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日本の俳優 (1935-1978) ウィキペディアから
田宮 二郎(たみや じろう、1935年〈昭和10年〉8月25日 - 1978年〈昭和53年〉12月28日)は、日本の俳優・司会者。
たみや じろう 田宮 二郎 | |||||
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国際情報社『映画情報』第28巻4月号(1963)より | |||||
本名 | 柴田 吾郎(しばた ごろう) | ||||
生年月日 | 1935年8月25日 | ||||
没年月日 | 1978年12月28日(43歳没) | ||||
出生地 | 日本 大阪府大阪市北区 | ||||
出身地 | 日本 京都府京都市 | ||||
死没地 | 日本 東京都港区元麻布 | ||||
身長 | 180 cm | ||||
血液型 | B型 | ||||
職業 | 俳優・司会者 | ||||
ジャンル |
映画・テレビドラマ 教養・娯楽番組 | ||||
活動期間 | 1957年 - 1978年 | ||||
活動内容 |
1955年:大映入社 1957年:デビュー 1968年:大映を解雇され追放 1969年:俳優業復帰 1969年:テレビ界進出 | ||||
配偶者 | 藤由紀子 | ||||
著名な家族 |
柴田光太郎(長男) 田宮五郎(次男) | ||||
事務所 | 大映→フリー→田宮企画 | ||||
主な作品 | |||||
映画 『女の勲章』/「悪名シリーズ」 『白い巨塔』/『不信のとき』 『日本暗殺秘録』 クイズ番組 『クイズタイムショック』 テレビドラマ 『知らない同志』 『高原へいらっしゃい』 | |||||
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1960年代から1970年代にかけて俳優として活躍、代表作は映画『悪名』シリーズ、映画『白い巨塔』、テレビドラマ『高原へいらっしゃい』など。ほかにクイズ番組『クイズタイムショック』の司会としても長らく親しまれた(1969年1月9日 - 1978年9月28日)。
大阪府大阪市北区出身。本名、柴田 吾郎(しばた ごろう)。生後4日で父を事故で失ったため幼少から高校時代にかけては京都市にて母方の祖父の家で育つ。祖父の柴田永三郎は金融業を営む資産家で、田宮の母は永三郎の養女で、父の栄吾(旧姓南川)はその入り婿だった[1][2]。9歳でその祖父も亡くし、その翌年肺結核の母とも死別、加えて敗戦時の占領政策により柴田家は財産を失った[1]。
京都府立鴨沂高等学校を経てビルの夜警をしながら苦学して学習院大学政経学部経済学科卒業。学生時代は、シェイクスピア劇研究会に所属し、外交官志望だった。しかし大学在学中の1955年(昭和30年)、スポーツニッポン社主催の「ミスター・ニッポンコンテスト」で優勝したことがきっかけで、大映演技研究所10期生として入社[3]。同期には叶順子・市田ひろみがいた。1956年(昭和31年)、「ミスタースマートコンテスト」で空手を披露し優勝[注釈 1]、ファッション雑誌『男子専科』の専属モデルに応募し合格、以後数年間は俳優業を兼ね活動する。
1957年(昭和32年)に本名の「柴田吾郎」でデビュー。1959年(昭和34年)、大映社長の永田雅一がオーナーを兼務する毎日大映オリオンズの強打者・田宮謙次郎にあやかりたいという永田の意思に強制される形で「田宮二郎」と改名[4]。
長らく端役が多かったが、1961年(昭和36年)に吉村公三郎の監督映画『女の勲章』(山崎豊子原作)の演技で注目を集め、これが俳優人生の最初の転機となった[3]。同年秋に勝新太郎と共演した田中徳三の監督映画『悪名』(今東光原作)にて勝の相棒「モートルの貞」役に
