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日本の競馬騎手(1974−2015) ウィキペディアから
後藤 浩輝(ごとう ひろき、1974年3月19日[1] - 2015年2月27日[2])は、日本中央競馬会(JRA)美浦トレーニングセンターに所属していた騎手である。
少年時代に空手や体操を習っていて[5]、のちにそれらによって反射神経や瞬時の判断力が身につき、騎手になって役に立っていると著書で述べている。相模原市立清新中学校卒業[6]。
母はいわゆる「手に職をつけるべき」という考えをもっており、後藤自身もサラリーマンにはなる気はなかったと述べている[7]。進路を考え始めたときの後藤の考えは自分が好きであった料理を生かしてのフランス料理のコックになることであったが、それを伝えると母はたまたま過去に競馬学校のドキュメンタリー番組を見ていたことから競馬の道に進むことを薦められる[8]。しかし競馬の知識や興味もなかったがとりあえず、高校や専門学校の試験の前に不合格でもいいから受験することとなり見事合格することになる[9]。競馬学校に入るまで乗馬経験もなかった後藤は落馬回数がトップになるほど一番下手であったと述べている[10]。そうしたなかスティーブ・コーゼンのビデオを見たことで「惚れた」と称するほど感銘を受け、意識や取り組みが変わったという[11]。
1992年に美浦の伊藤正徳厩舎所属として騎手デビュー[13]。同期に小林淳一や横山義行、上村洋行などがいる[14]。初騎乗は1992年3月1日、中山競馬第1競走のエンシュードラゴンで16頭立ての6着だった[10][15]。初勝利は同期で最も遅い[16]同年4月4日の中山競馬第4競走で、タイガーリリーに騎乗してのものだった[1]。しかし、1年目から所属する調教師の伊藤と折り合いがつかなくなってしまう[17]。後藤は著書で「岡部幸雄や柴田政人と同じレベルのことを求めている」と語っており[17]、歩き方で注意をされたり[17]、他厩舎の調教にも決して行けず、伊藤自身も後藤に対して「勝てる馬は乗せない」と語っていたという[18]。後藤は減量期間がなくなる3年は我慢して、その後フリーになることを決意するようになる[19]。伊藤はその宣言通り後藤には自厩舎の有力馬には乗せなくなったという[20]。
1994年の福島記念で騎乗したシルクグレイッシュで重賞初勝利[21]。同馬は先輩である小野次郎が騎乗する予定だったが、小野が同日の第4競走で落馬負傷したため急遽乗り替わった。これは50キログラムの負担重量で騎乗できる有力騎手が空いていなかったためである。大和田稔調教師は、後藤と同じ美浦トレーニングセンターの所属であるが、それまで後藤の顔すらも知らなかったという。
1995年に師匠の伊藤との考えの相違からフリーの騎手となる[22][13][注 2]。4年目にして初の21勝を挙げる[24]。翌1996年にはアメリカ合衆国フロリダ州マイアミ市カルダー競馬場などを拠点に半年間の武者修行に出て[25]、158戦7勝の成績を残す[26]。アメリカから帰国した1997年はアメリカに行く前年の21勝から46勝と倍増[27]。以降は成績を伸ばし、1998年には年間63勝を挙げ、初の関東リーディング・ベスト10に入る(6位)[28]。
1999年8月19日、美浦トレーニングセンター内にある騎手寮「若駒寮」で、後輩騎手である吉田豊に対して木刀を使うなどして一方的に暴行を働き負傷させ[29]、翌日のスポーツ新聞各紙のトップ記事となる不祥事を起こした[30]。JRAによる事情聴取の結果、日本中央競馬会競馬施行規程第126条第20号に基づき後藤は騎乗停止となり[29]、その期間は後日に開かれた裁定委員会で8月20日から12月19日までの4か月と決定、これまでに暴力事件を起こした騎手のうちでは最長の騎乗停止期間となった[31]。12月25日に復帰するも、翌26日に進路妨害で3週間の騎乗停止処分を受ける[32]。
翌2000年には、年末の最後まで岡部幸雄や横山典弘と関東リーディングジョッキー争いを演じ、自身初となる年間100勝(最終的には101勝)をマーク[33]。関東リーディングは2位、また初めてのワールドスーパージョッキーズシリーズへの参戦を果たす[33]。ダイヤモンドステークスでユーセイトップランに騎乗して東京競馬場の長距離戦ではタブーとされている3コーナーまくりを行い、そのまま先頭でゴールしたのはこの年である[34]。マイルチャンピオンシップ南部杯でゴールドティアラに騎乗して勝利し、統一GIながらも自身初のGI制覇も達成した。
