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日本のプロレスラー、俳優 (1949-) ウィキペディアから
藤原 喜明(ふじわら よしあき、1949年4月27日 - )は、日本のプロレスラー、俳優、タレント、イラストレーター、陶芸家、エッセイスト。岩手県江釣子村(現:北上市)出身。「関節技の鬼」と称される。愛称は「藤原組長」[2]
両親は農家[3]。後にイラストレーターとして活動することもあったが小学校時代は絵が嫌いであり、絵の授業を担当する教師がこうしろああしろというのが嫌だったというのを2017年に行われた画家の五木田智央との対談で明かしており、学校の美術担当の教員に関しては「絵描きになり損ねたヤツらばっかりなんだから、そんなことを言うあれじゃないんだよ」と批判している[4]。岩手県立黒沢尻工業高等学校時代、体育と応用力学、機械工作の評定は5であり、非常に器用であった。体育は高1の時は3であったが、16歳から始めた自己流のトレーニングの成果が出たため高2で4、高3で5と少しずつ高くなった[5]。高校卒業後、埼玉県川越市の小松インターナショナルで工員をしその後コックへ転職[3]。サラリーマン時代は『プレイボーイ』や『平凡パンチ』などを読んで、面白いと思ったページを破いて、それを見て絵を描いていた。コック時代に吉原功と知り合い国際プロレスへの入門を勧められ、全日本プロレス、新日プロレスと比較した結果「選手数が少なく皆背が低いから」という理由で新日本プロレス入りを決める[3]。
1972年11月2日に23歳で新日本プロレスに入門。そして入門の10日後である同月12日に和歌山県白浜町坂田会館にて藤波辰巳相手にデビュー戦を行う。新人時代からカール・ゴッチに師事して、関節技をはじめとするレスリングの技術を学ぶ。1975年、第2回カール・ゴッチ杯で木村たかしを破り優勝。道場での若手選手のコーチ役を担い、関節技に磨きをかける。アントニオ猪木のスパーリング・パートナーにも抜擢され、1976年のパキスタンでのアクラム・ペールワン戦のセコンドも務めた[3]。1976年秋にドイツにてホースト・ホフマン、オットー・ワンツ、クリス・テイラー、スティーブ・ライト、ジェフ・ポーツなどと対戦[6]。1978年11月にローラン・ボックが猪木を招聘して開催したツアーにも同行しており[3]、ミレ・ツルノ、ウィレム・ルスカ、ピート・ロバーツ、ジョニー・ロンドス、クラウス・ワラスらと対戦した[7]。 1978年にはMSGシリーズの第1回大会に出場、予選トーナメント1回戦でマーティン・ジョーンズを下すも、2回戦でチーフ・ジェイ・ストロンボーに敗退、敗者復活戦でもバロン・シクルナに敗れて決勝リーグ進出は果たせなかった[8]。1979年の第2回大会においても、カネックに連敗して予選ブロックで姿を消している[9]。
猪木の用心棒的な存在としてセメントの強さには定評があったものの、華やかさに欠ける藤原は、前座レスラーのポジションから脱することはできなかった[10]。しかし、1984年2月3日の札幌中島体育センター大会において、長州力をタイトルマッチ直前の花道で襲撃、テロリストとして一躍脚光を浴びる。長州襲撃は猪木の指示で行われたとされる[11]。以降、長州力率いる維新軍団との抗争で無くてはならない存在になる(テレビ朝日の『ワールドプロレスリング』にも毎回登場するようになり、独特の人相やファイトスタイルも相俟って一躍知名度が上がった)。
同年6月に第1次UWFに参加。持ち前の関節技のテクニックを披露し、関節技の藤原vs.キックのスーパータイガー(佐山聡)の試合は今までのプロレスになかったリアリティある名勝負となり、プロレスマスコミのバックアップもあり硬派のファンの注目を集める。新日本復帰、第2次UWF参加を経て、1991年3月にプロフェッショナルレスリング藤原組を旗揚げしたが、1993年にパンクラス、1995年に格闘探偵団バトラーツが分裂するという、2度に及ぶレスラーの大量離脱を経て、団体としての機能を失った。以後はフリーランスとして選手活動を続けている。
1993年、1994年と2年連続で古巣・新日本の真夏の祭典「G1 CLIMAX」に出場。1995年には「イノキファイナルカウントダウン」第4弾で師・猪木とシングル対決した。1996年、ドン荒川とともに全日本プロレスに初参戦、6人タッグながらジャイアント馬場との対戦が実現。1997年にはWARに出場し、天龍源一郎やアブドーラ・ザ・ブッチャーとのシングルマッチが行われた。その後もメジャー、インディー問わず、数多くの団体に参戦している。
その技術を見込まれ、男女問わず指導を請う後輩レスラーも多い。指導者としては「指導を受けるレスラーに苦しい思いをさせることで、その辛さから逃れるために楽をすること(つまりテクニック)を身に着けるように促す。テクニックを覚え始めたそこから段階を踏んで、教えた後でいけるなと思ったら格下とスパーリングさせ、そこで技が面白いように決まったらコーチの仕事は90%終わりである」という考えの持ち主である[12]。ZERO-ONEではフリーとしての参戦ながら、橋本真也のタッグパートナーや若手選手の指導員としても貢献した。