端整なルックスと、身長180cmでスリムでありながら筋肉質だったため女性ファンが夢中になった[3]。甘い二枚目役から冷酷なエリート、ユーモラスな拳銃使い、ヤクザ、欲望のためなら手段を選ばない悪役までもこなす演技力から犬シリーズ、黒シリーズなどにも主演、大映の看板俳優として活躍した。また若尾文子の相手役として名画を多く残した。
1965年(昭和40年)に『黒の爆走』『黒の超特急』などで共演した藤由紀子と結婚。1966年(昭和41年)、山本薩夫の監督映画『白い巨塔』(山崎豊子原作)で財前五郎役を演じたことで、その名声は決定的なものになり、「昭和のクールガイ」と呼ばれた。ただし、同じ大映に所属していたビッグスター市川雷蔵とは一度も共演していない。理由は社長・永田雅一の方針によるものと言われている。
1968年(昭和43年)、今井正の監督映画『不信のとき』(有吉佐和子原作)の宣伝ポスター(原案)において、主役(130シーン中94シーンに出演)の田宮の名が4番手扱いになっていた。その序列は、若尾文子(大映の看板女優)がアタマ、2番目が加賀まりこ(松竹専属の女優、田宮より年下でありキャリアも後輩)、トメ(最後)が岡田茉莉子(東宝や松竹で活躍後、当時は独立系の映画を中心に出演)で、田宮はトメ前となっていた。いくつもの主演シリーズを持っていた田宮は誰が見ても大映現代劇のトップ男優であり、彼にとってこの序列は譲れない大問題であった。
田宮は撮影所長に抗議したが、「この作品は女性映画として売りたいからこうなった。私の首にかけてもこの序列を変えることはない」と断られ、その場で副社長の永田秀雅(永田雅一の息子)に電話。すると「役者ごときが注文をつけることではない」と叱責され再び却下されたことからフィクサーとさえ言われる永田雅一に対抗するためか、右翼の許斐氏利を伴い、永田雅一と直談判する。すると「主役のお前がアタマに書かれるのが当たり前や」となった。しかし「首をかけてもと撮影所長に言われたのだから、俳優の私が辞める(か所長が辞める)しかない」と田宮が言うに及び[3]、雅一は「おい、思い上がるのもいい加減にしろ。お前は横綱・大関クラスの役者だと思っているんだろうが、まだ三役クラスの役者だ。人事に口を出すな」と憤慨。結果的に刷り直したポスターの序列は希望通り田宮がトップとなったが、雅一は契約を残したまま、田宮を解雇した[5]。これにより、ただでさえスター不足で経営難の大映はますます屋台骨が傾くことになった。記者会見では記者から「田宮を辞めさせて興行的に困らないか」との声が社長に飛んだ。しかし永田は「失礼な、それほどの大物じゃない」と反論、さらに五社協定を持ち出し、他社の映画にもテレビドラマにも田宮を使わないように通達した。このため田宮は大きな転換期を迎えることとなり、一部マスメディアではこの大映解雇が「田宮の人生の歯車が狂い始めたきっかけ」とも言われている[3]。
映画界から完全に干されてしまった田宮は、家族を養うために舞台俳優・司会者・歌手として活動し、片やナイトクラブ、キャバレー回りなどの地方巡業もしていた。1969年(昭和44年)1月9日からは、NET系列で放送が始まったクイズ番組『クイズタイムショック』の初代司会を務め、映画でのクールな雰囲気から一転したソフトなキャラクター、加えて軽快で巧みな話術と的確な番組進行が視聴者の好感を呼んだ。また同年、東京12チャンネルの音楽番組『田宮二郎ショー』の司会も務めた。映画俳優としての仕事ができず、このようなテレビの仕事をすることは、この時代の映画人にとって不本意とされていた。一方、当時のテレビの家庭普及率はすでにほぼ100%に近く、カラーテレビの普及も進んでいた頃で、他の映画俳優たちのテレビ出演も珍しくなく、田宮の司会姿は視聴者たちの記憶に長く残ることとなり、結果として田宮の名声を保つことにつながった。
