岡から天児屋根命(第三殿)と比売神(第四殿)が勧請された[26]。これら4柱のうち特に鹿島神が主神で、春日社の元々の祭祀も鹿島社の遥拝に発したと見られている[26]。その後も藤原氏との関係は深く、宝亀8年(777年)[原 17]の藤原良継の病の際には「氏神」の鹿島社に対して正三位の神階が奉叙されている[11]。
平安時代以降の神階としては、承和3年(836年)[原 18]に正二位勲一等、承和6年(839年)[原 19]に従一位勲一等の記事が見える[14]。嘉祥3年(850年)[原 20]には、春日社の建御賀豆智命は正一位に達した[14](勧請元の鹿島社も同時に叙せられたという見方もある[32])。
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳[原 21]では常陸国鹿島郡に「鹿島神宮 名神大 月次新嘗」と記載されて式内社(名神大社)に列したほか、月次祭・新嘗祭では幣帛に預かっていた[14]。なお、神名帳で当時「神宮」の称号で記されたのは、大神宮(伊勢神宮)・香取神宮と鹿島神宮の三社のみであった[24]。また、常陸国内では一宮に位置づけられるようになっていった[注 3]。
鹿島神宮は武神を祀るため、中世の武家の世にも神威は維持され、歴代の武家政権や大名から崇敬を受けた[14]。源頼朝から多くの社領が寄せられたように、神宮には武家からの奉幣や所領の寄進が多く確認される[14]。その反面、武家による神宮神職への進出や神領侵犯も度々行われており[14]、頼朝により武家の鹿島氏(常陸大掾氏一族)が惣追捕使に任命されて神宮経営に入り込んだことを発端として、藤原氏の影響下からは離れていった[14][18]。室町時代には、武家政権の神領寄進に平行して在地勢力による侵犯が進み、社殿造営費用にも欠く状態であったという[14]。
江戸時代には江戸幕府からの崇敬を受け、慶長10年(1605年)には徳川家康により本殿(現・摂社奥宮の社殿)が造営された[14]。元和5年(1619年)には徳川秀忠により現在の社殿一式、寛永11年(1634年)には徳川頼房により楼門等が造営された[14]。
明治維新後、明治4年(1871年)に近代社格制度において官幣大社に列した[33]。戦後は神社本庁の別表神社に列している。
昭和43年(1968年)には、明治維新後百年の記念として茨城県笠間市産の御影石を用いて大鳥居(二の鳥居)が建て替えられた[34]。昭和61年(1986年)には、境内が国の史跡に指定された[35]。
平成23年(2011年)3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震およびその余震により、石造の大鳥居(二の鳥居)と御手洗池の鳥居が倒壊し、境内の石灯籠64基も崩れたほか、本殿の千木も被害を受け、被害総額は1億700万円に上った[36][37]。その後、境内の杉を用いて大鳥居が再建され、平成26年(2014年)6月に竣工祭が執り行われている[34]。
なお平成23年度には、境内北西辺の祈祷殿・社務所の建て替えに伴い、境内で初めての大規模な発掘調査が実施された。この時には奈良時代に遡る鍛冶関連を始めとする遺構・遺物のほか、時代ごとに幾度も整地がなされた様子が認められた[38]。
令和の大改修として2021年(令和3年)から奥宮本殿、本宮幣殿拝殿、楼門の改修工事が進められ、2026年に完了予定である[39]。奥宮の工事は2021年2月に着工して完了[40]、本宮幣殿拝殿の工事は2022年に着工して2023年11月に完了となる[39]。楼門は2024年に着工し、2026年に大改修が完了する予定である[39]。
