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粘土や頁岩を直方体に焼き固めた建築材料 ウィキペディアから
煉瓦(れんが)は、粘土や頁岩、泥を直方体の型に入れ、窯で焼き固めて、あるいは圧縮して作られる建築材料。焼成レンガは原料中の鉄分量および焼成時の酸素量によって色が変わる。日本においては一般的な製法を用いた場合は赤褐色となるが、世界的には白色の物など様々であり、釉薬などで着色することもできる。耐火レンガは炉材にも使われる。
日本においては、飛鳥時代から奈良時代に、磚、塼、甎(読みは全て、せん)と呼ばれていた[1]。その後廃れ、近代化とともに再導入された[2]が、構造材として用いる場合は地震に弱いという難点があり、関東大震災などでは多くの被害を出したことから、煉瓦建築は小規模な建物を除いて激減した。
建材には煉瓦風のタイルも様々な種類が存在し、洋風の雰囲気を出すため、木造や鉄筋コンクリート造の表面に張り付ける仕上げ材としても用いられる。
煉瓦、レンガという語は、日本語独自の名前である[3]。中国語では、磚(ツェン)と呼ばれており、日本には6世紀や16世紀に渡来し、当時は磚(せん)と呼ばれていた[3]。
英語では Brick と呼び、フランス語での Brique とほぼ同じである。これは、イギリスで13世紀初頭にフランスからレンガの輸入が始まり、15世紀初頭に古フランス語の Briche から英語の Brick が派生したことによる[4]。
イギリスでは、ローマ帝国時代にローマ人が煉瓦を生産していたが、ローマ帝国の崩壊によって需要がなくなったことと、近隣で燧石などの良質な石材が手に入ったことから13世紀初頭までレンガの需要がなかった[5]。良質な建築資材が近隣から手に入らなくなってからは、フランスの Brique を輸入し、技術を導入し煉瓦作りのための組合が設立された[6]。
ドイツ語では、Ziegel、南ドイツなどでは Backstein という語も見られる。スペイン語では Ladrillo 、イタリア語では Mattone という語が使われる。
煉瓦が建築材料として使用されるようになったのはメソポタミア文明の時代からである。チグリス川、ユーフラテス川にわたる広大な範囲で煉瓦建築が発展していった。紀元前4000年からの約1000年間は、乾燥させただけの日干し煉瓦が使用されていた。紀元前3000年頃からは、焼成煉瓦が使用され始め、この頃には大型の建造物の外壁の仕上げに焼成煉瓦が使われている。内部の壁には一番厚い日干し煉瓦を使用し、焼成煉瓦はそれを保護するために使われていた。紀元前1600年から1000年の間には金型を使って表面に様々な細工を施した焼成煉瓦も見られるようになる。紀元前700年頃から湿式法を用いて焼成されたレンガで多くのモニュメントや重要な作品が作られ始めた。その時代にはまだ全ての工程が手作業で行われていたにもかかわらず、広範囲にわたる地域で多数使用されており、その生産量は驚くほど多い。
エジプトにおける煉瓦を使用した建築物は、メソポタミア文明より後のものであり、エジプトから煉瓦技術が地中海沿岸やインド、中国に伝わっていったと考えられている。最も古いピラミッドの中には、内部の壁に乾燥煉瓦を使い、外側を石で仕上げてあるものもある。また、その頃エジプトで使われていた煉瓦の寸法は、現在使用されているものに大変近い。
ヨーロッパでは数世紀間、煉瓦の生産技術(採砂、準加工、乾燥及び焼成方法)はローマより取り入れられてきた。古代ローマでは、建物の品質を確保するためにレンガごとに製造業者の刻印を押すことが義務づけられており、結果的に高い品質が維持されることとなった。この刻印の制度は周辺地域に波及し、古い時代のレンガの製造地や製造業者の特定が可能となっている[7]。煉瓦建築は19世紀まではあまり変化を遂げず、乾燥はそれに適した時期だけ日干しし、焼成は野外に煉瓦を山積みにして作った釜で行われていた。
産業革命によって発動機(蒸気による機械)が導入されるようになってから、煉瓦生産の技法が変わり始めた。この機械の導入によって、準加工と成形工程を機械化させることが可能になり、生産力及び工場設備(機械)の作業能率が高まった。また、この発動機をとりいれた焼成システムによって、生産が合理化され同時に熱の消費が大幅に減った。
飛鳥時代から奈良時代に、磚、塼、甎(せん)と呼ばれる土器の建材が用いられる。平城宮には磚積擁壁(せんづみようへき)と呼ばれる壁や柱の基礎などで用いられていた[8]。また、日干しレンガも作られていた[9]。
日本で建物用煉瓦の生産が始まったのは長崎の海軍伝習所(1855年(安政2年)開所)で、1861年(文久元年)落成の長崎鎔鉄所の建設に使われたが、現在のものより薄く、その形から「こんにゃく煉瓦」または作製者の名前から「ハルデス煉瓦」と呼ばれた[10]。
建築構造としての積み方にはフランドル積み (Flemish Bond[注 1])、イギリス積み (English Bond) などがある。
正面から見たときに、一つの列に長手と小口が交互に並んで見えるのがフランドル積み。一つの列は長手、その上の列は小口、その上の列は長手、と重ねてゆくのがイギリス積みである(下図・濃淡は小口と長手の区別のため便宜的につけたもの)。イギリス積みは厳密には角にあたる部分の手前にようかん (Quarter) が入るが、この部分に七五を用いて処理している場合にはオランダ積みと呼ぶこともある)[11]。