2002年6月2日、安田記念をアドマイヤコジーンに騎乗して制し、中央競馬のGI初勝利[13]。このあとイギリスへ再び3か月の海外遠征にも出る。2004年12月12日には朝日杯フューチュリティステークスでマイネルレコルトに騎乗し、2つ目のJRAのGI勝利を挙げる。2006年11月25日、ジャパンカップダートでアロンダイトに騎乗し3つ目のJRAGI勝利を挙げる。
2007年9月24日から9月28日までアメリカへ競馬視察のため海外出張を行った[35]。11月4日に前年に続き自身4度目となるJRA年間100勝を達成した[36]。さらに10月28日までに関東所属騎手の中で2位となる97勝を中央で挙げたことから第21回ワールドスーパージョッキーズシリーズへ出場することになり、最終レースで優勝の可能性を残していたが、結果は5着に終わり、優勝騎手と4ポイント差の2位に終わった[37]。ワールドスーパージョッキーズシリーズに先立つ11月10日、東京競馬場でJRA通算1000勝を達成[38]。2007年は、中央競馬の関東でのリーディングジョッキーになった[39]。
2012年5月6日、シゲルスダチに騎乗したNHKマイルカップで、最後の直線コースで岩田康誠騎乗のマウントシャスタが内側へ急激に斜行した影響を受け落馬。当初、怪我の程度は頚椎捻挫とされていたが、翌7日に東京都内の病院で「頸椎骨折の疑い、頸髄不全損傷」と診断された[41]。事故から4か月後の9月8日に復帰を果たしたが[42]、同日の中山競馬第3競走で馬場入場時に落馬し、当日は騎乗を続けた[43]ものの17日に首の不調を訴え、検査を受けたところ第一、第二頸椎骨折、頭蓋骨亀裂骨折と診断され入院する[44]。その後しばらく復帰の目処が立たず、『ウイニング競馬』(テレビ東京)や『みんなのKEIBA』(フジテレビ)のゲスト解説者など、競馬マスコミでの活動がメインになっていた。
2013年10月5日に東京競馬場で約1年ぶりに復帰を果たすと、10月14日に復帰後初の重賞挑戦となった盛岡のマイルチャンピオンシップ南部杯でエスポワールシチーに騎乗、スタートを決めるとそのまま逃げ切り、復帰後重賞初制覇を果たした[45][46]。
しかし2014年4月27日の東京競馬第10競走で、ジャングルハヤテに騎乗していたが最後の直線でまたも岩田が騎乗していたリラコサージュが外側に斜行した影響で落馬、再び頸椎骨折の怪我を負い[47]休養を余儀なくされる。一時は引退を考えたが、競馬メディアでの仕事と並行しリハビリを続け11月22日に復帰[48]。2014年11月24日の東京5レースで復帰後初勝利を挙げた際にはスタンドの観客から拍手が沸き起こった[49]。
2015年2月27日8時頃、茨城県稲敷郡阿見町所在の自宅の脱衣所で死亡しているのが、妻の麻利絵によって発見された。40歳没。牛久署の調べでは、事件性はなく縊死であった[50][51]。
既に当該週の2月28日および3月1日開催分の出馬投票が行われており、両日の後藤の騎乗予定馬はすべて「事故のため」との理由で騎手変更となった[52]。
3月3日、葬儀が執り行われ、近親者と競馬関係者が参列した[53]。
4月5日、中山競馬場に献花台が設けられ[54]、最終レース終了後にパドックで「メモリアルセレモニー」を開催[55]。師匠である伊藤正徳調教師、同期の小林淳一元騎手、後輩で家族ぐるみでの交流があったという三浦皇成らが生前の思い出を語り、後藤の両親および妻の麻利絵が弔辞を述べた[55]。最後には、2010年ショウワモダンで安田記念を勝利した際の写真パネルを、当日中山で騎乗したジョッキーにより引退式同様に胴上げし、ファンによる「後藤コール」によって締めくくられた[56][55]。
この突然の死は競馬ファンのみならず、地方競馬を含めた日本の競馬サークルにも大きな衝撃を与え、死去当日からJRA所属騎手の武豊や蛯名正義、福永祐一らのコメントの他にも、NAR所属騎手である達城龍次や安藤洋一らが自身のTwitterで哀悼の意を表明するなど、各方面から追悼コメントが各新聞や各ウェブサイトに掲載されるなどした。
成績内容 | 日付 | 競馬場・開催 | 競走名 | 馬名 | 頭数 | 人気 | 着順 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
初騎乗 | 1992年3月1日 | 2回中山2日1R | 4歳未勝利 | エンシュードラゴン | 16頭 | 3 | 6着 |
初勝利 | 1992年4月4日 | 3回中山3日4R | 4歳未勝利 | タイガーリリー | 13頭 | 11 | 1着 |