『常陸国風土記』[原 1]にも見えるように、古代常陸には中臣部・卜部が多く住んでおり、神職を兼ねる者も多かったとされる[45]。天平18年(746年)[原 23]には、これら当地に住む中臣部20烟・卜部5烟に「中臣鹿島連」姓が下賜されている[14]。以後の神宮の主な神職は、この在地の中臣鹿島氏(中臣氏)と中央の大中臣氏が担っていった。職制について延長5年(927年)成立の『延喜式』[原 24][原 25]では、神宮の職制は宮司1人、禰宜1人、祝1人、物忌1人からなるとし、宮司は従八位に準じるとしている[14]。
鎌倉時代に入り、源頼朝により常陸大掾氏一族の鹿島氏が惣大行事に任じられた[11]。それまで神職の補任権は基本的に藤原氏が担っていたが、この武家の進出によりその影響下からは離れることとなった[11]。
文永3年(1266年)の「諸神官補任之記」によれば、当時の神宮の神職には大宮司を筆頭として、大禰宜、物忌及びその父(千富禰宜)、惣大行事、検非違使・惣追捕使・押領使、宮介・権禰宜・和田権祝・益田祝・惣申権祝・田所権祝、案主3人その他、神夫・郷長・判官など、50人は軽く超える数がいたという[11]。
主な職は次の通り。
『常陸国風土記』[原 1]や『延喜式』[原 12]によれば、神宮の鎮座する常陸国鹿島郡は神郡、すなわち郡全体が神宮の神領に指定されていた。
また『常陸国風土記』[原 1]には、神戸すなわち祭祀維持のための付属の民戸について次の記載がある[14]。
平安時代、藤氏長者は職封より10戸の寄進を例としたという[47]。平安時代末期以降は、各神官がそれに付属する所領と私領を世襲した[47]。
中世には神領侵犯が度々行われ、社殿造営費用にも欠く状態であったという[14]。のちに豊臣秀吉により侵犯は停止され、文禄4年(1595年)の検地で社領は405石と定められた[14]。
徳川家康からは慶長7年(1602年)に1,500石が加増され、社領は2,000石に及んだ(うち大宮司100石、当禰宜300石、大禰宜・大祝各40石)[14][47]。
社殿の造営について、『常陸国風土記』[原 1]では天智天皇年間(668年-672年)にすでに造営のことが見える。
『鹿島長暦』によれば大宝元年(701年)に正殿・仮殿が造営されたといい、この時から20年に1度の式年造営が定められたという[11]。この式年造営では、現在の本宮と奥宮の社地を交互に社殿地としたとされる[28]。造営内容は、弘仁3年(812年)[原 31]に社殿すべての造替から正殿のみの造替に変更された[11]。その後も『日本三代実録』貞観8年(866年)の記事[原 15]、『延喜式』臨時祭[原 32]に造営の旨が見える[11]。『日本三代実録』の記事によると、その用材には材木5万余枝、工夫16万余人、料稲18万余束を要したという[50]。
『鹿島町史』によれば、平安時代から戦国時代までの造営の年次は貞観8年(866年)、天慶3年(940年)、長和4年(1015年)、天永2年(1111年)、承安3年(1173年)、建暦元年(1211年)、弘長3年(1263年)、弘安5年(1282年)、正応2年(1289年)、正和4年(1315年)、元亨3年(1323年)、応永25年(1418年)、永享7年(1435年)、大永2年(1522年)、永禄2年(1559年)に確認される[11]。
慶長10年(1605年)には徳川家康により本殿、元和5年(1619年)には徳川秀忠により社殿一式、寛永11年(1634年)には徳川頼房により楼門等が造営された[14]。
神宮の鎮座する地は「三笠山(みかさやま)」と称される[51]。この境内は日本の歴史上重要な遺跡であるとして、国の史跡に指定されている(摂社坂戸神社境内、摂社沼尾神社境内、鹿島郡家跡も包括)[35]。