1969年(昭和44年)6月で大映と契約満了。東映プロデューサーの俊藤浩滋から誘われ[6]、千葉真一主演映画『日本暗殺秘録』に藤井斉役で出演し、映画界へカムバックを果たした。苦境を乗り越えたことで自信を付けた田宮は、偶然鉢合わせた永田雅一に
1972年(昭和47年)にはTBS系ドラマ『知らない同志』でテレビドラマへ本格進出。その後も『白い影』『白い滑走路』などの白いシリーズや、山田太一脚本『高原へいらっしゃい』などの話題のドラマに主演して、立て続けにヒットを飛ばし、ドラマ界でも花形スターの座を獲得。
その頃になると、自身を「実業家としても成功したい。日本のハワード・ヒューズになる」と公言しはじめた[3]。ビジネスに強い興味を持ち、政財界とも接触を持つようになって、ゴルフ場やマンションの経営を行ったが失敗。1977年(昭和52年)には日英合作映画『イエロー・ドッグ』(松竹)の製作・主演も行ったが不入りに終わり、多額の借金を抱えてしまう[3]。
大映時代の過労で結核を再発させてしまい、ペニシリン注射を打ちながら撮影を続けたこともあった田宮だが、大映退社後は更に休む間がなくなっていたために次第に精神を病み、同年3月には精神科医の斎藤茂太から躁鬱病と診断された。しかし、田宮自身は病気を認めようとせず、治療薬の服用も拒否したため妻の幸子は飲んでもらおうと必死になったという[7]。また、付き人に段ボールの箱ごと育毛剤を買いに行かせたり、ドラマの撮影シーンで髪の毛が濡れることを嫌がるなど、頭髪についても悩んでいたという。
妻が田宮の精神状態を気遣い、一旦ドラマを休ませようとしていた折、1977年(昭和52年)冬にTBSから田宮のキャスティング権を得たフジテレビから企画を求められる[3]。田宮は、原作の途中までしか映画化されていなかった小説『白い巨塔』のドラマ化を強く希望した[注釈 3]。映画『白い巨塔』で主演として財前五郎を演じて以来、田宮は常に高みを目指す財前の姿に自分を重ね、自身の本名と同じ「ごろう」であったこともあり、財前五郎を演じるのは自分しかいない、原作のラスト・財前の死までを演じ切りたいと思い続けていた。かつて映画化の際には原作の財前の年齢設定よりずっと若かった田宮も、この時にはほぼ同じ年齢であり、機も熟していた。田宮は原作者・山崎豊子に直談判し、快諾を得て1977年(昭和52年)11月にはドラマ化が決定した。
1977年(昭和52年)12月に入ると、躁状態に入った田宮は入れ込んでいたドラマ化への関心が薄れ、いかがわしいビジネスに熱中し始める。また、同時期に事務所として南麻布のマンション4部屋を購入し、その代金2億円超を借金で賄おうとしていた[3]。田宮の事業熱が収まらないまま、ドラマ『白い巨塔』は1978年(昭和53年)3月26日に撮影開始。ロケーション現場の病院を自ら手配するなど、高いテンションで撮影に臨み、6月3日放映の初回は視聴率18.6%と好調にスタートした。一方で私生活は荒れ、
第18話まで撮影したところで撮影は1カ月の休暇に入り、田宮は7月29日にロンドンへ旅行に出発。戻って来ないのではないかという周囲の心配をよそに9月8日に帰国したが、その時に田宮は鬱状態に入っていた。9月17日から後半の収録が始まったが、テンションが高かった旅行前とは一転して、田宮は泣き崩れてばかりでセリフが頭に入らなくなっていた。妻やスタッフが必死に彼を励まし続け、共演者の協力もあって撮影は11月15日に無事終了。財前五郎の死のシーンに際して、田宮は3日間絶食してすっかり癌患者になりきり、財前の遺書も自らが書き、それを台本に加えさせた。さらに、全身に白布を掛けられストレッチャーに横たわる遺体役をスタッフの代役ではなく自分自身でやると主張してストレッチャーに乗った。収録後には「うまく死ねた」とラストシーンを自賛したという[注釈 4]。