日本では、フランドル積みの方がより優美に見えるが、手間がかかり、構造的にはやや弱くなるという説が出されたことから廃れた[11]。
このほか、長手積み (Stretcher Bond) とは全ての列に長手だけが見えるように重ねる積み方で、小口積み (Header Bond) とは全ての列に小口だけが見えるように重ねる積み方である。歩道などにレンガを敷く時は、市松模様や網代模様も見られる。
表面に化粧煉瓦を置くこともあり、必ずしも躯体が煉瓦積みの構造体ではないもの(鉄筋コンクリート構造体や鉄骨ラーメン構造体など)がある。
レンガの寸法は、職人が持ちやすい大きさで慣習もしくは規格によって統一されている場合が多い。国・地域・時代によって違いがあり、たとえば現在のアメリカでは203mm(8inch) x 102mm(4inch) x 57mm(2-1/4inch)、イギリスでは215mm(8-15/32inch) x 102.5mm(4-7/16inch) x 65mm(2-15/16inch)、日本では210mm x 100mm x 60mmのものが広く使われている(日本ではJIS規格が定められるまで、様々な寸法のレンガがあった)。この寸法を標準とし、各辺を1/2、1/4、3/4などの単純な分数倍したものを組み合わせて用いる。たとえば、日本で建築用に使われているものには以下のような寸法がある(単位:mm)。
また、JIS(日本産業規格)には、以下のものが定められている。
製鉄高炉の内部は最高2000℃にも達し、このような高温条件に耐えるための特別な煉瓦が耐火煉瓦である。耐火煉瓦が発明される以前のたたら等の金属の精錬や加工のための熔解を行う炉は、1回の操業で壊して中身を取り出す消耗品が多く、高温や高効率を求める構造上の工夫の余地は乏しかった。耐火煉瓦の実用化により炉はより高度な設備機能を持ちうる耐久財となり、産業の飛躍をもたらした。
など
など
石材と違い柔らかいうちに規格の決まったサイズで製造でき、無焼成レンガと違い水に強く洪水被害が多い地域でも使用できるメリットがある反面、焼成するプロセスがあるためコスト・焼成温度管理・燃料調達・二酸化炭素排出などのデメリットがある。
ヨーロッパでは煉瓦は古代から多くの建物に用いられてきたが、教会、宮殿、公共建築など本格的な建物の場合、構造が煉瓦造でも表面を漆喰や石で仕上げることが多い。赤煉瓦のままの建物は古風なものか、工場、倉庫など簡素なものである。しかし、イギリスなどで中世趣味のため、あえて赤煉瓦のままとすることがある。 アフリカ大陸の降水量の少ない地域では、古くから日干し煉瓦が用いられており、モロッコのアイット=ベン=ハドゥの集落やマリ共和国のジェンネなど、美しい町並みが世界遺産として評価され登録される例もある。
日本で最初期に造られた煉瓦建築は幕末の反射炉である。ヘンドリック・ハルデス、レオンス・ヴェルニー、トーマス・ウォートルス、リチャード・ヘンリー・ブラントン等お雇い外国人の指導で官営事業を中心に煉瓦の製造、建設が始まった。1870年、日本初の煉瓦(当初は煉化あるいは煉化石とも呼ばれた)工場が堺県(現在の大阪府堺市)に設立された。銀座煉瓦街の建設の際は大量の煉瓦を必要としたため、東京の小菅に煉瓦工場が築かれた。日本では明治初期まではフランドル積み(フランス積み)構造が多く用いられた(長崎造船所、富岡製糸所、銀座煉瓦街等)が、その後はほとんどイギリス積みになった。フランドル積みの方がより優美に見えるが、イギリス積みの方が合理的で堅固であると考えられたためである[23]。例えば、東京駅の外壁を見ると、どの列にも小口が並んでおり小口積みのようであるが、これは表面仕上げに小口煉瓦を用いているためで、主構造はイギリス積みである。
明治中期頃には煉瓦職人も増え、一般的な技術の一つになった。煉瓦造建築は濃尾地震で被害を受けたため、鉄骨で補強する構造なども工夫された(赤坂離宮、東京駅など)。また、大正時代には鉄骨造建築の壁を煉瓦で造ったり(郵船ビルなど)、鉄筋コンクリート造建築の一部を煉瓦造とする混構造も見られた。しかし、煉瓦を構造に用いた建物は関東大震災で大きな被害を受けた。浅草の凌雲閣(十二階)が倒壊したことは象徴的であった。震災以降、煉瓦造は小規模な建物以外には用いられなくなり、鉄筋コンクリート造が主流になった。
その後はモダン趣味の外装材として好んで用いられるが、赤煉瓦を模したタイル等の外装専用材が多くなっている。
赤煉瓦ネットワーク(煉瓦建築の保存を目的とした全国組織)による「20世紀 日本赤煉瓦建築番付」(2000年(平成12年)、藤森照信ら監修)に、上記の建築物のうち、東の横綱に東京駅、横浜赤レンガ倉庫、富岡製糸場、西の横綱に大阪市中央公会堂、江田島旧海軍兵学校、今村天主堂が選ばれた(ちなみにこの番付では国指定の重要文化財は年寄扱い)。
煉瓦を焼くために築かれたホフマン窯が日本国内に4か所ほど残っている。貴重な産業遺構である(栃木県、埼玉県等)。
明治から大正時代にかけて、大阪、東京、埼玉が普通煉瓦の生産量の多くを占めていた[26]。
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