境内の広さは約70ヘクタールである[6]。このうち約40ヘクタールは鬱蒼とした樹叢で、「鹿島神宮樹叢」として茨城県指定天然記念物に指定されている[52][36]。樹叢には約800種の植物が生育しており、神宮の長い歴史を象徴するように巨木が多く、茨城県内では随一の常緑照葉樹林になる[52]。
主要社殿は、本殿・石の間・幣殿・拝殿からなる。いずれも江戸時代初期の元和5年(1619年)、江戸幕府第2代徳川秀忠の命による造営のもので、幕府棟梁の鈴木長次の手による。幣殿は拝殿の後方に建てられ、本殿と幣殿の間を「石の間」と呼ぶ渡り廊下でつなぐという、複合社殿の形式をとっている。楼門を入ってからも参道は真っ直ぐ東へと伸びるが、社殿はその参道の途中で右(南)から接続する特殊な位置関係にある[53]。このため社殿は北面するが、これは北方の蝦夷を意識した配置ともいわれる[54][55][23]。
本殿は三間社流造、向拝一間で檜皮葺。漆塗りで柱頭・組物等に極彩色が施されている[55]。元和5年(1619年)の造営までは、現在の奥宮の社殿が本殿として使用されていた。本殿は北面するが、内部の神座は本殿内陣の南西隅にあって参拝者とは相対せず東を向くといい(下図参照)、出雲大社本殿との関連が指摘される[56](ただし神主らの参入形式の本殿では上代の宮殿にならい正面から見て横向きに建物を使う例が多い[57])。『鹿島宮社例伝記』によると、本殿は古くは普段開かれない「不開御殿(あかずのごてん)」と記され、毎年1月7日にのみ物忌によって戸が開かれ幣を交換されたという[58]。この本殿の背後には杉の巨木の神木が立っており、樹高43メートル・根回り12メートルで樹齢約1,000年といわれる[52]。そのさらに後方、玉垣を介した位置には「鏡石(かがみいし)」と呼ばれる直径80センチメートルほどの石があり、神宮創祀の地とも伝えられている[14]。
石の間は桁行二間、梁間一間、一重、切妻造、檜皮葺で、前面は幣殿に接続する。本殿同様、漆塗りで極彩色が施されている。幣殿は桁行二間、梁間一間、一重、切妻造、檜皮葺で、前面は拝殿に接続する。拝殿は桁行五間、梁間三間、一重、入母屋造、向拝一間、檜皮葺。幣殿・拝殿は、本殿・石の間と異なり漆や極彩色がなく、白木のままの簡素な意匠である。これら本殿・石の間・幣殿・拝殿は国の重要文化財に指定されている[55]。
拝殿の右前方には南面して仮殿(かりどの)が建てられている。仮殿は「権殿」とも記され、本殿造営の際に一時的に神霊を安置するために使用される社殿である。この仮殿は、元和5年(1619年)に現在の本殿が造営される際、本殿同様に幕府棟梁の鈴木長次の手によって建てられたものである。構造は桁行三間、梁間二間、一重、入母屋造、向拝一間、檜皮葺。仮殿であるため比較的簡素な作りであるが、一部には漆彩色が施されている。なお、造営当初は拝殿の左前方にあって西面していたというが、再三位置を変えた末、昭和26年(1951年)に現在の位置に定まった。この仮殿は国の重要文化財に指定されている[59]。
境内の参道には西面して楼門があるが、この楼門は「日本三大楼門」の1つに数えられる[注 4]。寛永11年(1634年)、初代水戸藩主の徳川頼房の命による造営のもので、棟梁は越前大工の坂上吉正。構造は三間一戸(扉口は省略)、入母屋造の2階建てで、現在は銅板葺であるが元は檜皮葺であったという。総朱漆塗りであり、彩色はわずかに欄間等に飾るに抑えるという控え目な意匠である。扁額「鹿島鳥居」は東郷平八郎の書になる。楼門左右の回廊は楼門と同時の作であるが、のちに札所が増設されている。この楼門は国の重要文化財に指定され、回廊は鹿嶋市指定文化財に指定されている[60]。