この時期の田宮の奇行に関しては、女性週刊誌などに都市伝説として複数の記事が掲載された。一つはいわゆるM資金詐欺にだまされ、巨額の借金を負っていたという説[10]。 また、現実と役柄の境界が不明瞭となり、航空機にて急病人が出て乗務員が医師を捜すと、たまたま同乗していた田宮が「医師の財前だが」と名乗り出たというもの。さらに、友人に電話で「12チャンネルを買い取った」と発言したり、自宅を訪れた芸能記者に対し、電話機を指差しながら「この電話はCIAと直につながっているのですよ」と述べたという話もある。息子の柴田光太郎は2009年(平成21年)、『スーパーモーニング』(テレビ朝日)に出演した際に金銭問題を含めた醜聞の内容の大半を否定している。
しかし、2013年(平成25年)に『週刊現代』の企画で行われた山本學・生田悦子・柴田光太郎による
ドラマ撮影の間、9年に渡って司会を務めてきた『クイズタイムショック』を1978年(昭和53年)9月28日放送分をもって降板。病状が改善されないこともあり、自ら申し出たもので、司会者は山口崇へ引き継がれた。『白い巨塔』撮影終了後の田宮はすっかり虚脱状態になり、「財前五郎の後に、どんな役を演じたらいいかわからない」とプロデューサーの小林俊一に漏らすようになっていた。しかし、収録終了後、田宮は妻と温泉に行くなど回復しつつあるように見えた[3]。また、自殺3日前の12月25日には同ドラマの仕事仲間(田宮と花森ケイ子を演じた太地喜和子、プロデューサーの小林俊一)と3人で食事をしており、太地と小林はこの時の田宮の様子について、「かなりの上機嫌で、自殺する気配など全く感じられなかった」と語っている。また、同ドラマで柳原弘を演じた高橋長英も12月下旬に田宮と六本木へ飲みに行っているが、高橋によると、その時も田宮は機嫌が良く、自殺の兆候など全く見られなかったという。
ドラマ『白い巨塔』の放映が残り2話となっていた1978年(昭和53年)12月28日の午前中、南青山のマンションに住む田宮の妻幸子から連絡を受けた田宮の付き人は、体調を崩した幸子の母親を病院に連れて行き、その後港区元麻布の田宮邸に戻ってから、そのことを田宮に報告した。生前の田宮の最期の言葉は、昼近くに付き人が聞いた「お腹が空いた」と言う言葉だった。付き人は田宮のために赤坂の洋食店で弁当を買って帰った。そして1階のキッチンでお茶を入れ、弁当と梅干しを載せたお盆を持って2階に上がり、寝室の前で声を掛けたが応答がなかった。しばらくしてドアを開けると田宮はベッドの上に仰向けで横たわり、米国パックマイヤー社製の上下2連式クレー射撃用散弾銃で自殺を遂げていた[12]。43歳だった。前年3月から躁鬱病で治療を受けており、過去3回「こうやれば死ねるんだ」と言って妻の前で猟銃自殺の真似をしたことがあり、9月の帰国直後妻に「もう死にたい」と漏らしていたことから警察はその動機を仕事の行き詰まりや病気を苦にしたものと推定した[13]。
付き人が発見した時、田宮は苦悶の表情を浮かべほとんど息もしておらず、股関節のあたりまで掛け布団が掛かっていて布団の下から銃口がのぞいていた。「部屋は血の海になっていた」という報道もあったが実際はそこまで血は流れておらず、田宮の体の左側に血が散っているという感じだったと言う。付き人は慌てて119番通報を、そして六本木にあった田宮企画の事務所に電話をした。寝室の隣室の書籍から遺書も見つかり警察は自殺と断定。田宮の死亡が確認されたのは13時50分頃で、マスコミには14時過ぎに田宮猟銃自殺の一報が入った。奇遇にもこの日は14時から日本テレビ(関東ローカル)で田宮が出演した映画『花と龍・第一部』(1973年公開、松竹)が放送されていたため、この映画の放送中に田宮自殺のニュース速報が流れることとなった。また、関西地区で14時から放送していた『スタジオ2時』(毎日放送制作、一部TBS系列局にもネット[注釈 5])では、鴨沂高校の同級生である落語家・初代森乃福郎の口から直接田宮の猟銃自殺が速報として伝えられたが、福郎はその場で悔しさのあまり原稿を叩きつけて号泣した。
