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馬場孤蝶(ばば こちょう、1869年12月10日(明治2年11月8日) - 1940年(昭和15年)6月22日)は、日本の英文学者、評論家、翻訳家、詩人、慶應義塾大学教授。
孤蝶は土佐藩士馬場来八の四男として、土佐国土佐郡(現・高知市)に生まれた。本名は勝弥といい、19歳上の次兄に自由民権運動家の馬場辰猪がいる。病弱で就学せずに、1878年両親と上京し、下谷茅町(現・台東区池之端二丁目)の忍ヶ丘小学校から三菱商業学校に進んで中退し、1884年から、共立学校で英語を学んだ。少年期から寄席に入り浸った[1]。浄瑠璃を語った。弓術・盆栽・将棋・パイプ・俳画・古書漁り・旅行と、趣味が広かった。
1889年(明治22年)(20歳)、明治学院2年に入学し、島崎藤村、戸川秋骨と同級になった。1891年卒業後、各地で中学の英語教師を勤め、その間の1893年1月創刊の文学界に、秋から加わり、詩、小説、随筆を載せた。1894年3月、樋口一葉宅を初めて訪れ、また、斎藤緑雨、秋骨、平田禿木、上田敏と交わった。皆、文学界の同人だった。
1899年、銀子をめとり、のち、照子・晴子・昂太郎を得た。
1897年(明治30年)(28歳)、日本銀行の文書課員となり、かたわら文学界へ、それの廃刊後は明星へ、投稿を続けた。1906年1月、第二次『芸苑』の発行名義人となり、17冊を出した。生田長江が同人として兄事した。
1906年、慶應義塾大学部文学科教授となって、欧州大陸文学を講じた。孤蝶は永井荷風教授の先任に当たる。教授になった頃から詩・小説からは遠ざかり、翻訳、随筆をもっぱらにした。
1907年(明治40年)(38歳)、生田長江の『閨秀文学会』の講師を引き受けた。1908年、樋口一葉の日記を校正した[2]。1912年、3回目の『樋口一葉全集』(博文館の『二冊本』)を編集した。1913年、青鞜社の講演会で『婦人のために』を講演し、また、大杉栄・荒畑寒村らの『近代思想』社の集会に顔を出した[3]。
1915年(大正4年)の第12回衆議院議員総選挙に、夏目漱石、生田長江、森田草平、平塚らいてう、堺利彦らの応援を得て立候補し、落選した。孤蝶は幸徳事件(大逆事件)後、彼の論評において言論・思想の規制や司法・警察の体制に抵抗を続け、この選挙への立候補は大逆事件への抵抗であり、応援者たちの行動もまたこれへの抵抗であった[4]。孤蝶の応援にあたり81名の作家たちが『孤蝶馬場勝弥氏立候補後援現代文集』(馬場勝弥後援会・編、実業之世界社)に文章を寄稿した。この81名は当時の文壇の主だった顔ぶれであり、漱石を筆頭に北原白秋、正宗白鳥、与謝野寛(与謝野鉄幹)、与謝野晶子、野上弥生子、佐藤春夫、長谷川天渓、内田魯庵、小山内薫、長谷川時雨、吉井勇、堺利彦、平塚らいてう、田山花袋、伊藤野枝、徳田秋声、生田長江らが参加した[4]。
1916年(大正5年)の山川均・青山菊栄の結婚の媒酌を勤めた。面倒見がよかった。1917年(大正6年)、堺利彦が第13回衆議院議員総選挙に立候補し、孤蝶は彼の応援演説をした[4]。
1923年(大正12年)、関東大震災の際の流言による朝鮮人虐殺事件の起こる最中に、朝鮮人を擁護する発言をしたことで人々に包囲され、ついには警察に検束された[5]。
1930年(昭和5年)(61歳)、慶應義塾大学を退職した。孤蝶の教え子に、水木京太、佐藤春夫、西脇順三郎などがいた。土岐善麿や安成貞雄など、孤蝶を慕って学外から来る者も多かった。
1940年(71歳)、肝臓癌に腹膜炎を併発し、渋谷区松濤の自宅で没した。墓は谷中霊園にある。孤蝶の遺志により、随筆集『明治の東京』と『明治文壇の人々』が、1942年に出版された。
各列の → の後ろは、2010年に最も近いと思われる改版。
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