境内入り口にある大鳥居は、4本の杉を用い、高さが10.2メートル、幅が14.6メートルの大きさである。元々は笠間市産の御影石を用いた石鳥居であったが、平成23年(2011年)3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震およびその余震により根元から倒壊した。これを受けて、神宮境内から杉の巨木4本を伐り出して再建され、記録が残る1664年から数えて11度目の建て替えとなった。大鳥居は、2本の円柱の上に丸太状の笠木を載せ、貫のみを角形として柱の外に突き出させる等の特徴があり、この形式は「鹿島鳥居」と称されている[61]。用いられた杉の樹齢は、左右の柱が約500年、笠木が約600年、貫が約250年である。柱の土台部分にあたる亀腹石(かめばらいし)には、倒壊した鳥居の石が用いられている[34][62]。
要石(かなめいし)は、境内東方に位置する霊石。古来「御座石(みまいし)」や「山の宮」ともいう[14]。地上では直径30センチメートル・高さ7センチメートルほどで、形状は凹型[63]。
かつて、地震は地中に棲む大鯰(おおなまず)が起こすものと考えられていたため、要石はその大鯰を押さえつける地震からの守り神として信仰された[64][65]。要石は大鯰の頭と尾を抑える杭であるといい、見た目は小さいが地中部分は大きく決して抜くことはできないと言い伝えられている[64]。『水戸黄門仁徳録』によれば、水戸藩主徳川光圀が7日7晩要石の周りを掘らせたが、穴は翌朝には元に戻ってしまい根元には届かなかったという[64]。過去に神無月に起きた大地震のいくつかは、鹿島神が出雲に出向いて留守のために起きたという伝承もある[66]。
なお、香取神宮には凸型の要石があり、同様の説話が伝えられる[67]。この要石は「鹿島七不思議」の1つに数えられている[63]。
鹿島神宮と地震に関しては、建久9年(1198年)の「伊勢暦」に詠み人知らずとして見える、次の地震歌が知られる[68]。
「 | ゆるぐとも よもやぬけじの 要石 鹿島の神の あらん限りは | 」 |
また康元元年(1256年)に藤原光俊(葉室光俊)が神宮を訪れた際、要石を「石の御座(みまし)」として、次の歌を歌っている[69]。
「 | 尋ねかね 今日見つるかな 千劔破(ちはやぶる) 深山(みやま)の奥の 石のみましを | 」 |
御手洗池(みたらしいけ)は、神宮境内の東方に位置する神池。潔斎(禊)の地[63]。古くは西の一の鳥居がある大船津から舟でこの地まで進み、潔斎をしてから神宮に参拝したと考えられており[14]、「御手洗」の池名もそれに由来するとされている[63]。
池には南崖からの湧水が流れ込み、水深は1メートルほどであるが非常に澄んでいる[70]。この池に大人が入っても子供が入ってもその水深は乳を越えないといわれ、「鹿島七不思議」の1つに数えられている[63]。
境内には鹿園があり、神使(神の使い)の30数頭の日本鹿が飼育されている[5]。明治初年ころまでは、奈良の春日大社同様、鹿苑に多くの鹿が「神鹿」として蓄えられていた[71]。
『古事記』によると、天照大神の命をタケミカヅチに伝えたのは天迦久神(あめのかくのかみ)とされる[5][72]。この「カク」は「鹿児(かこ)」すなわち鹿に由来する神とされる[73]ことに基づき、神宮では鹿を使いとするという[5]。また、神宮の社名が「香島」から「鹿島」に変化したことについても、神使の鹿に由来するといわれる[5]。春日大社の創建に際しては、神護景雲元年(767年)に白い神鹿の背に分霊を乗せ多くの鹿を引き連れて出発し[72]、1年かけて奈良まで行ったと伝えられており、奈良の鹿も鹿島神宮の発祥とされている[74]。この鹿島立の様子は、春日曼荼羅の「鹿島立神影図」でも知られる[75]。