その夜に仮通夜をすませ、翌29日の午前中に遺体の検視、その夜に通夜、そして30日に密葬が行われた。密葬後に行われた会見では、田宮の妻は約100名の報道陣を前に「田宮は哲学的な死を遂げたのだと思います」と語った[3]。年明けの1979年(昭和54年)1月12日に告別式を行った。
散弾銃の引き金を足の指で引いたとされているが、その当時、付き人いわく田宮の手元には銃はなかったはずだと言う。田宮は「銃は妻に取り上げられてどこにあるか分からない」といったことをもらしていて、自宅に置いてあった銃のケースに中身が入っている形跡もなかったと言う。葬儀数日後に形見分けがあり、付き人が田宮邸に手伝いに行った時、クローゼットの中から散弾が入った箱が見つかった。葬儀後しばらくして田宮の妻から付き人宛ての遺書だという物が手渡された。ごく普通の便箋に書いてあり、日付も田宮のサインもなく本人の筆跡かどうかも分からないが、《僕のセーターで気に入ったものがあったら、持っていって使ってください》と書かれていたという。
残された遺書は妻・息子達・二児の家庭教師・2人の弁護士・田宮企画顧問・奈良岡朋子・鬼沢慶一宛の8通あったとされている。そのうち妻へ宛てた遺書には、感謝の言葉や子どもたちを頼みますの言葉と共に、死の二ヶ月前から書きはじめた日記には、生きることの苦しみと死への恐怖が綴られ、「病で倒れたと思って(中略)諦めて欲しい」[14]、「四十三才まで生きて、適当に花も咲いて、これ以上の倖せはないと自分で思う」[3] と書かれていた[13]。次男の田宮五郎へは当時から俳優を志していた彼に「俳優になるなら人間を知ってから」との言葉を生前に遺していた。
この田宮の自殺は、大きな衝撃をもって報道された。田宮も映画化された際に出演した小説『華麗なる一族』(山崎豊子原作)において万俵鉄平が猟銃自殺をする場面があり、山崎は田宮の死を電話で知るとすぐに「猟銃でしょう」と悟ったという。
この報道渦中での放映となったドラマ『白い巨塔』残り2話は皮肉にもさらなる注目を浴びることとなり、視聴率は上昇して最終話は31.4%を記録。結果多くの人々の記憶に残り、視聴率的にも大成功を収めることとなった。
マスコミの報道の中、弔問には同じ大映専属の俳優だった宇津井健と藤巻潤、勝新太郎・中村玉緒夫妻、藤村志保、松坂慶子、若尾文子、三條美紀らに加え、ドラマ『白い巨塔』で共演した山本學・加藤嘉・小沢栄太郎・中村伸郎・清水章吾・島田陽子・金子信雄・渡辺文雄・児玉清・北村和夫・北林谷栄・夏樹陽子など、多くの有名人[注釈 6]が駆けつけた。葬儀委員長は曽我廼家明蝶が務め、明蝶と勝の2人が弔辞を読み上げた。また、ドラマ『白い巨塔』で花森ケイ子を演じて田宮と共演した太地喜和子は田宮の遺影に向かって「あんた、ばかねえ」と言い自殺を嘆き、勝はマスコミに対し「さぞ背伸びして、どれほど苦しんだか」と田宮の胸の内を代弁した。
戒名は「清光院法誉顕映究吾居士」。墓地の所在は柴田家代々の菩提寺である、故郷・京都の法然院にある。
田宮は自殺の10カ月前に総額3億円の生命保険に加入したが、加入から1年以内の自殺は保険金支払いの対象外であったため、本来なら支払われないはずの保険金が躁鬱病による「病死」と判断され、特例で3億円が遺族に支払われた。この一件は物議を醸すことになり、国会でも議題に取り上げられるほどの騒ぎとなった[注釈 7][16]。