重賞初騎乗 | 1993年2月21日 | 1回小倉8日11R | 小倉大賞典 | オシバナ | 16頭 | 11 | 15着 |
重賞初勝利 | 1994年11月20日 | 3回福島8日11R | 福島記念 | シルクグレイッシュ | 14頭 | 10 | 1着 |
GI初騎乗[33] | 1997年5月11日 | 2回東京8日11R | NHKマイルカップ | タイキギャラクシー | 18頭 | 10 | 16着 |
GI/JpnI初勝利 | 2000年10月9日 | 7回盛岡6日10R | マイルチャンピオンシップ南部杯 | ゴールドティアラ | 14頭 | 2 | 1着 |
中央GI初勝利 | 2002年6月2日 | 4回東京6日11R | 安田記念 | アドマイヤコジーン | 18頭 | 7 | 1着 |
年度 | 1着 | 2着 | 3着 | 騎乗数 | 勝率 | 連対率 | 複勝率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1992年 | 12 | 11 | 14 | 181 | .066 | .127 | .204 |
1993年 | 19 | 30 | 20 | 274 | .069 | .179 | .252 |
1994年 | 14 | 15 | 16 | 219 | .064 | .132 | .205 |
1995年 | 21 | 32 | 29 | 332 | .063 | .160 | .247 |
1996年 | 6 | 13 | 11 | 155 | .039 | .123 | .194 |
1997年 | 46 | 54 | 32 | 475 | .097 | .211 | .278 |
1998年 | 63 | 52 | 74 | 649 | .097 | .177 | .291 |
1999年 | 61 | 59 | 51 | 478 | .128 | .251 | .358 |
2000年 | 101 | 86 | 69 | 727 | .139 | .257 | .352 |
2001年 | 94 | 83 | 70 | 749 | .126 | .236 | .330 |
2002年 | 81 | 73 | 74 | 644 | .126 | .239 | .354 |
2003年 | 82 | 86 | 62 | 670 | .122 | .251 | .343 |
2004年 | 101 | 98 | 74 | 812 | .124 | .245 | .336 |
2005年 | 87 | 103 | 68 | 730 | .119 | .260 | .353 |
2006年 | 107 | 83 | 85 | 832 | .129 | .228 | .331 |
2007年 | 116 | 102 | 74 | 858 | .135 | .254 | .340 |
2008年 | 107 | 88 | 84 | 819 | .131 | .238 | .341 |
2009年 | 74 | 87 | 82 | 839 | .088 | .192 | .290 |
2010年 | 95 | 80 | 81 | 804 | .118 | .218 | .318 |
2011年 | 62 | 70 | 60 | 679 | .091 | .194 | .283 |
2012年 | 30 | 30 | 34 | 321 | .093 | .187 | .293 |
2013年 | 23 | 13 | 20 | 199 | .116 | .181 | .281 |
2014年 | 34 | 44 | 36 | 388 | .088 | .201 | .294 |
2015年 | 11 | 13 | 13 | 115 | .096 | .208 | .322 |
中央 | 1447 | 1405 | 1233 | 12949 | .112 | .220 | .315 |
地方[68] | 68 | 64 | 60 | 491 | .138 | .269 |
1999年2月に「遥かな君に」で歌手デビュー[33]。曲はテレビ東京『土曜競馬中継』のエンディングテーマに採用された。
同年8月には田中勝春、松永幹夫、蛯名正義、藤田伸二、四位洋文と「J6」なるユニットで「Destination」(作詞:大江千里、作曲:井上大輔)を歌った。全員結婚しており、売り上げはよくなかったと振り返っている[33]。
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