鹿島神宮の一の鳥居は古くは東西南北に4基があったが、現在は東西南の3基である[76]。西の一の鳥居は北浦湖畔の鹿嶋市大船津にあり、鰐川の中にある(北緯35度57分40.01秒 東経140度36分41.31秒)[76]。古くから大船津は神宮参拝者の船着場であったため[77]、神宮の門前町もこちらの西方側に広がっている。中世にこれらの町が形成される以前は、大船津の津東西社から舟で御手洗池まで進み、そこで潔斎して参宮したと考えられている[14]。現在の鳥居は平成25年(2013年)6月の再建で、昭和期に堤防整備により水上から陸上に移っていたが、平成26年(2014年)の御船祭に向けて改めて水上に建て替えられたものである[76]。この鳥居は川底からの高さ18.5メートル、幅22.5メートルという大規模なもので水上鳥居としては日本最大級である[76]。御船祭の際にはここから御座船が出発する。
東の一の鳥居は太平洋に面する明石の浜にある(北緯35度59分43.34秒 東経140度39分22.91秒)[76]。伝承では、武甕槌・経津主両神はこの明石の浜に上陸し、経津主神は沼尾から望まれる香取へ、武甕槌神は沼尾から現在の本宮へと移ったという[78]。
そのほか、南の一の鳥居は古くは神栖市日川にあったが、現在では息栖神社の一の鳥居が代用されている(北緯35度53分5.94秒 東経140度37分19.29秒)[76]。北の一の鳥居は神戸原にあったものの久しく失われていたが[76]、平成29年(2017年)に戸隠神社(鹿嶋市浜津賀)前に新たに建てられている(北緯36度3分11.76秒 東経140度36分25.25秒)[79]。
摂末社・所管社は、摂社7社(境内3社、境外4社)・末社15社(境内8社、境外7社)・所管社1社(境内1社)の計23社[80]。
境内社
境外社
式年大祭として、御船祭(みふねさい)が12年に1度の午年に行われる[96]。御船祭は応神天皇の時代に祭典化されたと伝えられ[97]、神宮における最大の祭典とされている[98]。祭は戦国時代に中絶したが、明治3年(1870年)に再興された[14][99]。
なお、鹿島神宮の祭祀は古くは伊勢神宮同様に庭上祭祀であり、明治以降に殿上祭祀に改められている[28]。
鹿島神宮の中でも極めて重視される神宝2例について紹介する。その他の主な神宝については、「文化財」節を参照。
韴霊剣(ふつのみたまのつるぎ)は、神宮に伝えられている神剣[104]。別称を「平国剣(くにむけのつるぎ)」[105]。国宝に指定されており、指定名称は「直刀・黒漆平文大刀拵(ちょくとう・くろうるしひょうもんたちごしらえ) 附 刀唐櫃」[106]。古くより神宝として本殿内陣で秘められていた[106]。
長大な直刀で、柄(つか)・鞘を含めた全長は2.71メートル、刃長は2.24メートルを測る。制作年代は定かでないが、刀身は奈良時代から平安時代、拵えは平安時代の作と見られている[106]。現存する伝世品(出土品でない)の日本刀の中では古例の1つであり、また刃長の点では最大の作品とされる。長大な刀身を作るために、途中4か所で刀身を繋ぎ合わせるという極めて珍しい手法を使っていることが判明しており、技術的にも貴重な存在である。外装(柄・鞘)は、黒漆塗りの上に平文(ひょうもん、金銀などの薄板を貼って文様を表す技法)や金銅透かし彫りの金具で装飾を施した古様な技法によるもので、正倉院の「金銀鈿荘唐大刀」の流れを汲むものとされる。
フツノミタマは『古事記』『日本書紀』でも「韴霊剣」や「布都御魂剣」等として言及があり、神武天皇に際してタケミカヅチから高倉下を通じてイワレビコ(神武天皇)に下された神剣としている。この剣は、神武天皇即位後に宮中に祀られ、のち崇神天皇の御世に石上神宮(奈良県天理市)に遷され祀られたとされる[107]。鹿島神宮に伝わるフツノミタマは、上記のように初代フツノミタマがついに鹿島神の元に帰ることはなかったので、後世に改めて作られたものだという[108]。作刀に関しては、『常陸国風土記』[原 1]にある砂鉄から剣を作ったという記述との関連も指摘される[106]。