自殺場所となった田宮の自宅は後に解体され、跡地は妻がオーナー経営する外国人向け賃貸住宅になった。田宮の遺体は「猟銃自殺死体の見本例」として視聴覚教材となり都内大学の法医学講座でスライド公開された[13]。
田宮の祖父は電力王と称された福澤桃介(福沢諭吉の娘婿)の片腕という存在で、当時の大手電力会社の一つである大同電力の重役を務めた[3]。田宮が生まれて間もない頃にプールの事故で父を亡くした後 1944年に祖父、翌年肺結核で母を相次いで亡くした[3]。田宮夫人によると「(田宮は)愛に薄い人生を送って来たんだなと思った。田宮の中にはいつも“孤独”があったのかも」と評している[3]。
田宮の妻は元女優の藤由紀子で、芸能界きってのおしどり夫婦だった[3]。ただし、芸能ジャーナリストの石田伸也[注釈 8]によると、「亡くなる2年ほど前から田宮氏は、病気の影響で家庭内でも些細なことで椅子を蹴飛ばしたり怒鳴ったりするなど性格が一変した。ドラマ「白い巨塔」の撮影後半には鬱に陥り、夫人の前で『ずっと自殺を考えている』と涙ながらに訴えるようになった」とのこと[3]。病気により妻に当たることもあったが、遺書には「私が一生涯愛を捧げる妻へ」と書かれていた[3]。
1966年に長男・英光、翌年に次男・英晃が生まれた。先述の通り仕事が減った頃と子どもたちの幼い頃の時期が重なり時間に余裕ができた田宮は、子煩悩な性格も相まって子どもたちとよく自宅で遊んでいた。仕事が忙しくなった後も合間を縫って息子たちとの時間を作っては可愛がっていた[3]。英光はその後「柴田光太郎」の芸名で俳優・テレビレポーターとなり、英晃も同じく「田宮英晃」として俳優デビューし、翌年「田宮五郎」に改名(2014年に病死)。また、俳優の南川直は父方の従兄。
この節に雑多な内容が羅列されています。 |
発売日 | 規格 | 規格品番 | 面 | タイトル | 作詞 | 作曲 | 編曲 |
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大映レコード | |||||||
1967年 | EP | D-3 | A | 青い犬のブルース[注釈 10] | |||
B | 黒い太陽[注釈 11] | ||||||
ビクターレコード | |||||||
1969年7月5日 | EP | SV-860 | A | パパの子守歌 | 十津川光子 | 植原道雄 | 寺岡真三 |
B | Let's go to dance my baby(いとしの奥方)[注釈 12] | 山上路夫 | 鈴木庸一 | 近藤進 | |||
1970年7月 | EP | SV-2057 | A | 落葉の別れ | 宮琢磨 | すずきたけし | 近藤進 |
B | 深夜のRoute 246 | 原由紀 | 鈴木庸一 | 竹村次郎 | |||
1971年5月 | EP | SV-2146 | A | 弱気だぜ | なかにし礼 | 鈴木庸一 | 近藤進 |
B | 愛して別れたあとで | ||||||
日本コロムビア | |||||||
1975年8月 | EP | P-419 | A | パパの子守唄 | 朝海さち子 | 植原路雄 | |
B | 男の扉 | 阿見宏介 | |||||
ポリドール・レコード | |||||||
1978年 | EP | DR-6249 | A | たそがれの都会[注釈 13] | 伊井田朗 | 渡辺岳夫 | 福井峻 |
B | 「白い巨塔」メインテーマ(インスト)[注釈 14] | - | 渡辺岳夫 |
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