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レスリングの一種 ウィキペディアから
キャッチ・アズ・キャッチ・キャン(Catch As Catch Can / CACC)は、レスリングの一種である。フリースタイルレスリングや現代のプロレスの主要な源流の一つと考えられている。歴史的と地域的に競技形態や技術の内容は変化している。 キャッチレスリング、シュートレスリングまたは単にキャッチとも呼ばれている。本項ではCACCの原型であるランカシャースタイルも含めて解説する。
19世紀のランカシャースタイルでは現在のフリースタイルレスリングやプロレスとは異なり、サブミッションホールド(関節技、絞め技など広く相手から降参を奪う技)が使用されていたこと、ピンフォールの他、サブミッションによる勝利 (Submission Fall, サブミッションで降参させるのか戦闘不能後にフォールを奪うのかは不明) での試合決着が存在していた[1]。これについてプロレス研究家の那嵯涼介は、16世紀から18世紀にかけてヨーロッパで出版された徒手格闘技の教則本に数多くのサブミッションが紹介されていることを指摘し、本来、ヨーロッパの民俗レスリングにおいてサブミッションは一般的なものであったが、それが危険な技術と見なされて次々に封印され、最後まで残っていたのがランカシャー地方のレスリングだったのではないかとの見方を示している[1]。
1898年にニューヨーク・アスレティック・クラブのレスリングコーチであるヒュー・レオナルドが著した"A hand-book of wrestling"にはグレイプバイン・ロック(コブラツイスト)、サイドチャンスリー(ヘッドロック)、クロス・バトック(腰投げ)」等の技が紹介されている[2]。1912年のマーティン・ファーマー・バーンズの著作「Lessons in Wrestling & Physical Culture」では各種ネルソン・ホールド、各種レッグダイブ、チャンスリーホールド(フロント・ネックチャンスリー)、ハーフネルソン・アンド・クロッチホールド・ピックアップ(ボディスラム)、アームアンドリストホールド(アームドラッグ)、アームアンドレッグピックアップ(ファイアーマンズキャリー)などのアマチュアレスリングでも使用されている技の他に、アマチュアレスリングでは禁止されているトーホールドやアームホールド(ストレートアームバー)、ハンマーロックといった関節技、絞め技のストラングルホールド(裸絞め)などの技がストレッチやダンベルを用いた体操と共に紹介されている[3]。
12世紀のヘンリー2世時代以降、イングランドではレスリングが盛んであった[2]。ブリテン島で伝統的に行われていたレスリング競技のうちイングランド北部のランカシャー地方で発達した流派「ランカシャースタイル」が CACC の元々の形であった。なお、ランカシャースタイルの起源はアイルランド島である。ランカシャースタイルが伝統的にどのような場で実践されていたのかについては、はっきりしたことは判っていない。那嵯はビル・ロビンソンの証言を紹介しながら、イングランドでボクシング・デーに興業として行われていたオールインと呼ばれる徒手格闘(ロビンソンによればCACCに拳による打撃を加えたような競技とされる)のようなプライズファイト(賞金試合)とランカシャースタイルの関連について推論を展開しているが[4]、詳細は不明である。
19世紀後半、ランカシャー地方からアメリカ合衆国に向かった移民たちにより、ランカシャースタイルはアメリカ合衆国に伝播することとなった。1880年代には既にアメリカンCACC王座なるタイトルも存在していた。この時期の著名なレスラーとしてトム・コナーズやジョー・アクトンが挙げられる。特にコナーズはカラー・アンド・エルボー・スタイル[注 1]の選手であったマーティン・バーンズにランカシャースタイルの技術を伝えたことで、20世紀のプロレスリングに大きな影響を与えたとされる。バーンズは現役引退後、コーチとして数多くのレスラーを育てたが、その中にはフランク・ゴッチなど強豪選手も含まれていた。那嵯は、この時期のアメリカにおいてカラー・アンド・エルボー・スタイルやグレコローマンスタイル、柔術などの技術がランカシャースタイルと混淆したと考えている。カール・ゴッチはこの時期のアメリカにおけるCACCをアメリカンキャッチと呼んでいる[5]。
前節で見た「アメリカンキャッチ」は、20世紀初頭にジャック・カーキークらによってイングランドに持ち込まれ、広範な人気を博すこととなった。既にグレコローマンスタイルのトップレスラーであったジョージ・ハッケンシュミットが新たにCACCの技術を学び、CACCルールでの試合に臨んだとのエピソードも伝えられている。しかし、この時期のイングランドにおけるCACCの試合は関節技を用いないものが主流であった。ちなみに1908年には前田光世もロンドンにおいてCACCのトーナメント大会に参加している。こうした状況を変えたのが、日本出身で不遷流の技術を持つ[6]柔術家、谷幸雄(1880年から1950年)である。谷は1899年にイングランドに渡ると1910年代中頃までCACCのレスラーたちと賞金をかけた柔術の試合を行い、1918年にロンドンで柔術の道場を開いた。谷がもたらした柔術の技術の一部はCACCにも取り入れられたと推測されている。逆に前田たちの手により欧州各国や中南米、ブラジルなどへ普及された柔術は、純然たる古来のものから姿を変え、CACCなどレスリングの技術も取り入れられた新しい柔術スタイルであった可能性も示唆している。また、谷による柔術の試合の影響もあり、CACCにおける関節技の試合での使用が再び解禁されたのではないかとの見方も提出されている。アメリカの著名なプロレス史家のマーク・ヒューイットは「CACCと柔術は、片方が一方的に与え続ける親子の関係ではなく、互いの長所を分かち合う兄弟のような関係」と例えている[7]。
こうしてCACCはイングランドのプロレスリングの中に確固たる地位を築いたが、中でも後進に大きな影響を与えた選手がビリー・ライレーである。ライレーは第2次大戦中には既にウィガンにビリー・ライレー・ジム、通称「スネーク・ピット・ジム」というレスリング・ジムを開設しており、同ジムはジョージ・グレゴリーやビル・ロビンソン、カール・ゴッチ[8]、ダイナマイト・キッドといった選手を輩出した[9]。
日本のプロレスラーがCACCの技術を受容する過程において大きな影響力を持ったのが、カール・ゴッチであった。ゴッチは1950年代にウィガンのビリー・ライレージムでCACCを学んだ後、1959年にモントリオールで活動し、10月よりオハイオ州に転戦[10]。ゴッチは力道山死後の1967年から1969年にかけて、日本プロレスのコーチとして招聘されている。ゴッチはその後も新日本プロレスでコーチ活動を続け、アントニオ猪木、木戸修、藤波辰巳、藤原喜明、前田日明、西村修、船木誠勝、鈴木みのる、石川雄規らを指導した。ゴッチの教え子達は特にCACCの技術に拘りを持ち、前田は1984年にUWFを、船木、鈴木は1993年にパンクラスを立ち上げ、藤波、西村はドラディションを主宰するなどそれを前面に押し出した活動を継続している。また、ビル・ロビンソンも1969年から1970年にかけて国際プロレスの契約選手として日本に滞在した他、1999年からは再び日本に移住し、宮戸優光と共に高円寺のレスリングジム「U.W.F.スネークピットジャパン」のコーチとしてCACCの技術を教えていた。
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