常陸帯(ひたちおび)は、神宮に伝わる神宝[109]。神功皇后が三韓征伐での鹿島神の守護に感謝して奉納した腹帯であるとされる[110]。古くより本殿深く箱の中に納められており、現在も見ることはできない[109]。
この伝承に基づき、かつて1月14日には「常陸帯神事」が行われていた[14]。祭事では、男女の名を記した帯の先を神前に供え、神主がそれを結び合わせ結婚が占われたという[10]。『源氏物語』竹河の巻や『古今和歌六帖』にも記載が見え[14]、その平安時代当時においてもすでに古い習俗と見なされている[10]。その後、この祭事は妊婦に腹帯を授ける安産信仰に変化していった[14]。
また、神幸祭で奉納される各地区の山車数台が鹿嶋市指定有形文化財に指定されている。
鹿島郡(香島郡)は、『常陸国風土記』[原 1]によれば下総国の海上国造の部内及び那賀国造の部内からそれぞれ割き、当初より神郡として建郡されたという[3]。古郡衙の遺構は見つかっておらず[3]、神郡の郡衙であるので神社のそばであるとも推察される[10]。
8世紀以降の新郡衙跡は、神宮の南約1.5kmに位置する鹿嶋市宮中の神野向遺跡(かのむかいいせき、北緯35度57分19.29秒 東経140度38分01.67秒)で発見された。遺構は、8世紀前半から10世紀初め頃までの郡庁内郭・厨家相当施設・正倉院等で構成されている。この場所は『常陸国風土記』[原 1]の「其の社の南」に郡家があるという記載とも一致する。遺跡は鹿島神宮境内の附(つけたり)として国の史跡に指定されている[126][35]。
鹿島神宮は東国開拓の拠点であったことから、その苗裔神(びょうえいしん)すなわち御子神が各地に形成された[31]。『常陸国風土記』[原 4]の時期には、すでに行方郡に分祠の存在が記されている[31]。
『日本三代実録』の貞観8年(866年)の記事[原 15]では、神宮司の言として陸奥国に苗裔神が38社あると記載されている[31]。その内訳は次に示す通りであるが、具体的な社名は記されていない[48]。
また同記事では、陸奥国での鹿島神の祟りが甚だしいので嘉祥元年(848年)に宮司らが奉幣に向かったが、陸奥国入国は許されなかったという[48]。これに関して、神宮の祭祀氏族が代わったため分社側が抵抗したと解釈する説がある[48]。
さらに『延喜式』神名帳[原 16]では、陸奥国条に「鹿島」を冠する神社として次の8社の記載がある(「陸奥国の式内社一覧」参照)。
延喜式 | 比定社 | |||
---|---|---|---|---|
郡名 | 社名 | 社名 | 所在地 | 座標 |
黒川郡 | 鹿島天足別神社 | 鹿島天足別神社 | 宮城県黒川郡富谷町大亀 | 北緯38度22分02.43秒 東経140度55分37.40秒 |
曰理郡 | 鹿島伊都乃比気神社 | (論)鹿島緒名太神社 | 宮城県亘理郡亘理町逢隈小山 | 北緯38度04分33.37秒 東経140度49分39.86秒 |
(論)鹿島天足和気神社 | 宮城県亘理郡亘理町逢隈鹿島 | 北緯38度02分31.61秒 東経140度50分36.59秒 | ||
曰理郡 | 鹿島緒名太神社 | (論)鹿島緒名太神社 | 宮城県亘理郡亘理町逢隈小山 | (前記) |
(論)鹿島天足和気神社 | 宮城県亘理郡亘理町逢隈鹿島 | (前記) | ||
曰理郡 | 鹿島天足和気神社 | (論)鹿島天足和気神社 | 宮城県亘理郡亘理町逢隈鹿島 | (前記) |
信夫郡 | 鹿島神社 | (論)鹿島神社 | 福島県福島市鳥谷野 | 北緯37度44分3.85秒 東経140度28分3.70秒 |