2007年、胃の噴門部(入り口)付近に4センチ大の胃癌が見つかり、胃の2分の1を切除した。手術は3時間で終了したが、痛み止めの存在を知らず地獄の痛みに苦しむ。その後の病理検査でリンパ節転移が見つかったことを知らされ、病期は3a期と確定した。3期の5年生存率は41.8パーセントであった。術後18日目に、抗がん剤治療が始まった。TS-1(一般名テガフール・ギメラシル・オテラシルカリウム)の単剤で4週間服用、2週間休薬を1クールとし、それを6クール行うというものだった。TS-1は胃がんの場合、奏効率は46パーセントと高く、副作用も抗がん剤の中では比較的強くないとされるが、87パーセントの患者に何らかの副作用が出るとのことだが、TS-1を予定通り、6クール続けたあと、薬が同じ5-FU系の経口抗がん剤UFT(一般名テガフール・ウラシル)の少量投与に変わり、副作用もほとんど無くなり、筋力トレーニングができるようになった。手術の後遺症としては、ダンピング症候群(食物が胃にとどまらずに、急速に腸まで落ちてしまうこと。胃の中で撹拌され、少しずつ腸に送り出されていた食物が、胃切除後は、未消化のままいちどに腸に流れ込むため、血糖値の変動や各種ホルモン分泌などによって、不快な諸症状が起こる)が出たがプロレスの試合に出られるまで回復した[13]。のちにも不定期ながらリアルジャパンプロレス、ドラディションなどのリングに上がっている。IGFにも参加し猪木に協力している。近年では新日本プロレスのレッスルキングダムにおけるニュージャパンランボーに2年連続で出場している。
タレント活動も行っており、出演したテレビ番組、映画、オリジナルビデオは多数。その風貌から暴力団関連の役が多い。また、イラスト執筆、盆栽[14]、浪曲鑑賞、陶芸などの多趣味でも知られる。1994年に公開された映画『SAEKO』という作品においては、当時まだデビュー間もない無名時代の常盤貴子主演の作品で共演しており、常盤演じる冴子の用心棒役で、その役名も藤原で常盤に「ふじわらーっ」と呼ばれていた。
『オールスター感謝祭』(TBS)の初期に毎回出場しており、当時行われていた相撲のアトラクション「大相撲 Gスタ場所」では、毎回藤原とチャック・ウィルソンの一騎討ちが恒例となっていた。テリー伊藤企画のテレビ番組で、熊と戦ったこともある(爪をカットした熊(クロクマ)である)。檻の中で熊と向かい合った際、素早い動きでタックルとパンチを食らった。これで戦意を喪失、リタイヤしたことで終了したが、後々まで非常に危険な行為、番組として語られている。
テレビゲーム『龍が如く』シリーズには伝説の情報屋「サイの花屋」役としてレギュラー出演している。
藤原自身は「好きなことだけをやって生活してこられたのは、本当に幸せなことだと思っている」とし、「漠然としたイメージではあるけれど、アーティストと呼ばれるのが一番うれしいかもしれない。どれが本業でどれが副業ということはなく、全て私の職業である」と述べている[15]。
近年は総合格闘家や柔術家などにグラップリングを教えており[16]、海外からの招聘も受けている。藤原をはじめ新日本プロレスの選手たちがカール・ゴッチより指導されていたのは、ビリー・ライレージムが教えていたキャッチ・アズ・キャッチ・キャンであるが、その技術が日本で生き延び改めて注目されるというブラジリアン柔術のような様相となっている。
総合格闘技黎明期、専門誌に対し「自分はあんな馬乗りになって人を殴るなんてできない」と否定的なコメントをしていたが、後年は「自分はテイクダウンが上手くないので、試合に出ても難しいと思いますよ」と客観的な意見も述べている。
学校法人日本医科学総合学院の理事長を務めていた。同学校法人は文部科学省認可の専修学校朋友柔道整復専門学校を運営している。
「使う技すべてが得意技」という藤原だが、代表的な技をあげると以下のようになる。
最近では海外からの関節技講師の依頼も多く、2006年には米国に2回、2008年には米国・サンフランシスコで関節技を主とするレスリングセミナーを行った。
海外で人気の出たキラー・カーンが帰国後に突如、藤原との対戦が組まれ、彼が持つ本来の実力を知るカーンがリングから逃亡したことがあった(記録はリングアウト)。
勝敗 | 対戦相手 | 試合結果 | 大会名 | 開催年月日 |
× | 村上竜司 | 2R 0:50 反則負け | プロフェッショナルレスリング藤原組「横浜大決戦!藤原事変」 | 1995年11月19日 |
○ | 青柳政司 | 4R 1:30 裸絞め | プロフェッショナルレスリング藤原組「GOTCH ISM 序章」 | 1993年10月29日 |
× | ドン・中矢・ニールセン | 1R 1:07 TKO | プロフェッショナルレスリング藤原組 獅子王伝説Part2 | 1992年5月15日 |
○ | ディック・レオン・フライ | 2R 0:48 アキレス腱固め | UWF・U-COSMOS | 1989年11月29日 |
× | ドン・中矢・ニールセン | 5R 1:46 TKO | 新日本プロレス '88 サマーファイト・シリーズ | 1988年7月29日 |
△ | イサマル・チャンガニー | 3分5R 引分け | 格闘技の祭典・両国国技館 | 1988年4月2日 |
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