(論)鹿島神社 | 福島県福島市小田 | 北緯37度42分26.25秒 東経140度26分5.23秒 | ||
(論)鹿島神社 | 福島県福島市岡島 | 北緯37度46分58.98秒 東経140度30分38.00秒 | ||
(論)鹿島神社 | 福島県伊達郡国見町 | 北緯37度52分41.26秒 東経140度32分47.32秒 | ||
磐城郡 | 鹿島神社 | 鹿島神社 | 福島県いわき市常磐上矢田町 | 北緯37度00分46.52秒 東経140度54分26.93秒 |
牡鹿郡 | 鹿島御児神社 | 鹿島御児神社 | 宮城県石巻市日和が丘 | 北緯38度25分26.56秒 東経141度18分29.25秒 |
行方郡 | 鹿島御子神社 | 鹿島御子神社 | 福島県南相馬市鹿島区鹿島 | 北緯37度42分10.31秒 東経140度57分59.60秒 |
以上の記載から、鹿島神が海岸沿いを北上して牡鹿郡(現・宮城県石巻市付近)まで進出した様子が見える[31]。またその社名から、鹿島神の御子神として「天足別命」の存在も推測される[127]。『延喜式』神名帳[原 16]では香取神宮の苗裔神2社も見えるが[128]、これら鹿島・香取苗裔神の存在は、大和朝廷の勢力が海岸沿いに北進する際に鹿島・香取両神の神威を仰いだことによると解釈されている[31]。その具体的な事情としては、中臣氏の遠祖である臣狭山命が倭建命の東征活動に参加しており、陸奥地方に多く見える鹿島神、鹿島御子神の分布は中臣氏の先祖や部民関係者が東征活動に随行、従事したことによるものと見られる[129]。 これに関連する事象として、陸奥国一宮の鹽竈神社(宮城県塩竈市、北緯38度19分08.12秒 東経141度00分45.47秒)においても武甕槌・経津主両神が祀られている[31]。なお、鹿島・香取の分布には差があり、香取苗裔神2社は鹿島を飛び越す位置に鎮座する[130]。このことから、初期段階には鹿島は外海(蝦夷)、香取は内海(香取海)を志向したとし、その後両神の神威が逆転したとする説がある[130]。
そのほか、後世には武神としての崇敬により各地に鹿島神が勧請され、旧常陸国地域を中心として全国に多くの分祠が形成された[28](詳しくは「鹿島神社」を参照)。
鹿島神宮には「七不思議」と呼ばれるものがあり、次の7項目が挙げられる[14]。
「 | 天平勝宝7歳2月、相替遣筑紫諸国防人等歌 霰降り 鹿島の神を 祈りつつ 皇御軍に 我れは来にしを あられふり かしまのかみを いのりつつ すめらみくさに われはきにしを |
」 |
—大舎人部千文、『万葉集』巻20 4370番 |
鹿島周辺では多くの縄文時代遺跡は見つかっているが、弥生時代の遺跡は数箇所程度にとどまっている[135]。古墳時代に入っても古い古墳は見つかっておらず、神宮境内における祭祀遺物でも、発掘された土器は6世紀以降のものとされている[24]。
神宮に関する古墳としては、北東方2キロメートルにおいて前方後円墳17基を含む古墳100基以上[136]からなる宮中野古墳群(きゅうちゅうのこふんぐん)が知られる。同古墳群は6世紀から7世紀頃の築造とされ、中でも夫婦塚古墳(鹿嶋市指定史跡、北緯35度58分56.39秒 東経140度36分41.41秒)は、古墳群中最大規模の墳丘長約108メートルの前方後円墳である[136]。その他の主要古墳には、帆立貝式前方後円墳の大塚古墳(勅使塚)もある。この古墳群は鹿島地方の首長墓群と見られており[136]、鹿島神宮との関係も指摘されている[137]。また神宮の東方の高天原には「鬼塚」という全長80メートルの古墳があるほか[138]、潮来市大生にある大生古墳群も鹿島神宮との関係が指摘される[48]。
なお、鹿嶋市の厨台遺跡群では大規模な集落遺跡が検出されており、「鹿嶋郷長」・「中臣宅成」の墨書土器の出土から鹿島郡鹿島郷の中心地かつ中臣氏の居住地と認められるほか、7世紀中頃の竪穴建物の増加には孝徳天皇年間(645年-654年)の神戸50戸加増との対応が指摘される[139]。
鹿島神宮は要衝に位置しており、ヤマト政権の東国支配の拠点のため、かなり早い段階でその勢力下に入ったとされる[50]。『常陸国風土記』[原 1]によれば、鹿島神宮は「香島の天の大神」と記され、次の三社の総称であるという[10]。
このように古くは三社から成る神社であったとされ、『常陸国風土記』[原 1]には景行天皇年間に舟3隻を奉献したという記述(御船祭起源説話)もある[10]。
これら三社のうち、本源地を「天の大神の社」以外に取る説が古くより提唱されている。沼尾社を本源とする説によると、かつて付近にあった「沼尾池」を神として祀っていたと推測される[14][10]。その根拠として、『常陸国風土記』[原 1]で沼尾池を「天から流れてきた水がたまった沼」という表現があり、天から降った神であろうと見られている[14][10]。これに対して坂戸社とする説の根拠には、『常陸国風土記』における「坂戸・沼尾」という書き順や、神社近くにあるべき古郡衙が坂戸社の鎮座する「山之上」に推定されることが挙げられる[10]。この中で社名「坂戸」の意味について、「さか」を「境」と見て、「蝦夷地への境界・入り口」を意味するとの指摘がある[10]。
鹿島神宮の祭祀氏族としては、中臣氏が知られている。史書に見える頃からすでに中臣氏が活躍を見せており、中臣氏から出た藤原氏も氏神として神宮を崇敬した。現存する系図にも中臣氏の一族が鹿島神宮の社家を輩出した事情が見え、『常陸国風土記』にも一族が鹿島神を祭祀した記事がある。一方で中臣氏が神宮を管掌するようになったのは、朝廷の東国経営強化の要請から中央祭祀を司る中臣氏が祀官を再編したためとする説や[14]、原始祭祀氏族の没落によるとする説もある[24]。その場合、掌握時期についても、藤原鎌足(614年-669年)の常陸国封戸獲得の時点とする説[24]、中臣鹿島賜姓の時点(746年)とする説がある[48]。中臣氏が本来の管掌氏族ではないと見る論者の中には、掌握以前の祭祀氏族に関しては、次の説がある。
鹿島神宮の祭神は古くよりタケミカヅチとされているが、『古事記』・『日本書紀』・『常陸国風土記』には祭神をタケミカヅチとする直接的な言及はなく、初見は『古語拾遺』(807年成立)または『延喜式』所収の「春日祭祝詞」(768年から927年に成立)にまで下る(「祭神」節)。
鹿島神をタケミカヅチと見ない論者は、その祭神設定の経緯としては、ヤマト政権が東国経営を進めるに伴い、原始祭祀の神に対して中臣氏がタケミカヅチを代位したという見方がされている[146][14]。一方、上記のようにタケミカヅチは物部氏の祀る神という見方や[24]、鹿島に残る「ミカ = 甕」伝承と神名との指摘もある[10]。このようにタケミカヅチが常陸に根付いたのは、8世紀をそう遡らないと見る説がある[147]。一方、中臣氏の遠祖と見られる火之迦具土神や波邇夜須毘売神の名が天香具山の埴土に通じ、埴土で作る甕やタケミカヅチの祖先である甕速日神に関わることから、甕伝承を中臣氏の氏神と見る傍証とする説もある[148]。
そのほか、香取神宮祭神の「イハヒヌシ(イワイヌシ、伊波比主・斎主)」という別称から、鹿島・香取両神宮について「鹿島 = 朝廷の神」に対する「香取 = 在地の神(奉仕する神)」という、伊勢神宮の内宮・外宮に似た祭祀関係の指摘もある[130][24]。
所在地
付属施設
交通アクセス
周辺
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.